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暁の月【長編・完結】  作者: 清水 朝基
番外編~藍の刹那
63/69

真夜の鏡

「おい、フェリックス! おまえ、ちいせえなあ!」

 男達のざわめきが、高い天井に反響する大浴場。洗い場で隣に座ったウィンケンスが、素っ頓狂な声を上げる。

 悪い奴ではないが、困ったことに、時々度が過ぎる。むっとしながらも、頭から湯を被って、平静を保つ。

「騎士見習いの時、さんざん剣を折ってたくせに。そこにぶら下がってるのも、どうせすぐ折れる代物だろ」

「は? 剣といっしょにするとか、ばっかじゃねえの! これだから、剣術しか能のないやつは――」

 こーんと、木製の手桶と骨の当たる、軽やかな音が響く。

 額を押さえて呻く声。我慢の限界だった。

 主家直系の嫡子は、誰よりも秀でていなければならない。どれほどの思いで努力し、鍛練してきたか――それでも、親友にはまだ勝てないのだ。

 伯父の、冷たく見下ろす群青の眼。こんな傍系で末子の、のほほんと生きている奴に、何がわかる。

「日々鍛練に励み、剣術をもってみんなを守るのが、フォルティス家の務めだ! 務めもろくに果たせないやつに、どうこう言われる筋合いはないッ!」

「なんだと――ちいせえくせに! そんなじゃ、どうせ役に立たねえだろ!」

 かっと、頭に血が上る。

 石鹸をひっ掴み、猛烈に泡立てる。そして、思いきりしごいた。

 血流が急激に集まり、硬く屹立していく。ほぼ最大までいったところで、勢いよく立ち上がって、ふんぞり返る。唖然とした顔に、誇らしい気持ちになる。

「だれが小さいって?」

 今まで比べたことはないが、おそらく大きい方だという自信はあった。

 予想は当たっていたらしい。青ざめて、口をぱくぱくさせた顔。そして、次には、みるみる赤く染まっていく。声変わり途中の、不安定な調子が響く。

「そ、そんなのずるいぞ! 勃たせたら、だれだって、大きくなるに決まってるだろ!」

「実際使う時は、この状態だろ。それともなんだよ。まさかおまえは、代わり映えしない――なんてことないよな?」

 勝った、と思った。腹に力を入れたり抜いたりして、目の前で、上下に振り回してやる。

 悔しそうに歯噛みする顔。剣術でも、男の大きさでも、負けたのだ。完敗といっても過言ではない。

「おれだってなあっ――」

 怒りに燃える、濃青の瞳。がっと石鹸を握り、立ち上がる。そして、

「お前らあッ! 静かに入れ――ッ!」

 轟く怒号が反響する。びくり、と居合わせた同期達が、一斉に跳ねる。

 隊長の声。まずいことになった。急速に血の気が引いていく。怯えながら立ち尽くしていると、エウゲニウスがやってきた。

「全くぎゃあぎゃあと。一体、何やってるんだ?」

 呆れた表情。どうやら、様子を見てこいと、言われたらしい。

 ふと気づいて、注がれる視線。怪訝に眉根を寄せた面立ち。いささか不快が混じる色に、慌てて弁解する。

「あ、あのっ……! こいつが小さいって、ばかにするからっ!」

「おまえだって、すぐ折れるって言ったじゃねえか!」

 再度、頭が沸騰し出す。言い返そうと、息を吸い込んだその時、肩に手が置かれた。

 心底呆れた、長い溜め息が落ちる。

「――ああ、わかった、わかった。未使用同士で競っても、しょうがないだろ。そのへんにしとけ」

 同時に見上げて、あんぐりとする。そして、顔から火が噴いた。

 恥ずかしいやら、情けないやらで、一言も出ない。見つめる深い青色の瞳が、少し和らぐ。

「フェリックス。お前は総帥の嫡子なんだから、最上級の〈奥方〉がもらえるんだぞ。大きさくらい、譲ってやれ」

「……はい、すみません……」

 しょげて謝る。くだらないことをしたと、後悔が胸に渦巻く。頷いて、エウゲニウスの顔が、ウィンケンスの方に向く。

「お前もな、ひがむくらいなら鍛練しろ。才能は磨かねば、ただの石屑だと、父上に散々言われたろ」

