真昼の影
※男色行為あり
父の優しい低い声が、鼓膜を震わす。
眼前に広がる、男女の情交を描いた細密画。本来ならば、色めき立って落ち着かないはずなのに、何の感慨も浮かばなかった。時折様子を窺う明緑の視線がつらい。
敏い父のことだ。きっと、普通ではないことに気づいているだろう。
誕生日まで、あと一週間。忙しい父が、職務の合間を縫って、少しずつ〈教え〉を授けてくれた。
嫡子である自分が果たすべき責務。結婚し、子を為して、家を繁栄させること。
しかし、これほど興をそそられないのに、その時に使い物になるのか。不安でたまらなかった。
最後まで行き着いて、父が本を閉じる。結婚して、長男が十五歳になったら渡しなさい、と差し出されて、受け取った。
題名のない〈教本〉。嫡子に代々受け継いでいく大切な本だ。両腕に抱えて、真っ直ぐに告げる。
「ご教授ありがとうございました。務めを果たせるよう、しっかり学んでまいります」
ほっと安堵した微笑み。胸には不安が渦巻いていたが、優しい父を悲しませるわけにはいかなかった。
「おかえりー! 早かったな」
扉を叩いて自室に入ると、親友の屈託のない笑顔に出会う。ただいまと返して、鞄から〈教本〉を取り出す。
「それ、〈教本〉? 全部終わったんだ」
まじまじと眺める様。不思議に思って首を傾げると、歯切れの悪い呟きがこぼれる。
「表紙の色、違うからさ。中身も違うのかなって……」
「見てみる?」
何の気なしに差し出す。
驚いたように、紺青の瞳が軽く見開かれ、視線が逸れる。
「……いいよ。まだ夕方だし」
うっすらと、朱の差した頬。意味を察して、顔が熱くなる。
自分には興味のない内容でも、フェリックスにとっては、十分そそるものなのだ。昂りを覚えて厠ですることといえば、それは、夜以外では神に悖る行為だった。
微妙な空気を振りきるように、空いている本棚の上段に差し込む。
鞄を机に置いて、洗濯物の入った袋を取り出して開ける。ばらばらと、籠に落ちていく衣服。不安に裂かれる心の破片のように見えて、息が詰まった。
肩を軽く叩かれる感触に、はっとする。振り見れば、心配そうに見つめる親友の顔があった。名を呼ばれていたのだと知る。
「大丈夫か? 顔色、よくないぞ」
「……あ……うん、大丈夫だよ」
微笑んで答える。
じっと見つめる、紺青の瞳。腕が伸びて、抱き寄せられる。
「俺だって、最初は不安だったよ。だから、そんな無理するな」
子供の頃から慣れ親しんだ、常緑樹のような爽やかな匂い。そっと、背中に腕を回す。
応えるように、力のこもる感触。少し高い体温。自分とは違う、弾力のある力強い筋肉。とくとくと、鼓動が高鳴る。不安が、淡雪のように消えていく。
きっとフェリックスは、どう思われているか、気づいている。それでも、見放さずに傍にいて、こうして変わらず接してくれる。有難さと同時に、切なく苦しい思いが、心に満ちる。
「僕……ちゃんとできるかな……父上の期待に、応えられるかな……」
「大丈夫だよ、エルド。大丈夫。お前なら、できるよ」
いつもの決まった言葉。何度も、助けてくれた言葉。
じわりと視界が滲む。少し高い肩に目を押しつけて、少しだけ泣いた。
十五歳の誕生日の夜。縁が繋がれたのは、初冬に十五歳になった、ひとつ年上の〈仮初めの奥方〉だった。
従家直系嫡子のために用意された、まっさらな――しかし、男を受け入れる準備を整え、技を習得した〈奥方〉。
アラベラと名乗ったその人は、落ち着いた雰囲気で、自分より、ずっと大人びて見えた。穏和で優しい微笑みに、ほっと安堵する。
手を引かれて部屋に入ると、謙虚に学ぶ気持ちで、〈教え〉に沿って事を進めた。そのかいあってか、どうにかその時を迎えることができた。
