新しい道
渡された書面を読了して、あまり衝撃に、碧色の瞳を凝視した。戦慄く固い声が落ちる。
「……殿下……これは、どういう……」
近衛騎士団とフォルティス家での引き継ぎのため、政務は、引き続きアメリアが担う形で動いていた。
ただ、公表文は二人に関わることだからと、最終稿を確認する段取りだったのだ。
感情の凪いだ色。淡々とした口調が返ってくる。
「フェリックス、わかって。誰を守り、誰を従わせるか――それを吟味した結果よ」
政には、ある程度の策謀や欺瞞も必要だ。主家として、エクエス家の献身を、ずっと見てきた。全てを正しさで押し通すことはできないと理解しているが、綴られた内容は、あまりにも飲み込みがたかった。
承服しかねて黙っていると、碧色の奥に、揺らめくものが見えた。
「……汚いと思う?」
今まで聞いたことのないほどに冷たい声が、鼓膜を刺す。
「それなら、フロス街の館を全て閉鎖すべきだと、私が言ったら――あなたは、賛同してくれるかしら?」
凄絶に燃え盛る炎が心を貫く。震える声が、悶えて語る。
「私は、あの街が嫌い。耳心地のいい言葉で誤魔化して、女を欲の道具にする。それでも、あの街があるからこそ――お父様の散財を換金して、危難の蓄えにできたし、〈太陽の剣〉の頭領を引き入れられた」
細く長い溜め息。長い歳月で、数々のものを諦めてきたような、老成した横顔。碧色の瞳に、ゆっくりと感情が灯る。
「……私だって――こんな虚構は、どうかしてると思うわ。でも、全ての者を導く王家として、民を安心させて、日々の暮らしに気持ちを向けてもらわなければならない」
指を組んで、固く握り締めた華奢な白い手を見つめる。
アメリアはずっと、王家の嫡子として、覚悟をもって臨んできたのだ。その責の重み。何もわかっていなかったと、省みる気持ちが沸々と湧く。
「殿下の御采配の通りに。私に、異存はございません」
応えて、原稿を返す。頷いて受け取るものの、アメリアの顔は晴れない。心配に思って呼びかけると、
「……違うの。……少し……嫌なことを、思い出しただけ……」
碧色の奥で燃える、嫉妬の激しい炎。
女の情念を感じる生々しい景色に、その時初めて、いとしいひとの苦悩を知った。
*
夏の初め、前王太子ルキウス・レクス・ノクサートラの嫡子の生存が発表された。
同じ年の冬至に立太子式が行われ、王太女アメリア・レクス・ノクサートラとの結婚式が、併せて挙行される。
嫡子の名は、フェリックス・クラン・フォルティス。物語のような劇的な経緯は、人々を驚嘆させた。皆こぞって広場に会し、語り部の声に、一心に耳を傾けた。
煌々と輝く満月を仰ぐ。窓辺で、尊い親の見守る光を受けながら、やりきれない後悔に苛まれていた。
休日の同輩に誘われて、買い物に出かけた昼。広場に集まる人だかりに、聞いてみようと言われて、断りきれずに付き合った。
不幸な事故から一人生き残った前王太子の嫡子が、どのようにフォルティス家直系の嫡子として生き、立派な近衛騎士となったか。王太女は、なぜ混血の真昼の容姿をしているのか――。
滔々と語られる理由は、フロス街の住民なら、すぐに嘘だとわかる内容だった。しかし、商売相手の基盤が安定するならと、皆、静かに受け入れていた。
それから、フェリックスと王太女の物語へと移った時、これが本題なのだと悟った。
健やかに、利発に育っていく王女に向けられた、許しがたい悪意。嫡子が、王女に誓いを立て、守り抜いてきた日々――。
感動的に語られる、数々の温かな話を聞きながら、フェリックスの心は、一滴も自分のところにはなかったのだと、痛烈に実感した。
こういう話には、虚構が多少なり混ざるものである。
しかし、果てる直前の最も心が開く瞬間に、無意識に名を呟くほどなのだ。きっと、ほとんどが真実なのだろうと思った。
晩冬の、力強い生気の抜けた身体。
確かに、脇腹の隅に、生々しい傷跡を見た。暴動から身を挺して王太女を守り、そして語られなかった真実の中で、死を覚悟するような出来事があった。
