薄氷②
翌朝、いつも通りの時間に目が覚めた。仕方なく身支度をして、食事をしながら、先輩や同期達から話を聴く。
あのあと、王は、王議を召集し、アグネスとの結婚を承認するよう、六貴族の当主達に迫ったという。
当然、同意できるはずもなく、会議は荒れに荒れた。ただ、その隙に、アグネスを隠せたようで、匿った先は秘されて誰も知らないという。
そして、警護の当番は、今のところ変更はないとのことだった。
それならば、昼食を摂ったあとに午睡して、遅番の備えをしなければならない。全く気が進まなかったが、務めなのだから、仕方ない。
自室に戻っても、何をする気力も起きず、茫洋と寝台で暇を潰していると、扉を叩く音がした。机に向かっていた同期が答えて、名が告げられる。
静かな声音。微睡みが一気に覚めて、起き上がる。
同期が引き開けて、その秀麗な姿を見た途端、激しい苛立ちが、全身を突き上げた。飛びかかって殴り倒し、そのまま馬乗りになる。胸倉を掴んで、絶叫する。
「どうしていなかったんだッ! 傍にいるって、言ったくせに!」
ただ、何も言わずに見つめる、明るい緑の瞳。唸りながら、その感情のわからない目を睨む。淡々とした声が、説明する。
「……ご当主様の元に、参じていた」
視界が、滲んでいく。
誰かからの知らせを聞いて、王宮にいたのだ。そして、非番を返上して、向かった先。自分が一人で泣いている中、総帥の側にいたのだ。
「……ずっと――」
秀麗な顔に、ぱたぱたと雫が落ちる。手が戦慄いて止まらない。
「ずっと、兄上だと思ってたのに……!」
瞬間、明るい緑の瞳が、強烈な光を灯す。心の砕けた色。目尻から一粒、涙がこぼれ落ちる。
息を呑む。後ろに引かれて、急速に顔が遠のく。耳元で、同期の声が響く。
「ブラッツさん、行ってください! 早くっ!」
しかし、茫然と動かない。羽交い締めにされた肩を引き抜こうと、もがく。
思いきり力を入れたあと、瞬時に緩めて隙をつく。するりと外れて、再び躍りかかった瞬間、首にきつい衝撃が来て、意識が途切れた。
白い壁を、ただ見つめる。
目の端で、厠を知らせる小さな鐘のついた細い紐が、時折、隙間風に揺れている。
部屋には、暖炉もなく、暖房筒も引いていなかった。しんしんと冷えた空気が、頬を刺す。
人が二人、やっと寝転がれるだけの狭い空間。椅子の背もたれから回された革帯で、腹を拘束されたまま、ひたすら時を過ごした。
ブラッツを殴打し、負傷させたとして、三日間の懲罰室への入室が言い渡された。最初は腹が立ったが、何もせず壁を見つめる日が続くと、次第に自分の愚かさが、胸に迫ってきた。
あの日、ブラッツは非番だったのだ。
そもそも傍にいるわけがなく、有事の際は、従家当主として総帥を支えなければならない。きっと、朝に訪ねてきたのも、時間をなんとか捻出したにちがいなかった。
確かに、傍にいてほしかった。それでも、あんなことを言うべきではなかったのだ。
心の砕けた、秀麗な面立ち。深く酷く傷つけた。
ぽろぽろと、涙が伝い落ちる。こんな形で、互いの心を知るなんて。
懲罰は、今日が最終日だ。会いたいと願いながら、謝って済むことではないと、苦しく思う。この先の進路をどうしたらいいのか、もう、わからなかった。
背後から差し込む光が傾いて、壁が暗がりに沈む。洟が口を汚すのもかまわずに、ただただ涙した。
決して健全とはいえない環境で過ごしたせいか、風邪をひいて、高熱を出した。
医務院に入り、次兄の施療を受ける日々。白銀に輝く景色をぼんやりと眺めていると、これまでのことが、曖昧に溶けていく。きっと、悪い夢を見たのだとさえ、思った。
しかし、二週間が経って、職務に戻ると、過酷な現実が待っていた。先輩騎士から状況を聞いた時、戻ってこないかと言った、父の言葉が、頭にちらついた。