しかし、自分の半身を見下ろして、血の気が一気に引いていく。
(どうして……そんな……)
実際に女人の裸体を見れば、反応すると思っていた。触れれば、きっと普段通り屹立すると。そう、信じたかったのに。
どうしようもなくて固まっていると、アラベラが身を起こす。状況に気づいて、優しい声が告げる。
「緊張しているのね。私に任せて」
そっと、頬に触れる手。柔らかに口づけられる。
よく知った、しかし常とは違う擦り上げる感覚に、くぐもった声が漏れる。唇を食まれて、舌が絡まる。
ざわざわと、背筋を這う痺れ。あと少し、というところで、感覚がやむ。
顔が離れて、白緑の瞳と目が合う。そして、ゆったりと寝台に倒れると、膝裏を抱えて囁いた。
「来て……」
見下ろすと、そそり立つ影があった。ほっと息をつき、意を決して宛がう。〈教本〉に詳細な図が載っていたから、迷うことはなかった。
ゆっくりと入っていく。妖艶に喘ぐ声。自分の身が相手の中に収まる、という不可思議な光景を見つめながら、言いようのない感覚を覚える。
手とは違う、震えるような快感。全て埋まると、それはより強まった。熱く絡みつき、締めつけて、吸いついてくる。ざわざわと、背筋を這い上り、そして、
「――っ!」
激しい解放感が、全身を貫く。
強烈な快感。荒い呼吸の中、茫然と目の前の光景を眺める。
裸の女。こちらを見つめる、白緑の瞳。状況が頭に下りてきて、羞恥に顔が熱くなる。同時に、身体からは血の気が引いていった。
途端、ぎゅっと、きつく締め上げる感覚が襲ってきて、息を詰める。優しい声が囁く。
「このまま、私の膝を掴んで――腰を動かして。もっと気持ち良くなれるわよ」
穏和な微笑。絡みつく感触に、再び滾るのを知覚する。
言われた通り、膝裏を掴んで腰を引き、埋めていく。皮膚を擦る感覚が加わって、堪らない心地になる。
「そう、上手よ――少しずつ、速めていって……」
気がつけば、身体は自然と動いていた。律動から来る快感に、夢中で打ちつけた。
それから不意に、一際強く締め上げる感覚が襲い、激甚な解放感に戦慄いた。肩で息をする中で、ゆっくりと理性が戻ってくる。
白緑の瞳から、幾筋もこぼれた涙。驚いて声を上げる。
「ご、ごめんっ……僕……!」
「意外と激しいのね……びっくりしちゃった」
ふふ、とおかしそうに笑う、あでやかな顔。腕を広げて見つめる、色香の漂う瞳。戸惑いながらも、身を伏せて抱き寄せる。
「――ね? 言った通り、気持ち良かったでしょう?」
「すごく……その……」
頷きながら、涙が心苦しくて、そっと指先で拭う。手が、柔らかく重ねられる。
「私も気持ち良かったわ。あまりにも良すぎて、涙出ちゃった。だから、気にしないで」
優しい微笑み。嘘のない、真っ直ぐな瞳。
納得して安堵する。強ばっていた心が、弛緩していく。視界が、おもむろに滲んだ。
「ありがとう……」
ぎゅっと抱き締める。あでやかな優しい香り。何度も礼を言いながら、事を為せた喜びに涙した。
たっぷりと朝寝した、明くる日。アラベラの見送りを受けて、館を出ると、父が馬車の前で待っていた。
思わず嬉しくて駆け寄る。抱き合って、遅めの朝の挨拶を交わすと、優しい声が告げた。
「いい顔つきになったね。おめでとう。これで、我が家も安泰だ」
穏やかな笑顔。喜色に満ちた表情に、これまで感じていた後ろめたさが、淡く薄れていく。
嫡子としての務めを果たして、父の期待に応えられる。そして、きちんと女を抱ける男なのだ――きっと反応しなかったのは、アラベラの言う通り、緊張していただけなのだと、心に深く染み込んでいった。
騎士舎に帰ると、同期に先輩にと、盛大に祝われた。
特に、フェリックスは、心から喜んで、貴重な休日なのに、ずっと傍にいてくれた。そして、祝いに来てくれたところで、具体的な話になると、間に滑り込むように、話題を変えていった。
