4-4: ー風速一メートルにも届かないー
ノックスは、川辺に置かれた石を見つめていた。
丸みを帯びた、どこにでもある小石だ。
特別な魔力も、刻印もない。
ただそこにあるだけの存在。
刻印は、完璧だった。
線の太さ。深さ。配置。
条件式も、接続順序も、理論上は何一つ間違っていない。
――それでも。
指先から流した魔力は、
空気をわずかに揺らすだけで終わった。
ぱさ、と。
砂が一粒、動く。
それだけだ。
「……一メートルも、届かないか」
声に出して、ようやく現実になる。
かつては、違った。
風速百メートル。
衝撃波が地面を削り、
敵の体勢をまとめて崩した。
止める魔術。
戦場を設計する速度。
敵を倒すための速さではなく、
戦場そのものを支配する速さ。
それが、今は。
目の前の小石すら、転がせない。
ノックスは、ゆっくりと息を吐いた。
(接続は、できている)
外界の速度は、確かにある。
以前と同じ層に、同じ条件で触れている感覚もある。
(でも……出力が、弱すぎる)
理論は、正しい。
処理順序も、条件分岐も、すべて噛み合っている。
だが――
(僕が“端末”として弱すぎる)
かつては、自分の身体そのものが変換器だった。
筋肉が、神経が、魔力回路が、
速度を現実へ押し出す“支点”になっていた。
今は、それがない。
身体を使わない。
神経も酷使しない。
その代わりに――
自分自身が、ほとんど何もできなくなっている。
歩けない。
立てない。
踏ん張れない。
魔術は、身体に依存しない。
――そう信じていた。
だが現実は、そう単純ではなかった。
出力には、支点がいる。
ノックスは、車椅子の肘掛けを強く握った。
今の自分は、
外界と“繋がるケーブル”を持っているだけだ。
情報は流れる。
接続も成立する。
だが――
変換器がない。
速度を、
世界に流し込むための器がない。
「……そりゃ、無理だよな」
自嘲気味に呟く。
風速一メートル未満。
戦場では、意味を持たない数値。
仮に理論が完成しても、
この出力では何も変えられない。
ノックスは、膝の上の紙束を見下ろした。
そこには、三つの案が並んでいる。
――ユートが提示してくれた、三つの解決策。
① 疑似神経の再構築
② 体表刻印による外部駆動
③ ゴーレムによる身体代替
どれも、理論としては成立している。
だが同時に、どれも重い。
そして――
どれも、自分一人では始められない。
(……そうか)
ようやく、腑に落ちた。
今の自分は、
実験をする“手”すら持っていない。
刻印を刻むには、補助が要る。
ゴーレムを作るには、素材と術式が要る。
検証には、魔力供給と安全管理が要る。
――つまり。
「……一人じゃ、無理だ」
その結論は、敗北ではなかった。
むしろ、
ようやく現実を正しく見た結果だった。
速度は、個人の能力じゃない。
仕組みだ。
構造だ。
複数の手で、組み上げるものだ。
ノックスは、ゆっくりと視線を上げた。
川は流れている。
一定の速さで、迷いなく。
(……スタート地点は、そこか)
ゴーレム開発。
疑似人格。
外部処理。
それらを始める以前に、
やるべきことが一つある。
――人を集めること。
術式を組める人間。
速度を信じてくれる者。
危険を理解した上で、なお付き合う者。
失敗を“データ”として扱える者。
「……皮肉だな」
小さく、笑った。
「落ちこぼれだった僕が、
今度は“チーム”を必要としてる」
かつては、一人で走った。
一人で限界を越えた。
一人で壊れた。
だからこそ、
次は一人ではいけない。
川は流れている。
その速度は、今も変わらない。
だが――
ノックスの視線は、もう川だけを見ていなかった。
次に見るのは、人だ。
再スタートは、
理論ではなく――人集めから始まる。




