異世界裁判、開廷!相棒は戦国武将(ただし最強)
――この街では、罪は光で告げられる。
午後三時。ユーディクスの空に魔導塔の鐘が鳴り響き、淡い青い光が空一面に放たれた。その瞬間、市民たちは動きを止めた。空を見上げる者、息を呑む者。空に浮かんだ文字がそれを告げていた。
『第九等級魔術違反・禁術使用により、ミレイア=アルベルティーニ被疑者の身柄を拘束』
その名を、ユウマは見上げる前に、玄関口で聞いた。
「……なんで……?」
声が出たのか、喉が震えただけなのか、自分でもよく分からなかった。扉の向こうで聞こえるのは、魔術警邏隊の硬質な声と、魔力鎖の巻きつく音。姉の声は、どこにもなかった。
ガチャリ、と扉が開いた。
「おい!」
駆け寄るユウマの肩を、黒い手袋の手が押しとどめた。その手には紋章が刻まれている――“裁魔封印局”の紋章。ユウマは咄嗟に叫んだ。
「姉さん!? なにが、なにが起きたの!? どういうこと!?」
目の前には、魔術封印具を両手に嵌められた姉――ミレイアがいた。白い研究者用ローブが一部焦げていて、左肩には小さな血の滲みがあった。
だが――彼女は、黙っていた。こちらを見ようともしない。顔は伏せられ、長い前髪に隠れて目元は見えなかった。
「おいっ、ミレイア姉さん!」
必死に呼びかけるも、警邏官たちに囲まれ、彼女はそのまま連行されていく。
「ミレイア=アルベルティーニ。第九等級魔術違反および国家反逆容疑により、中央魔術法廷にて審問を受ける」
機械のような声がそう宣言し、淡く光る足枷が彼女の足元に現れた。ユウマの指先が、その淡い光を掴もうと伸びる。だが、届かない。どこかで猫が鳴いた。遠くで風が窓を叩いた。そして――姉の背は、視界から消えた。
「……まだ、裁判も始まってないんです。話だけでも、聞いてください!」
中央裁判庁の石造りのホール。正面に聳える金属扉の前で、ユウマは何度も頭を下げ、叫んだ。しかし、受付の魔導窓は淡く赤く光るだけで、誰も応答しない。
『弁護資格者にあらざる者の口頭訴訟権限は認められておりません』
それだけが、繰り返される。
「でも僕は、家族なんです! ただ話が、話がしたいだけで――!」
ドン、と胸に何かが詰まったような痛み。頭の中で、姉の沈黙が何度もリフレインする。
(なぜ黙っていた? なぜ……僕を、見てくれなかったんだ……)
身体が熱く、心が冷える。
「だったら、もう……俺が、やってやるよ……!」
叫ぶ声は、広いホールの石床に吸われるように響いた。
夜の街は冷えていた。石畳にうっすらと魔力が滲み、通りには“証言不要”と書かれた封魔札がちらついている。ユウマは裏路地を歩いていた。情報屋に会うため、中央街から三層ほど下った“旧商会区”へと足を踏み入れていた。
空気は少し埃臭く、壁に描かれた呪紋は風化してぼんやりとした輪郭しかない。ガス灯の明かりが、かすかに視界を照らしていた。だが、その足元で何かが動いた。
「……誰だ?」
咄嗟に構えたが、出てきたのは二人組の盗賊風の男だった。片方は火の魔石を弄び、もう片方は拳に鉄骨を巻きつけている。
「坊主、こんなとこ一人で歩いちゃ危ないぜ?」
「おい、奪ってから殺すか? どっちが先がいい?」
喉が凍る。足が、動かない。だが――
その瞬間、男たちの背後に“風”が走った。
ズン。
重みのある、だが優雅な一歩。
「法廷に喧嘩売るには……いい顔してんな、坊主」
現れたのは、和装に身を包み、片手に刀を下げた一人の男。片目を隠す長い前髪、濃紺の羽織、静かな怒気。
「てめぇら――その口、締めとけ」
その瞬間、風が止まった。刀は見えなかった。ただ、音があった。
シュッ――
そして、盗賊の一人がその場で崩れた。魔石が地面に転がる音が、やけに鮮明に響いた。男はゆっくりと刀を納めながら、ユウマに顔を向けた。
「タカトラだ。お前……何を守ろうとしている?」
その声は低く、乾いていて、けれど何より――よく通った。
夜の旧商会区――通称“静墓”と呼ばれるこの路地で、ユウマは“タカトラ”と名乗った男と、二人きりで向かい合っていた。魔石の落ちた場所からは、まだ煙のような魔素が立ち上っている。だが、それすらもすでに場の支配権を失っていた。この男が、この空間の重心だった。
「お前……さっきの技……魔術じゃない」
ユウマの声は自然と震えていたが、恐怖ではなかった。違う。もっと根深い――本能的な畏怖と、憧れだった。
