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真夜の王①

 エルドウィンが、扉を引き開ける。騎士服を纏い、畏まって礼をする姿。つい先刻の、おはようと名を呼んだ優しい声と、柔らかな体温の余韻は、もうどこにもない。

 ゆっくりと、思い出の詰まった引き出しが、閉じていく。そして、本来あるべきだと示されてきた引き出しに、持ち替える。

(私は、真夜の王家の嫡子――ルキウス・レクス・ノクサートラの子)

 そうであれば、相応の振る舞いをしなければならない。子供の頃から教えられ、必死に覚えてきた。

 英明と讃えられた父のような、威厳に満ちた、風格ある態度。胸元の神眼石の硬い感触に触れると、暮らし慣れた部屋から、一歩を踏み出した。

 控えて歩く気配を背後に感じながら、長い廊下を進む。

 こちらに気づいて、威儀を正す騎士達。丁重な挨拶に応えて微笑む。威厳と威圧は異なる。親和を忘れてはいけない。

 外に出ると、フォルティス家の執務館を通り、王殿へと向かう。壮麗な装飾の木扉を叩いて、誰何に答える。

「――私だ」

 全てにおいて、最高位なのだ。名乗る必要はない。心得たように、すぐに扉が開いた。恭しく礼をする侍女頭を一瞥し、部屋の奥へと進む。

 ソファから立ち上がって出迎える、聡明で美しい姿があった。

「おはよう、フェリックス。今日はよく晴れたわね」

「アメリア、おはよう」

 応えて、腕を広げて待ち構える。

 不思議そうな、戸惑った表情。微笑んで、言葉を継ぐ。

「どうした? もう家系登録は済んだのだ。憚ることはない」

「……え、ええ……そうね……」

 ためらいながらも、するりと腕に収まる、華奢な身体。香油の華やかな甘さが、鼻腔をくすぐった。

 おもむろに身を離し、張りのある薄紅色の頬に触れる。朝日に輝く、美しい碧色。

 不意に逸れて、踵を返した。

「……座って。じきに、行政官が来るわ」

 頷き、ソファに隣合って腰かける。手を繋ぐには不自然な、微妙な距離。

 この日を境に、たっぷり甘えてくると思っていたのに、どうにも拍子抜けだ。

 機嫌を損なうことでもしただろうかと、話しかけようとしたものの、扉を叩く音に、言葉を飲み込んだ。

 侍女が引き開けて、行政官が入ってくる。ゆったりとした足取り。

 朝の挨拶に、応えて頷く。丁重に断ってから、対面のソファに腰を下ろす。そして、持参した封筒から、三枚の書類を取り出した。

「こちらが、殿下の戸籍と家系登録完了証――こちらは、高王女の家系登録完了証でございます」

 二枚を取り上げて確認する。

 修正の跡が残る書類に記された、真実の名――フェリックス・レガリス・ノクサートラの文字が、深く沁み込んでいく。顔を上げて告げた。

「ご苦労だった。礼を言う」

 行政官の白藍の瞳が、ほんのわずかに揺れる。どこか寂しげな微笑が、歳月を重ねた顔に浮かんだ。

「……貴方はそうして、生きてこられたのですな――」

 怪訝に眉をひそめると、老人の独り言でございます、と静かな声で答えた。そして、アメリアに向き、

「ご確認いただけましたかな?」

 と、尋ねた。聡明な横顔が、微笑んで返す。

「ありがとう。問題ないわ」

 行政官は頷くと、書類を回収して封筒に入れ、部屋を辞していった。

 淡い溜め息。振り見れば、優美な所作で立ち上がる姿があった。

「……私達も、そろそろ行きましょう」

 応えて腰を上げ、警護を伴って、王議室へと向かった。


「――ああ、もうっ!」

 二人掛けのソファに、思いきり飛び込む。はしたないなんて、気にしている余裕などなかった。

 あまりにも斜め上を行きすぎて、思考も感情も追いつかない。手続きの完了と同時に結婚でなくて、本当によかったと思う。

 しなだれたまま、対面のソファの後ろに控える近衛騎士を見遣る。

「アドルフ――あの奇妙な生き物は、何?」

「……私に、お尋ねにならないでください」

 若緑の瞳が、困ったように歪む。

 身体を傾けて仰ぐ。ウィンケンスの濃青を見つめて、問いかける。苦さを含んだ声が、降ってきた。

「わざわざ、私がお聞かせするまでもないと存じますが?」

 瞳の奥底に浮かぶ、嫌悪感。

 大切な家族が、あんな変貌を遂げたのだ。確かに、わざわざ言葉にして、耳に入れたくはなかった。

「……そうね……でも――」

 長く深く溜め息をついて、呟く。

「宝剣のようだわ……模造と、本物と……」

 濃青と若緑を、それぞれ見つめる。言葉はなかったが、同意の色が浮かんでいた。

(ねえ、フェリックス――あなたは、どこに行ってしまったの……? あなたは、誰になろうとしているの?)

 関わりの薄かった六貴族や従家の者達は、堂々とした振る舞いに歓喜し、王議での演説に快哉を上げた。

 確かに、驚くほど素晴らしかった。父と言葉遣いは似ていても、纏う空気は全く違う。まさに、神の寵愛を受けた真夜の王だった。

 皆の喜びようを思えば、このままがいいのかもしれない。

 しかし、父の立ち振舞いを磨き上げて、完成品にしたような、あんな得体の知れないものと初夜を過ごすなんて、おぞましいにもほどがある。

 何より、決して長続きはしない。父が母を強いて奪い、先の宰相を殺めたように、きっと悲惨な未来が訪れる。

(……まさか、お父様の苦しみの元が……こんな形でわかるなんて)

 他者を生き、その者に成りきれず、常に怯えて苛立っていた。一方で、フェリックスは、完璧にその他者と同化している。

 その差は、劣等か優秀か、ではないだろう。今朝の行政官の独白が、頭を過る。

(与えられた環境に応じて、心を変えてしまうんだわ……)