「はい、ごめんなさい……兄上……」

 ぽんぽんと、肩を軽く叩かれる。

 立ち去る広い背中に、姿勢を正し、並んで頭を下げた。


 札の山から一枚引く。描かれた絵柄に緩みそうになる顔を、ぐっと引き締める。

 あと少しで勝てる――そう心の内で、にやりとした時、対面に座る親友の顔が逸れる。

 視線の先には置き時計。もう遊び始めてから、だいぶ時間が経っていた。

「今日、遅番じゃなかったっけ?」

 問うように、小首を傾げて見つめる、新緑の瞳。手札を見返して唸る。

「そうだけど、あと少しだけ……」

「だめだよ。お風呂まだなんだし――」

 言い差して、はたと止まる。愛らしい顔が、みるみる朱に染まっていく。不思議に思って見つめていると、小さな声が落ちる。

「……その、この前は……すごかったなって……」

 いつの話かわからなくて、目顔で促す。すると、さらに赤くなって、けんかしてた時だよ、と囁き声がこぼれた。

 思い出して、少し顔が熱くなる。本当に、馬鹿なことをした。

「……いたんだ」

「湯浴室にいて……きみの声がしたから。そしたら、その……きみが……」

 耳まで真っ赤に染まった顔。妙なところを見られたと落ち込む。どうして、あんなくだらない売り言葉を買ってしまったのだろう。

「――えっと、ちょっと外出てくるっ……!」

 と、エルドウィンが、急に立ち上がった。あっと思う間もなく扉が閉まり、駆け去る音が遠ざかる。

 突然のことに唖然としながらも、気を取り直して、親友の置いていった手札をめくる。

 自分より強い絵柄。がくりと、さらに落ち込んだ。


 その日を境に、親友の視線に、今までになかった色が混ざるようになった。特に、一緒に風呂に入った時は、より顕著だった。

 ちらちらと、密かに注がれる先。言いようのない不安に、何度も問おうとしたが、答えを聞いてしまったら、大切な何かが壊れてしまいそうで、そのままにした。

 日々降り積もっていく違和感。その正体に気づいたのは、些細な出来事だった。

 晩冬の夜、共用の広間で、同期達と談笑していると、駆けてくる足音がした。高らかに宣言する声が響く。

「先輩から、新作が下りてきたぞー!」

 手には、男女の情交の描かれた図画。その場にいた一同が、どよめく。

 図画はかなり高価だから、従騎士になって、ようやく三年経とうという給金では、とても買えない。先輩達からもらったものを、仲間と共有して、ひたすら観たおす。もうそろそろ飽きてきていたから、ちょうどよい頃合いだった。

 低い円卓に図画が置かれ、車座になって眺める。

 今回は、なかなか刺激的で、良い代物だった。女の胸が豊かに強調され、結合部がしっかりと描かれている。

 こんなそそるものをくれるなんて、最高の先輩だと思う。詮索しないのが暗黙の了解だから、尋ねはしないが、なんとなく見当をつけた顔を思い浮かべて、感謝する。

「早く、マニュルムに行きてえなあ――」

 誰かの呟きに、一斉に頷く。

 あと半月もすれば、期が変わる。そうすれば、早春生まれから順に十五歳になり、〈仮初めの奥方〉をもらうのだ。

 相手のいる行為は、どれほどのものなのか――想像するだけでも、背筋がぞくぞくする。

「おまえは来月だろ。いいなあ、春生まれは」

 別の同期が、隣を向いて言う。

 にやにやと、頬を緩ませて頷く、一番乗りの同期。一斉に集まる、羨望と欲情の眼差し。その昂った色に、はっとする。

 ――親友が、自分のそれを見る時と、同じ色。

「フェリックス、大丈夫か? 顔、青いぞ?」

 怪訝そうに見る、同期の濃緑の瞳。何でもないと曖昧に笑って、立ち上がる。

「そろそろ寝る準備しなきゃ。明日、ブラッツに剣の稽古をつけてもらうんだ」

 口々に、おやすみやら、頑張れやらと、言葉が投げられる。挨拶を返して、部屋の立ち並ぶ廊下へと向かった。

(そんなこと、あり得ない……エルドが……そんな……)