「剣だ。ただの斬り技……いや、違う。お前……“人間”か?」
タカトラは肩をすくめる。
「元な。“この世界”じゃ、すでに“登録外個体”ってやつさ。戦国って時代の出身だ。藤堂高虎――聞いたことは?」
ユウマの目が見開かれた。
「タカ……藤堂……? 武将……?」
「正解。でもまあ、今じゃこの街の“法廷”専門の厄介者。書類にすら存在しねぇ。だから――好き勝手できる」
にやり、とタカトラは笑う。その目は鋭さをたたえていたが、同時に、燃え尽きた灰のような空虚さも宿していた。
「で、お前。こんなとこで何してた?」
「……姉が、逮捕されました。魔術違反と、国家反逆で。……信じられないんです。姉はそんな人じゃない」
タカトラは立ったまま、ふっと息を吐いた。
「裁判で弁護してやれよ」
「したい。でも、弁護資格がないんです。未成年で、魔術師としても見習い。誰にも話を聞いてもらえない」
その言葉に、タカトラは顎を少し上げた。
「それだけの理由で、“声”が届かねぇのか。……相変わらず腐ってんな、この街は」
沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは、タカトラだった。彼は懐から、黒革の小さな証書のようなものを取り出した。
「お前、名前は?」
「ユウマ。ユウマ・アルベルティーニ」
「よし、ユウマ。お前、今日から俺の助手な」
「えっ?」
タカトラが見せた証書には、古い金の封印と共に、こう刻まれていた。
『第零級弁護魔術士:藤堂タカトラ。登録記録抹消済』
「記録抹消された者が裁判に立てるわけない、と思ってるか?」
タカトラは再び、笑った。
「だからいいんだよ。記録にない奴は、“法の外側”で好きに動ける。俺はお前の“声”になる」
ユウマは言葉を失った。それは希望だった。今にも消えそうな火に、風が吹き込むような――光だった。
「助けてくれるんですか? 姉を……僕を……」
「違う」
タカトラの声が、低く響いた。
「お前が助けるんだ。俺はその手伝いをするだけだ」
夜空に、魔導塔の光が一筋流れた。青と銀の光が、ふたりの影を長く引き伸ばしていた。
「行こうぜ、ユウマ。開廷の鐘はまだ鳴っちゃいねぇ。鳴らすのは……お前だ」
その夜、ユウマの決意が固まった。そして同時に、ひとつの審判が動き出した。“声なき者”に、もう一度“言葉”を与えるために。
──異世界裁判、開廷準備。
魔導庁地下審理棟第七法廷。
高天井に浮かぶ無数の“裁法結晶”が淡く青い光を放ち、空間をまるで星空のように演出していた。中央の審理席に座すは、仮面と法衣に身を包んだ裁判官《レフ=カーメン》。その瞳はなく、感情もなく、ただ魔力の流れだけを認識する存在。左右の証言台には、法の審理記録者たる《記録鳥》が控え、その羽音だけが静寂に響く。
ユウマは、初めてその場に立っていた。制服の袖口を握る手が汗ばむ。心臓が、喉元で鼓動しているようだった。
(ああ……ダメかも。息が……詰まる)
緊張が皮膚の内側から圧迫してくるようだった。その背中を、ぽん、と軽く叩く手がある。
「深呼吸しろ、ユウマ」
低く、穏やかな、だが絶対にぶれない声。タカトラの声だ。
「怖くても、吐きそうでも構わねぇ。ただ、一つだけ忘れんな。“裁判”ってのはな――誰が声を届かせるかの勝負だ」
その言葉に、ユウマはようやく息を整えることができた。
「……ありがとう、タカトラさん」
「“さん”なんていらねぇ。“相棒”でいい」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「開廷を宣告する」
仮面の裁判官・レフ=カーメンの声音は、人間の声帯から発されたものではない。魔術による再生音。だからこそ、揺れも重みもない。
「本件、ミレイア・アルベルティーニ被告に対し、第九等級魔術“神化呪文式”使用、および国家機関破壊未遂の疑いにより、中央裁判が開かれる。弁護側、資格登録はあるか?」
ユウマは唇を噛み、前に出た。
「弁護側、ユウマ・アルベルティーニ。……未登録ですが、特例申請により“仮弁護人”としての参加を認められています」
「特例申請、記録確認。仮許可、条件付きで承認」
静寂の中、右側の検察席から、すっと一人の女性が立ち上がる。銀髪のストレートをぴしりと結い、赤い法衣を纏ったその姿は、完璧な構築物のようだった。
