4-2: ー届かない場所に立つ者ー
季節は、二つ巡っていた。
アストラム魔導学院の中庭に、再び花が咲く頃、
ノックスはまだ、車椅子の上にいた。
歩けない。
立てない。
踏み出せない。
それが日常になって、もうずいぶん経つ。
最初のうちは、誰もが気を遣った。
声を潜め、距離を測り、同情を隠しきれない視線を向けてきた。
だが時間は残酷で、そして公平だった。
人は慣れる。
英雄が歩けないことにも。
伝説が車椅子で学院を見守ることにも。
やがて――
ノックスは「特別」ではなくなった。
最近では、
エリオット、ルシアン、ルミナ、アイザックが、
代わる代わるノックスの家まで車椅子を押してくれる。
誰かが忙しければ、別の誰かが来る。
特別な約束はない。
ただ「帰る方向が同じだから」という顔で。
エリオットは無駄話をしながら、
ルミナは段差を見つけると無言で先に回り、
ルシアンは速度を落としすぎない距離を保ち、
アイザックは必要な時だけ、静かに手を添える。
誰も、慰めない。
誰も、励まさない。
歩けないことを、話題にしない。
それが、逆にありがたかった。
ノックスは車椅子の上で、空を見上げながら思う。
(……僕は、独りじゃない)
それは確かだ。
だが同時に――
この優しさの輪の中で、
自分だけが「先に進めていない」という事実も、
否応なく浮き彫りになる。
押される車椅子は、確実に前へ進む。
だが――
自分の“内側”だけが、同じ場所に留まり続けている。
中庭の端。
一年生たちの訓練を、ノックスは静かに見ていた。
「……今日は、刻印の安定率が低いな」
エングレイブ。
刻印速術式。
今では正式な補助課程として、学院に定着しつつある。
才能がなくても、
威力がなくても、
正しい条件を満たせば、同じ結果が出る。
それは、ノックスが作った世界だった。
(……うまく、いきすぎてる)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
学生たちは笑っている。
速く出せたと喜び、
失敗しても、やり直せばいいと知っている。
それは、正しい世界だ。
だが――
(この中に、“限界の先”を見たやつはいない)
ノックスは、手元を見る。
指先は動かせる。
魔力も流せる。
思考も、計算も、何一つ欠けていない。
なのに。
歩けない。
視線を逸らし、空を見上げる。
雲が流れる。
時間だけが、確実に進んでいく。
借家の一室。
灯りの下で、ノックスは紙を広げていた。
速度理論。
フラッシュ・シグル。
シグルアクセル。
かつて、自分が命を削って辿り着いた場所。
「……違う」
書いては、消す。
線を引いては、破る。
理論は完成している。
安全化も進んでいる。
だが――
自分自身が、そこに戻れない。
(凡人なら、ここで終わりだ)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
歩けない。
戦場に立てない。
速度を“使う側”には戻れない。
それは、誰がどう見ても明白だった。
ノックスは、笑ってしまいそうになる。
(おかしいな)
あれほど「凡人」を自覚していた自分が、
いま、その“凡人の結論”を受け入れられない。
理由は分かっている。
(……一度、行ってしまったからだ)
限界の先。
思考が爆発的に加速した世界。
世界の処理順序が反転する感覚。
あれを、知ってしまった。
知らなければ、諦められた。
知らなければ、ここで満足できた。
だが――
(もう一度だけでも、あそこに行けるなら)
その考えが、日を追うごとに強くなる。
理論はある。
条件も分かっている。
足りないのは――
何か一つの“きっかけ”だけ。
だが、それが見つからない。
ノックスは、紙を伏せた。
「……結局、また落ちこぼれか」
誰に聞かせるでもない独り言。
速度を生み出した英雄。
だが、今の自分は――
歩けない。
進めない。
思考だけが、空回りしている。
(努力しても、届かない)
その感覚が、
かつて学院で味わった絶望と、
ゆっくり重なっていく。
違うのは、ただ一つ。
(……あの頃より、分かってしまっている)
分かってしまったからこそ、苦しい。
学生たちの笑顔が脳裏をよぎる。
石を投げていた、あの頃の自分。
無我夢中で、がむしゃらで、
何も持っていなかった少年。
(戻りたいわけじゃない)
ただ――
もう一歩、先へ行ける気がしてならない。
それだけだった。
ノックスは目を閉じた。
歩けない時間は続く。
突破口は見えない。
それでも。
思考だけは、
まだ、止まる気配がなかった。