その優しさが嬉しくて、そんな気遣いをさせてしまう自分が情けなくて、それでも一緒にいられる幸せを噛み締めた。
春が訪れて、期の切り替わりの慌ただしさが落ち着いた頃。ようやく時間ができ、館を訪れて待ち受けていたのは、厳しい現実だった。
アラベラの美しく豊かな裸体を見ても、妖艶な嬌声を聞いても、やはり昂りを覚えることはなかった。
初夜と同じように、手で用意してもらって、なんとか事を終える有り様。あまりに情けなくて萎えてしまい、その夜は一度で終わった。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、苦しさのあまり、足が遠のいていった。
嫡子の務めなのだからと思っても、現実を直視するのは、酷くつらかった。女の身の内で達することができたのは、ただ身体が反応しただけだったのだと、思い知りたくなかった。
同じ隊の先輩に、部屋に来るよう言われたのは、そんな時のことだった。
消灯寸前の時間を指定され、怪訝に思ったものの、相手は総帥長姉の嫡子だ。断れるはずもなく、不安にさざめく心を抑えて、扉を叩いた。
ほどなくして、返事の声がある。名乗ると、入ってくるよう告げられ、押し開けた。
「あの、どういったご用件でしょうか……?」
あまり奥へは行かずに尋ねる。
消灯の鐘が鳴れば、もう勝手に出歩くことは許されない。
厠は反対側だ。寮監に見つかれば、用足しだと言い訳できない。三ヵ月前、フェリックスと鍛練に遅刻して、懲罰を受けたばかりだから、なるべく目立つことは避けたかった。
「まあ、そう固くなるなよ」
ソファから立ち上がって、緩慢に近づいてくる。灯りに浮かぶ、精悍な顔立ち。何か嫌なものを感じて、思わず後ずさる。
と、一気に腕が伸びてくる。咄嗟に躱そうとするものの、相手の長い間合いに対応しきれず、手首を掴まれる。腰を抱き寄せられて、顔が目の前に迫る。
「……っ何を……⁉」
「〈同類〉ってのは――よくわかるもんでな」
剣呑な、薄い笑み。
意味を図りかねて困惑し、それでも言いようのない恐ろしさに、身をよじる。
鍛え抜かれた大人の力。びくともしない身体。空いた片腕で殴れると、頭に閃く。しかし、主家相手にそんなことはできないと、理性が告げる。
混乱の中で、唇に柔らかい感触が落ちる。
口づけられたと悟って呻く。こじ開けて入ってくる舌。絡んで歯列をなぞり、唇を食まれる。嫌悪と恐怖に、涙が浮かぶ。身体が、震えた。
「――そんな、襲われたみたいな顔するなよ。ずっと、男としたかったんだろ」
「意味が……っわかりません……! は、離してくださいっ!」
目の端に映る寝台。合わさった腰の熱。
このままここにいたら、何をされるか――〈同類〉の意味など、知りたくなかった。こんな形で突きつけられるなんて、絶対に嫌だった。
必死に身をよじって、逃れようとする。しかし、ひ弱な少年の力で抗えるはずもなく、気がつけば、放り投げられていた。
「嫌だッ! 離して!」
すかさず覆い被さり、手首を一纏めにされて、押さえられる。
再びの口づけ。開かされた下肢に、熱を擦りつけられる。ぞくぞくと、これまで感じたことのない甘い痺れが、背筋を這う。
屹立していく感覚。女の身体に対しては、全くなかった反応。信じられなくて、嫌悪に心が戦慄いた。
耳朶を淡く食まれ、舌先が緩く入る。男の昂った低い声。
身体が震えて、短く悲鳴を上げる。その、女の喘ぎのような声音に、愕然とする。喉で嗤う声が、鼓膜を震わせる。
「男に触れられるのは、気持ち良いだろ。望んだ相手だもんなあ?」
ねっとりと、舌が首筋を這う。羽織の留め具が外され、寝巻きが引き上げられて、腹をまさぐられる。
