暁の月
「陛下、少し休憩にいたしましょう」
深みのある低い声に、はっとする。薄青の双眸と目が合う。こちらを見る、六貴族の当主達の顔に苦笑する。
「すまない。そうしよう」
議長を務める宰相が、小休止を宣言し、一同が散開していく。
定例の王議。いつものように、各当主の報告を聴いていたはずが、いつの間にか、意識が飛んでいたらしい。
朝に陣痛が始まって、そろそろ昼時だ。生みの苦しみを味わうアメリアを思うと、気が気でなかった。
その場に残る者や一時離席する者など、ざわめく中で、ヘンリクスが大仰な口調で言う。
「全く、集中していただきませんと困りますよ、陛下」
「時折、意識を手放しているあなたに、言われたくないな」
立ち上がって腰を伸ばしながら、笑って返す。すると、ブラッツの溜め息まじりの小言が入る。
「家を継がれて、もう一年半経つというのに。どうしてあなたは、大事な時に限って、寝ようとするのですか」
「目は寝ていても、耳はちゃんと聞いているからな。それに、お前の議事録を読んだ方が、手っ取り早い」
飄々と躱す様に、ブラッツの溜め息が深くなる。
きっと、あとで冷たい怒りが吹き荒れるにちがいない。怖いだの何だの言いながら、懲りずに結局繰り返すのだ。いつも通りの他愛ないやり取りに、ざわめいていた心が、少しだけ落ち着く。
すると、軽妙な表情が、ゆっくりと柔らかな苦笑に変わる。
「こればかりは、男は何もできませんからね。焦って余計なことをするくらいなら、職務に集中した方が、無難というものでございます」
確かに、と思いつつ、テオドルスの時にも言われたな、と苦笑する。
あの日は、本当に酷い有り様だった。
産務官の事前の説明で、命を落とす場合もあると聞いていたから、寝室から漏れ聞こえる、苦悶に満ちた呻き声に慌てふためいた。
あまりの混乱ぶりに、誰が呼んだのか、隊議中だったにもかかわらず、エルドウィンが駆けつけた。
大丈夫と囁く親友の優しい声と、いつもの匂い。しなやかな腕の中で安堵して、ようやく平静に戻れたのだった。
「もう二度と、あんな失態は演じないぞ」
呟くと、彫りの深い顔に、人の悪い笑みが浮かぶ。薄青の双眸が、楽しげに光った。
「また、そのようなことを。部下から御様子を伺って、ぜひとも拝見したいと、常々存じておりました」
「奥方に――総帥は、私の粗探しをするのが、楽しくて仕方ないようだ――と手紙を書くが、構わないか」
あえて、威厳たっぷりに言う。
即位して二年余り。政務を日々こなす中で、肝はかなり据わった。あの情けない体たらくは、アメリアの命が関わっていたからだ。
あからさまに、つまらなそうな表情。ブラッツが、ヘンリクスの肩に手を置いて、溜め息をつく。
「先月、二十八歳の御誕生日をお祝い申し上げたでしょう。私達には可愛い子供に見えても、もういい大人であられるのですよ」
強力な助けが来たと、一瞬にんまりして脱力する。
こと、親子ほど歳が離れたブラッツからすれば、確かに子供なのだが、この歳で、可愛いがつくとなると、歯が立つことなどないのだと苦笑する。
ブラッツの明緑の瞳が微笑み、柔和な口調で話す。
「本日は、王子がお戻りになる日でございますね。もう正午も間近ですから、このまま御食事休みになさってはいかがでしょう」
「確かにそうだな。――宰相の次代、少しいいか」
真剣に書き物をしていた少年が、はっとして直立する。
昨年成人し、青年に向かいつつある、さっぱりとした面立ち。残りの議題を尋ねて、急ぎの案件がないか、確認する。
書類をめくり、さっと目を走らせると、明瞭な声で答えた。
「残るは、行政官の報告のみでございます。題目は四件。いずれも、昨年施行した政策の進捗でございます」
「わかった、ありがとう。少し早いが、このまま食事休みに入るよう、皆に伝えてくれ」
「承知いたしました」