 頭の中で、耳鳴りが、うるさく響く。視界が明滅する。

 まとわりつく思考を振りきるように、早足で、長い廊下を歩いた。


 一度気づいてしまえば、あとはもう確認の作業だった。

 何度否定しても、大浴場で先輩達の身体を見る目が、自分と同じように、憧れではないと、自分の身体を見た時に、さらに強まるのだと、悲しい認識が積もっていった。

 正直、気色悪かった。男が男に興を覚えるなんて、あり得ないことだ。しかもそれが、自分に向いているなんて。

 札遊びをしたあの昼下がり、突然出ていったのは、昂ったからではないか――もしかして、一人耽ったのではないか。不快で嫌な予想に、吐き気がした。

 幼い頃から、あんなにも抱き合ったり、寄り添ったりしてきたのに、肩が少しでも触れただけで、すぐに距離を取るようになった。

「……僕……何か、気に障るようなことしたかな……?」

 二ヵ月ほど経ったある日、そっと尋ねられた。

 遠慮がちに見上げる、新緑の瞳。他意のない、純粋な色。責められているようで苛立つ。

 気色悪い視線で見てくるのは、エルドウィンの方なのに。しかし、それを口にする気にはなれなかった。

「別に。もう十五歳になるのに、おかしいだろ。……家族じゃ、ないんだし」

 息を詰める声。目を瞪り、瞳孔が急激に狭まる。白く青ざめる、秀麗な顔。新緑の瞳から、色が失せていく。

 心に、激しい痛みが突き刺さる。視界が、涙で滲んだ。

「……違うんだ、エルド――ごめん……俺っ……」

 腕を伸ばして、抱き寄せる。

 幼い頃から親しんだ、日溜まりのような朗らかな匂い。かけがえのない思いが、沸々と湧いていく。

「ごめん、うそだ……俺、お前のこと大好きだよ。大切な親友だ。――ごめん、本当にごめん……っ」

 背中に腕が回される感触。柔らかで、優しい体温。

 穏やかな安心感が、心を満たす。本当は寂しかったのだと、痛く切なく迫ってくる。

「……僕も――」

 一瞬、躊躇うかのような間。そして、いつもの優しい調子の、よく知った声が告げる。

「大好きだよ。大切な親友だから……」

 ――ごめんね。

 耳元で聞こえた、微かな言葉。たまらず、首を強く振って、腕に力をこめる。

 一番苦しんでいるのは、エルドウィンなのだ。誰にも言えない秘密。そして、もし知られれば、エクエス家の名は失墜する。直系の嫡子が男を好むなど、決してあってはならないことだ。

 何より、ブラッツが、どれほど傷つくか。

 大好きな父親を、真昼の業火に突き落とすような原因が、自らの心の内にあるなんて。その痛みを思うと、たまらなかった。

(俺は、なんて馬鹿だったんだろう……)

 慣れ親しんだ体温と匂いを感じながら、もう二度と、離れるようなことはしないと、心に誓った。


 それから、自分にできることはないかと、必死に考えた。

 しかし、そもそも女との行為すら、どうするかよくわからないのだ。最終的に行き着くところは図画で見ているが、先輩達から漏れ聞こえてくる話では、男と違って、女は準備をしないと、交われる状態にはならないらしい。

 〈仮初めの奥方〉をもらうまでは、具体的な話は尋ねたところで、はぐらかされるから、知りようもなかった。

 それが、男同士となると、もはや未開の領域だ。誰かに問うわけにもいかない。

 折々に頭を悩ませて、一ヵ月ほど経った頃、あることが閃いた。

 職務が明けて、すぐに自室に戻り、棚から分厚い本を取り出す。

 軍規の罰則をまとめた本。いずれは直系嫡子として、総帥となる身である。他の規則書とともに、年に一度は目を通していた。

 そこに、男と性的な行為に及んだ者について、という項目があったと、思い出したのだ。さして重要性を感じず、気色悪いと読み飛ばしていたから、詳しい内容はよく知らなかった。

