終焉
誰何に答える声に応じて、刑吏が両開きの扉を引き開ける。
護送を担う王宮騎士達に囲まれて、手枷と足枷を嵌め、腰縄をつけた男が入ってくる。歩を進める度に、鎖の硬質な音が鳴る。
対面のソファの傍らに男が立ったところで、座らせて枷を外すよう、騎士の一人に指示する。用向きは事前に伝えていたから、意を汲んで、短い返答とともに、枷が取り外された。
腰かけて、何気なく手首をさする所作。刃のような鋭利な面立ちを見つめる。青緑の双眸が、春の陽光に、とりどりに色を変えていく。
ウィリアム・ハワード。〈太陽の剣〉の頭領でありながら、フェリックスの〈仮初めの奥方〉と二ヵ月余りを暮らし、あらゆる情報を渡した。裏切りの理由を、惚れたからだと、ぬけぬけと吹いた男。
対面した今、術中に嵌まった、ただの愚かな女好きではないと知る。おそらく、話していないことも多くあるだろう。気を引き締めて、言葉を発する。
「あなたに、頼みがあるの」
青緑の双眸に、興味深げな表情が浮かぶ。元兵士らしく威儀を正しながらも、どこか状況を楽しんでいるような姿。
「陛下を弑逆した者として、刑罰を受けてほしい。ワルターが――父が、苦しまずに逝けるように」
それから、全てを語った。
母は〈暁の家人〉であり、実父はワルターであること。身籠っている最中に強いられたために、穢れた生まれであること。実父に対する思いから政の観点まで、ありとあらゆる事情を、余さず話した。
語り終えると、
「承知いたしました。御意の通りに」
とだけ言い、軍式の礼を執った。
寸分の狂いのない所作。〈太陽の剣〉の頭領になった経緯を思い出す。
所属のペクニア街区隊での評価も高く、部下に慕われ、家庭生活も恵まれていたという男の転落の果て。
きっかけは、妻の産後の不調だったという。有能な才を、こんなことに費やすとは。行政や福祉で掬い上げられなかったことを悔やむ。
青緑の双眸を真っ直ぐに見て、真摯に問う。
「最後に、望みは?」
どこか意外そうに、ゆっくりと瞬く。ひとつ頷いて、ほのかに苦笑した。
「惚れた女の恋人が……どんな男か、ずっと見てみたいと思っていましたが――」
視線が背後に向く。今日の側仕えの近衛騎士は、ウィンケンスとアドルフだ。フェリックスは休日で、ウィリアムに会うことは伝えていなかった。
ふ、と淡く鼻で笑う声。青緑の双眸が、静かな光を湛える。
「間男は間男らしく、知られず消え去る方がいい」
穏やかに微笑む顔。全てを受け入れ、無になる者の面立ち。
気がつけば、言葉が滑り出ていた。
「……フェリックス」
青緑の双眸が、微かに瞪る。はたと気づいて、後悔した。しかし、もう吐いてしまったのだ。苦い思いで、続きを告げる。
「フェリックス・クラン・フォルティス。……トリーナ・コールマンの〈主人〉よ」
口にした途端、強烈な嫉妬が心に湧く。もう結婚が決まったというのにと、自分を叱る。
一方で、もう二度と存在を思い出したくないと、必ず真夜の子を産んで、生涯を添い遂げるのだと、狂うような激情が渦巻いた。
なるほど、と小さく呟く声が落ちる。目を細めて、造作の鋭い顔が微笑む。
「その帰る場所は、あなたなのですね――殿下」
肯定も否定もせず、黙って青緑の双眸を見つめる。昼下がりの光を浴びて、青に緑に変わる色。静かな声が、鼓膜を打った。
「……灰の身で、還ろうとしていたわけか……」
悲嘆の慣用句。意図を計りかねて、眉をひそめる。鋭利な面立ちが、淡く微笑む。
「同じ心にならないと知りながら、それでも幸せな日々を送りました。あれほどの情報ですから、ケイトも恋慕う〈主人〉から報奨をもらえるでしょう。私はそれで、十分です」
青緑の双眸に、いとしく優しい色が灯る。語らずにいることは多いだろうが、惚れたから、というのは、あながち虚言ではないと悟る。
「あなたのお望み通り、陛下を弑し奉った極悪人を演じますよ」