苛烈な恐怖で力が入らない。涙が、とめどなく耳へと流れていく。
「そんなっ、違う! 望んでなんか……!」
「擦りつけられて、こんなになってるってのに?」
紐が解かれる音。一気に引き下ろされたそこには、硬くそそり立つ影があった。男の武骨な手が伸びる。
「嫌だ! 触らないでッ――あっ!」
長い指先が、筋をなぞっていく。甘い痺れが、ぞくぞくと背筋を駆ける。
薄く嗤う、精悍な顔立ち。藍色の双眸。より深く冴えた紺青が、心に浮かぶ。
愛称を呼んで、明るく笑う顔。少し熱い体温。大切でかけがえのない親友の――恋焦がれる、その人の。
(――フェリックス! 嫌だッ、こんなこと僕は……!)
擦り上げられる感覚に、身体が跳ねる。胸を舐められて、舌先で転がされる。女人との閨事と、同じ行為。
この先に起こることに思い至って、ぞっとする。一体、どこにどうやって入るというのか。
迫りくる絶頂の予感。恐慌を来して、泣き叫ぶ。
「もうやめて! 離してッ! 嫌だ、いや……! こんなっ、こんな――ああッ!」
白濁の飛沫が上がり、腹に胸に、冷たく落ちる。
恥ずかしくて情けなくて、顔をそむけて、枕に押しつけた。喉で嗤う低い声が、鼓膜を打つ。
「おーおー、いっぱい出た。やっぱり元気だなあ。これなら、まだいけるな」
ねっとりと這う、湿った感触。思わず顔を向けると、滴る白濁を舐め取る姿があった。
開いた口の先。まさかと思って、声を上げる。
「……やめ、――やっ!」
唇が、先端に当たる。
唾液に満たされた口腔内の生温かさと絡みつく舌が、えも言われぬ快感を誘う。根元を擦る感覚。あまりの光景に、目を固く瞑る。
男に咥えられた方が気持ち良いなんて、嫌だと思っているのに感じているなんて、絶対に認めたくなかった。
それなのに、身体はまた、高みに昇っていく。
どくどくと脈打つ感覚。このまま、達してしまったら。
「やめて! お願いだからっ! もう、もう……っあ、いや、――ッ!」
喉の鳴る音が響く。まるで、久しぶりに水でも飲んだかのように、息をつく声。心がひび割れて、砕ける音がした。
泣きじゃくっていると、不意に抱え上げられる。
歯を食い縛って、藍色の双眸を睨む。精悍な顔に、笑みが広がる。
「まだそんな気力があったか。直系嫡子は違うな。――まあ、それも今のうちだがな」
信じられないところに、細い何かが入っていく感覚がして、身をよじる。しかし、関節を固められて、あっという間に押さえ込まれる。
「男同士の場合はな、ここを使うんだ。今、洗ってるから動くなよ。下手したら、破けるぞ」
腹が膨れていく感覚に、ぞっとする。恐怖で身体が戦慄く。もうやめてほしいのに、しがみつくしかないなんて。
何かが抜ける感覚。そして、中心を柔く撫でられる感触に、思わず力が入る。勢いよく噴き出る水音が、部屋に響いた。
(……僕……人前で……)
目の前の光景から、色が失せていく。音だけが、やけに頭で反響する。
ひんやりとする何かが塗られたあと、より太い何かが入ってくる。押し広げられる感覚。
指で掻き回されているのだと知って、本当に使うのだと、半ば他人事のように思う。薄い膜の中にいるような、ぼんやりとした意識の中で、女のように喘ぐ声を聞いた。
丹念に準備されたそこは、あっさりと男を受け入れた。
散々指で弄られて達したせいか、より強い快感が押し寄せ、高く声を上げた。
その、自分のものとは思えない淫靡な音色。普段の吐き出す時とは異なる甘い浮遊感が、幾度も全身を駆け抜ける。
一際深く抉られる中、不意に、晩冬の朗らかな遅い朝が、心に閃く。
優しい笑顔。おめでとうと、喜びに満ちた声。男になれたと、嬉しくて幸せだった、あの日。
(ごめんなさい、父上――ごめんなさいっ……!)
