3-7: ー心臓に刻むものー
暗かった。
音も、光も、分からない。
ただ、“疲労”だけがあった。
(……これ、シグルアクセルの反動……)
ノックスは、自分の状態を冷静に観察していた。
身体が動かない。
指一本すら、意識した通りには動かせない。
脳の奥が焼けるように熱く、
同時に氷の塊を突っ込まれたみたいに冷たい。
(活動時間、十倍速で消費……
たぶん、丸一日走り続けたくらいの疲労)
それでも、意識は戻ってきている。
少しずつ。
遠くで、何かが砕ける音がする。
誰かの叫び。
風の唸り。
雷の爆ぜる音。
(ルミナさんと、ルシアンさんと、アイザックさん……)
ノックスは薄く笑おうとして、やめた。
笑える状況ではない。
それでも、少しだけ誇らしい。
(ちゃんと届いてる)
自分が渡した理論。
エングレイブとフラッシュシグル。
それを三人が、自分なりの形で使っている。
それが分かる。
――同時に、足りないことも分かる。
魔族の再生力。
ラングレイの“介入”。
(あの人は、ずっと観測してたんだ)
箱庭。
威力偏重。
兵器としての魔術師。
師匠が見せた、別の答え。
ノックスはそこからさらに、外側へ足を踏み出した。
(ここで、止まるのは嫌だな)
そう思った瞬間、
暗闇の中に、別の記憶が浮かんだ。
焚き火の光。
夜の匂い。
川の音。
師匠――冴島大輔の声。
> 「脳に刻むのは、入口だ」
> 「じゃあ、出口は?」
> 「……それは、お前が決めろ」
あの時は分からなかった。
脳に刻むことで、演算速度を上げる。
それは入口。
では、出口とは何か。
(魔力の流れを、どこに逃がすか……)
脳で掴んだ外界魔力は、
全身の神経に流れ込み、活動時間を削る。
なら――
その先に、もう一つ“逃がす場所”を作ればいい。
(……心臓だ)
生物としての“中心”。
血流を回すポンプ。
魔力の流路とも、強く結びついている。
そこに、刻印する。
エングレイブ。
フラッシュシグル。
そして――シグルアクセルの“出口”。
(生物としての限界を、越える)
代償は、明確だ。
神経は焼き切れる。
筋肉は壊れる。
おそらく――二度と立てなくなる。
車椅子。
杖。
もしかしたら、指先すら自由に動かせないかもしれない。
それでも――
(それでも、ここまでやってきた理論を、
ここで止めたくない)
師匠の言葉が、胸に蘇る。
> 『ノックスへ
どうやら俺はここまでらしい。
重要な内部式理論だけ書き残す。
君の人生に幸あらんことを』
「……僕は、ちゃんと使いますよ」
誰もいない暗闇の中で、
ノックスは小さく呟いた。
(ここから先は、完全に僕の理論だ)
脳に刻んだ刻印を意識する。
まだ、燃え尽きてはいない。
次に――胸の奥。
心臓の鼓動が、ゆっくりと響いてくる。
ドク。
ドク。
そこに、刻む。
師匠が教えてくれたのは入口まで。
出口の設計は、ノックス自身の役目だ。
(エングレイブ――シグルアクセル、心臓リンク)
意識だけで線を描く。
肉体に直接刻むのではなく、
魔力の流路として再構築する。
脳で掴んだ魔力を、
神経を焼かずに“心臓”へ送る。
代償は、もっと大きくなる。
心臓そのものが、魔力回路として消耗する。
(戦いのあと、僕はもう“普通の身体”じゃなくなる)
それが分かっていて――
(でも、後悔はしない)
ようやく、“速度理論の到達点”が見えたのだから。
◇
世界の音が戻ってきた。
ルミナの叫び。
ルシアンの息遣い。
風を裂く音。
骨が砕ける鈍い響き。
瞼を開ける。
ぼやけた視界に、戦場が広がっていた。
ルミナが魔族の腕に弾かれ、地面を転がる。
ルシアンの防御が間に合わず、肩から血が噴き出す。
アイザックのウィンドブーストも、もう鋭さを失い始めていた。
ラングレイは、ただ見ている。
「ここが、君たちの限界か?」
ノックスは、ゆっくりと息を吸った。
身体は、まだ動かない。
だが――“命令”だけは出せる。
心臓に刻んだ刻印が、応える。
ドクン、と一度、大きく打った。
世界の輪郭が、もう一度変わる。
今度は、さきほどのシグルアクセルと違う。
時間の流れが遅くなる感覚ではない。
速度の差を誤魔化す感覚でもない。
(“位置”が見える)
魔力の流れ。
空気の歪み。
血液の循環。
神経の発火。
ラングレイの立ち位置。
魔族の脚の粘度。
ルミナの蹈み込み。
ルシアンの電位差。
アイザックの風の渦。
全部が、“線”になって見える。
(これが――)
ノックスは薄く笑った。
(僕の“出口”か)
指先が、僅かに動いた。
「……っ、ノックス?」
ルミナが振り向く。
驚きと安堵と、少しの怒りが混ざった声。
ノックスは、かろうじて上体を起こした。
「みんな――離れてください」
声は掠れている。
でも、言葉ははっきりしていた。
ラングレイが、楽しそうに目を細める。
「起きたか。
さて――どこまで見せてくれる?」
ノックスは、胸に手を当てた。
心臓が、魔力の噴出口として震えている。
「これから使う技は、僕だけのものです」
ルシアンが息を呑んだ。
「シグルアクセルの――
さらに先?」
「そうです」
ノックスは、自分に言い聞かせるように頷く。
「さっきまでは“脳”だけで処理してました。
でも、それだと神経が焼き切れる」
ルミナが叫ぶ。
「だから倒れたんでしょう!?
もう一度やったら――!」
「だから、出口を作りました」
ノックスは、胸を軽く叩いた。
「心臓に、流します」
一瞬、誰も言葉を失った。
アイザックだけが、かすかに笑う。
「魔術とは、本来そういうものだ。
世界の理を、自分の身体で定義し直す」
ラングレイは愉快そうに口元を歪めた。
「いいね。
それでこそ――観測する価値がある」
ノックスは目を閉じた。
「ルミナさん。
ルシアンさん。
アイザックさん」
呼びかける。
「エングレイブとフラッシュ・シグルは、
もう三人のものです」
視線を上げる。
「この先に行く必要はありません。
無理に真似しないでください」
ルミナが歯を食いしばる。
「そんなの――」
「お願いします」
ノックスの声は、静かだった。
「誰かは、“普通の魔術師のまま”でいてください。
そうじゃないと、僕の理論を“世界に渡せない”」
ルシアンは、ゆっくりと笑った。
「……分かった。
ここから先は、君の“孤独な領域”ってことだね」
アイザックも頷く。
「君の理論は、僕たちが後世に残そう。
だから――今だけは、好きにやれ」
ラングレイが指を鳴らした。
魔族が咆哮を上げる。
最後の突撃。
ノックスは、心臓に意識を集中させた。
「シグルアクセル――心臓リンク」
世界が、再び変わった。
今度は、戻れない変化だった。