ウィリアムは明確に言いきると、晴れやかに笑った。
石畳を歩く靴音が、高く鳴って、長い廊下を渡っていく。看守が見回りをしているのだろうと、茫洋と思う。
音が近づき、鉄格子の前で止まった。緩慢に視線を向ける。
真夜の男の姿。確か、シエンティア家当主長弟の医務官だったか。
静かな声が、呼びかける。
「先の当主よ。こちらに」
微かに頷いて、鉄格子の前に立つ。医務官が、小さな紙の包みを掌に乗せて開く。白い細かな粉末。薄藍の双眸が、穏やかに微笑む。
「この薬を一週間飲み続ければ、心が抜け落ち、痛みを感じにくくなります」
刑の執行される、夏至までの期間。今さら情けをかけられたところでと、空しく思う。
白い粉をただ眺めていると、別の男の声が降ってくる。顔を上げて見遣れば、医務官の後ろに真昼の男がいた。
よく知った顔。シエンティア家従家当主の法務次官だった。
「あなたは、〈太陽の剣〉の一関係者として、刑の執行がなされます。当日、ウィリアム・ハワードが陛下を弑逆したとして処され、あなたの素性は秘されます」
全てが、するすると腑に落ちていく。
宰相従家当主が王を弑したとなれば、民の動揺が深まる。そして、心を失った姿で群衆の前に現れれば、大罪人に情けをかけたと、怒りが暴発しかねない。身代わりを立てて、切っ先を向けさせることで、丸く収めようというのだ。
「……不要だ」
淡々と告げる。
もう、どうでもよかった。ただ、もはや無になるのであれば、憐れまれてみじめな最期を遂げるよりは、覚悟を通したかった。
しかし、医務官は包みを畳んで、そっと水筒とともに差し出した。
「殿下の恩情です。どうか、受け取ってください」
薄藍の双眸を凝視すると、淡い苦笑が漏れた。
「嘘ではありませんよ。血を分けてくれた父に、最後の贈り物を――と」
穏やかな声が告げ、法務次官が言葉を引き継ぐ。
「ウィリアムの承諾を取りつけたのも、殿下です。直接面会されて、事情を全てお話しになり、身代わりをご依頼なさったのです」
碧色の瞳が、心に浮かぶ。
緑と青の、美しく溶け合ったその色。愛するひととの、大切な娘。
「……アメリアが……」
視界が滲んでいく。涙が、次から次へと頬を伝い落ちる。
手を伸ばして、薬と水筒を、押し頂いた。
季節の移り変わりを感じる、爽やかな風の渡る朝。王都の中央広場に、ふたつの火刑台が組まれた。時が迫るにつれ、人々が集まり、刑の執行を今か今かと待ち望んだ。
死刑囚を乗せた荷馬車が到着すると、群衆の空気が一変した。激しい怒気が膨れ上がり、少しでも何かが触れれば、並び立つ二人に襲いかからんばかりだった。
どっちが王様を殺した頭領だ、お前知らないのか、と囁き交わす声。
と、鐘を打ち鳴らす音が響いて、ざわめきがやむ。刑吏の厳格な声が、朗々と響く。
「これより、火刑を執行する!」
そして、青緑の双眸の男が、手前の台に引き出される。
「ウィリアム・ハワード。弑逆罪、反逆罪及び煽動罪により、火刑に処す」
途端、罵声が噴出する。次の死刑囚について宣告する刑吏の声は掻き消され、群衆の目は全て、真夜の王を殺した〈太陽の剣〉の頭領に注がれた。
その傍らで、茶褐色の髪の男が、静かに火刑台に縛められていく。
心を失い、茫洋とした緑色の瞳。激烈な憤怒に包まれた中で、髪が被り物だと気づく者はいなかった。
死刑囚が、それぞれ火刑台にくくりつけられ、火が放たれる。油を染み込ませた木材は、瞬く間に燃え上がり、晩春の朝の空へと高く伸び上がった。
大罪人の灼けつく絶叫に、狂喜し、喝采の声を上げる群衆。炎の中の影が静まり返ったあとも、人々は熱狂の眼差しで、赤々と燃える火柱を見つめた。
遺体が灰になるまで、火刑台には、薪がくべられ続けた。
昼になると、人々は商人の売り歩く料理を食べながら、大罪人が無になりゆく様を鑑賞した。
日が傾きかけた頃、入念な消火がなされ、灰が集められた。
ウィリアム・ハワードの遺灰は、〈罪人の河〉に投げ入れられた。