容赦なく与えられる激烈な快感に、意識が白んで果てた。
周囲の気配に、耳をそばだてる。
早く自室に戻りたいのに、腰に力が入らない。壁伝いによろめきながら、なんとか歩を進める。薄明かりに朧気に浮かび上がる廊下が、やけに長く見えた。
永遠に思える中、ようやくたどり着く。
鍵は、締まっていなかった。長姉の嫡子に呼ばれたと伝えて出たから、フェリックスが、きっと開けたままにしてくれたのだろう。音を立てないように、そっと押し開ける。
部屋は暗く、窓掛けの隙間から、微かに月明かりが差し込んでいた。もう目が慣れていたから、それで十分だった。
足元に気をつけながら、ゆっくりと、右側に据えられた寝台に歩み寄る。
静かな寝息。ぼんやりと白く浮かぶ親友の、穏やかな横顔。
途端、意識を薄く覆っていた膜が弾けて、色が鮮やかに戻ってくる。はらはらと、涙が落ちていく。
あんなことなど、知りたくなかった。たとえ〈同類〉だとしても、欲しいのは、焦がれているのは、フェリックスだけなのに。
絶対に叶わなくても、一人果てる時に描く情景が、虚しい幻想だとしても、あんなものは欲しくなかった。
男なのに、男に犯されたなんて。
「――……っ!」
たまらず、対岸の寝台に飛び込む。
布団を被って、手で口を覆い、声を殺して泣いた。
それから度々、呼び出しがあった。主家に逆らえるはずもなく、与えられるままに快感を甘受し、男の欲を受け止めた。
求めていないのに、感じて達する身体。事を終えたあとに、身の内から流れ出る、白濁の液。腹や下肢には、自ら吐き出した、白い点描。
その、欲の証にまみれた様に、砂を食むような虚ろさが広がり、心を砕いていった。
(……僕は……汚い……)
次第に、鏡で自分の姿を見るのが、苦痛になった。
しかし、身だしなみを整えることは、近衛騎士団に所属する者として、欠かせない作法だ。鏡に映るのは他人だと刷り込んで、日々をやり過ごした。
短い夏が終わりかける頃、遅番で出仕するために、廊下を歩いていると、肩を軽く叩かれた。
振り返ると、親友の顔に出会う。呼ばれていたと気づいて謝る。
差し出された布。不思議に思って眺めていると、正面に回って、肩にかけられた。金具を留めながら、フェリックスが言う。
「ちゃんと留めてなかっただろ。お前がこういう間違いするの、珍しいな」
マントが落ちたのかと、ぼんやりと思う。いつも通りにしたつもりが、留め方が甘かったらしい。
「――ほら、できたよ」
軽く腕を叩かれる。屈託のない笑顔。吸い込まれそうに綺麗な、紺青の瞳。視界が、おもむろに滲んでいく。
「エルド? お前――」
戸惑った声。
何かあったのかと、問いが続くと察して、涙を拭いながら、すかさず告げる。
「ありがとう。ごめん、もう行かなきゃいけないから」
引き留めようとする言葉を振りきって、廊下を進む。
冷たかったかもしれないと思うと、たまらなかった。滲む涙を飲み込んで、王殿へと向かった。
二日後の夜、呼び出しから戻ると、灯りが点いていた。
寝台に座って、本を読む姿。驚いて立ち尽くしていると、振り見て、栞を挟む。本を閉じる軽い音が、静寂に響く。
「なあ、何かあっただろ。この二ヶ月――お前、様子が変だぞ」
