4-1: ー長男の影ー
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
4部再始動いたします。
季節は、ひとつ変わっていた。
川の匂いが薄くなり、土の色が乾いて、風だけがやけに澄んでいる。
河原に立つ木々は葉を落とし、枝は骨のように空へ伸びていた。
その川辺に、小さな借家がある。
壁は古く、屋根は何度も修理した跡がある。
それでも、雨風を防ぐには十分だった。
――十分、だった。
歩ける頃までは。
玄関の前に、車椅子が止まっている。
そこに座る黒髪の少年――ラピダス・ノックスは、膝の上に古びた封筒を置いて、川を眺めていた。
川は昔と同じように流れているのに、
自分だけが、止まっている気がする。
指先は動く。
視線も動く。
思考も――まだ、動く。
だからこそ、余計に分かってしまう。
(歩けないってのは……“止まる”より、ずっと面倒だ)
止まっているわけじゃない。
進めないだけだ。
車輪の金具が、かすかに鳴った。
その音は、風や鳥の気配とは違う。
意志を持った音だった。
ノックスは振り向かない。
――振り向く必要がない。
河原の砂利を踏む足音。
一定の歩幅。
迷いのない速度。
「……ここか」
低い声。冷えた声。
だが、乱暴ではない。
ノックスは、ゆっくり息を吐いた。
「……久しぶりです。兄さん」
返事の間に、わずかな沈黙が挟まる。
その沈黙には、確認があった。
――生きている。
――ここにいる。
――そして、こうなっている。
足音が止まる。
視線だけが、背中に刺さる。
ノックスはようやく顔を上げた。
そこに立っていたのは、背の高い青年だった。
黒に近い外套。
胸元には王都騎士団の紋。
左肩には、魔術師の階級章。
髪は夜色で、結び目が乱れていない。
目は冷静で、感情の揺れを隠すのが上手い。
セフィロス・ノックス。
没落したノックス家の長男。
別都市の魔術師学院を卒業し、今は王都の騎士団で魔術師として働いている。
この世界で「正しい道」を歩ける人間だ。
セフィロスは、車椅子を見た。
足を見た。
膝から下が動かないことを、たった一瞬で理解した。
そして――理解したまま、表情を変えなかった。
「……顔は、変わってないな」
「兄さんも」
ノックスが返すと、セフィロスは小さく鼻で笑った。
笑った、というより、息が抜けただけだ。
セフィロスの視線が、借家へ移る。
玄関の木枠。屋根の補修。
窓の内側に積まれた薪。
「ここ、まだ借りてたのか」
「はい」
「家賃は」
「……払ってもらってました」
ノックスが言うと、セフィロスの眉が微かに動いた。
「“もらってた”じゃない。払わせてた、だ」
淡々とした訂正。
怒りではない。
ただ、正しさだけを置いていく言葉だ。
ノックスは黙った。
言い返すべき言葉は、ある。
けれど、出ない。
(こういうところ、昔からだ)
セフィロスは決して殴らない。
拳ではなく、言葉で骨を折ってくる。
セフィロスが、川を見たまま言う。
「魔族を討伐したのは、お前だと聞いた」
その言葉の中に、称賛はなかった。
疑いもない。
事実として処理しているだけ。
「……はい」
「騎士団でも話になった。
功績の扱いで揉めたくらいだ。
“誰の手柄か”でな」
ノックスは小さく息を吐く。
「……僕は、気絶していました。」
「それでも、お前がいたから討伐できた。
そういう戦いだったんだろう」
セフィロスの目が、そこで初めてノックスに戻る。
「――それなのに」
たった四文字が、空気を変えた。
セフィロスは視線を落とす。
ノックスの足へ。
車椅子へ。
「……これか」
ノックスは、笑うでもなく、俯くでもなく、ただ答えた。
「代償です」
「代償」
セフィロスが、その言葉を口の中で転がす。
「英雄の代償、ってやつか」
「……英雄じゃないです」
ノックスは、反射のように言ってから、自分で気づいた。
(ああ。いまの、反論だ)
セフィロスの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「そうか。じゃあ――」
セフィロスは、ノックスの目を見て言う。
「落ちこぼれの代償か」
言葉が、胸の奥に沈んだ。
痛いのに、声が出ないタイプの痛みだった。
ノックスは、唇だけ動かす。
「……兄さん」
セフィロスは続ける。
「俺はな。
お前が学院に欠員で入ったと聞いた時点で、もう諦めてた」