緩やかに流されていく粉塵を追いかけるように、河底から、灰色の靄が立ち上る。そして、遺灰を包み込んで溶け合わさり、静かに消えていった。
王太女の両手に乗った、木彫りの小箱。中には、ワルター・カーサ・コンシリウムの遺灰が、収められていた。
王妃の傍らに膝をつき、優しい声が語りかける。
「ご家人様。ご当主様から、贈り物ですよ」
「まあ、どのようなものを……?」
青色の瞳に光が灯る。微笑みを浮かべる、儚く美しい顔。
王太女が、小箱を差し出して告げる。
「幸せの詰まった箱です。幸せが逃げてしまうから、決して蓋を開けてはいけないと、仰っていました」
二重構造の蓋は、目立たないように木釘が打ってある。力任せにこじ開けない限り、開くことはない。それでも、念を入れての言葉だった。
ふふ、と青色の瞳に嬉しさを満たして、王妃が微笑む。
「素敵ね、ワルター様らしくて――繊細なところがおありだもの……」
「そうですね。ご家人様のご様子を、しきりにお尋ねになって、一心にお耳を傾けていらっしゃいましたよ」
王太女が優しく返す。そして、痩せた手に小箱を乗せた。王妃がいとしんで、精緻な彫刻の施された木肌を撫でる。
「ワルター様……」
愛する主人に触れる、家人の白い手。
主人は無になり、神の元においても、もう二度と会えない。娘は心中を見せず、ただ静かに微笑んで、血を分けた父母を見つめた。
娘の刺繍した小さな鞄に木箱は入れられ、家人は肌身離さず、大切に傍に置いた。
そして、六年後、アグネスがその生涯を終えると、ワルターの小箱は、愛するひとともに棺に収められた。
太陽が頭上高く上がる白昼。晩春の日差しが降り注ぐ中、シエンティア家の敷地にある処刑場で、ユリウスの刑の執行がなされた。
見学者の席で、希望した部下達とともに、その時を待つ。隣には、ヘンリクスと宰相がいた。立会人の席には、法務官と法務次官が座っている。そして、死亡届を書く医務師。
これから行われる刑の内容を考えれば、わざわざ見物したいという者は少ない。部下も、先輩や同期といった、長年アメリアをともに警護してきた古参ばかりだ。
淡々と、刑吏達が執行の準備をしていく。
綿を詰めた布袋で大鋏の切れ味を最終確認し、炉に太い鉄の棒を差し入れる。燃え滾る鉄の鮮烈な赤。強いられた次妹の苦しみの血のようだった。
ユリウスが、刑吏に引っ立てられて到着する。
粗末な衣服。布の轡を嵌められて、後ろ手に縛られ、粗野に扱われる姿。漆黒の長い髪は、無惨に刈られて、見る影もなかった。
刑吏は、処刑台の前にユリウスを立たせると、下衣と下着を一気に引き下ろした。白日に晒される矮小さ。鼻で笑う者もいたが、誰も咎めはしなかった。
刑吏長が近寄ってきて、ヘンリクスに声をかける。
「近衛の団長様。準備が整いました」
厳格な面持ちで頷く。そして、こちらを振り見ると、
「フェリックス、お前がとどめを刺してこい。法務官の許可は、取ってある」
何も聞いていなかったので驚く。厳しい表情が、少しばかり緩む。
「異例のことだから、いろいろ手続きに手間取ってな。剣はあるだろう」
確かに、今日は変則的に当番を組んで、これから早番の後半と遅番に入るから、持参してきていた。
下半身を晒らして、立ち尽くす痩躯を見つめる。
ずっと殺したいと、切望してきた。あの騒動で、人を斬った。しかし、あの時は、自分の身とアメリアを守るため、という大義名分があったのだ。
〈教育隊の悲劇〉が、頭を過る。
配られた三重の紙袋。吊るされた罪人の死体。皆、訝みながら、隊長の言葉を待った。
抜剣の鋭い音が響いた瞬間、死体が真っ二つになった。どさりと落ちる半身。垂れ下がる内臓。強烈な臭気。甲高い子供の悲鳴の中で、隊長の厳しい声が轟いた。
――いいかッ! お前らの手にしたその剣は、こういう代物だ! 決して、己の欲のために振るうな! 仕える主君のために振るえ!