「検察官、ファラ=ヴァインです。手続きに異議はありません」
その声は凍えるように冷たく、明晰だった。タカトラが呟く。
「……あの女か。“秩序の守護者”ってやつだな。間違いねぇ、あいつは“正しい”。だが、その“正しさ”が、厄介なんだ」
ユウマは黙って頷いた。
ファラの手のひらから、ひとつの“魔導球”が浮かび上がる。その中に、記録映像が映し出された。燃える実験場。飛び交う魔素。中央に立つミレイアの姿。
「これが当日、記録鳥によって保存された“記憶映像”です」
映像の中、ミレイアが詠唱する瞬間、光の爆発が走る。研究棟の壁が吹き飛び、周囲の設備が一瞬で溶け落ちる。ファラの声が、冷たく言葉を重ねた。
「第九等級魔術“神化呪文式”は、現在の法体系においては完全に禁術指定されております。許可なき発動は、即ち反逆行為です」
裁判官が視線をユウマに向ける。
「弁護人。反論は?」
ユウマは、言葉を探しながらも声を上げる。
「その映像は……不完全です。開始時点が不自然に中途から始まっている。被告が自発的に術式を起動したかどうか、判断材料としては――」
「棄却」
一言で切り捨てられた。空気が、一瞬凍りついた。ユウマの声が、裁判空間から消される。
「根拠が不明瞭。提出された記録の完全性に異議を唱えるには、証拠をもって裏付ける必要がある」
ユウマは、立ち尽くした。頭が真っ白になった。タカトラは、小さく息を吐き、隣で呟いた。
「……ようこそ、“異世界法廷”へ。これが“声なき者”の現実だ」
空気が重い。まるで、水の中に沈んだような圧力だった。ユウマの口は、開きかけたまま閉じられなかった。“棄却”。その二文字が、喉の奥に棘のように引っかかったままだ。
(喋ろうとしても、喋れない……)
言葉にならない焦りだけが、手足に走る。横で、タカトラはじっと記録映像を見ていた。鋭く、深く、まるで“戦”の戦場を分析するような眼差しで。
「坊主、よく聞け。さっきの映像、どこから始まってた?」
ユウマは、ぐっと目を凝らす。映像が再生された瞬間――ミレイアは、すでに詠唱の後半に入っていた。
(詠唱開始からじゃない……最初の文が飛んでる?)
「……あれ、編集されてるかも。いや、最初の部分が欠けてる?」
「ああ。つまり、“証拠として不完全”。なら、それを“確かめる方法”が必要だ」
「でも、どうやって……」
タカトラは小さく笑った。
「“確認できてない証拠”は、“証拠能力がない”って主張するんだ。法廷の基本だぜ、相棒」
その瞬間、ユウマの胸に火が灯った。手が震えていた。だが、今度はそれを押さえ込まなかった。声が届かなかった理由を、初めて自分の力で乗り越えられるかもしれない――その予感が、熱をくれた。
「裁判官、発言を求めます!」
ユウマが声を張った。今度は、喉が震えなかった。レフが無言で首を傾げた。静かなる了承。
「先ほどの映像記録は、検察側から提出されたものですが、発動直前から始まっているため、事前の状況が不明です」
ファラがわずかに眉を動かす。
「よって、被告が“自発的に”禁術を発動したかどうかは、この映像だけでは判断できないはずです。前段の記録がない以上、“意図”の立証は不可能ではないでしょうか?」
一拍の沈黙。その空間を裂いたのは――
「異議、成立」
レフ=カーメンの判決だった。天井の結晶が静かに輝きを増す。記録鳥たちが一斉に羽ばたき、音もなく魔導記録に追加を始める。
「検察官、補完記録の提出を求める。弁護人による証拠不完全性の指摘、合理性を認める」
ファラは微かに視線を伏せた。
「……了解しました」
ほんのわずか。だが確かに、彼女の声に“温度”が宿っていた。冷たいだけの声ではなかった。
ユウマは拳を握った。初めて、声が届いた瞬間だった。
(これが、裁判……これが、“声”を持つってことなんだ……)
その背で、タカトラが笑った。
「やるじゃねぇか、相棒」
「……うん。でも、ここからが本番だよね?」
「当然だ。“勝ち筋”が見えた瞬間、やつらは牙を剥いてくる。覚悟しとけよ――異世界の法廷ってやつは、“正しさ”だけじゃ勝てねぇ」
その日の審理は、“補完記録の提出”を保留として閉廷となった。初戦。ユウマの弁護人としての最初の一歩は、確かに刻まれた。だが、その一方で――
法廷を出る際、ファラ=ヴァインはわずかに振り返った。
「ユウマ・アルベルティーニ。あなたは、声を通した」
