3-9: ー学院長決戦ー
学院長と落ちこぼれが、真正面から対峙した。
世界は、もう後戻りできない地点に来ていた。
ラングレイが、軽く指を鳴らした。
その動きに合わせて、空気が軋む。
学院全体を覆っていた結界の魔力が、一瞬だけ“音”を持ったように震えた。
「まずは、確認しようか」
ラングレイの声が、妙にゆっくり耳に届く。
「君は――人間だね?」
ノックスは、息を整えながら答えた。
「そうだと思ってます」
「なら、人間としての限界は超えられない」
言葉と同時に、ラングレイの姿が消えた。
……ように思えた。
だがノックスの目には、はっきり“見えて”いる。
足が地面を蹴り、
靴裏から魔力が噴き出す瞬間。
空気が引き裂かれ、
衣服の裾がわずかに遅れて揺れる。
それら全てが、“スロー再生”のように。
(速い……けど――間に合う)
ノックスは、一歩だけ踏み出した。
ラングレイの掌が、顔面を狙って迫る。
その軌道と同時に、掌の内側で魔力が螺旋を描くのが見えた。
“触れた瞬間に、内側から破壊する術式”。
(触られた瞬間に、崩れる)
直感が告げる。
ノックスは首を傾け、肩をわずかに落とした。
指先が髪を掠める。
その瞬間、ラングレイの掌の中で組まれかけていた魔法陣の“線”が、はっきり浮かぶ。
完成まで、あと一拍。
ノックスは心臓の刻印に、短く命令を送った。
(無属性圧縮魔力――一点)
指先から放たれた、色のない小さな火花が、掌の中心に触れる。
ぼん。
術式の“骨組み”が、内側から焼き切れた。
破壊の衝撃だけが、ラングレイの掌の中で空振りする。
背後の石畳が、音もなく陥没した。
ルミナが息を呑む。
「今の……魔術、途中で消えた……?」
「……いや」
ルシアンは苦笑する。
「完成する前に、わざと“壊した”んだ」
ラングレイは面白そうに笑った。
「世界がゆっくりに見えるのは、気分がいいだろう?」
ノックスは息を整えたまま、答えなかった。
気分がいいどころではない。
心臓は、とうに悲鳴を上げている。
胸の中を走る魔力が、血と一緒に“削れて”いく感覚がある。
(この状態で、持って数分……)
それでも――足は止めない。
ラングレイが指を鳴らす。
空が裂けた。
結界の魔力が一点に収束し、
巨大な“砲身”として空中に形を取り始める。
ノックスの目には、その“途中”が見えていた。
空中に浮かぶ複雑な魔法陣。
幾重にも重なる陣の線。
中心へ向かって流れ込む魔力の筋。
(中心と、支柱と、固定点……)
ノックスは右手を上げた。
指先を、ほんの少しだけひねる。
心臓の刻印が、命令に応じて無属性の外部圧縮魔力を“横から”流し込む。
魔法陣の支柱に当たる一点へ、針のように突き刺す。
ぼん。
空中の魔法陣の一部が、焼き切れた。
線がひとつ途切れただけ。
それだけで、陣全体のバランスが崩れる。
巨大な魔力塊は、完成する寸前で“崩壊”した。
地面は揺れたが、狙うはずだった標的を見失ったまま霧散していく。
「へぇ」
ラングレイが目を細める。
「術式が見えているのか。
……魔法陣の骨組みが、そんなにはっきり?」
ノックスは答えない。
言葉を紡ぐ余裕を、一秒でも戦いに回さなければならない。
(この人は……本当に、全部“繋いで”る)
学院の結界。
魔族との回路。
校舎に張り巡らされた魔術式。
全部の“根”が、ラングレイの背後で渦を巻いている。
(なら――根元から、折る)
ノックスは、一歩踏み込んだ。
世界がさらに遅くなる。
心臓が、限界に近い速度で脈打っている。
ドクン。
ドクン。
視界の端が白く滲む。