がたがたと震えて、隣に座る親友と手を繋ぎ、身を寄せ合った。しゃくり上げて泣く新緑の瞳がぶれて、薄青の双眸に変わる。
「……でも、……義兄上……」
力強く、肩に大きな手が乗る。厳格で真摯な声が、心を揺さぶる。
「お前はずっと、殿下を守ってきた。お前の剣は、殿下の剣だ。決着をつけてやれ」
部下達を見渡す。強い光を宿して、見つめ返す数多の目。総意だった。
エルドウィンとともに、居室で待つアメリアを思う。
可愛らしい子供の時を、健やかに成長する少女の時を、美しく聡明な女人となった今を――その折々に穿たれる、数々の非道な暴力。
あの首を断てば、まっさらな未来が開けるのだ。
「――わかりました。俺がやります」
肩に乗った手に手を重ねて、強く返す。薄青の双眸が頷き、肩を軽く揺する。そして、戦いに送り出すように、背中を叩いて言った。
「行ってこい。全てを、終わらせてやれ」
腰を上げて、棚に立てかけていた長剣を取り、剣帯に差す。刑吏の案内通り、斬首のための隙間の傍らに立つ。
刑吏が、畳まれた緋色の布を差し出して、説明する。
「返り血から、衣服を守るための執行服です。上から被って、備えつけの紐で縛ってください。剣は、側面から出せますので」
広げて纏うと、裾が床まで届いた。裾の切れ込みから剣を出して、留め具で閉じる。長袖の口を絞り、腰についた紐を締めた。
緋色に染まった刑吏達。刑吏長が、刑の執行を宣言する。
「これより、ユリウス・フルメン・カンチェラリウスの刑を執行いたします。四以上の罪及び刑につき、刑務執行法第百五条により、執行決定書にて、宣言したものとみなします」
そして、合図とともに、手袋を嵌めた刑吏が、陰茎を掴んで、無数の細かな針のついた金具で固定した。別の刑吏が、処刑台と胴体とに隙間ができるよう、後ろから羽交い締めにして、容赦なく引っ張る。
悶絶し、くぐもった呻き声を上げる醜態。最初から、こんな余計なものがついていなければと、冷たく見下ろす。
刑吏が大鋏を持って、狙いを定める。身体を押さえる刑吏と頷き合うと、ためらいなく柄を閉めた。それから、流れるように睾丸を掴んで伸ばし、切断した。
ばたばたと鮮血が落ち、水が漏れ出して音を立てる。切断した部位は、木桶へと無造作に放り投げられた。
刑吏が、意識の飛びかけている顔を、容赦なく斬首台に叩きつける。胴体を革帯で固定し、頭を上向かせた。
首が狭まって斬りにくいと思ったところで、声がかかる。
「鉄交刑が終わりましたら、完全にうつ伏せにしますので」
刑の内容と目的を思い出して、納得する。頷いて了承した。
分厚い手袋を嵌めた二人の刑吏が、熱した鉄の棒を手に、痩せた尻の前に立つ。
返しのついた、太く長い棒。ひたりと先端が当たって、皮膚の焦げる音が弾け、臭気が立ちこめる。
覚醒して、恐慌を来す顔。限界まで見開いた群青と、目が合う。口の端から、だらだらと唾液を垂らして、何事かを叫ぶ。
後悔か懇願か謝罪か。いずれにせよ、決して許されることではない。長妹は心を壊され、次妹は実の兄の子を妊娠し――そして、アメリアを。
「お前が、楽しみと称して強いてきたことだ。存分に味わえ」
刑吏達が、上に突き出た柄を握り締め、息を合わせて、鉄の棒を一気に押し込む。痩躯が、陸に揚がった魚のように、びくびくと跳ねる。
抜けない限界まで刑吏達が身を引くと、泡立った肉片と血が、高熱の鉄にこびりついていた。立ち上る湯気を吹き消す勢いで、再び埋まっていく。
繰り返される律動。汚らしい喘ぎ。徐々に増す速度。まさに、男が達するような――その時。
刑吏達の合図の声が高く上がり、最奥まで刺し貫いた。
跳ねて激しく痙攣する痩躯。泡を吹いて、物言わなくなった口。群青の目からは、生気が消えていた。
鉄の棒が、ゆっくりと引き抜かれる。何事もなかったように、刑吏達が淡々と道具を片付けていく。
「お待たせいたしました。今、準備いたします」
平静な声で、刑吏が告げる。頭を動かしてうつ伏せにし、革帯でしっかり固定した。