「……ありがとう。でも、まだ始まったばかりです」
ファラは言う。
「ええ。なら、次は“真実”に向き合いなさい。あなたの姉が――どんな覚悟で禁術を選んだのか」
その言葉に、ユウマの胸は、再び冷たくなる。真実。それが、優しくあるとは限らない。
だが、少年の足は止まらない。それが“声を持った者”の責務なのだと、彼は今、ようやく知ったから。
──異世界裁判、第一戦目、終了。
法廷が閉じたあとの空気は、いつだって重い。審理棟を出た直後、ユウマはしばらく言葉を失っていた。広場の中央に立つ噴水の水音が、やけに耳に残る。夕陽が石畳を染め、街の輪郭が柔らかく溶けていく。
彼は一歩、また一歩と歩きながら、ようやくぽつりと呟いた。
「……“意図の証明”か。姉さんの、意志を証明しないといけないんだ」
隣を歩くタカトラが、腕を組んでぼそっと言う。
「なあユウマ。お前、本当にミレイアが“あの魔術”を自分の意志で使ってないって信じてるか?」
ユウマは、即答できなかった。ほんの一瞬――“映像の中の姉”が見せた表情を思い出してしまったのだ。静かで、どこか諦めたような。けれど――確信に満ちた顔。
「……信じたい。でも、分からない」
「それでいい」
タカトラは軽く頷いた。
「答えがある前に結論を決めちまう奴は、弁護人には向かねぇ。お前は、探す資格がある」
彼らが向かったのは、《第三区・中央記録保管局》。通称《眠りの蔵》。
魔術都市ユーディクスで起きた全ての出来事が“記録魔法”によって保存される場所。中でも“封印記録”と呼ばれるものは、法的に改ざん・削除が禁止されており、閲覧にも高い許可が必要だった。
「……入れるのか? こんなとこ」
「入れるさ。俺が一回、爆破しかけたからな」
「それ犯罪者じゃん!?」
保管局の内部は、まるで古代遺跡のようだった。黒曜石のように黒く光る壁。浮かぶ本棚、宙に回転する魔術式の構図。そして、その中央に鎮座するのは――一羽の“記録鳥”。
全身白金色の羽を持ち、瞳はない。だが、記録された“真実”を読む力を持つと言われる存在だ。
「申請内容を」
声ではなかった。直接脳に響く、“意思の投影”。ユウマは、用意した文書を差し出した。
「被疑者・ミレイア=アルベルティーニの、研究期間中の記録閲覧申請です。……彼女の、“神化呪文式”使用に関わる部分を調べたい」
記録鳥が羽を一振りすると、宙に十数個の“記録結晶”が現れる。その中のひとつ――淡い赤色の光を放つものが彼らの前に降りてきた。
『対象記録:記憶封印指定。閲覧には“被疑者の意志”または“開封許可者の記名印”が必要です』
「封印……されてるのか」
ユウマが眉を寄せる。タカトラはその結晶に一歩近づき、つぶやくように言った。
「“封印された記録”ってのは、何よりの証拠になる。そこに何か“見られたくない真実”があるってことだ」
ユウマは、拳を握りしめた。
「だったら、僕はその封印を――破る」
記録鳥がふたたび羽ばたく。その音は、ひどく冷たく――そして、静かだった。
記録鳥が提示した条件――“被疑者の意志”または“開封許可者の記名印”。それはつまり、姉ミレイア自身が「封印を望んだ」ということに他ならなかった。ユウマは黙り込んだまま、結晶を見つめていた。
「……どうして。なにを……隠したかったんだろう、姉さん」
背後でタカトラが腕を組む。
「本人が封印したってことは、“触れられたくない記憶”があるってことだ。……だが、こいつは弁護に必要な鍵でもある」
「じゃあ……どうやって開く?」
「そのための“証人”を探す。記録は語らねぇが、記憶を持った奴は、まだこの街にいる」
その日の夕暮れ、ユウマとタカトラは《カンタベリー区》に足を運んでいた。ここは学術研究区の外れ。かつてミレイアが研究を行っていた《光律学研究機構》の残骸が残るエリアだ。
崩れかけた石造りの門の前で、ユウマが立ち止まる。
「ここに……姉さんの元同僚がいるかもしれないんだよね」
「“シアン=フォード”。元助手。魔法記録係兼、術式補助担当。……法廷には出てねぇが、こいつはミレイアの実験全行程に同行していた記録がある」
そう、タカトラが言うと、門の奥からかすかに魔素の流れる音がした。やがて姿を現したのは、肩に大きな皮製の巻物を背負った、蒼い髪の青年だった。
「……話は、聞いている。君が、ミレイアの弟……か」