思い出をくれた、あの優しい春のひとときに、夜を逡巡したのは、結局のところ、ただ身体が欲するだけだと自覚していたからだ。
心の結びつきなど、一切ない行為。十年間、心の奥底で知りながら、ずっと目をそむけ続けてきた。
便りも訪いもない一ヵ月半、やっと無事がわかって安堵したというのに、こんな形で突きつけられるなんて。
ばらばらに砕けた心を感じながら、長年の苦難を乗り越えて、二人が愛を育み結ばれるのは、漆黒の神の采配である――という終わりまでを聞いた。
まさかこんな話であなたが泣くなんて、と同輩は驚いたが、〈主人〉を本気で恋慕っているからだなどとは、口が裂けても言えなかった。
こうして、全てはなかったものとして、消えていくのだ。
将来を誓い合った幼い夜も――あの幸福な春の思い出さえ。
(……私は……〈仮初め〉の女……その夜限りの情けを、もらえるだけ……)
会いたかった。あの声で、きちんと話を聴きたかった。心を、知りたかった。
満月を見つめる。神の愛は決して平等ではないのだと、悲しさが心を包んだ。生まれて初めて、祈ることなく眠りについた。
フェリックスから、来週末に街で会えないかという便箋ともに、分厚く長い手紙が届いたのは、夏の盛りが過ぎ、夜気に涼しさが混ざり始めた頃だった。
用件について承諾の返事を書き、封をする。束ねた紐を解くと、一心に読み始めた。
職務の引き継ぎで身体が空かず、間が空いてしまってすまない、という詫び。そして、婚約したから館には行けない、と説明が続く。最後に、体裁を整えた形で、締めくくりの定型文と身分名の署名。
そんなことと、半ば苛立つように思いながら、二枚目に進んで、はっとする。一枚目は、ただの〈主人〉から〈奥方〉への手紙だと見せかけるための表紙だった。
とはいえ、忙しかったのは本当だろう。そもそも、月単位で間が空くなんて、今まで普通にあったのに。
しかも、総帥の嫡子が交代する上に、王家の嫡子になるのだ。一大事なんてものではない。
いつまでも相手の立場を慮れない自分を叱って、緩やかに息をつく。
丁寧に、力強く闊達な文字を追った。
――これから書くことが、言い訳になるとは思わない。償いきれないほど、俺は君に酷い仕打ちをしてきた。だが、事情を知ることで、君の心が少しでも安らぐのなら――。
前置きのあとに記されていたのは、火事のあと、フェリックスの歩んだ長い道のりだった。
突然突きつけられた、出自の秘密。支配と抑圧。その中で、憧れの騎士になって見つけた、大切な存在。己の無力さ。刻々と迫る時。守るために、自ら命を断とうと決心したこと。時折滲んだ点は、苦しみ泣いた涙の跡のようだった。
暗い愉悦に嗤う顔が、心に浮かぶ。つらい責め苦のあとは、必ず優しかった。
深い後悔を抱えて、それでも止められない苦しさ。置かれた境遇を思えば、心に痛く腑に落ちた。
――君が受け止めてくれたおかげで、俺は歩き続けることができた。君と過ごした時は、決して忘れない。生涯、この胸に仕舞って、抱き続けるだろう。
可愛いトリーナ。大切な幼馴染みであり、長年支えてくれたかけがえのない〈奥方〉。どうか行く末に、多くの幸せがあるように――。
姓のない、名だけの署名。
闊達で力強い字が滲んでいく。頬を伝う涙とともに、心が流れていくのを感じた。
幼い頃からの、唯一の恋人。穏やかに微笑む、優しい顔。逞しい腕と胸。熱い肌。抱き合う重み。名を呼んで、震える掠れた低い声。吸い込まれそうな、深い紺青の瞳。
大好きで、苦しくて恋しくて、ひたすらに縋った――幾年の夜。
雫とともにほどけて、思い出に変わっていく。長い恋が終わったのだ、という実感が、温かく哀しく心を満たした。
「……っフェリックス……! フェリックス!」
手紙を抱き締めて名を呼びながら、ただただ溢れるままに涙した。
洗面用の小さなたらいに水を張る。
一枚ずつ千切った紙片が、淡雪のように落ちていく。
手紙の内容は、王宮に関わる秘密だ。他の人の目に触れさせるわけにはいかない。一枚目の表紙と、二枚目以降の最初と最後の部分だけを残して、あとは心に綴じ込んだ。