真っ白な痩せた首。刑吏達が離れたことを確認し、目顔で刑吏長に問う。どうぞと、手で指し示す仕草。
柄に手をかけ、剣を抜く。鋭い金属音。刃が、太陽の光を反射して閃く。痩躯の背中に、片足を乗せる。
あれほど殺したいと、激烈な怒りに満ちていたのに、不思議と殺意すら湧かなかった。凪いだ心で、首筋に刃を当て、狙いを定める。
剣を高く掲げて構えると、一気に振り下ろした。
同じ当番の部下に、少し遅れると伝達を頼み、いったん騎士舎に帰った。
大浴場の湯浴室で身体を清めたあと、騎士服を洗濯に出し、新しいものに着替えて、王殿へと戻った。
居室の扉を叩くと、誰何の声がかかった。名を告げてから、ややして扉が開く。出迎えた侍女頭に会釈して、奥へと進む。
静謐を湛えた面持ちで、アメリアはソファに座っていた。礼をしてから、傍らに控えるエルドウィンと定例の報告をして、交替する。
辞して扉の閉まる音が、無音の空間に響く。微かな声に呼ばれて、振り見る。
「……聴いたわ。あなたが、斬ったのね」
頷く。揺れる碧色の瞳を見つめる。
そっと、腕に触れる手。傍らに跪いて、静かに問う。
「首を……ご覧になりますか?」
はっと瞪って、瞳が伏せられる。上衣を握る手が、微かに震えている。
掠れた声が答える。
「……ええ――」
緩やかに、碧色が開く。真っ直ぐな視線。明瞭な声が告げた。
「見るわ」
シエンティア家の刑務棟。首を検分する旨を伝えると、準備するというので、刑務長の執務室で待つことになった。その間、刑務長が何度も確認したが、アメリアの意思は揺らがなかった。
しばらくして、刑吏が戻ってくると、地下に案内された。
騎士舎の食堂にかなり大きな氷室はあるが、これほど広い空間は珍しい。低い天井に頭をぶつけないよう、気をつけながら、進んでいった。
迷路のような道のりを歩き、ようやく目的の場所に着く。刑吏が鍵を取り出して、錠を外し、重い鉄扉を押し開ける。
耳に軋む、不均衡な音。火葬される遺体が安直された室内に入ると、異様な空気が、全身を覆った。
壁一面の鉄製の棚。四角い蓋が、隙間なく並んでいる。そのひとつが引き出されて、滑車のついた台が姿を現していた。
人の形に盛り上がった、緋色の布。頭の部分だけが、一際高く立っていた。
刑吏が、気遣わしげに尋ねる。
「殿下。本当に、御心にお変わりはございませんね?」
「ええ、見せて」
明瞭な声が、室内に響く。
強く光る碧色の瞳。刑吏が頷いて、頭部の布を取り払った。
アメリアの、息を呑む声。震えた手が触れる。確かに繋いで、握り返す。瞠った瞳が、真っ直ぐに、鉄の台に乗った首を見つめる。
乱雑に刈り取られて、艶を失くした漆黒の髪。光のない、濁った群青の瞳。
弛緩して垂れ下がった顔に、表情が宿ることは、もう二度とない。
嘲って蹴り続けた脚は、嗤って辱しめた手は――身体は、炎に包まれて灰になる。神の元へ還っても、決して会うことはない。
「……終わった、のね――」
涙が一筋、こぼれて伝う。見上げる碧色の瞳。微かな声が、名を呼ぶ。
「……フェリックス――」
そっと、頬に触れる。手が重なり、声にならない声が上がる。涙を溜めて、歪む瞳。
華奢な身体を抱き寄せる。背中に、しがみつく感触。胸の中で、震えて囁く声が聞こえる。
「……ありがとう……」
抱き締める腕に、力をこめる。
心を振り絞るような声。数々の、苦しい記憶が心に過る。
返して、と泣き叫ぶ、小さな子供の声。無力で何もできない自分が悔しくて大泣きした、少年の頃。涙に濡れた、円かな頬。力が及ばずに苛立ち、鬱屈した日々。
引き裂かれた上衣。少女の暗い声。暴かれて震える、華奢な身体。燃え盛って狂う、激烈な怒り。
もっと早く傍にいられたらと、深く後悔した。もし、と考えるだけで、恐ろしかった。
ようやく終わったのだ。この手で、終わらせた。
侮って嘲り、虐げられた十年間。長い苦しみの時が、終わりを告げた。
まっさらな紙の上で、ひたすらに筆記具を走らせる。
フォルティス家直系嫡子の執務室。戸籍と家系登録の修正が決定してから一ヵ月余り、嫡子となるヘンリクスと、レガリス隊高王女付き付長に任命されるウィンケンスのために、引き継ぎ書の作成に追われていた。
