2-8: ー揺れる輪郭ー
森を抜けると、空気が変わった。
湿った重さが薄れ、風が喉を通るようになる。
遠くに白い塔が立っていた。
アストラム魔導学院。
昼の光に照らされて、壁は相変わらず眩しい。
ノックスは一度だけ振り返った。
(ルミナ・ウッド……
ルシアン・ド・レオンハルト)
ほんの数分前まで、同じ地面にいた。
今は――塔のどこかにいる。
距離にすると近い。
歩けばすぐ届く。
なのに、世界の端と端みたいに遠い。
自分は、外にいる。
その感覚が胸に残った。
「……帰ろう」
石畳から外れて、川辺を目指す。
考えるなら、そこでいい。
川の音は、昨日と同じだった。
変わったのは、自分の胸のほう。
ノックスは石を並べる。
平らなもの、歪んだもの、重いもの、軽いもの。
今日投げた石と、同じ形のものもある。
(ホーンボアは倒した……いや、違う)
トドメを刺したのはルミナだ。
自分はただ、脚を止めただけ。
それでも、
(……“倒せる形を作った”って言ってくれた)
誰の言葉だったか、思い返すだけで心が動く。
証明じゃない。
褒められたわけじゃない。
でも――“起きた”ことを認められた。
石をひとつ手に取る。
投げた感覚が、まだ指に残っている。
森の中で地面が跳ねた瞬間。
土が手に返ってきた熱。
その感触が、頭の中で静かに反芻される。
「……あれが、魔術?」
問いは風に溶ける。
詠唱はなかった。
構築の感覚もない。
魔力を“集めた”覚えすら曖昧だ。
起動のために何をしたか、説明できない。
ただ――投げた瞬間、爆ぜた。
それだけ。
石を握り直し、投げる構えを作る。
(こうやって――)
腕が自然に動く。
考える前に、身体が覚えた角度に落ち着く。
“さっき何度も繰り返した動き”が、勝手に蘇る。
指が当たる位置。
肘の高さ。
肩の振り。
足の踏み込み。
考えていない。
ただ、そこに落ちる。
ノックスは投げた。
> ぼん。
土が跳ねる。
音は小さい。
威力なんてない。
でも――“同じ瞬間”が出た。
考える前に、爆ぜる。
「……これ、なんだろ」
答えがない。
でも、問いだけは確かにそこにある。
石を拾う。
土を払う。
並んだ石を見ているだけで、胸の奥がざわつく。
(もし――)
言葉にならない何かが、輪郭だけを持って広がる。
もし、この投げ方が、
誰でも“できる形”になったら?
もし、詠唱が追いつく前に、
戦場の流れを止められるなら?
もし、それが――“魔術”だったなら?
思考が進むほど、答えは遠ざかる。
ただ、あの瞬間だけは確かに近づいた気がする。
理解じゃない。
説明じゃない。
“触れた”という感覚。
ノックスは息を吐く。
(僕は倒してない。
でも――“倒せる場所”を作った)
それが何になるのか、まだ分からない。
誰が評価するわけでもない。
認めてほしい相手がいるわけでもない。
ただ――自分が見た。
「……速度」
声に出すと、奇妙にしっくりきた。
言葉じゃない。
ただの“音”だ。
でも、その音が、
今日だけは心の中で形を持つ。
速度。
それ以外に説明できない。
◇
川の向こうで、学院の塔が揺れて見える。
ゆらゆら、熱のせいか、涙のせいか。
ノックスは思った。
(僕は、“何か”に触った)
まだ名前もない。
意味もない。
証明もない。
でも、たしかに触った。
その実感だけが、胸の奥で燃えている。
> 削れた爪の痛み。
染み込む土の匂い。
指先に残った、爆ぜる瞬間の熱。
それらが、何よりの証拠だった。
石を握る。
ただの石。
だけど、
まだ誰も知らない“何か”が、この中にある気がした。
ノックスは笑った。
「……また投げよう」
それは挑戦ではなかった。
宣言でもない。
ただの、自然な言葉。
川が流れ続ける。
世界は何も知らない。
今日、森で起きたことを知るのは――
ほんの数人だけ。
でも、それで充分だ。
ノックスは石を投げる構えを取った。
(次は――僕が知る番だ)
理解より先に、
結果が先にある。
そんな世界があるかもしれない。
投げる。
世界が、一瞬だけ止まる。
> ぼん。
小さな音が、未来のどこかに繋がっていく。
まだ名前のない速度だけが、ここにある。