 まだ小さい子供の頃から、そうして生きてきたのだ。それでも壊れずにいられたのは、本来の自分でいる時間があったからだろう。

 優しく微笑む、温かな紺青の瞳を見つめたかった。心からいとしんで触れる、体温の少し高い手を感じたかった。

 王議と昼食を終え、午後の講義のために、財務官の執務館へと向かう背中。ようやく離れられると、嬉しさと安堵を覚えるなんて。

「……フェリックスに、会いたい……」

 ぽつりと呟く。濃青の瞳に、切実な悲しみが浮かぶ。

「きっと戻ってきます。殿下を置いて、どこかへ行くような奴ではございませんから」

 励ます、力強い声音。

 今となっては不敬となる――しかし、あえての言葉選びに、温かな気持ちが灯る。

「そうね――ありがとう、ウィンケンス」

 がっしりとした顔立ちに、明るい微笑が浮かぶ。アドルフを見遣ると、快活な笑みで、しっかりと頷いた。

 冬至まで、あと三ヵ月半。絶対に取り戻してみせると、固く心に誓った。


 いつものように、侍女達に服を着せてもらいながら、衣装棚の上の刺繍箱を眺める。

 埃ひとつなく、晩秋の朝日に艶々と光る木肌。最後に触れたのは、いつだっただろう。

 手続きが完了してから一ヵ月。

 政務に慣れないフェリックスを支える立場にあっては、どうしても一緒に過ごす時間が長くなる。そして、婚約者として、仲睦まじい姿を周囲に見せなくてはならない。

 離れている間でさえ、王子の奥方になる者として、六貴族の奥方や息女との交流に当てられる。趣味に興じている暇はなくなった。

 そして今日、やっと朝から一人の時間が取れるのだ。この好機を逃す手はなかった。

 身支度が済んで、居室に出る。

 茶を喫しながら待っていると、訪いがあった。そびえる巨躯が、対面のソファの傍らに立ち、きっちりと礼をした。

「おはようございます、高王女」

「おはよう、クレメンス。わざわざ来てもらって、悪かったわね」

 座るよう、手で示す。断りがあって、巨体がソファにゆっくりと沈む。侍女が茶を出して下がったのを見届けて、口を開く。

「今日呼んだのは、フェリックスの件よ。あの奇妙な振る舞いの原因を、あなたなら知っていると思って」

「やはり、その件でございましたか」

 群青の双眸が、おもむろに伏せられ、そして、ゆっくりと開いた。重く低い声が、静かに語り出す。

「私は、平民としてお暮らしだった殿下に、ふたつの立ち振舞いをお教えいたしました。ひとつは、フォルティス家直系の嫡子として、もうひとつは、王家の嫡子として――でございます」

 言葉が、ふと途切れる。

 ほんの微かに震える呼吸。緩やかに息をつくと、話を続けた。

「……そして――私は殿下に、ルキウス前王太子と等しくなられるよう、求めてきました。御父上はこのようになさっていたと、繰り返しお伝えいたしました。あれはまさに、ルキウス前王太子そのものでございます」

 哀しい納得が、心に落ちていく。春の王議で、恐ろしかったと、涙する横顔が浮かぶ。

 苛まれ、追い詰められながら覚えた生き方を、フェリックスは再現しているのだ。

 フォルティス家直系嫡子としての人生を失った代わりに。周囲の切望に応えて、王家に戻ったために。

 そして、その背中を、最も強く押してしまったのは、紛れもなく自分なのだ。

「……欲張った……罰、なのかしらね……」

 掠れた声が落ちる。

 何をどうしたら、正解だったのだろうと、心が苦しく悶える。

「そのようなことを、仰いますな」

 静かな、しかし労りに満ちた声。群青の双眸が、晩秋の朝日に柔らかく輝く。

「あなたのおかげで、私は失わずに済んだ。大切な息子を――そして、私自身も」

 えらの張った顔に、微かな笑みが浮かぶ。

 初めて見る、穏やかな色。ゆっくりと沁みて、気力を奮い起こす。

「前パラレ隊の近衛達に、フェリックスとしたいことを聴いたわ。皆、口を揃えて、呑みながら、他愛のない話で笑いたい――と」

 この一ヵ月、心からの言葉で、と前置きして、少しずつ尋ねてきた。

 手合わせをしたい。試合が見たい。改善策を思いついたから、聴いてほしい。結婚するから、子ができたから、報告したい。以前のように、気兼ねなく話したい。

 隊長、と親しみをこめて呼ぶ、騎士達の声。改めて、その絆の深さを知った。

 苦しい生を歩みながらも、後悔していないと断言したあの姿が、フェリックス自身なのだ。

「いいきっかけに、なると思う?」

 群青の双眸が、ゆっくりと瞬き、薄く微笑む。重く低い声が、おもむろに答えた。

「高王女に――なんということを」

 そして、控えて立つウィンケンスを見上げて告げた。

「関係の深い者達の当番を調整するように。エウゲニウスと連携して、抜かりなくやれ」

 指示した場所と日取りに、クレメンスの思いを知る。

 騎士舎の食堂で、フェリックスの誕生日を祝う。これ以上ない妙案だった。振り仰いで言う。

「ウィンケンス。絶対に、エルドウィンを説得して。レガリス隊総出でも何でもいいから、あの頑なで、一途すぎる二人をどうにかして」

 軽く吹き出して、笑いをこらえる顔。少し息をつくと、それでもにやけた面立ちで答える。

「的確すぎて、同意しかございませんね。大好きだから、遠く離れないと我慢できない――なんて、下手な語り部の悲恋物語ですよ。こちらとしても、気持ち悪くて仕方ございませんので、死力を尽くして、対応いたします」

 酷い言いように、思わず破顔する。なんとか笑いを収めて、クレメンスに告げる。

「取り入る意図はないと、他家への根回しをお願い。本当は、私がした方がいいのだけれど……全然、身体が空かなくて。法務官と行政官は協力してくれるはずだから、うまく連携してちょうだい」

