3-5: ー即時起動の戦場ー
アストラム魔導学院の結界は、
もともと外側からの侵入を想定して張られていた。
だからこそ――
内側から“きしむ”ような震えが走ったとき、その違和感は大きかった。
石床が、かすかに鳴る。
窓ガラスが、細かく震える。
白い旗が、風もないのにひとりでに揺れる。
「……また、来た」
誰かの呟きとほぼ同時に、
魔術で増幅された声が学院中に落ちた。
> 『全生徒は避難経路に従い、指定地点へ退避せよ。
繰り返す――全生徒は――』
ざわめきが、講義棟の中を一気に走る。
椅子が引かれ、教科書が閉じられ、ペンが転がる。
その流れを逆らうように、
一人の少女が席を立った。
「前線に出ます」
ルミナ・ウッド。
努力で一年首席の座を掴んだ魔術師。
隣では、金髪の少年が椅子の背にもたれたまま立ち上がる。
「僕も。
首席だけを行かせるわけにはいかないからね」
ルシアン・ド・レオンハルト。
魔力操作の天才。
一年ナンバー2。
担当教師が一瞬だけ躊躇い、すぐに頷いた。
「無茶はするな。
ただし、必要なところには遠慮するな」
それが許可の代わりだった。
二人は廊下へ飛び出す。
空気にはもう、焦げた匂いが混じり始めている。
「アイザック会長も、きっと前に出てる」
「だろうね」
会話は短く、足は速い。
向かう先は一つ。――結界の最前線。
訓練場へ続く広い中庭は、すでに戦場の気配に満ちていた。
石畳にはひびが走り、焦げ跡が散る。
教員と上級生たちが前線を組み、その前で空間が“削られて”いる。
黒いひび割れ。
空気そのものに走る裂け目――
そこから、何かが身を乗り出していた。
「……昨日のやつと、違う」
ルミナはすぐに分かった。
体躯はさきほどの魔族と同種。
だが――厚みが違う。
肉も、魔力も。
ただ立っているだけで、周囲を圧迫する。
「再生速度も、昨日の個体より上ですね」
ルシアンが分析するより早く、
炎と氷と雷が一斉に撃ち込まれる。
教員の大魔術。
上級生の連携魔術。
轟音。
爆風。
石片が舞う。
しかし――煙の向こうから、そいつは歩み出た。
肩が抉られ、胸が焼けただれている。
それでも、歩く。
肉が蠢き、ひびを埋めるように再生していく。
「……笑えないな」
ルシアンが低く呟く。
そこへ、風を裂く音が落ちてきた。
青い髪の少年が、風を纏って前線へ踏み込む。
アイザック・フォルティア。
アストラム魔導学院、生徒会長。
「ウィンド」
短い声と共に、空気が線になった。
何もない空間を、見えない刃が走る。
魔族の片腕が、あっさりと飛んだ。
赤黒い血が石畳に散り、遅れて風の軌跡が見える。
続けざまに、足元がうなる。
「ブースト」
大気が爆ぜ、アイザックの身体が前へ“跳んだ”。
目が追いつく前に、彼は魔族の懐へ潜り込んでいる。
消えた腕の付け根を、横一文字に斬り裂いた。
「さすが……」
ルミナが息を漏らす間もなく、
巨腕が唸りを上げて振り抜かれる。
アイザックの身体に当たる――
瞬間、雷が弾けた。
「《ライトニングバレット》」
ルシアンの指先から放たれた雷弾が、
魔族の側頭部を打ち抜く。
狙いは肉体ではなく、筋肉の収縮。
一瞬だけ動きが乱れる。
腕の軌道がずれ、アイザックの頬を掠めるだけで済んだ。
「助かった」
「借りは高いですよ、生徒会長」
軽口を交わしながらも、二人の額には汗がにじむ。
(私も――)
ルミナは深く息を吸い、手を前に出した。
「《フレイムランス》!」
赤い槍が生まれ、魔族の片脚を貫く。
爆ぜる炎が筋肉を焼く。
続けざまに反対の手を掲げる。
「《アイスジャベリン》!」
青白い槍が焼けた肉を貫通し、凍りつかせた。
熱と冷気がぶつかり合い、肉が悲鳴を上げるように裂ける。
魔族の膝が沈む。
片脚が完全に潰れた。
「効いてる!」
誰かが叫ぶ。
確かに、三人の攻撃は通っていた――はずだった。
だが。
魔族の背に刻まれた紫黒の“筋”が、ふっと光る。
次の瞬間、肉の裂け目が一気に塞がった。
「……嘘でしょ」
ルミナの背中に冷たいものが走る。
昨日の個体より再生が早い。
刻んだダメージが、なかったことにされていく。
アイザックが小さく舌打ちした。
「威力も、速度も足りている。
それでも届かない。――なら、構造が違う」
魔族の視線が、にたりとこちらを向いた。
人間の言葉は話さない。
だが、理解している。
> “まだ本気を出していない”――と。
「一度下がる」
アイザックが判断する。
「ここで力を削られるわけにはいかない。
本命は、まだ来ていない」
後退の指示が飛ぶ。
防御魔術が展開され、生徒たちが後ろへ下がる。
魔族は追わない。
ただ、空を見上げる。
結界の上部。
学院の塔の先。
そこにある“何か”に向けて。
(……観測している)
アイザックは嫌な予感を飲み込む。
そのとき――
石畳が、音もなく跳ねた。
足元から“衝撃”だけが突き上げる。
魔族の動きが、一瞬止まった。
「……来たか」
アイザックが振り向くより早く、
中庭に新たな人影が現れていた。
黒髪の少年。
アストラムの制服ではない、簡素な服。
手には、ただの石。