じっと見つめる、紺青の瞳。何もないと、言わなくてはいけないのに、声が出ない。
おもむろに、フェリックスが立ち上がる。大股に近づいて、腕が伸びる。抱き寄せられると悟って、咄嗟に腕を突き出す。
「――だめっ……!」
吹き飛びながらも受け身を取って、床に転がる。
驚いた顔。しくしくと、心が痛む。
それでも、こんな身体に触れたら、フェリックスに汚れが移ってしまう。
今夜だって、あれほど苛まれたのだ。嫌だと泣いたのに、何度も達した。女のように嬌声を上げて、何度も。
苦しくて喘ぐ。視界が滲む。紺青の瞳に、怒りとも悔しさともつかない色が閃く。
あっと思った瞬間、下から腕を引かれて、抱きすくめられた。身をよじって、逃れようとする。腕に、ぎゅっと力がこもる。
「俺は!」
耳元で鳴り響く声。幼い頃から聴いてきた、けれど初めて知る声音。
「何があっても、お前の傍にいるから! お前から離れるなんて、絶対にないから!」
悲しみに震える、怒りの色。痛いほどに強く抱き締める腕。
「――だから、大丈夫……大丈夫だよ、エルド」
優しく穏やかな低い声。ずっと慣れ親しんできた、常緑樹のような爽やかな匂い。少し熱い体温。
ほろほろと、心が溶けていく。
一番知られたくない――けれど、一番気づいてほしかった。
腕を回してしがみつく。応えて、大丈夫と呟く声。喉が震える。視界がぼやけて、霞んでいく。
「……う、あ……っああぁ――ッ!」
押さえつけられていた堰が弾け飛んだように、ひたすら声を上げて泣いた。
それから、ほどなくして、父から、長姉の嫡子様の結婚が決まった、との話を聞いた。そして、休日の者は引っ越しを手伝うようにと、付長からの通達があった。
同期と後輩の三人で、荷物の運び出しを手伝い、駄賃をもらった。
同期達が購買に行こうとするところを引き止められて、向き合う。こんな昼日中に何もないはずなのに、恐怖で身体が震えた。
見下ろす、藍色の双眸。告げられた言葉は、意外なものだった。
「……今まで、悪かったな。嫡子の務めは大変だが――頑張れよ」
去り際、肩に手を置いて、軽く揺すられる。
精悍な顔に浮かぶ、悲しい微笑み。見知らぬ少年の顔が重なる。唐突に、この人も昔は受け止める側だったのかもしれない、という思いが閃く。
用意周到な道具類。手慣れた行為。当然、誰からも教えられない。
もし、同じように強いられて知ったとしたら。それでも、男の肌を求めずにいらなくて、事に及んだとしたら、なんて残酷なのだろう。ぶるぶると、身体が戦慄く。
(僕は、絶対にしない――同じ道は、絶対に歩まない……!)
たとえこれから先、男を欲したとしても、自分の都合に巻き込むなんて、絶対に嫌だった。あんな苦しい思いをさせるなんて、決して許されないことだ。
紺青の瞳を思う。
強く抱き締めて、大丈夫と言ってくれた、優しい声。
(傍にいられれば、それでいい。たとえ叶わなくても、隣で笑っていてくれれば、それで――)
布団が仕舞われて、骨組みだけになった寝台。責め苛まれてきた、幾度の夏の夜。
涙が一筋、頬を伝った。
「――さようなら」
手の甲で拭うと、部屋をあとにした。