「承知いたしました。我が甥のために、心より感謝申し上げます」

 重低音が答えて、深々と頭を下げる。

 あと二ヵ月、あの状態を耐えなければならないが、希望は見えた。

 フェリックスの積み重ねてきた歳月が――絆を紡いできた仲間が、きっといとしいひとを助けてくれる。今は、皆を信じるしかない。

 クレメンスが、部屋を辞してほどなく、写し姿が現れる。

 いつものように繕って微笑みながら、その日を無事に迎えられるよう祈った。


 *


 対面のソファに座ったエルドウィンの顔を、再度確認する。

 感情を排した、静かな表情。しかし、何かを恐れるように蒼白だった。父親と同様に、自制心の強い部下の異変。今朝から気がかりで、執務室に呼び出したのだった。

「今朝、フェリックスの何を見た?」

 前置きなしに尋ねる。

 今日の早番の側仕えは、後ろの配置だった。エルドウィンは対面に立ち、表情を見ていた。

 ほんの一瞬、新緑の瞳に浮かんだ、強烈な恐怖。それからは、淡々と職務をこなしていたが、動揺をなんとか抑えているのが、よくわかった。

「申し訳ございません。ご質問の意図がわかりかねます」

 口元だけが、柔らかく薄い笑みを浮かべる。全く笑っていない、ふたつの目。

 何もはぐらかし方まで似なくともと、心中で苦笑する。新緑を、真っ直ぐに見つめて返す。

「ブラッツはな、そういう顔をして、嘘を誤魔化すんだぞ。大切だから離れようとする気持ちはわかるが、あんな状態が長続きしないことは、お前が一番よくわかっているだろう」