丁重に礼をし、てきぱきと従家当主に指示していく。その姿を見届けて、警護の騎士達に声をかけると、王議室をあとにした。
テオドルスの居室までの長い廊下を歩きながら、ダヴィドの実際の歳よりも大人びた表情に、心中で溜め息をついた。どうしようもなく、哀れさが募る。
宰相の刑が執行されるまで、あと五年。せめてと思い、処刑を担うと決めていた。
父を貶め、王家に混乱を招いた大罪を、それで手打ちとする。憎悪を燃やして苦しみ続けることは、もう自分の代で終わりにしたかった。
屋敷で、穏やかに余生を送る伯父を思う。
緩やかに老いて、細くなっていく巨躯。まだまだ若い者には負けないと、豪快に笑う顔に、深く刻まれていく年輪。還る時が迫っているのだと、切実に感じていた。
アメリアを妃に立てられたら、どんなにか喜ぶだろう。
三年目の春に懐妊がわかり、年を越して、期限は過ぎてしまった。今日生まれる子によって、行くべき道が決まる。
芳しくない、定期調査の結果。政策については、毎回一定の評価を得るものの、アメリアに対する悪感情は、消しがたい遺恨となっていた。
そして、結婚前に広めておいた話すら、真昼の王子の母を糾弾する材料となった。
結婚は、神の采配などではなく、きっと真昼の女が吹聴したのだと、真夜の王は、真昼の業火に目を焼かれてしまったのだと――この二年弱の歳月を経て、人々の悲嘆は、憎悪に変化しつつあった。
これ以上、我がままは貫けない。アメリアと二人で話し、期限は公表していないのだからと引き留める、六貴族の当主達を、説得したのだった。
そして、王妃候補の人選は、自分とアメリア、王族の両家のみで、秘密裏に行われた。
居室の扉を叩いて、誰何に答えると、間を空かずに引き開く。恭しく礼をする侍従に応じる時もなく、溌剌とした声が、高らかに響いた。
「ちちえっ!」
駆け寄ってくる我が子を、膝をついて、掬うように抱き上げる。
片腕に、ずっしりとした重み。日々の成長が感じられて、深い喜びに笑みがこぼれる。
ふにゃりと笑んで、形を変える緑色の瞳。飴細工のように、ふわふわとうねる柔らかい金色の髪を撫でる。
「ヌーヌーあそんだの!」
「ヌーヌーと遊んだのか。楽しかったなあ」
優しく繰り返すと、うん、と元気のよい返事。頷いて、出迎えた婦人に向き合う。洗練された所作で、深々と礼をした。
「御機嫌麗しゅうございます、陛下」
「イドニア、いつもご苦労」
応えて、奥のソファへと促す。テオドルスを膝に抱いて、対面に腰かけた。小さな手が、ぬいぐるみを振る度に、からころと軽やかな音を立てる。
「週末は、どんな様子だった?」
「お気に入りの玩具で、遊ばれていらっしゃいました。絵本を指差して、お話しなされたり、遠方に行きたいと、お知らせくださったり――本当に、利発な御子様でいらっしゃいますね」
小鳥のように繊細な声。常と変わらず過ごしていたのだと、安堵する。
我が子の成長を毎日見られないのはつらかったが、十歳になる年に、騎士見習いとして、入舎することが決まっている。なるべく早いうちに、エクエス家に馴染んだ方がいい、との判断だった。
と、扉の叩く音がする。
高王女付きの従騎士だった。傍らに跪き、明瞭な口調で告げる。
「申し上げます。今しがた御出産なされた由、高王女ならびに御子様ともに、お健やかにあられます。また、産務官より言伝を承っております――御対面の準備が整ったので、お越しいただきたい、とのことでございます」
「わかった、ありがとう。すぐに向かうと伝えてくれ」
短い返答と敬礼。すぐさま立ち上がり、部屋を辞していった。
膝の上で遊ぶ息子に、声をかける。
「テオ。父上は、母上のところに行くから」
「いく!」
緑色の大きな瞳が見上げて、活発な声が発せられる。
振り上げた小さな手の動きとともに鳴る、木製の鈴の軽快な音。優しく諭すように、緩やかに話す。
