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赦し②

 翌日の早番のあと、義伯父と四人の子息達が、総帥の執務室に集められた。当主の補佐官として、ブラッツが王議の概要を語った。

 従兄達は、それぞれの度合いで一様に驚き、義伯父は、ただ静かに受け止めた。そして、

「嫡子を登録すると聞いた時、あれに何度も確認したのだ。その度に、当主の慶事だというのになんてことを、と怒ってな――気づいていて、何もしなかった。私も、その一人だ。むごいことをした。申し訳ない」

 と、深々と頭を下げた。首を振って、静かに返す。

義伯父上(おじうえ)には、騎士見習いからずっと、折々に気にかけていただきました。家族として、俺を受け入れて接してくださった。何もしなかったなんて、そんなことはありません」

 義伯父の藍色の双眸が、おもむろに滲む。そして、ウィンケンスの方を向いた。

「これが無事、近衛騎士になれたのも、君が同期として手本を示してくれたおかげだ。よき友としても、長らく付き合ってくれた。――本当に、ありがとう」

 同い年の従兄を見遣る。濃青の瞳が、揺れて逸れる。

「父上。俺はちゃんと励んで、自分の力で叙任したんです。手本になんてしたこと、一度もありませんよ」

「またお前は!」

 すかさず義伯父の手が伸びて、ぺしっと、ウィンケンスの頭をはたく。

 ()てっと大仰に言いながら、その箇所を押さえる姿。こういう時に、素直になれない奴なのだ。おかしくて、思わず吹き出す。

「うわあ、人が怒られてるのに。お前って、本当に嫌な奴だよな」

「わざわざ怒られる態度を取るからだろう。本当に素直じゃないな」

 わざと煽るように言う。売られた喧嘩は必ず買う奴だ。一気に、一触即発の空気になる。

 と、ウィンケンスの肩に、手が置かれる。隣で、三男のエウゲニウスが呆れて言う。

「お前ら、いつになったら懲りるんだよ。やり口が、九歳から変わってないぞ」

「だって兄上――」

 まるで手綱を引くように、肩をぐっと押さえて、反発を封じる。

 もどかしそうな濃青の瞳。勝ち誇ったように笑ってやる。悔しそうな表情が、がっしりとした顔に浮かぶ。

「まあ、こうして言い合えるのも、今のうちだからな。存分に楽しんでおくといいさ」

 左手から、淡く笑う声がして振り見る。

 柔らかく細まった、藍色の双眸。嫡子である長男――名を呼ぶ価値のない屑。それなのに、的確に感情を捉えて言葉にする勘は、変わらず冴えているのだから、本当に忌々しい。

 そして、ウィンケンスは、本心を言い当てられると弱いのだ。がたいのいい体躯が、しょげて小さく見える様は、寂しさを否応なく増幅させる。

 エウゲニウスが、末弟の肩を揺すって、優しく言う。

「ウィンケンス。そんなに寂しいなら、泣いていいんだぞ」

「はっ⁉ 急に何言ってるんですか!」

「可哀想に。兄上が、抱き締めてあげよう」

 おお、よしよし、と大げさに頭を掻き回す所作。さりげなく関節を()めているあたり、フォルティス家の伝統かとおかしくなる。

 うるさく騒ぐウィンケンス。義伯父が呆れて呟く。

「お前達は集まると、どうしてそう落ち着きがなくなる。――それで、話は全てだな?」

 ソファの後方で、静かに控えていたブラッツが、首肯する。

「はい。全内容は、議事録の公開を()つことになりますが――特に、主家様に関する事項は、以上でございます」

 義伯父が頷いて、伯父を向く。そして、王宮騎士団団長の顔になって言った。

「では――私はまだ仕事が残っているので、戻ります」

 角張った顎が微かに動く。義伯父が、騒がしい子息達を一瞥して、溜め息をつきつつ、執務室をあとにする。

 その途端、ウィンケンスに水を向けられた。今は多勢に無勢だ。ここぞとばかりに、売られた言葉を買って出る。

 まるで少年のような、くだらなく楽しい喧嘩。そっと、伯父を見遣る。ごく薄く、穏やかな微笑みを湛えた横顔。初めて見る、その温かな群青。

 いつか――家族の皆で、開け放して笑える日が来たらと願った。


 重い木製の扉をゆっくりと押し開けて、アメリアとともに中に入る。長らく閉ざされていたはずなのに、澄んだ空気が身を包んだ。

 高い天井を囲むように切られた窓から、春の盛りの霞みがかった月明かりが降り注ぐ。磨き上げられた石の床に、靴音が硬く響き渡る。