それでも、騎士服を着て佩剣すれば、ここが自分の居場所なのだと、深く沁みた。
腰に下がった剣の重み。同期とともに鍛練に励み、学び、笑い、時に泣き、成長してきた日々。
この剣は、自分と仲間のためにある。たとえ叙任しても、それだけは忘れないでいようと、固く決意した。
終礼で、隊議の共有を聴きながら、ブラッツの秀麗な顔を見つめる。
疲れて、やつれた面立ち。無理もない。王は、アグネスをどこに隠したと激昂し、政務もままならないという。そんな中、近衛騎士として警護に当たり、従家当主として、総帥の補佐官を務めるのだ。
休みもろくに取れず、常に前線に立ち続ける。むしろ、自分がいなくて、よかったのかもしれないと思った。
解散の声とともに、先輩や同期、後輩達が散開していく。
いつも一緒に帰る同期に、先に行くよう告げて、皆を見送るブラッツに声をかけた。
秀麗な顔が応えて尋ねる。
「もう、体調は大丈夫かい?」
優しい微笑。拍子抜けして、言葉が澱む。
「……え、ああ……うん……」
謝らなければと思っていたのに、滑り出た言葉は、全く違うものだった。
「その――誕生日おめでとう」
ありがとう、と微笑む顔に、もどかしさが募る。どうして素直になれないのか、自分でもわからなかった。
伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が出ない。戸惑っていると、柔和な声が告げた。
「ご当主様のご用があるから。また明日」
返事する間もなく、踵を返した後ろ姿。喉が詰まって、滲んでいく。
明緑の瞳が、一切笑っていなかった。表情も声も優しいのに、目だけが。あの、いとおしむ心からの笑顔は、もう見られないのだと悟る。
こぼれそうになる涙を拭う。泣く資格などない。
何度も飲み込みながら、とぼとぼと騎士舎へと帰った。
同期が寝台から下りて、外に出る音を聞く。
用足しか、一人耽るのか――最後に、自らに触れて快楽を覚えたのは、いつだったかと、ぼんやり思う。
あの日以来、欲は一滴も湧かなくなった。
それでも、身体は機能しているようで、寝ている間に無意識に出してしまってからは、定期的に厠に出かけるようにした。
ただ吐き出すだけの行為。何の感慨もない時間に、虚しさが降り積もった。
それでも、朝のひんやりした感触と後始末のわびしさを――同期が夜勤でなく、隣で寝ている場合を思えば、まだましだと思えた。
冬季用の厚い布団の中に潜ったまま、寝返りを打つ。最近、全く身体を動かしていないから、体力があり余って、寝つけなかった。
せっかく職務に戻れたのに、結局、また懲罰を受けて、謹慎の身だ。
ようやく来週、復帰できる。あまりにも長く、職務から離れすぎていたせいか、妙に高揚していた。
先月末、激昂した王に、据え置き型の灯火台で殴打され、昏睡状態だった宰相が還った。
身の危険を感じた当主達は、とうとう、王とアグネスの結婚を承認した。そして、宰相の屋敷に隠していたところを、王殿に移した。王は、政務を放り出して、居室に通いつめ、時を問わずに辱しめた。
状況は共有されて、覚悟していたが、実際に側仕えの警護に就くと、その生々しさが心を抉った。
挨拶の口づけを交わす二人。怯え震える、アグネスの姿。
寝室の扉の向こうで、何が為されているのか理解できるだけに、想定を超える苦しさに苛まれた。そして、今あの時のように泣き叫んでいるのでは、と思った途端、箍が弾けた。
声を上げて崩れ落ち、次の瞬間、身体が浮いた。景色が目まぐるしく変わり、腰に強い衝撃が来て、頬に乾いた痛みが走った。
茫然と見上げると、先輩騎士が、静かに言った。真新しいマントの裏地の赤が、目に刺さる。
