2-4: ー扉の前ー
森は深い。
湿った土の匂いが、肺にまで染み込む。
葉擦れの音が、風より先に世界を揺らす。
ノックスは、自分の右手を見つめていた。
石ではない。
武器でも術式でもない。
ただの“手”。
> 「石を使わずに、同じ現象が出せるか」
それは、まだ早すぎる段階の問いだ。
分を弁えれば、考えるだけで閉じるべき扉でもある。
けれどノックスは知っていた。
速度には“正しい順番”があるということを。
エングレイブは外部式。
対象の物質に術式を刻み、起動を代行させる“外側の速度”。
フラッシュ・シグルは内部式。
術式を身体そのものに埋め込み、反射で発動させる“内側の速度”。
その違いを言葉で理解しても意味はない。
身体が理解しなければ速度にはならない。
師匠の声が蘇る。
> 『反射で魔術を走らせる仕組みだ。
思考がない。命令がない。
“判断の前に”結果がある。』
反射――それは、呼吸に近い。
呼吸は命令しない。
「息を吸え」と考えない。
身体が勝手に動くから、生きていられる。
師匠はそれを“理想形”と呼んだ。
> 『魔術を呼吸みたいにする。それが内部式だ。』
それは魔術ではなく、存在の形になる。
しかし――いきなりそこへは辿り着けない。
理論は一足飛びでも、身体はそうはいかない。
だからノックスは“中間”を作った。
完成ではない。
しかし捨てる形でもない。
削りすぎた刻印。
崩れた線。
均衡が壊れている“欠陥のエングレイブ”。
普通なら、失敗作として捨てられる石。
だがノックスにとって――それは“橋”だった。
外部式と内部式の間にある、言語化されていない場所。
ノックスは石を軽く握る。
魔力を流す。
流し方はわざと雑にする。
丁寧に流せば、術式が“正常に”働いてしまう。
それでは意味がない。
目指すのは“暴発と設計の中間”。
術式を壊さない程度に破壊し、
破壊しない程度に壊す。
それは矛盾であり、挑戦だった。
指先が、魔力と刻印の“抵抗”を感じる。
脳が理解するより先に――
身体だけが、何をすべきか知っているように動く。
ノックスは息を小さく吸った。
投げる。
――ぼん。
乾いた音が、土を撫でるように広がった。
爆発というより“土が浮いた”だけ。
火花も熱も、ほとんどない。
ただ一瞬だけ、魔力の形が現れた。
ノックスは、手を見た。
微かに痺れている。
空気が、わずかに揺れている。
「……僕の手から、出た」
言葉が、誰にも聞かれない森に溶ける。
石を媒介にしてはいる――
しかし術式らしい構築はほぼない。
詠唱もない。
線も少ない。
魔術として見れば“暴発”に近い。
けれどそこには、“輪郭”がある。
完全な暴発は散るだけだ。
今の現象には、“方向”があった。
起点と終点が、かすかに存在していた。
つまり、“発動の通路”が生まれている。
速度は直線ではない。
目に見えないルートが、身体の内側に形作られる。
その線こそが――内部式への道筋になる。
ノックスは、胸の奥で何かが“かちり”と音を立てたのを感じた。
「……ここに、“扉”がある」
扉は、開いていない。
開け方も知らない。
鍵も見えない。
ただ――扉の存在だけは、確かに感じられる。
それで十分だった。
扉が“ある”と知った瞬間から、進む方向は決まる。
扉を開く方法は、旅の果てに見えてくる。
だから今は、焦る必要はない。
遠回りでもいい。
泥臭くてもいい。
速度とは、決して才能ではない。
> 「速度は、“扉を見つけた人間”が歩く道だ」
ノックスは指先で石の欠片を払った。
土に刻まれた小さな痕跡が、見たことのない地図のように見える。
そして、ゆっくりと手を握りしめた。
「――ここからだ」
扉があると知った瞬間。
世界は変わらない。
森も、土も、誰の評価も変わらない。
変わるのは、“ノックスの速度の見方”だけだ。
その違いが、すべての始まりになる。