 冒険心のような、怖いもの見たさのような気持ちで開く。どこに何が書いてあるかは、大体把握していたから、該当の箇所はすぐに見つかった。

 男同士の性的な行為とは、どういったものを指すのか、定義が程度の浅いものから順に書かれている。

 読み進めていって、それほど変わったことはしないのだと、納得した。

 むしろ、あまりに詳細な記述に苦笑する。罰則のためだから仕方ないのだが、皆おしなべて、鍛え上げた猛者なのだ。体力は十分にある。欲の強い男同士だと、途方もなくなるのかもしれない。

(エルドは俺と、こういうことがしたいのか――)

 何気なく思って、本を繰る。

 最後の記述だ。そこに書かれた内容に、思わず声を上げた。

 手で口を覆って、あたりを見回す。自分以外は誰もいない、静かな部屋。

 気を取り直して読み通す。信じられなくて、頭を抱えた。

(肛門って……あの肛門、だよな……)

 確かに、下半身についている穴といえば、男には、それしかない。だからといって、そんなところに、男にとって最も大事な所を突っ込むとは。

 そうすると、どちらがどちらなのか。俺は女みたいになるのは嫌だ。いや、そういう問題では――頭がぐるぐる混乱した。

 エルドウィンは、知っているのだろうか。

 処罰の決定は、主家の専権事項だ。あの優秀な親友のことだから、一通りさらうくらいはするだろうが、重要な項目は、他にたくさんある。

 そもそも、しょっちゅう夜の厠の世話になっている自分と違って、欲が薄く、穏和な性質なのだ。こんなことを望んでいるとは思えなかった。

 本を閉じて、天井を仰ぐ。突っ走る熱量が引いていき、冷静な思考が降りてくる。

 たとえエルドウィン相手でも、裸で抱き合うなど、絶対にしないのだ。口づけたり、下半身をまさぐったりするなんて、到底できない行為だった。

(……どうして――)

 神は、親友をこんなふうに生み出したのだろう。

 ただ苦しみでしかない心の形。そして、罰則があるということは、過去にも、それなりに同じ苦悩を抱えた男達がいたのだ。

 女とするような行為。しかし、他人に迷惑をかけなければ、一人で耽ることも許されているし、十五歳以降は、マニュルムに行けば、女を抱けるのだ。代替とは考えにくかった。

 生涯誰にも言えない秘密を抱えて、結婚し、子を多く為さなければならない。せめて、ともにいられる独り身の間は、気持ちに応えたいと思ったのに。

(俺にできることは……ただ傍にいることだけ……)

 努力すらできないことがあるのだと、この時初めて、痛烈に実感した。


 *


 エルドウィンが、長姉の嫡子に呼ばれたからと、消灯寸前に出かけたのは、冬を越し、期が変わって、短い夏が始まる頃だった。

 わざわざ付き合わなくても、と言ったが、主家様に言いつかったら守らないと、と淡く微笑んで行ってしまった。

 消灯の鐘が鳴ったあと、しばらく待ったものの、戻ってこなかった。

 心配が募ったが、相手は従兄のセバスティアヌスなのだ。同じ嫡子という立場で、年長者として、よく相談に乗ってくれていた。職務中は、見落としがちな細部も、すぐに気づいて、的確に指導してくれる。

 まだ従騎士の自分にはわからない用向きがあるのだろう。鍵は開けたまま、布団に潜り込んだ。

 ところが、その夜を境に、エルドウィンの様子が、おかしくなっていった。ほんの些細な変化で、他の皆は気づいていないようだった。

 しかし、職務中に、一瞬でも注意が散漫になるなんて、決してないことだ。まるで、静かにゆっくりと壊れていくように――表情から色が消えていき、ぼんやりとすることが多くなった。

 そして、ついには、マントを落としても、全く気づかないまま歩いていた。

 新緑の瞳に浮かぶ涙。振りきって、王殿へ向かう背中に、心が決まった。

 不安定になったのは、あの夜からだ。さすがについていくことは、不自然だからできない。寝たふりをして、待つことにした。


 出かけてから、だいぶ経った頃。耐えきれずに、つい、うつらうつらしていると、扉の開く音がした。

 はっと、一気に覚める。目を瞑ったまま、様子を窺った。

 寝台の傍らに立つ気配。微かに漂う、独特な匂い。よく知った――男の精の。

 布団に潜り込む音。身を振り絞るように、声を殺して泣く声。本の記述が、頭を駆け巡る。激烈な怒りが、全身を貫いた。

 望んでいるなら、まだよかった。興を覚える相手と楽しんでいるのなら、むしろ好ましいことだ。露見すれば懲罰は免れないが、決してそんな下手はしない二人だ。静かに成り行きを見守れたのに。

(許さない……! 絶対に許さないッ!)