訪いを告げる音に、顔を上げる。返事をすると、声変わり途中の掠れた声が名乗った。
「宰相の次代です。今、よろしいでしょうか?」
立って行き、扉を引き開ける。少年の青藍の瞳が、見上げていた。
招き入れて、ソファを勧める。二人で対面に座ると、緊張した面持ちが見つめてくる。
同格とはいえ、家系登録を変更して、まだ二ヵ月しか経っていない上に、十一歳も違うのだ。無理もないと、柔らかく目顔で促す。すると、意を決したように口を開いた。
「兄に、毒のことを教えたのは――ぼくです」
思い詰めた表情。悲しく、まだあまりにも若い華奢な姿を見つめる。
「知っているよ。医務官のご長女に、尋ねたんだろう」
ダヴィドの細面が、はっとする。青藍の瞳が、滲んでいく。
「……ごめんなさい……ぼくの、せいで……」
ゆるゆると、首を振る。
毒の入手方法については、ワルターが、ユリウスから情報の提供を受けたと証言した。
しかし、ユリウスが罪を否認し続けたため、ダヴィドや医務官の長女にまで、捜査は及ばなかった。それが正しいと思っていたから、被害者として事情聴取を受けた時、二人のことは話さずにおいた。
医務官も、この件には口をつぐみ、カロレッタは、兄の指示だと断言し、毒の詳細については、兄から聞いたと話した。
悪意に利用された、まだ若い二人を守ろうとする、大人達の言動。穏やかに返す。
「君が、機転を利かせてくれたから、俺は今、ここにいる。ご長女もそうだ。あの時、施術してくれたおかげで、殿下をお守りすることができた。どうか、自分を責めないでほしい」
仕官服を握る両手が震える。青藍の瞳に、涙が溜まっていく。
「ですが、兄の言葉が本当ではないと――家のためではないと、薄々気づいていました。それなのに、ぼくは教えてしまった……! そして、裁かれずにいる。直系が途絶えてはいけないと言い訳をして、命を惜しんだんです!」
悲しく喉を裂く、掠れた叫び。握り締めた拳に、ぱたぱたと雫が落ちる。
清廉な少年の心を利用した下衆に、改めて怒りが湧く。しかし、もうこれ以上、あの男のせいで苦しむ者は出ないのだ。剣を振るった右手をさする。
「もし明るみになれば――ご長女にも、累が及んだだろう」
小さな頬を紅潮させた、可愛らしい姿。密やかに、手紙で育まれた幼い恋。いとしい碧色の瞳が、心に浮かぶ。
「君が守りたかったのは、あの子だったんじゃないか?」
どこかあどけなさのあった少年の顔が、ぐっと引き締まる。立派な一人前の男の面立ち。直向きな視線で、言葉を紡ぐ。
「それは、言い訳にはなりません。……したく、ありません」
ふっと顔が綻ぶ。
穏和な学者気質の少年に、こんな勁さがあったとは。伸びやかな行く末が見えて、柔らかく告げる。
「それならそれで構わない。だが、残念なことに――俺は、政事と祭祀については、からきしなんだ。助けると思って、いてくれないか?」
おもむろに顔が上がる。瞪った青藍の瞳が、みるみる歪んでいき、まだほのかに丸みの残る頬に、涙が伝う。真っ直ぐな音色が、誠実に告げる。
「王の柱である宰相の次代当主として、身命をかけて、お支え申し上げます」
「ありがとう。頼りにしているよ」
そっと、華奢な肩に手を伸ばして、励ますように軽く叩く。
はい、と滲んだ返事。しゃくり上げて泣く、清廉な姿。
あと八年もすれば、宰相の刑が執行される。
たとえ専門的な知識においては助けになれなくても、ヘンリクスが寄り添い導いてくれたように、この優しい少年の力になりたいと、心から願った。
*
夏至から一ヵ月後、カロレッタ・フルメン・カンチェラリウスは、男児を出産した。
生まれた子は、産声を上げることなく、法定通り、母親の選択によって火葬された。遺灰は、様々な理由で火葬された子を弔う〈嘆きの谷〉に撒かれた。
執行猶予の明けた年、カンチェラリウス家傍系の子息が、カロレッタの元に婿入りした。優しく理解ある年下の夫と三人の子をもうけ、穏やかに幸せに暮らした。