 二週間後に控える、フェリックスの誕生日。エルドウィンは、周囲の話を頑なに拒んできた。

 一度戻れば甘えが出るという、律儀なこの青年らしい理由だが、二人にとって、全く幸せな結果にならない。

 新緑の瞳に、感情が閃く。背中を押すように、身を乗り出して話す。

「何かあってからでは遅いんだ。他の連中がわからない変化も、お前なら気づける。頼むから、話してくれないか」

 息を呑む声が、震えて吐き出される。微かな声が、落ちた。

「……侍女が、顔を上げた時――フェリックスの、目の色が……変わったんです。あれは……まるで――」

 途端、秀麗な顔が強ばり、視点が中空に固定される。ひゅっと、息を吸う鋭い音とともに、戦慄く声が漏れた。

「……い、嫌だ……い、や……」

「エルドウィン……?」

 わけがわからず、身を乗り出す。

 突然、腕が突き出され、咄嗟に手首を掴んだ。と、

「離してッ! 嫌だ! やめて! 来ないでえっ――!」

 絶叫が、耳をつんざく。その声音にぞっとする。あのおぞましい日と同じ――強いられ、蹂躙される者の声。

 すぐさま手を離して、卓を乗り越え、左側に座る。

 恐慌を(きた)して、泣き叫ぶ悲痛な姿。がむしゃらに振りかぶる腕を躱して、掻き(いだ)く。

「――エルド! 周りを見ろ!」

 ぴたりと、悲鳴がやむ。浅く速い呼吸。

 小さな子をあやすように、身体を緩やかに揺らしながら、背中を優しく叩く。

「ここが、どこかわかるか?」

 強ばって縮こまった身体が、弛緩していく。同時に、小刻みな震えが腕に伝わる。

「……団、長……」

「そうだ。俺の、とっ散らかった執務室だ」

 ゆっくりと体温が戻り、呼吸が穏やかになっていくのを感じる。震えが、おもむろに止まっていく。

「……っぼく……僕……」

「何も言わんでいい。怖かったな」

 大丈夫と、何度も柔らかく囁きながら、一定の調子で背中を叩く。

 しがみつき、しゃくり上げて泣く声。一体いつ、そんな許しがたいことが起きていたのだと、激烈な怒りが湧く。

 そして、それを思い出させるような目を、フェリックスはしていたのだ。――強いる者の目を。

 侍女の瞳は翠緑だった。〈仮初めの奥方〉に対して告げた、違和感の残る言葉。

 ――泣くななんて、もう言わないから……。

 屋敷に遊びに来いと誘おうとして、札が外泊になっていることは、よくあった。

 その時は、若者らしくて結構なことだと、呑気に思っていた。しかし、実態はきっと、そんな穏やかではなかったのだ。

 そして今、歪みを修復する手段も、親友と他愛なく過ごす時間も、失ってしまった。均衡を保つために、心が犠牲を欲している。絶対に、それだけはさせてはならない。

 ふと、耳元で微かな声が聞こえる。柔らかく問い返すと、涙で滲んだ声が呟いた。

「……フェリックスに、会いたい――抱き締めて……エルドって、呼んでほしい……」