滲む筆跡を眺めながら、思いが定まっていくのを感じる。
黄みの差した浅緑の瞳。ためらいがちに、しかし真っ直ぐに告げられた、誠実な言葉。自分をずっと、待ってくれたひと。
手を後ろに回して、首飾りの留め具を外す。深い青色の宝石と鮮やかな桃色の宝石。
そっと胸に当てて、目を閉じる。幸せな午後の風景が、心に浮かぶ。一筋、温かな涙がこぼれた。
指先で拭うと、装飾品を仕舞う小箱の奥に収めた。
その日は、濃い青に白い雲が柔らかく漂う、よく晴れた空が広がっていた。
約束の喫茶店に足を運べば、すでにその姿があった。
脚を組んで、本を繰る姿。金茶色の長い髪は編んで飾られ、淡くうねりながら、細い背に流れて、陽光に輝いている。
夏らしい鮮やかな緑の上衣に映える、白い肌。完璧な造作の顔立ち。美しい容貌は、遠目で見ても、一際目立っていた。
「――トリーナ。すまない、待ったか?」
近づいて、声をかける。見上げて微笑む顔。緩やかに、首を振る。
「いい日和だから、外に出たくて。もう夏も終わるもの。満喫しないとね」
対面に腰かけ、寄ってきた給仕に同じものを頼む。
栞紐を挟んで置いた本。服飾に関する題名が記されている。
トリーナの母からの手紙を思い出す。任期中の婚約について、許諾を求める内容。微笑んで告げた。
「おめでとう。衣装店の跡取り息子なんだってな」
一瞬驚いて目を瞠り、それから、はたと気づいて、困ったように眉根を寄せる。
「もう、お母さんね。詳細は書かないでって、言ったのに」
「どうして? いい縁談じゃないか」
何のてらいもなく言うと、そっと窺う視線に出会う。長年積み重ねてきたやり取り。苦い笑みがこぼれる。
「トリーナ。もう君は、務めを終えるんだ。俺に気兼ねする必要なんて、ないんだよ」
「……そうだけれど……気になるものでしょう……?」
苦笑が深くなる。確かに、複雑な思いはあった。
ただそれは、幼い頃の六年と再会してからの十年という、長い付き合いが終わることへの情けない未練のようなものだ。吉報は、素直に喜ばしいものだった。
「何も思わなかった、とは言わないよ。でも、君が幸せになるなら、俺も嬉しい」
翠緑の中で揺れていた不安の気配が消え、ゆっくりと笑みが広がっていく。穏やかで、優しい色。温かな気持ちが、心を満たした。
「今日は、これを渡したくて。行政の手続きが済んだら、ここには来られなくなるからな」
鞄から封筒を取り出して、卓に置く。
受け取って、問いかける翠緑の瞳。目顔で開けるよう促す。
「……これ……」
中身を見て、驚きに青ざめていく。受取人限定の自分宛の小切手。気がつけば、相当な額になっていた。
混乱して揺れる瞳を見つめて、穏やかに告げる。
「十五歳の頃から貯めてきた給金だ。毎月一定額を振り替えるようにしていたら、いつの間にか、そんな額になっていてな」
十年という長い歳月。様々なことがあった。今ようやく、あの頃の思いを果たせる。
「子供の頃、自分の店を持ちたいと言っていただろう。任期明けの開業資金にと思って、再会してすぐに、口座をつくったんだ。だから、それは君のものだよ。どうか受け取ってほしい」
動揺していた瞳が、おもむろに定まっていく。顔に赤みが戻り、喜色に染まる。満面の、鮮やかな笑み。翠緑の瞳が、幸福に潤む。
「――覚えていてくれたのね……」
「毎日、店先を一緒に眺めていたんだ。さすがに、俺も覚えているさ」
好きな女の子とともに歩く嬉しさ。純粋で無垢な日々。そして、思い出をなぞるように過ごした、麗らかな春の午後。子供の頃は、考えもつかなかった――その先。
あれほどに、美しく艶やかに咲き誇った姿を見たのは、初めてだった。煌めく雫に濡れた、翠緑の瞳。恋慕う言葉。あの夜が最後で、幸せだったのだと思う。
小切手を封筒に仕舞うと、抱くように胸に当てる。幸せに満ちた、美しい笑顔が咲く。
「ありがとう……大切に使わせてもらうわ」
微笑んで頷く。嫁ぎ先で才覚を如何なく発揮して、いきいきと輝く姿が、心に浮かんだ。
優しく穏やかな声が尋ねる。
「フェリックス、あなたは幸せ?」