それでも、ラングレイの魔力の動きは“追える”。
◇
ラングレイが掌を開いた。
「これは、少しだけ手加減するよ」
結界から引き抜いた魔力が、彼の背後で螺旋を描く。
雷にも炎にも似ていない、黒い光の塊。
それに呼応して、空中に巨大な魔法陣の“骨格”が浮かぶ。
破壊のためだけに設計された回路。
線の一本一本が、ゆっくりと繋がりかけている。
「これなら、人間でも理解できるだろう?」
空気が震えた。
ノックスは、息を一つ吐いた。
(真正面から受け止める力はない)
だったら――答えは一つだ。
完成する前に、壊す。
術式を崩す。
砲身をずらす。
“当たる前提”そのものをなかったことにする。
ラングレイの腕が、ゆっくりと前に出る。
黒い螺旋が育っていく様子が、スローで見える。
(今だ――)
心臓の刻印を、限界まで“回す”。
ドクン。
時間がさらに伸びる。
螺旋の内側に、緻密な術式の“文字”が見える。
どの線が主回路で、どこが“補助”か分かる。
ノックスは、黒い螺旋を支える“一本の柱”に狙いを定めた。
指先を弾く。
無属性の圧縮魔力が、糸のように走った。
ぼん。
黒い光の砲身の根元――魔法陣の基部が、内側から裂けた。
ラングレイの視線が動く。
驚きではない。純粋な興味。
「流れを……“書き換えた”わけじゃない。
完成前に“折った”のか」
ノックスは、さらに二発、三発と打ち込む。
すべて小さい。威力はない。
だが、術式の“支え”だけを狙い撃ちしていく。
繋がりかけた回路が、次々と崩れていく。
黒い螺旋はノックスの前で形を失い、
狙いを失った魔力だけが横に流れた。
巨大な破壊の奔流が、ノックスの横を通り抜けた。
背後の塔が、音もなく削り取られる。
石が崩れ落ちる様子が、スローで見えた。
ルミナは全身から汗が噴き出す。
「避けたんじゃない……撃つ前に、壊した……!」
ルシアンは笑う。
「起きてる現象はシンプルだよ。
“飛んでくる魔術”じゃなく、“組まれる魔術”を全部潰してる」
アイザックは、喉の奥で息を呑んだ。
(これが……
威力に頼らない、“戦い方”)
威力で打ち消すのではなく、
魔術そのものを発動させない戦い方。
◇
だが、その代償もまた明確だった。
ノックスの足が、ふらついた。
「ノックス!」
ルミナが叫ぶ。
視界の端が黒く滲む。
耳鳴りが、世界の音をかき消す。
(……もう、限界が近い)
心臓が軋む。
血管が焼ける。
身体の“配線”が焦げていくような感覚。
ラングレイは、一歩だけ前に出た。
「そろそろ、“差”を見せようか」
空気が重くなる。
さっきまでとは違う圧力。
ラングレイ自身の身体能力が、隠していた牙を剥く。
その肉体を強化する術式が、全身に走るのがノックスには見えた。
筋肉に沿って流れる強化の回路。
骨を補強する魔術。
速度を上げるための簡易陣。
(身体強化を……重ねがけ――)
その瞬間――
「《フレイムランス》!」
「《ライトニングバレット》!」
「《ウィンド》!」
三方向から、魔術が同時に撃ち込まれた。
ルミナの炎槍が、ラングレイの視界を遮り、
ルシアンの雷弾が筋肉の動きを一瞬だけ鈍らせ、
アイザックの風刃が足元の陣を削る。
三人とも、エングレイブとフラッシュシグルで、
“限界まで詠唱を削った”魔術。
ラングレイは、楽しそうに笑った。
「ようやく、そちらも“こちら側”に足をかけたか」
炎と雷と風が交錯する中、
彼は最小限の動きで全部をいなした。
ルミナの炎槍は、袖を焦がすに留まり、
ルシアンの雷弾は肩を痺れさせただけで、
アイザックの風刃は皮膚を浅く裂いただけ。
(これでも……届かない……?)