「シアンさん……姉の研究について、聞きたいことがあるんです」
彼は一瞬、苦い表情を浮かべ、視線を逸らす。
「やめておけ。“あれ”に触れた者は、皆、後悔する。……僕だって、記憶を封じようとしたくらいだ」
「でも、知りたいんです。姉が、なぜ“神化呪文式”を使ったのか――その真意を」
シアンはしばらく沈黙し、それから小さく首を振った。
「……分かった。君にだけ、話そう」
研究機構の地下、かつての記録保管室に通されたユウマたち。壁には無数の古魔術文が刻まれており、空気はしっとりと湿っていた。シアンはゆっくりと語り出す。
「ミレイアが扱っていた“神化呪文式”は、もともと人の魂と魔素の関係を解析し、記憶を変換・保存する術だった。だが――」
「ある日、ミレイアは“記憶の空白”に出会った。誰かの、消された記憶を見つけたんだ」
「それって……誰の?」
シアンは口を閉ざしたまま、首を横に振った。
「その記憶は、国家によって封印されていた。あの人は……それを解こうとした。“声なき者”の声を掘り起こそうとしたんだ」
ユウマの脳裏に、法廷でのファラの言葉が蘇る。
――“あなたの姉が、どんな覚悟で禁術を選んだのか”。
「それが、“罪”だというのなら……」
ユウマは拳を握り締めた。
「僕が、証明します。姉は誰も傷つけようとしなかったって。……記憶を、拾い上げようとしていただけだって!」
タカトラが低く頷く。
「そうだ。今度は、俺たちが“声なき記憶”を証明する番だ」
別れ際、シアンは小さな結晶をユウマに差し出した。
「これは、僕が個人的に保存していた“研究前夜”の記録だ。封印対象ではない。……ただし、見るには覚悟がいる」
ユウマは、その結晶をそっと胸ポケットにしまった。たとえそこに、見たくない真実があったとしても。
《レクス・ドーム》の東棟。法務局の地下区画に、正式には存在しない記録室がある。
そこには、“記憶魔術”に関連する全ての裁判記録、禁術による事故・事件の記録、さらには“失われた声”の記録が保管されていた。
正式名称――《音無の書架》。
そして今、その空間に、ユウマとタカトラは足を踏み入れていた。
「こんなとこ、どうやって入ったの?」
ユウマは思わず呟いた。目の前に広がる空間はまるで地下聖堂だった。天井に魔術灯が走り、空中には古文書が浮遊していた。ページがめくられるたびに、小さな囁き声のような音が響く。
「裏口があんだよ。……まあ、昔ここでちょっとだけ“書類の間違い”を手伝ったことがあるんでな」
「つまり犯罪……」
「相棒が細けぇのは知ってる。でもな、ここには“本物の真実”が眠ってる。裁判が拾えなかった声だ」
タカトラが指差したのは、壁際の書架の奥にあった黒い結晶群。それらは“記録抹消対象”と分類され、一般審理には二度と提出されることのないデータだった。その中に――
『記録抹消対象:ミレイア・アルベルティーニ/記憶干渉前事象』
ユウマは息を呑み、手を伸ばす。その瞬間、背後の空間に、微細な魔力の揺らぎが走った。タカトラが即座に反応する。
「来たか」
暗がりの中から、複数の人影が現れる。白装束、顔を覆う面。胸元には円形の印――《聖声教団》の紋章。
「記録は、“声なき者”の領分。異端の子らが触れるべきではない」
ユウマは知らなかった。だが、タカトラは知っていた。この街の“法廷”が、なぜ時に理不尽な沈黙を強いるのか。その裏にある、宗教的な“聖域”の存在を。
「教団の連中か……どうりで、記録が“封印”されたわけだ」
リーダー格の男が進み出る。声は優しげだが、魔力の揺れが周囲を締め付ける。
「声なき者の記憶は、聖域に還るべきです。あなたたちが裁こうとしているものは、裁かれてはならない“真実”なのです」
「それが、姉の意志だったとでも?」
ユウマが問い返すと、男は笑った。
「あなたの姉は、“声なき者”の一部になったのです。記憶の彼方に、自らを消し去ることで――その“重さ”を、背負ったのです」
だが、ユウマは一歩踏み出す。
「だったら、僕が拾う。姉が遺した重さを、無かったことにはさせない!」
その声に、タカトラが笑う。
「そうだ。裁判ってのは、“見たくない真実”と向き合う場でもある」
そして――タカトラが一歩、前に出る。
「記録に触れるなと言うなら、力づくで“通させてもらう”ぜ」
緊張が張り詰めた瞬間、空間の温度が一気に変わった。記録を巡る、“法”と“聖域”の対立。ユウマとタカトラは、いままさにその境界線に立っていた。