「そうだな――お前が呼べば、あの子はきっと、帰ってくるさ」

 鼻をすすりながら、頷く感触。

 呼び合って、温かく笑い合う――あの微笑ましく幸せな風景をまた見たいと、切に願った。


 茫洋と、闇に沈んだ天井を眺める。もう寝なくてはいけないのに、眠気は一向に訪れてはくれなかった。

 ひたすら書類を確認して承認し、王議で議論を重ねて決定していく日々。あまりにも足りない知識に、助言を乞わなければならない不甲斐なさ。

 講義を受けてはいるものの、数字に関わることは、本当に骨が折れた。商務官や財務官の分野になると、会議の流れを逐一止めてしまうし、講義は遅々として進まない。

 商務官の目に浮かぶ嘲笑が、心を苛んだ。

 ――軍事については、滑らかにお話しになりますねえ? 一体、どなたの教えでしょうか。

 伯父に向く、非難と皮肉の視線。どんなに腹が立っても、中立を保つべき王家の嫡子である以上、やり過ごすしかない。

 議長を務める宰相が、うまく采配して、嫌な流れを止めてくれるものの、そもそも自分がしっかりしていれば、無用の配慮なのだ。

 財務官は、あからさまな態度は取らないが、期待するほどではなかった、という落胆にも似た諦念を感じて、つらかった。

(……エルドもブラッツも、きっと理解しているんだろうな……)

 警護として、背後に控える気配。振り返って尋ねたかった。

 どんなに難解で、瞬時に打ちのめされる問題でも、二人の解説を聴けば、すんなりと頭に入っていった。あの、優しく穏和な声が聴きたかった。

 右腕をさする。柔らかな体温を、ずっと感じてきた。それなのに、今は冷たく寒々としている。手を伸ばせる距離にいても、あの匂いに包まれることは、もうないのだ。

 銀の鎖を手繰り寄せ、黒い袋を取り出して開ける。

 闇の中でも、ほのかに光を放つ神眼石。素早く的確に、六貴族の当主達に応えていく横顔が、頭を過る。

 さりげなく、書類の端に記された助言のおかげで、当主達が得心する光景を、何度も見た。それから、まるで定型のように、さりとて高王女の提案だろう――もし、高王女が真夜だったら、という視線。

 神の片眼がふさわしいのは、アメリアだった。

(……俺は……父さんには、なれない……)

 唸るような苛立ちが、心を痛く軋ませる。歪みがずれとなって、閉じていた裂け目から、暗い淵を覗かせる。

 今朝の光景が、胸に浮かぶ。

 礼をして顔を上げた、新任の侍女の瞳。初冬の光に輝く翠緑。暗い愉悦が、隙間から溢れ出てくる。

(だめだ……あれは、俺のものではないんだから……)

 碧色の瞳を思う。

 触れても、熱量のない表情。実はどうしようもなく無能だったと知って、幻滅したのだと思うと、たまらなかった。

 立太子式まで、残り一ヵ月。冬至の夜、閨では決して触れないと、改めて誓った。

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