――あんな状況に居合わせたお前に、こんなことは言いたくない。けどな、職務は職務だ。陛下の御身を守れるだけの力がない奴は、足手まといだ。今すぐ帰れ。
悔しくて、情けなくて、思わず反論しようとする。しかし、その哀しみに満ちた目に、涙が溢れた。
どうしようもなく泣きじゃくっていると、肩に手が置かれた。優しい低い声が告げる。
――お前には、帰る家がある。心を壊してまで、いる必要はないんだ。来期の叙任まで、まだ間がある。よく考えてみろ。
はい、となんとか返事をして、手を借りつつ立ち上がる。それから、指示に従って、騎士舎へと帰ったのだった。
結局、職務放棄ということで、懲罰対象となった。一ヵ月の謹慎と、半年分の報酬受領権の剥奪。
王の側仕えの警護という、最も重要で栄誉ある務めを放り出したのだ。当然の処断だった。
こんな短期間に、二回も懲罰を受けたのだから、補佐官持ちの厚遇も失くなると思ったが、特にそれに関しては、何も沙汰はなかった。
それどころか、毎日ブラッツが訪れ、様子を見に来た。騎士として読むべき本や講義の課題から、他愛のない家族の日常まで、ひとしきり会話をして、帰っていった。
そのしなやかな背中を見送る度に、何かの意図を感じずにはいられなかった。ただ、わずかな隔たりがありつつも、優しく微笑む顔と声に接していたくて、尋ねはしなかった。
息が苦しくなって、布団から顔を出す。
いつの間にか戻っていたらしく、同期と目が合った。小さな手燭に浮かぶ、気まずそうな顔。苦い声が呟く。
「……起きてたのかよ」
「眠れなくて……」
そんな表情をしなければ、用足しだと解釈したのにと、ぼんやり思う。プロピエタス家らしい几帳面な面立ちが、さらに険しくなる。
「いいよな。君は部屋でずっと、ごろごろしてるんだから」
否定しようがなかった。
職務に鍛練、講義と忙しく過ごす同期からすれば、完全に怠けているようにしか見えない。申し訳なくて、情けなくて、目を合わせられず呟く。
「……ごめん……」
途端、苦るように、顔がしかめられる。背を向けて、固い声が返ってくる。
「……それ言うの、ブラッツさんにだろ」
「ごめん……」
こと、と棚に手燭が置かれる。つまみが絞られて、緩やかに灯火が落ちていく。
布団に潜り込む背中。夜に沈んだ中で、苛立った溜め息が響く。そして、もどかしそうに軽く呻いたあと、
「……おやすみ」
と、慮った声音で告げた。
言い過ぎた、という同期なりの表意。受け入れる心で、そっと挨拶を返して、瞼を閉じる。
静かな寝息を聞いているうちに、緩やかに、意識が落ちていった。
春になって期が変わり、ようやく日常が戻ってきた頃。
うずうずしながら、同期の騎戦盤を眺める。観戦する方は、口出ししてはいけない。それでも、悪手ばかり見ていると、下手くそかと、突っ込みたくなる。
もう次の一手で、白の駒が負けるだろう。これまた程度の低い相手方が気づけば、の話だが。
ふと、黒の駒の同期が、こちらを向く。目に浮かぶ、にやりとした笑い。
あまりにも凝視していたせいで、わかってしまったらしい。まあ、指図したわけではないからいいか、と、こっそり目顔で頷く。
そうして、黒い駒が、将の目前まで動き、
「あ、嘘だろ⁉ 負けたーっ!」
と、白の駒の同期が、頭を抱えて声を上げた。あれで、勝てると思っていた方がすごい。
感想戦は、観客が参加してもいいので、忌憚なく思いの丈を吐き出す。すると、感心しながらも、黒と白の双方に呆れられた。
「……お前さ、できるのはわかるし、俺は勉強になるから、有難いけど……今は、気をつけた方がいいよ」
そして、懲罰受けたくせにって、思ってる奴もいるからさ、と小声で付け加える。
うっすらと感じる視線。さっきから、とうに気づいていた。