 静謐な光に照らされた部屋の奥――壮麗な装飾の台座に、それはあった。

 漆黒の剣。世界が夜と昼に分かれた頃、漆黒の神が、餞として王家の祖に賜った恩寵の証の片割れ。台座に突き立ち、銀の鎖で、厳重に縛められている。

 柄にかかるように、窪みの彫られた鍵のようなものがあった。

 その楕円の形。そして、窪みの内側に刻まれた模様。目にした瞬間、神眼石の裏側と対になっていると気づく。

 アメリアに、手提げの灯りを渡す。仕官服の立ち襟を緩め、首に提げている銀の鎖を外した。固く縛った紐を開いて、神眼石を取り出す。

 黒地の中央に、紺と青の丸い縞模様の入った小さな石の表面が、灯火と月明かりで、艶やかに光る。手元を覗き込んで、アメリアが感嘆する。

「まあ、なんて綺麗なの」

「御夜の片眼――神眼石でございます。亡き父から受け継いだ、大切な形見……」

 最期の穏やかな笑顔。優しい声。紺青の瞳。父の託した思いを、ようやく果たす。

 一歩を踏み出し、神眼石を宛がう。ぱちりと、寸分の違いなく嵌まった。

 途端、剣を縛めていた鎖が、清澄な音を立てて、ほどけていった。

 精巧に同じ形をつくっても、決して解けなかったという鍵。月明かりに静かに光る、神眼石と漆黒の剣を見つめる。

 父の立太子から二十六年という歳月を越えて、並び立ったふたつの神の恩寵の証。その先の、煌々と輝く月――尊い親の意思を感じる。

 神眼石を鍵から外し、再び首に提げて、立ち襟を閉じる。神を讃える(ことば)を唱え、指先で、右目、左目、唇、胸に触れる。最後に柔く手を合わせて祈ると、台座に乗った。

 漆黒の鞘を持って、ゆっくりと引く。屋内だというのに、ふわりと風に押し上げられる感触がした。神の息吹きか――仰いで、朧な月を見つめる。

 神は何も答えない。しかし、温かく柔らかな光は、優しく見守っているようだった。

 剣帯に鞘を差して、台座から降りる。佇んで待っていたアメリアの隣に立つと、柄に手をかけた。

 鞘走る、玲瓏な音。清澄な音色に、人を殺めるための武器ではないと悟る。

 濡れた光に輝く漆黒の刃。隣で、感嘆の声がこぼれる。

「本当に綺麗ね……やっぱり、本物は違うわ」

 首を巡らせて、碧色の瞳を見つめる。立太子式の、凛と気高く清廉な姿が閃く。

 ずっと願ってきたこと。剣を持ち替えようとすると、そっと手が重なった。

御夜(みよ)は、私を王家に受け入れてくださったけれど――恩寵の証は、お授けにはならなかった。私には、分不相応だわ」

 促す感触に従って、ゆっくりと鞘に収める。穏やかで聡明な微笑み。柔らかな声が語る。

「即位すべきはあなたよ、フェリックス。私はあなたに出会えて、御夜に心から感謝してる。十年間、あなたとともに過ごした日々は、私の宝物よ」

「殿下……」

 いとしさが、沸々と湧く。碧色の瞳が幸福に潤んで、月明かりに煌めいている。いとしいひとの心を映した色。言葉を交わすことなく、見つめ合う。

 しかし、不意に瞬くと、それ以上を避けるように、アメリアが離れた。

「さあ、行きましょう。みんなが待っているわ」

 これから話される議題。一瞬、心に痛みが閃いたが、無事が保障されたのだ。多くを望みはしないと、静かに思う。頷いて、ともに宝剣の間をあとにした。


 王議室に入ると、六貴族と従家の当主達が、直立して出迎えた。王太女の隣に据えられた席に、腰を下ろす。

 宰相が、臨時会を開く旨を宣言し、現状の家系登録に沿って呼称すると前置いた。アメリアと二人で同意する。

 議長を務める宰相が尋ねた。

「宝剣の縛めは、解かれたのだね?」

 応えて剣帯の金具を外し、卓に置く。宰相が、鞘の口と刃の根元に、模造品の印がないことを確認して、総帥が同様に改めた。

 王族の当主二人によって真物と特定され、他の当主達の顔に、安堵の表情が浮かぶ。同時に、崇敬の眼差しが注がれ、落ち着かない心地で受け止める。

 ただ一人、法務官だけが、冷静な面持ちだった。

「それで、妃は誰に?」

 腕を組んで、厳格な声が問う。財務官が、ためらいながらも口を開く。

「家格を考えれば、総帥のご長女か、宰相のご次女だろうが――」

 空気が、一気に沈む。

 ヴィクトリアは、すでに結婚している。しかも、自分に代わって、次代当主となるヘンリクスの妻だ。そして、カロレッタは実の兄の子を身籠っている。総帥や宰相に連なる傍系の息女も、総じて既婚者だ。