言い方は冷たい。
でも、声は冷静だ。
だから余計に刺さる。
「ノックス家が没落して、俺が“立て直す側”になった。
お前は――正直、恥さらしになると思った」
ノックスは、頷かない。
首も振れない。
「だが、魔族討伐の話が出た。
王都が揺れた。
俺は思った。“やったじゃないか”って」
セフィロスは一拍置き、ほんの少しだけ息を吸った。
「……労いの言葉くらいは、言うつもりだった」
その言葉が、逆に残酷だった。
労いのために来たのに、
目の前にあるのは、車椅子だ。
ノックスは静かに答える。
「……すみません」
「謝るな」
セフィロスは即答した。
「お前が謝るなら、俺は何を言えばいい。
家賃を払って、距離を取って、
“勝手に立ち上がれ”って放置してたのは俺だ」
責めているのか、責めていないのか分からない声。
セフィロスは、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……だが」
また来た。
“だが”。
「これが現実なら、俺はやることを変える」
ノックスの胸が、嫌な予感で縮む。
セフィロスは言った。
「ノックス家は、俺が前に出る。
騎士団で出世して名誉騎士になって、爵位を取る。
家名は――俺が戻す」
それは、正しい。
正しいからこそ、ノックスは何も言えない。
「お前は休め。
戦いは終わった。もう無理をするな」
優しさの形をした命令だった。
ノックスは、ようやく口を開いた。
「……兄さんは、速度理論をどう思いますか」
セフィロスの目が、一瞬だけ細くなる。
「興味深い」
即答だった。
「だが、危険だ。
あの戦いでそれを証明した」
ノックスは喉の奥で笑いそうになった。
(証明した、か。そうだな)
セフィロスは続ける。
「だから、俺が扱う。
“家のために、安全な形で”だ」
ノックスの胸が、ざわついた。
それは奪うという言葉にはならない。
むしろ合理的だ。
正しい未来だ。
――でも。
(それは……僕の速度じゃなくなる)
ノックスは、膝の上の封筒をそっと押さえた。
そこにあるのは、たった一通の手紙。
師匠の字。
“速度は外側で育つべきだ”
そんな言葉を思い出して、胸の奥が熱くなる。
セフィロスは、ノックスのその仕草を見た。
「……それは?」
「師匠の手紙です」
「冴島大輔、か」
セフィロスは静かに言った。
「噂だけは聞いている。
お前の“奇跡”の根にいる人間だ」
ノックスは小さく頷く。
セフィロスは、ここで初めて感情を落とした声で言った。
「……俺は、遅かったな」
ノックスが目を上げる。
「もっと早く来ていれば、
お前が“戻れなくなる”前に、何かできたかもしれない」
その言葉は、謝罪ではない。
贖罪でもない。
ただの事実の確認だ。
セフィロスは、背筋を伸ばした。
「――だから、俺は前に出る。
お前が止まった分まで、進む」
ノックスの胸が、静かに冷えた。
進む。
前に出る。
正しい道を、正しく歩く。
(僕は……)
ノックスは言葉を探した。
でも、見つからない。
“後悔はない”と言えば言うほど、
その言葉が空虚になる気がした。
セフィロスは踵を返す。
「次に来る時、手続きの話をする」
「手続き?」
「功績の整理。家名の扱い。
お前の待遇もだ」
ノックスは、思わず聞いた。
「……僕は、どうなるんですか」
セフィロスは振り向かずに答える。
「“英雄”として生きるか、
“落ちこぼれ”として消えるか。
どちらでもない道を、俺が作る」
その言い方が、いちばん残酷だった。
――作られる側になる。
――守られる側になる。
――速度を“管理される側”になる。
セフィロスの背中が遠ざかる。
砂利の音が、規則正しく鳴る。
ノックスは、川を見た。
水面は光を弾いているのに、自分の中は暗い。
(歩けない速度、か)
口では後悔はないと言える。
実際、救った命の数は、否定しようがない。
でも――
(脳が生きてるなら、もう一度だけでも戦えるんじゃないか)
漠然とした感覚が、胸の底で膨らんでいく。
何かひとつ。
何かひとつきっかけがあれば。
思考が爆発的に加速する、あの感覚。
白い空間。
光。
限界の先。
(……あそこに、もう一度届けば)
ノックスは、封筒を指で撫でた。
折り目の数だけ、時間が過ぎた手紙。
そして、ぽつりと呟く。
「師匠。……僕は、まだ止まりたくない」
川の音だけが、返事をするように流れていった。