 親友の悲泣の声を聴きながら、憤激に心身を戦慄かせた。


 明くる朝、扉を叩いた。誰何に答えると、ゆっくりと開いた。

「これは次代様。こんな早くに、いかがされた」

 少し驚いた顔が白々しい。きつく睨み上げて、顎で引くよう指示する。遠慮なく入って、扉が閉まったところで切り出す。

「エルドを放せ。あいつは、お前の好きにしていい奴じゃない」

「……気づいていて、のこのこ来たのか。いい度胸だ」

 藍色の双眸が、おもむろに剣呑な光を帯びていく。喉で低く嗤う声。危うい獣のような様子に、思わず後ずさる。言いようのない恐怖。振り切るように叫ぶ。

「いい加減にしろッ! あいつがどんな気持ちで、お前の言いつけに従ってると思ってるんだ! あんな優しい奴を、食い物にしやがって!」

 心を絞るように泣く声。望まない行為。身の内を、欲望のままに荒らされて。悔しくて悲しくて、涙が滲む。歯を食い縛って睨む。藍色の双眸が、鋭利な笑みに歪む。

「……それなら、お前が身代わりになるか?」

 緩慢な足取り。その言葉に混乱して、体術の構えを取れずに後退してしまう。

 と、踵が板張りの段差に突っかかる。完全に正面に気を取られて、対応が遅れる。あっという間に、床に倒れたところを押さえこまれる。

「……っ離せ! くそ!」

 両手首を掴まれ、腹にのしかかられて、全く動かない。大人との力の差。それでも、腹と脚に力をこめて、なんとか逃れようとする。

 その様を、ただ見つめる藍色の双眸。不意に、言葉の意味が、染み込んでくる。

 抵抗を止めて、静かに問うた。

「……俺が相手したら、エルドは放すんだよな……?」

 頭に、本の記述が過る。激しい嫌悪に、視界が滲む。

 それでも、エルドウィンが、これ以上傷つかずに済むのなら、自分の身体など、いくらでも差し出せると思った。

 結婚が決まれば、宿舎から引っ越して、自宅を構える。

 相手はもう二十二歳だ。早ければ数ヶ月、遅くても一年もすれば、よほどのことがない限り、縁談が寄せられる。それまで耐えればいいだけの話だ。

 頬に触れる、大きく武骨な手。恐怖に身体が跳ねる。嫌悪に震えながら、藍色の双眸を真っ直ぐに睨む。ぽつりと、低い声が落ちる。

「……自分を犠牲にするほど、大切な親友か――羨ましいもんだな」

 するりと手が離れ、視界が明るくなる。

 朝の淡い日の光。茫然と、天井を見つめる。助かったという安堵とともに、助けられないのかという悲しみが、心を覆う。

「悪いが、〈同類〉以外には興味がなくてな」

 声にようやく身を起こして、振り返る。

 ソファに脚を組んで座り、水を注ぐ姿。目顔で対面に座るよう促されて、警戒しつつ、腰かける。

 目の前の卓に置かれたグラス。不審がって眺めていると、鼻で淡く苦笑する声が話す。

「何も入ってないから、安心しろ。果敢なひよっこを、少し試してみたくなっただけだ」

 そして、自らの分を飲み干す。

 先刻とは、うってかわった平静な藍色。むやみに叫んだせいで、喉が痛い。少しだけ口をつけた。

「結婚が決まった。わざわざ言われなくても、手放すつもりだ。残念だがな」

 言い様に、怒りが一気に燃え上がる。思いきり腕を振りかぶった。グラスの水が、盛大に飛び散る。

「何が残念だッ! ふざけるな!」

 張りついた髪を掻き上げて、見えた横顔。

 悲しい微笑み。戸惑って固まる。静かな低い声が呟く。

「……お前と同じ強さがあれば――俺も、もっとましだったのかもしれないな」

 頬に滴る雫を払う、武骨な手。まるで、涙を拭うような。

「酷いことをしてる自覚はあるさ。……あれは、昔の俺だからな」

 言葉だけが頭を過ぎていき、意味が、遅れて染み込んでいく。血の気が、引いていった。