「幸せだよ。本当に――いまだに信じられないくらいだ」
何憚ることなく、愛するひとの傍にいられる。失ったものは決して少なくないが、それでも、想像以上に多くのものを得た。
煌めく碧色の瞳を思う。これからは、夫婦として、ともに歩むのだ。満ち足りた心で、穏やかに微笑む。
「君が、長年支えてくれたおかげだ。縁の繋がったのが君で、本当によかった」
〈離縁〉を盾にしながら、結局、本気でそうしたいとは、一度も思わなかった。
都合のよさを手放せない以上に、素のままでいられる時間が、何よりの慰めになっていたのだ。
「私も、あなたと再会できてよかったわ。こんなにも、ただ一人を恋慕うなんて――もう二度とないもの。幸せなことよ」
「……トリーナ……」
穏やかな微笑が、痛く胸を刺す。
卓に置いた手を包み込む、細い両手。翠緑の瞳が、昼下がりの光に潤んでいる。
「もし、あのまま一緒にいられたとしても……私は、別の主家様の〈奥方〉になって、結婚はできなかったわ。それが、あなたと添うことができたのよ」
満ち足りた、優しい笑み。掌の温かさ。吸いつく柔らかな肌を思う。添うことの意味が、胸に迫る。
「だから、幸せだったことだけを覚えていて。私と過ごした時を、後悔にしないでほしいの」
そっと手を重ねる。翠緑の瞳を、真っ直ぐに見つめて告げる。
「ありがとう。君のことは、忘れない」
美しい顔が、微笑んで頷く。重なった手が、おもむろに離れていく。
洗練された所作で立ち上がった、伸びやかな姿を見上げる。陽の光に煌めく、翠緑の瞳。優しい声が告げる。
「元気でいてね、フェリックス。御夜の御元でまた」
「トリーナも。御夜の御元で会おう」
晴れ晴れとした夏の日差しの下、鮮やかな笑顔の花が咲き誇る。
踵を返すと、金茶色の長い髪を風に揺らしながら、群衆の中へと去っていった。
入れ、という返事に、重厚な装飾の扉を押し開ける。
窓から差し込む、晩夏の明るく淡い光を背にして、伯父が執務机に向かっていた。力強く走る、筆記具の音。書類の見えない位置に立ち、呼びかける。
「――父上」
署名が、ぴたりと止まる。おもむろに、えらの張った顔が向く。明瞭な声で告げた。
「明日付けで、手続きが完了します。――十六年間、お世話になりました」
寸分の狂いなく、きっちりと礼をする。この家で叩き込まれた、所作と姿勢。他家にはない、誇るべき習慣だ。
角張った顎が、頷きかけて止まる。群青がわずかに逸れて、微かな重低音が問いかける。
「……父親役は、本当にいいのか」
立太子式とともに行われる、アメリアとの結婚式。
結婚は、父親の臨席と申し出があって、為されるものだ。しかし、二人とも、父はすでに亡い。
そこで、伯父を、アメリアはヘンリクスを指名した。
フォルティス家に偏るが、宰相は式を執り行う務めがあり、次代当主のダヴィドはまだ成人前だ。やむなしと、他家の承認を得て、式の準備が行われることになった。
「俺は、総帥の嫡子として育ちました。父と呼べる人は、父上の他にいません」
群青の双眸と目が合う。複雑な表情。真っ直ぐに見つめて告げる。
「どうか、ご自身を責めないでください。もし、何事もなく王家で育っていたら、得られなかったものを多く得ました。後悔していないと言ったのは、本心です」
おもむろに滲む色。
不意に、巨躯が立ち上がって窓辺に佇み、晴れ渡った昼下がりの空を仰ぐ。重く低い声が、呟いた。
「……楽しみにしていよう」
心をこめて、礼をする。父と仰ぎ、ずっと追いかけてきた、広く大きな背中。
名匠の彫像のような、威厳ある姿を目に焼きつけて、執務室を辞した。
「やっぱり狭いな」
顔を傾けて、隣で横たわる親友を見る。秀麗な面立ちが、おかしそうに笑う。
「そうだね」
秋の到来を感じる、涼しい夜。
明けて朝になれば、月が変わり、籍はノクサートラ家へと修正される。フォルティス家直系嫡子として過ごす、最後の夜だった。
「昔、ウィンケンスと三人で寝たこともあったよな」
「そうそう――消灯後、こっそり話してたら、急に来たんだよね」
まだ騎士見習いで、大部屋だった頃。