ラピダス・ノックス。
「……間に合って、よかった」
ノックスは息を吐きながら石を握り直した。
対峙する魔族は、
先日森で感じたものより、明らかに“分厚い”。
(これが……真正面から来る脅威)
ルミナが叫ぶ。
「なんでここに――」
「呼ばれましたから」
ノックスは簡単に言った。
「学院を壊されたくない人たちに」
ルシアンが笑う。
「タイミング、完璧だね」
アイザックは短く言った。
「ここは、君に賭ける」
ノックスは頷き、石を一つ放り上げて受け止めた。
「試すのは――“ここ”までです」
右手の指先に、刻印が走る。
外部式エングレイブ。
反射命令フラッシュ・シグル。
詠唱はない。
術式構築もない。
ただ、指が動いた。
ぼん。
魔族の足元が“削れた”。
肉を抉る威力ではない。
だが――立ち位置が狂う。
足場が崩れ、体重の軸がずれた。
「今の、見えた?」
ルシアンが息を飲む。
「起動が――見えなかった」
ルミナも呟く。
「指を動かした瞬間には、もう……」
詠唱の隙も、術式の溜めもない。
動作と結果が、ほぼ同時。
ノックスは二投目を投げた。
ぼん。
今度は魔族の“動こうとした方向”へ先回りするように衝撃が走る。
足が絡み、巨体が前のめりに崩れた。
「戦場の形を、奪う……」
アイザックが小さく呟く。
威力ではなく、軸。
位置とタイミング。
それだけで、魔族の“優位”が削られていく。
だが――
ノックスは理解していた。
(これでも……“削るだけ”)
外部式と反射命令だけでは、
魔族を“殺し切れない”。
人間の器は全員同じ。
差が出るのは処理速度。
だが、魔族はそもそも身体が“速すぎる”。
「ルミナさん、ルシアンさん、アイザックさん」
ノックスは振り向かずに呼んだ。
「さっき教えた刻印、使えますか」
ルミナは息を整え、頷く。
「やってみる」
ルシアンも指を鳴らす。
「実戦テストには、十分な相手だ」
アイザックは短く笑った。
「教師たちには言えない戦い方だな」
三人は前へ出る。
ノックスが“削った”空間へ、
即時起動の魔術が叩き込まれる。
「《フレイムランス》」
詠唱なし。
言葉は“タイミングの合図”にすぎない。
ルミナの腕を通った魔力が、刻まれた流路を一気に駆ける。
指先の微細な動きが、発動条件。
炎の槍が、瞬きの間に生まれ、魔族の膝を貫いた。
「《ライトニングバレット》」
ルシアンの雷弾が、狙いを変える時間すらなく、
敵の神経を撃ち抜く。
「ウィンド」
アイザックの風が、足首をまとめて切り裂く。
即時起動。
タイムラグなしの連係。
「これが……」
ルミナは自分の手を見ながら、驚愕する。
(こんなに“速く”魔術が出るなんて――)
だが魔族は、まだ倒れない。
肉がうねり、再生が追いついてくる。
ノックスは、分かっていた。
(ここまでは“共有できる速度”。
でも、致命傷を与えるには――)
自分だけが、踏み込む必要がある。
魔族が吠えた。
空気が震える。
視線がノックスひとりに向く。
外部魔力の流れが変わる。
魔族が“本気で殺そうとしている”のが分かる。
「ここから先は――僕の領域です」
ノックスは静かに呟いた。
誰にも聞こえないくらいの小さな声で。
指先ではなく、“頭の奥”に意識を向ける。
師匠が教えてくれた限界の一歩先。
生物としての“時間”を前借りする術。
シグルアクセル。
「――アクセル」
声と同時。
世界の“色”が変わった。
魔族の腕が振り上がる。
しかし、それは止まっているように見えた。
空気の揺れが、分解されて見える。
血の滴る軌跡が、細かく刻まれて見える。
ノックスだけが、速くなっている。
脳に刻んだ刻印が、外界の魔力を掴み、圧縮し、
神経を焼く勢いで回し始める。
(……あと十数秒も持たない)
理屈は分かる。
だからこそ恐ろしい。
だが――迷いはない。
ノックスは石を三つ掴んだ。
一歩。
踏み出す。
世界が遅れる。
自分だけが前へ進む。
投げた。
ぼん。
ぼん。
ぼん。
連続した衝撃が、時間ごと“重ねて”突き刺さる。
一つ目で、足場を削る。
二つ目で、再生する肉の“途中”を吹き飛ばす。
三つ目で、軸そのものを砕く。
魔族の身体が、崩れた。
再生のための“足場”がない。
肉が蠢こうとして、うまくいかない。
「今です!」
ノックスの声と同時に、
三人の即時起動が重なった。
「《フレイムランス》!」
「《ライトニングバレット》!」
「ウィンド!」
炎が焼き、雷が走り、風が骨を断つ。
再生が追いつかない。
魔族の身体が、完全に“ちぎれた”。
その瞬間――
世界が、ノックスに追いついた。
視界が暗くなる。
膝が抜ける。
心臓が、重く鈍くなった。
「……っ」
シグルアクセルの反動。
神経が悲鳴を上げる。
(これが……十倍速の、代償……)
遠くで誰かが自分の名前を呼ぶ声がする。
だが、もう言葉は届かない。
ノックスは、倒れた。
石畳が冷たい。
空が遠い。
(まだ、終わってないのに……)
意識が、暗闇に沈んでいった。
魔族の肉片が、煙のように消えていく。
それは“討伐”の証。
だが――
本当の戦いは、まだ始まってすらいなかった。