ルミナの胸に、絶望がよぎる。
だが、彼女の魔術には意味があった。
ラングレイの“意識”を、ほんの一瞬だけ散らした。
そのあいだに――ノックスは、身体強化の術式の走り方を全部“見て”いた。
筋肉と骨に絡みつく回路。
それらを制御している、胸の奥の一点。
その瞬間――ノックスが動く。
視界は、もうほとんど真っ白だ。
痛みも、重さも、限界を越えている。
それでも、心臓はまだ動いている。
(師匠――)
焚き火の夜。
あの声が蘇る。
> 『才能がない奴が“能力を開花”させるには、道が一本しかない。
模倣と仕組み化だ。
そして――その先は、自分で作れ』
ノックスは、自分の胸に触れた。
そこにはもう、刻印がある。
心臓へのエングレイブ。
「……ここから先は、僕の理論です」
誰に言うでもなく、呟いた。
心臓の刻印を――限界の、そのもう一段上まで“回す”。
ドクン。
世界が、さらに遅くなる。
ラングレイの瞳孔が開く瞬間さえ見える。
筋肉が収縮する前の、わずかな“準備動作”が見える。
(全部――見える)
ノックスは、一歩踏み込んだ。
ラングレイの攻撃が来る。
拳が、首を狙って走る。
その軌道と同時に、腕の中で組まれる“打撃用の簡易術式”が見える。
その完成より、先に。
ノックスの身体は、“先にそこにいる”かのように動く。
視線が先に動き、
身体があとから追いつく。
結果だけが積み重なる。
拳は空を切り、
ノックスの指先がラングレイの胸に触れた。
ほんの、一点。
「――切断」
ノックスが命令を送る。
ラングレイの身体の中を走る魔力の流れが、
スローモーションで“途切れていく”のが見える。
結界から流れ込む主回路。
魔族としての再生回路。
身体強化の術式群。
それぞれを束ねている“核”が、胸の奥にひとつだけ光っている。
(ここだ)
無属性の外部圧縮魔力を、そこにだけ叩き込む。
ぼん。
音は、小さい。
けれど、“核”を構成していた精密な術式が、一瞬でバラバラになった。
ラングレイの背後で揺れていた結界の光が、
糸が切れたようにしぼんでいく。
ラングレイの瞳が、わずかに見開かれた。
「…………そこまで、行くか」
声には、怒りがなかった。
ただ、純粋な感嘆だけ。
ノックスは、さらに心臓を回そうとした。
だが、その時にはもう――必要はなくなっていた。
ラングレイの“核”から、紫黒の光が煙のように立ち上り、消える。
身体強化も、再生も、結界との接続も、
すべてが一度に剥ぎ取られる。
ラングレイは、一歩、二歩と後ろに下がり――
「……あぁ、負けたな」
誰よりも先に、そう言った。
「箱庭は、君に壊してもらうべきだったようだ」
かすかな笑みを浮かべたまま、
彼の身体は崩れ落ちる。
砂になって消えるのではない。
ただの“人間の肉体”として地面に倒れた。
魔族としての力だけが、完全に剥ぎ取られた。
◇
「ノックス――!」
ルミナの叫びが、どこか遠くで聞こえた。
ノックスは、ラングレイが倒れるのを見届けたところで――
糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
もう、手も足も動かない。
まぶたを上げる力さえない。
それでも、かろうじて“意識”だけは残っていた。
(……あぁ)
身体の中の“配線”が、全部焼けたような感覚がある。
指先から感覚が消えていく。
足先から温度がなくなっていく。
(これが……シグルアクセルの……代償……)
視界の上に、誰かの顔が被さる。
ルミナだ。
その隣に、ルシアン。
少し離れてアイザック。
みんな、泣きそうな顔をしている。
「ノックス! ねぇ、ノックス! 返事して!」
「喋れるか?」
「無理に喋るな……!」
三人三様に声をかけてくるのが、どこか可笑しくて――
ノックスは、微かに笑った。
喉が、かすかに動いた。
「……大丈夫です」
自分でも驚くほど、か細い声。
「動けないだけで……死にはしません」
ルシアンが、顔を歪める。
「それを“大丈夫”って言うか……?」
「言います……よ。
だって――」
ノックスは、ゆっくりと言葉を探した。
胸の奥が、妙に軽い。
「後悔してない、ですから」