 五年前なら、もっと選択肢があったが、過去を嘆いてもどうしようもない。格は落ちるものの、一代遡った近傍系か――家系図を頭に描きながら、成り行きを見つめる。

 と、鷹揚でのんびりした声が、言葉を発する。

「まさか誤った家系登録が、ここで活きるとはの」

 重い沈黙の中でやけに響いて、視線が一挙に集中する。しわの寄った温厚な顔が、にこにこと笑みを湛えている。

「戸籍上、殿下は従妹にあたられる。身分の格において、不足はあるまい」

 話が相反していて、怪訝に眉をひそめる。規定では、廃太子された子女は、結婚を許さないということだった。

 コムニア家従家当主の行政次官が引き継いで、説明する。

「昨日、ようやく全ての注釈書を解読できまして、結婚を不許可とする理由が判明いたしました。降婿または降嫁により、恩寵の証の秘密が流出することを防ぐ目的でした」

 当主達の顔に、納得しつつも、懸念する色が浮かぶ。その不安を受けて、行政次官が代弁するように問いかける。

「ただ、民が納得するでしょうか。新年祭での謁見で、殿下の御姿についての噂は事実だったと、王都は動揺しています」

 ふむ、と行政官が頷く。鷹揚な口調が、案を示す。

「結婚はするが、妃としては立てない。真夜の子が生まれれば、民も受け入れよう」

 途端、ざわめきが広がる。思わず、隣を振り見た。

 平静な横顔。凛としたよく通る声で、

「――皆、静かに」

 と言った。静けさが戻るのを待ってから、アメリアが尋ねる。

「生まれなかった時は?」

「次代の年齢を考えれば、三年が限度でございましょう。もし叶わなかった場合は、離縁して、真夜の息女と再婚してもらいます」

 理解の意を伝えて、明確に頷く横顔を凝視する。あまりにも無礼な提案だ。すんなりと受け入れたのが、信じられなかった。

 視線に気づいて、アメリアが見上げる。強く光る、碧色の瞳。聡明な声が告げる。

「そんな顔しないで。そもそも私は、コンシリウム家の下女に戻るべき身の上なのよ。王家に置いてもらえる上に、あなたの妻になれるのだから、こんなに有難いことはないわ」

「……ですが……」

 子は、神からの授かり物だ。人では、どうすることもできない。そんな不確定要素に賭けて、清い身体に手をつけるなど、到底承服できなかった。

 ためらって、返せずにいると、

「総帥の次代。殿下の御身を案じる心意気は立派だが――ここは、飲み込んでほしい」

 右手の奥から発言があって、振り見る。財務官の青色の双眸と目が合う。生真面目な面立ちが、几帳面な調子で語る。

「王家の子女として教育を受けたのは、もはや殿下のみ。フォルティスとして育った貴君には、確かな助言役が必要だろう。殿下の才は、皆が認めるところ。側で政務に携わっていただけるならば、安心して、王の柱として支えていけるというものだ」

 おもむろに頷いて、法務官が引き継ぐ。彫りの深い顔が、穏やかに微笑む。