「でも……それなら、なおさら……」

 どうして思い留まらなかったのか。あんなに優しい親友が、どうして壊れるほどに苛まれなければならなかったのか。

「欲しかったからだ。お前が女を欲するように、俺は男を抱きたかった」

「……!」

 一緒にするなと怒鳴りかけて、はたと止まる。

 静かな藍色の双眸。奥底に浮かぶ、虚ろさ。許しを乞う悲鳴が、胸にこだまする。細く伸びやかな肢体。金茶色の、淡くうねる長い髪。涙を溜めた、翠緑の瞳。

 ほしいままに貪り、身の内を荒らして犯す、己の罪。

「あと一度だけだ。それで、終いにする」

 何も言い返せなかった。


 翌日の夜、引き留めることもできず、親友の背中を見送った。

 読みかけの本を取り出して、寝台で胡座をかく。今夜は起きて、迎えようと決めていた。

 文の上を、目が滑っていく。今、為されていることを思うと、内容なんて、全く頭に入らなかった。

 苦しくて悔しくて、どうして反論できなかったのかと、苛立ちが募る。しかし、責める資格は自分にはないと、納得してしまったのも事実だった。

 受け止める側には、決してならない。そして、今さら、あの約束を取りやめるなどできない。激情を思うさま吐き出せる、あの強烈な愉悦を手放すなんて。

 欲しかったからだ、と淡々と言った姿は、まさに鏡に写った自分だった。

 不意に、そっと扉が開く。驚いて固まる、秀麗な顔。栞を挟んで、本を閉じる。軽い音が、静寂に響いた。

「なあ、何かあっただろ。この二ヶ月――お前、様子が変だぞ」

 新緑の瞳を、じっと見つめる。

 何かを言おうとするように、震える唇。怯えたように目を瞪って、立ち尽くす姿。

 寝台から降りて近づき、抱き寄せようと腕を伸ばす。と、

「――だめっ……!」

 強く腕が突き出される。咄嗟に受け身を取って、床に転がる。

 驚いて見上げると、守るように身を縮めて喘ぐ姿があった。新緑が、滲んでいく。口をついた言葉に、たまらない気持ちになる。

 避けられていた理由。崩れていく騎士服。

 どれほどに苛まれ、どれほど傷つけられたのか。組み敷かれた時の、恐怖と嫌悪が蘇る。悲しい怒りが、心を突き上げた。

 上体を起こしながら手を伸ばして、腕を掴む。引き寄せて、抱き締める。必死に身をよじるところを、腕に力を強くこめて叫んだ。

「俺は!」

 あの男と同じ側にいる。きっと生涯、その苦しみを、本当の意味でわかることはできない。それでも、

「何があっても、お前の傍にいるから! お前から離れるなんて、絶対にないから!」

 汚いなんて、穢れているなんて、だから離れようなんて。

 強くきつく、抱き締める。

 幼い頃から慣れ親しんできた、日溜まりのような朗らかな匂い。柔らかな優しい体温。ずっと変わらない、確かな存在。

「――だから、大丈夫……大丈夫だよ、エルド」

 低く穏やかに囁く。耳元で、嗚咽が聞こえる。

 腕を背中に回して、しがみつく感触。応えて、大丈夫と呟く。途端、堰が弾け飛んだように、泣き叫ぶ声が響く。

 その涙が、全ての汚穢を流して、優しい心が癒えるようにと、ただただ願った。


 *


 年が明けた真冬の朝。しんしんと冷えた空気の中、馬車が軽やかに駆けていく。小さな窓から、白く染まった街並みを眺めながら、激しい後悔に苛まれていた。

 思わず、いやと上げた悲鳴。聞き逃さずに、約束を破るのかと、脅しつけた。

 怯えた美しい顔。哀願し、許しを乞う言葉。顔の前に、屹立したそれを突き出した。六貴族の息女は知らない、〈仮初めの奥方〉ゆえの技。

 身の上を思い知らされるせいだろう。最も嫌う行為のひとつだった。だから、平時は罰として機能していた。