引き続き補佐官持ちなのは、おそらく総帥の意思で、同じ場に居合わせた者としての配慮なのかもしれないのだ。それだけ評価してもらえているという証なのだし、罰は受け終わったのだから、憚ることなど何もない。
とはいえ、禍根を生むのは本意ではないので、素直に受け取る。
「そうだな、ごめん。ありがとう」
同期の顔が、ほっとしたように綻ぶ。心からの表情。
こういう時こそ、真実の仲間が見えるのだと、冷たく思う。
感想戦を終えて、次の試合を誰がやるか話していると、駆けてくる足音が聞こえた。弾んだ声が宣言する。
「先輩から、お下がりが来たぞー!」
一気に、広間がどよめく。
皆、円卓に集まりつつ、封筒を持ってやってきた同期に、隙間を空ける。
自室に戻ろうかと、ためらっているうちに、もはやそんな雰囲気ではなくなっていた。仕方なく促されるままに、同期達の間に座る。
「おい、早く見せろよ!」
「まあまあ、そう焦るなって」
大きな封筒から引き出された図画。誰かが、訝しんだ声を上げる。
「……なんか、君のもらってくるやつ、後ろからが多くない?」
「好きなんだろ……たぶん」
苦笑する声。行為は、対面が推奨されている。渡される方は、誰なのか知っているから、性癖を肯定するわけにはいかない。
それでも、同じ体勢は飽きるもので、男本位で動ける背面は、それなりに支持を集めていた。
他の誰かが、自慢げに言う。
「僕さ、この前、〈奥方〉の腰も前後させながら、やってみたんだよ。そうしたら、ひんひん善がって、何度も達してさあ――あれは、本当に良かったね」
「それ、いいな。思いきり締まるんだろ。俺も、今度やってみよう」
図画を題材に、口々に〈奥方〉にしてみたことを話す少年達。異様な熱気が、あたりを覆う。
ざわざわと、腰がさざめく。今までしてきた行為の数々が、頭に過る。
そして、あの日の、悲痛な絶叫が、こだました。
瞬間、くっきりと悟る。
(俺は……同じだ……)
確かに〈奥方〉は、嬌声を上げて、悦んでいた。
しかし、本当は、悲鳴だったのではないか。望んで娼婦となったわけではないのに、本当に善がっていたのか。
(……俺は……強いて、犯してきた……)
視界が滲む。
今感じている高揚は、汚い欲だった。この股間についているものは、相手を内側から破壊する凶器だった。
そっと、輪から外れる。
灯りが点々と揺れる、長い廊下を歩く。後ろには、気配がひとつ。
振り返ると、同室の同期だった。プロピタエス家らしい生真面目な面立ち。隣に並んで、ついてくる。尖った声が告げた。
「……君が寝静まるまで、厠に行けないだろ。だから、見届けてやる」
口を引き結んだ横顔。苛立つような表情に、同期の本心を知る。ぽろぽろと、涙が溢れた。
「どうせなら、泣き疲れて寝るまで、泣けばいいよ。――明日は、休日なんだし」
頷いて、しゃくり上げる。背中に手が当てられて、さすられる。たまらず喘いで叫ぶ。
「……っ男になんか、生まれなければよかった!」
「それなら、全部放り出しなよ」
柔らかく撫でる手。それでも、口調はきつく固かった。
「君の気持ちがわかるだなんて、軽々しいことは言わない。でも、ここに残るって選んだのは――ヘンリクス、君だろ。その理由を、もう一回考えてみなよ」
明緑の瞳が、心に浮かぶ。優しく微笑む声。よく晴れた夏の日差しのような匂い。
もうきっと、抱き締めてくれることはない。もう二度と、心からの笑顔を見ることはない。それでも。
「……ブラッツと、一緒にいたいっ……!」
几帳面な顔が、ふと綻ぶ。柔らかく笑む声が、鼓膜を撫でる。
「それなら――頑張らないと、だね」
何度も頷いて、しゃくり上げる。
丁寧に背中をさする手を受けながら、進むべき道が、光となって、伸びていくのを感じた。