「ならば、記録に触れる者には――浄化を」
《聖声教団》のリーダーが指を鳴らすと、白装束の一団が静かに展開し、詠唱を始めた。魔素が空気を震わせ、五重詠唱式《浄魔鎖》がユウマたちの足元に広がる。術式は対象を封じ、記憶ごと“再調律”する魔術。記録を守るために、記憶を壊す。
「くそっ、こいつら本気だ!」
ユウマが後退りする。だが、背後の書架はすでに“魔術封結”で塞がれていた。
「逃げ道ねぇな……」
その隣で、タカトラが腰の刀をゆっくりと抜く。
「だったら――抜くしかねぇだろ」
次の瞬間、空気が裂けた。
タカトラの踏み込みは一瞬だった。抜刀術と魔力を組み合わせた《疾閃・霞裂》――宙に線を引くような斬撃が走り、前方の詠唱陣を切り裂く。
「刀一本で詠唱陣を!? そんな……っ」
リーダーが驚きに満ちた声を上げた瞬間、タカトラが吠えた。
「俺ァ戦国の世を生きた男だ。術式だろうが陣形だろうが、敵を斬る理屈にゃ慣れてんだよ!」
一気に崩れる詠唱陣。その隙を逃さず、ユウマが書架の奥へと駆ける。
「相棒、今だ!」
ユウマの手が、黒い記録結晶に触れた瞬間――
視界が反転した。光が、音が、匂いが、すべて消え――
代わりに現れたのは、記憶の中の姉だった。
静かな部屋。魔導灯の淡い光の下、ミレイアが独り、記録文書を開いていた。その顔は、疲れていた。けれど、確かな意志があった。
「……この術は、“消された声”を呼び戻す術。国家はそれを恐れ、禁じた」
「でも私は、知ってしまった。記録に残らない命が、いくつも消されているってことを」
「声を奪われた人たちの記憶を、私は拾いたい。例え、それが――私自身の存在を消す結果になっても」
ミレイアは、結晶を手に、封印文を刻んだ。
「この記録を閲覧するのは、私の声を必要とした者だけでいい。……ありがとう、ユウマ。私の声を、もう一度、見つけてくれて」
視界が戻る。結晶の魔力が収束し、封印が解かれた。ユウマの手には、姉の“意思”が宿る記録があった。《声なき者》たちの存在。そして、彼らの声を拾おうとした姉の覚悟。全てが、そこにあった。
《聖声教団》は撤退していた。リーダーの男は、何も言わずに背を向け、ただこう呟いた。
「それでも、裁けると思うなら――裁いてみせろ」
タカトラが口を開いた。
「さあ、やるぞユウマ。次は――この記録を、“証拠”に変える番だ」
――審理再開。
中央法廷の天井に浮かぶ魔導灯が、記録の閲覧許可と再審を告げる淡青の光を放った。記録開示を経て、ユウマとタカトラは再びこの場所へ戻ってきた。
だが今回は違った。前回のような見習いの仮託弁護ではない。正式に法廷が“再審”として受理した、実質的な第2戦目――
そして、裁かれるのは“姉ミレイアの行為”ではなく、“その意志”だった。
「弁護側、記録提出を許可されました。新証拠――《封印記憶・α73》、姉・ミレイア=アルベルティーニによる術式使用前の記録です」
ユウマの手にある記録結晶が、空中に浮かぶ。光が膨らみ、法廷空間に“姉の記憶”が映し出された。
「この記録は、彼女自身によって封印されたものであり、内容は国家記録として扱われていません。ですが、ここには“目的”が明確に示されています」
画面には、静かに術式を設計する姉の姿――
そして語られる、声なき者の記憶、抹消された過去、禁じられた真実。
検察席では、ファラ=ヴァインがその映像を食い入るように見つめていた。
「……彼女は、危険な術を使うことで“救われなかった人間の声”を聞こうとした」
ファラの声には、かすかな動揺があった。裁判官・レフ=カーメンが低く言う。
「弁護側、術の違法性は明白である。問題は“それを以てしてもなお、許容される理由”の存否だ。……それを、どう証明する?」
ユウマは深呼吸した。震える指先を、タカトラが一瞬だけ軽く叩く。
「いいか、ユウマ。論理で負けそうになったら、相手の“正義”を逆手に取れ。奴らが守っているのは“理想”だ。お前は、“人間”を守れ」
「……分かった」
ユウマは前へ一歩踏み出した。
「ミレイア・アルベルティーニは、国家が“不要”と判断し、記録から抹消した記憶に手を伸ばしました。それは、法律上は禁忌でも、倫理上は――“誰かの代弁”でした」
法廷が静まる。ユウマの声が続く。