「テオは行けないよ。母上は、ねんねしているからね」
「ははえ、ねんね?」
「そう。母上のお腹にいた子が、生まれたんだ。だから、たくさんねんねしなくてはいけないんだよ」
ぱちくりと、緑色が瞬く。途端、滲んで溢れ出す。
「……おねつ?」
そっちに行ったか、と内心苦笑する。
確かに、日中にたくさん寝るといえば、まだ幼い息子には、昼寝か風邪くらいしか経験がない。こぼれ落ちる小さな雫を、指先で拭ってやりながら、柔らかく微笑む。
「お熱じゃないよ。子を生んだあとは、ゆっくりねんねするんだ」
不思議そうに傾ぐ、愛らしい顔。詳しい理由を説明すると、また不安にさせるので、大丈夫と、真っ直ぐに見つめて話す。
「だから、ヌーヌーと待っているんだよ」
「テオ……まつよ」
まだ少し不安げな瞳。ゆっくり向き合いたいと思うが、行かなければならない。ふわふわとした前髪に口づけを落とし、頭を撫でる。
「いい子だ。愛しているよ」
ふにゃと、小さな顔が綻んで笑う。たまらなく愛くるしいその様。深いいとおしさが、心を温めた。
侍従を呼んで、テオドルスを託すと、腰を上げる。イドニアが、立ち上がって礼をした。
「それでは、私はこちらで失礼させていただきます」
「ああ、また週末に」
頷いて、居室を出る。側仕えの近衛騎士が、素早く正面に回り、手早く衣服を整えていく。
本来なら、廊下ですることではないが、幼くても、驚くほど状況をしっかりと把握している。父親の膝の上で遊ぶことは、よくないことだと、思ってほしくなかった。
新緑の瞳が、ちらりと見上げて笑う。
「今回は、僕は必要なさそうだね」
「お前、今それを言うか」
苦々しく返す。秀麗な顔が、悪戯っぽく微笑む。
「何言ってるの。今だから、だよ」
隣で吹き出す声。エウゲニウスが、口を手で押さえて、肩を震わせていた。
「ああ、もう本当に――いくつになっても、面白いことをしてくれるよなあ、お前は。でも、一番面白いのは、大浴場の」
「ご次弟様。さすがに、その話はいけません」
容赦なく、エルドウィンが遮る。
ふと、新緑と目が合って、逸らされる。どことなく頬の血色が上がっているのは、たぶん気のせいではない。
ウィンケンスとの、しょうもない喧嘩。どうしてあんなことをしたのか、未熟な若さからくる勢いは、時折おかしな方向へと飛んでいくものだ。
「さて――」
その言葉を合図として、二人の空気が一気に変わる。
レクス隊副隊長が立ち上がり、礼をする。
「お待たせいたしました」
「よし。行こう」
短い返答を聞き、歩き出す。長い廊下の先、アメリアの待つ居室へと向かった。
寝室の扉を叩き、訪いを告げて入ると、暖かさが全身を包んだ。
ソファと卓は片付けられて、移動式の小型の暖炉が、赤々と燃えている。
鉄蓋に乗ったやかんから立ち上る、白い蒸気。部屋の隅に控えて礼をする産務官や産助師達に目顔で応じると、揃って退室していった。
薪が、ぱちぱちと爆ぜるだけの静かな空気の中、ほわと、赤子の小さな声がする。天蓋付きの大きな寝台に歩み寄り、傍らに用意された椅子に座った。
「フェリックス――」
囁いて微笑む、聡明な面立ち。少し疲れが見えたが、表情は穏やかだった。
枕元で、すやすやと、小さな寝息を立てる赤子。その頭には、漆黒の髪が生えていた。指先で、そっと撫でる。
ほわほわとした、柔らかな感触。うっすらと瞼が開き、また閉じていく。
覗いた群青に、思わず安堵の息が漏れる。最高格の紺青ではないが、それでも、紛れもない真夜の子だった。
碧色の瞳を見遣る。同じように、ほっとした表情。しかし、どことなく申し訳なさそうな色が混ざっていた。目顔で問いかけると、
「……女の子なの」
と、呟く声が落ちる。理解して、あえて冗談めかして言う。
「もう忘れたのか? 君だって一度、立太子したじゃないか」
すると、はたと淡く見開いて、ゆっくりと微笑みが広がった。