被っていた布団が勢いよく剥がれて、お前ら一人じゃねられねえのかよ、だせえ、と馬鹿にした声が降ってきた。
せっかく楽しい気持ちでいたのに台無しにされて、本当に腹が立ったものだ。
「お前が、仲間外れにしてごめんね、なんて言うから、あいつ顔を真っ赤にして、怒っていたな」
「でも結局、文句を言いながら、入ってきたよね」
がたいも威勢もいいくせに、末子で甘えん坊な同い年の従兄。
不器用で、フォルティス家の子息ながら、剣術はからっきしだった。それが今では、三人の兄にも決して劣らない手練れになった。
一方で、寂しがりだからか、よく人を見ているところは、昔から変わらない。高王女付きの付長に推したのも、そうした信頼があったからだ。
「それで、俺が端に寄ろうとしたら、次代様なんだから真ん中だろ、なんて言ってな」
当時は、散々馬鹿にしておいてと苛ついたが、思い返せば、方便だったのだ。ここぞという時に素直になれないのは、性分というものだろう。
「なんというか、気持ちの表現が偏ってるよね。しっかりしなきゃと思って、ああなるのは、よくわかるんだけど」
「本当に――おかげで、引き継ぎに苦労したな」
「そういえば、試合したんだよね」
編成の軍議のあと、どうして俺が隊長なんだ、と駄々をこね続けて一週間。
埒が明かないと、剣術の試合に誘ったのだ。完膚なきまでに打ち負かして、ようやく大人しくなった。
面倒この上ないが、互いにすっきりできたのだ。結果的には、よかったのかもしれない。
「……結局――札遊びも騎戦盤も、勝てずに終わったな」
ヘンリクスの計らいで、この二週間は、同じ当番で職務に当たった。
エルドウィンは宿舎に泊まり、結婚前と同じように、一緒の時を過ごした。
体術や剣術の試合をし、子供の頃から今までやってきた、あらゆる遊戯をし、酒を酌み交わした。
永遠に続いてほしいと願いながら、とうとうその日が来てしまう。
「でも、試合は勝った」
親友の静かな声が、鼓膜を打つ。新緑の瞳が、灯りに煌めく。
「やっぱり強いよ。試合していて焦るの、フェリックスくらいだから」
名を呼ぶ声。明日になれば、親友は警護の近衛騎士となり、殿下と呼びかけるのだ。
「……なあ、エルド」
応えて秀麗な顔が、柔和で優しい微笑みを湛える。
もう、この愛称では呼べない。従家の主は主家だ。王家を支えるのは、王の柱である六貴族であって、身分はより遠くなる。
「エルド……」
おもむろに抱き合う。
子供の頃から親しんできた、日溜まりのような朗らかな匂い。十六年間、ずっと一緒にいて、温めて支えてくれた親友の。
この絆は決して変わらないと、信じて疑わなかった。
「……ずっと……思ってたんだ……」
首元で響く声。涙を含んで滲む音。
「フェリックスが結婚して……子ができたら――僕の子が、補佐官になるんだって。僕達みたいに……なれたらいいなって……」
きつく抱き締めて、強く頷く。
そういう未来を、確かに描いていた。それが当然のように、思っていた。
少しだけ身を離して、新緑の瞳を見つめる。潤んだ色が、灯りを反射して輝く、その綺麗な様。優しい声が告げる。
「ありがとう、フェリックス――友達になりたいって、言ってくれて……親友に、なってくれて……」
幼い日の、愛らしい笑顔が重なる。
あの日から、様々な表情を見てきた。そのどれもが、温かくて柔らかくて優しかった。
「……好き……」
こぼれるように囁く声。透き通った音色が、心を優しく撫でていく。
「フェリックス……大好き……」
「ああ……俺も――大好きだよ、エルド」
金色の長い睫毛に縁取られた新緑の瞳が、幸せに満ちて、柔和に微笑む。この世界で、これほど綺麗な笑顔は、他にありはしないと思う。
あの日と同じように、とくとくと高鳴る鼓動。温かに笑って、穏やかに告げる。
「本当に……ありがとう……」
引き合って、抱き締める。
背中に回った腕の――誰よりもよく知っている、しなやかな感触。柔らかなぬくもり。安心感が、心をくるむ。
ただただ互いの匂いと体温を感じながら、緩やかに、眠りへと落ちていった。