「この術が危険だとされる理由は、“記憶”が人を狂わせる可能性があるからです。でも……それを恐れて、記録を封じることが“正しさ”なんでしょうか?」
ファラが口を開く。
「ならば問う。記録の中には、被告自身の言葉で“自らを消す”覚悟が語られていた。それをもって、彼女の行為を“是”とするのか?」
ユウマは答えた。
「違います。彼女は“自分を消す”ために術を使ったんじゃない。誰かの“声”を残すために、自分を犠牲にしようとした。……それを“罪”と切り捨てるなら、この法廷こそが“声なき者”を再び殺す場になる」
沈黙が走る。レフの仮面がわずかに動いた。
ユウマの言葉が裁判空間に響いたあと、場には誰一人として息を呑む音すらない、深い静寂が降りていた。魔導灯の光がわずかに瞬き、天井の記録魔術式がそのまま“記録中”を示していた。
そして、ゆっくりと立ち上がったのは、検察官・ファラ=ヴァインだった。
「……弁護側の主張には、一理あります。ですが、法は“感情”や“意志”の価値を量るために存在するものではありません。法とは、“例外を認めぬ平等”を示す秤です」
ユウマは静かに、だが鋭く返した。
「ならば、“声を奪われた者”には、その秤すら届かないまま見捨てられるということですか?」
ファラは、微かに目を伏せた。
「……私には、それを否定する権限はありません」
その一言に、ユウマの胸がざらりと波打った。
(この人も……きっと、誰かの“声”を、救えなかったことがあるんだ)
「……だったら、今、救わせてください。姉は、自分を犠牲にしてでも“声を拾った”。……僕は、拾ってくれたその“声”を、法廷に届けたいんです!」
裁判官・レフ=カーメンが、初めて明確な“間”を取った。空間に魔術式の光が集まり、法文と裁量指針の詠唱が始まる。
「記録、確認。証拠、評価中」
「弁護人による主張:目的の公益性および結果的影響、限定的。意図の清明性を優先判断」
「裁判所、最終判断に入る」
魔導灯が色を変え、全体が蒼から深金色へと変化した。
最終判決の時。
タカトラがぽつりと呟いた。
「さて……俺の読みが当たってればいいが」
レフ=カーメンが、静かに宣告する。
「判決を述べる。被告・ミレイア=アルベルティーニの罪状について――」
「国家反逆罪、棄却」
「禁術使用罪、条件付きで免責。記録の公益性、動機の正当性を一部認定」
空間が一瞬、重力を失ったかのようだった。ユウマは目を見開き、息を呑んだ。
(……助かった……!)
レフの言葉は続く。
「被告はその記憶操作により、自身の存在を消失させる意思を示した。これを“記憶抹消による自律刑”とみなし、以後の監察対象から除外する」
「以上をもって、判決とする」
法廷の魔術灯が一斉に消え、閉廷が告げられた。
廊下に出てから、ユウマはしばらく言葉が出なかった。その隣で、タカトラは手をポケットに突っ込みながら軽く言う。
「勝ったな、相棒」
「……ありがとう、タカトラ。……本当に、ありがとう」
「礼はあとでいい。今は、姉ちゃんのところへ行ってやれ」
ミレイアは、中央療養所の記憶安定室で眠っていた。完全に記憶を失ったわけではない。けれど、彼女はもう“かつてのミレイア”ではなくなっていた。それでも、ユウマは手を握った。
「……姉さん。僕は、君の“声”を、ちゃんと拾ったよ」
その声は静かに、眠る彼女の胸に響いたようだった。
夜。魔術都市ユーディクスの外れ、《獣ヶ原》と呼ばれる禁足地の一角。そこに、ひとつの祠があった。ただの石の祠だ。だが、それは明らかにこの世界の建築様式とは違っていた。
苔むし、ひび割れ、風雨に晒されながらも、祠の屋根には微かに“家紋”が残っている。丸に五つ星――藤堂家の紋。そして、その前に一人、座している男がいた。
「……懐かしい匂いだ」
風に揺れる銀髪。手入れの行き届いた刀。その男――タカトラは、火の灯らぬ祠に向かって静かに語りかけていた。
「俺ァなァ、あん時、死んだと思ってたよ。大坂の陣、燃える本陣の中で……目ぇ覚ましたら、このザマよ」
目の前の石に、手を置く。
「召喚術だとよ。“戦の魂”が欲しいんだと。はっ、笑わせる」
「“戦”なんざ、望んでやるもんじゃねぇ。勝てば功、負けりゃ死。それでも踏み込まにゃならねぇのが武士ってもんだ」
遠くで、獣の咆哮が聞こえた。夜の森がざわつく。それでもタカトラは動かない。
「……この世界じゃ、俺はもう“人”じゃねぇ。“登録抹消者”――法にすら載らねぇ、ただの幽霊だ」