「そう……そうだったわね――」
碧色が、おもむろに滲んでいく。感嘆して、震える声がこぼれる。
「これで、あなたと添える――ずっと……傍に……」
頷いて、華奢な手を取って繋ぐ。そして、その白い手の甲に、柔らかく口づけた。
「俺の妻は、君ただ一人だ。たとえ、御夜の御元に還っても、ずっと傍にいるよ」
透明な雫が、煌めく碧色の瞳から、こぼれ落ちていく。
幸福に満ちた、名匠の絵画のように美しい光景。温かく深い喜びが、心に満ちていく。
「ねえ、フェリックス」
優しい声が、鼓膜を震わせる。目顔で穏やかに促すと、温かな囁きがこぼれた。
「生まれてきて、よかった……」
視界が滲む。繋いだ手に、力をこめる。
「ああ、そうだな、アメリア。そうだな――」
言葉にしがたいほどの大きな喜びと幸福が、全てを満たしていく。雫を垂らしてくれた神に、そして、多大な労苦をもって、子を生んでくれた妻に、心から感謝した。
*
王女は、ソフィアと名づけられた。
その年の冬至、立妃式が行われ、高王女アメリア・レガリス・ノクサートラは、正式に王妃となった。
真夜の王女の誕生は、人々の心をいくぶん和らげた。女子ということで、不服に思う層は、まだ確かに残っていたものの、批判的な空気は、次第に薄れていった。
そのおかげで、隠れていた好意的な意見も、見られるようになった。特に、子を持つ婦人達は、同じ母親としてよく支持し、人々の心情を変える追い風となった。
一年半後、漆黒の髪と紺青の瞳を持った王子ステファヌスが生まれると、民は大いに喜び、真夜の王と真昼の高王女との結婚を、漆黒の神の意思だと、心から受け入れた。
それから十年の間に、様々な髪と瞳の三人の子が生まれた。
六人の兄弟姉妹は、嫡子に家系登録された次男ステファヌスを中核に、よく助け合い、成人後は、それぞれの立場で、父母と嫡子をよく支えた。
真昼の王子テオドルスは、父親譲りの剣術の才覚をいかんなく発揮し、他の者の追随を許さない手練れとなった。義父であるエクエス家当主エルドウィン・カーサ・エクエスの薫陶を受けた優れた人格は、多くの者を惹きつけて、篤く慕われた。
真夜の王女ソフィアは、宰相ダヴィド・クラン・カンチェラリウスの嫡子に降嫁して、王家とカンチェラリウス家との和睦の象徴となった。その名の通り、豊かな知識と知恵で、よき相談役として夫を助けた。
王家の嫡子ステファヌスは、母によく似て、勁く聡明に育った。公明正大で果断な嫡子は、歴代の王に倣って、自らは節制し、民を重んじる政を行った。また、父の意志を継いで、真夜と真昼にとらわれない柔軟な政策を打ち出した。のちに、父の切り拓いた道を発展させた優れた王として、歴史に名を刻むこととなる。
暁の王女エレオノラは、コンシリウム家に下賜され、当代の当主によく仕えた。慎ましく温かな人柄は、底流に残り続けていた遺恨を、徐々に溶かしていった。それは、憎悪の連鎖が、真に終わりを告げた時であった。
晩年の末子である真夜の王子アンドレアスは、総帥ヘンリクス・クラン・フォルティスの孫娘に降婿した。頭の冴えの著しかった王子は、軍の要職を歴任し、智将として、数々の功績を上げた。
碧色の瞳と茶色の髪を持つ混血の真昼の王子エンマヌエルは、唯一、生涯独身を貫いた。時には当代の総帥の従者として、時にはたった一人で、諸地域を旅して実情を伝え、父母や兄の政を助けた。物語ることが得意な王子は、真夜と真昼の絆をより深めるために、両親の馴れ初めを脚色して、旅先で歌い伝えた。
のちに、その歌物語を元に製作された本は、多くの人の手によって写され、各地域の隅々にまで広まった。長く人々に愛された物語は、死後もなお、読み継がれている。
後世の歴史書は、この転換期をこう記している。
夜が歩み寄り、昼と添うた時代――まさに暁の月のごとし、と。