 涙を浮かべて問いかける、翠緑の瞳。無言の圧力をかけると、今にも泣きそうな顔で、口に含んだ。嫌悪に瞳を歪めて、それでも舌を這わせて咥える様は、酷く煽情的だった。

 身の内とはまた違う、支配的な快楽。ふと、動いてみたらどうなるだろうと、思ってしまった。

 きっと、真昼の業火に焼かれるような時間だっただろう。

 どうして、あんな所業に及べたのか、今考えてもわからない。嗜虐に酔って狂い、吐き出して引き抜くまで、何の疑問も持たなかった。

 激しく咳き込んで丸まり、戦慄く細い身体。

 謝らなければ、背中をさすってやらなければと、確かに思ったのに、口をついて出たのは、あまりに酷い言葉だった。

 伸びやかな片脚を広げて、肩に抱え上げる。もう片方の腿に跨がって、宛がった。

 翠緑の瞳が、激しい恐怖に染まる。何かを言おうとして咳き込む。しかし、容赦なく穿った。

 もしあの時、声が出ていたら、泣き叫んでいただろう。言い訳などできないほどに、犯し尽くした。

 その強いられた姿が、たまらなく興をそそるのだ。暗い情動。快楽が絡みついて、強度を増した、苛烈な劇薬。

 こんなことはしてはいけないとわかっていても、あの美しい顔を見ると、欲してしまう。そして、甘く優しく囁けば、淡く空しい期待で縋りついてくるのだ。

 歪んだ関係を積み重ねて、行き着く先。深く暗い淵に、底はあるのだろうか――。

 馬車が、おもむろに速度を緩めて停止する。ほどなくして、馭者が恭しく扉を開けて、礼をした。

 降り立つと、真冬の凍てつく空気が、頬を刺した。凍ったところがないか、足元に気をつけながら、総帥正門へと向かう。

 門番に騎士証を見せる、真夜の男。誰だか視認して、顔をしかめる。

 こちらに気づくと、薄く微笑んだ。

「いい時間にお帰りで。お元気そうで何よりだ」

「……お前も、相変わらず口が減らないな」

 騎士証を、門番から受け取りながら睨む。藍色の双眸が、愉快そうに形を変える。

 こんな最悪な気分の時に、一番顔を見たくない男に出くわすとは。しかも、宿舎と既婚者用の更衣室は、同じ方向だ。仕方なく、並んで歩く。

「エルドウィンは元気か?」

 静かに問う、低い声。睨み上げ、怒気を含ませて答える。

「お前に教えると思うか? せっかく、異動で離れたっていうのに」

 精悍な横顔が、鼻で淡く苦笑する。吐く息が、白く流れていく。

「やっと子ができた。羨ましいもんだな。楽しんで、できるというのは」

 思わず見つめる。

 悲しみを湛えた、藍色の双眸。親友の行き着く先。痛く心を刺した。そして、はたして自分は楽しんでいるのかと、苦い疑問が浮かぶ。

「……俺は……たぶん、楽しんでない。あれを、楽しんでるなんて言ったら……」

 支配し縛りつけ、貪り壊して犯す。

 自分がしているのは、そういうことだ。本来ならもっと、温かく幸せなはずなのに。優しくできた夜は、本当に可愛くて綺麗なのに。

 宿舎の入口まで来て、立ち止まる。更衣室は、もう少し先だ。向かい合って見上げる。

 静かな低い声が語る。

「何事も、終わりがある。その時に、何を残せるかを考えてみるといい。……言い訳など、なんの慰めにもならないからな」

 恋慕うあの心に残してやれるもの。

 今はすぐに浮かばないが、時間をかけて、きちんと考えようと思った。藍色の双眸を、真っ直ぐに見つめて告げる。

「俺はお前を、絶対に許さない。でも、鏡だということも忘れない。俺は、確かに欲しいと思って……強いているから」

 微かに、目が見開かれる。悲しみとも哀れみともつかない微笑み。

 肩を軽く叩いて揺すると、背を向けて去っていった。

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