「でもな、それでも見ちまったんだ。声もねぇのに叫ぶ目を。届かねぇのに伸びる手を。……だからよ」
「この手がまだ斬れるなら、斬るぜ。声を塞ぐもんを」
静かに立ち上がり、刀を抜いた。刃には、僅かに魔素が宿っている。だがそれ以上に、彼の動きに宿る“理”こそが、この世界でもっとも異質だった。
「ユウマはまだ子どもだ。だが、あいつは“真っすぐ声を拾う目”をしてる。だから俺は、あいつの背に立つ」
風が吹いた。その刹那、背後の木々に一陣の気配。白装束――《聖声教団》。
「やっぱ来たか。あの記録は、よほど都合が悪かったらしいな」
教団の術士が静かに前に出た。
「タカトラ。あなたの干渉は、秩序に反します。あなたはこの世界に存在してはならぬ者。……これ以上の関与は、消去対象となります」
「消される? 上等だ」
タカトラの目が光った。刀が、光を弾く。
「何度死んだって構わねぇよ。俺が守るのは、ただひとつ――“今、ここにある声”だ」
刃閃く音が、夜を裂いた。
タカトラという存在は、異物だ。だが、異物だからこそ、正しさに逆らえる。それが、“異世界に現れた元・戦国武将”の覚悟だった。
──中央大審院。かつてないほどの群衆が法廷を取り囲んでいた。
魔導庁が招集した“緊急特別審理”。裁かれるのは“記録操作および教団と司法機構の癒着”に関する、重大な内部告発。その証人席に――15歳の少年、ユウマ=アルベルティーニが立っていた。その背後には、登録抹消者であるタカトラが、静かに立っていた。
そして、その対面には――国家司法庁最高検察官と、《聖声教団》代表代理が並んでいた。かつての“姉の裁判”とは、すべてが違う。これは、“この国の声の正体”を問う裁判だった。
「弁護側、告発証拠として、《封印記録α73》のほか、被告・ミレイアの記憶操作前記録、および教団関係者による証言を提出します!」
ユウマの声は、以前よりも太く、よく響いた。法廷の記録魔術陣がそれに呼応し、封印解除済みの記録を空中に再現する。記憶の中で、抹消された者たちの“声”が流れる。
そして――その“声”を封じた命令書の発行者が、《聖声教団》と国家司法庁の一部役人であることが、記録で証明される。
「これは……!」
傍聴席にざわめきが走る。それでも、検察官は落ち着いていた。
「それが事実であっても、法がそう定めたのであれば、正当性は保証されるはずです。……例外は存在しない、それが法です」
ユウマが一歩、前に出た。
「その“例外”のなさが、命を消してきたんです!」
「僕たちは、間違えないために法を使ってるんじゃない。正しく在るために、法を選ぶべきなんだ!」
ファラ=ヴァインが席から立ち上がる。
「……彼の言葉に、私は異議を唱えない」
その一言で、空気が変わった。
「かつて私も、“声なき者”を拾おうとして、拾えなかった。今度は、拾う番です。彼らの声を、法廷に残しましょう」
裁判官が立ち上がり、宣言する。
「告発を受理。記録は、法として記載される。司法機構の再整備を行い、“記憶”の適正扱いに関する新法を制定する」
「そして、弁護人ユウマ・アルベルティーニに“記録裁定官”としての臨時資格を付与。彼の証言は、“声なき者”の代弁として正式採録される」
法廷の光が落ちる。ユウマはタカトラのほうを振り返った。
「……終わった、よね?」
「いや、始まったんだよ。今度は“声が届く世界”の始まりだ」
「タカトラ……?」
「戦は終わってねぇ。だが、お前なら、どこにでも届かせられるさ。その声を」
ユウマは、小さく笑って頷いた。
「……ありがとう、相棒」
タカトラは、背を向けて歩き出す。銀の刀を背に、静かにこの世界の裏側へと戻っていく。その背に、ユウマが叫ぶ。
「またどこかで! きっと!」
「……ああ。声があれば、また会える」
こうして、異世界の法廷に、ひとつの“声”が刻まれた。
声なき者たちの声を聞いた少年と、戦の世から来た武士。
この記録は、誰にも消せない。そして今も、新たな記録が刻まれ続けている。
■作者コメント
この物語は、“正義”が誰のものであるかを問う裁判劇であり、同時に“声を持たない人間”たちの記憶を拾い上げる物語です。記録や法は、冷たいものではなく、本来は人のためにあるべきもの。少年と武将という異色のコンビを通して、その信念を描きました。ぜひ、あなたの“声”もこの物語に刻んでください。