「そして、殿下は高王女として、王殿でお暮らしになる。そうなると、生活をともにし、政務でも同じ時を過ごす。他にもう一人、入る隙間などないな」

「……総帥が、もっと早く、恩寵の証の所在を確かめていれば、これほど困らずに済んだというのに」

 商務官が、苦々しげに溜め息をつく。アメリアの澄んだ声が、鋭く空間を駆けた。

「――商務官。ユリウスが、あれほど強硬に無罪を主張したのに、一切退けられて有罪になった理由を、考えたことはない?」

 宰相のやつれた顔が、はっとする。怪訝に眉をひそめる商務官を、真っ直ぐに見つめて、アメリアが告げる。

「総帥が、フェリックスを直系嫡子として、警護に当たらせたからこそ――私はまだ、清いままなのよ」

 商務官の薄藍の細い目が、瞪って瞬く。

 しかし、納得いかないと反駁する色が閃いた。と、

「――殿下。それは、買い被りというものでございます」

 言葉を吐き出す息を遮るように、重低音が響く。落ちた視線のまま、総帥が静かに語る。

「確かに、これが恩寵の証を知らないと言った時、改めるべきだった」

 伯父の巨躯を見つめる。

 前の月に八歳になったばかりの子供相手だ。服を剥いで調べることなど、造作もなかっただろう。その選択をしなかった意味の重さが、改めて沁みていく。

 商務官が、勢いを得たとばかりに割り込む。

「なるほど。では、非を認めると」

「幼い子供にとって、突然親を亡くすことが、どれほどの衝撃か、貴官はわからないのか」

 はたと、開いた口が、中途半端な形で固まる。

 顔合わせのあの日、ヴィクトリアに告げられた言葉が、心に浮かぶ。

 青藍の瞳を泣き腫らして母を呼ぶ姿が、ありありと想像できた。小さな娘を抱き締める、伯父の哀しい様も。

「気持ちが落ち着くまでと考え、手続きを取った。そうして暮らすうちに――情が湧いたことは、否定しない」

 えらの張った顔が上向き、群青の双眸が、こちらを見つめる。静かで平穏な色。その奥に――ほのかに浮かぶ、温かさ。

「これの剣術の才は、目を瞪るものがあった。我が家の血が濃く出たのだと――思いがない授かり物を、手放すことができなくなった」

 群青が、真っ直ぐに商務官を見る。重く低い声が、確固として告げる。

「行動を引き延ばして、事態を悪化させた責は認めよう。しかし、フェリックスは、長年育ててきた私の宝だ。つまらない意趣返しのために利用することは、控えてもらいたい」

 深く響く、父親の声音。おもむろに、視界が滲む。

 初めて試合で勝った時、群青に浮かんだ純粋な喜色。当時は、負けは恥だと散々言ってきたくせにと、ひねくれた気持ちで見下ろした。今、するりと心に染み込んでいく。

「――総帥の嫡子として、申します」

 商務官を、ひたと見つめて発する。

「私は、フォルティス家で育った十六年を、後悔していません。マニュルムで暮らしていた頃、騎士道物語を読んで、ずっと憧れていました。棒切れで真似事をするほど夢中だった剣術の教えを受け、騎士の中でも、栄誉ある近衛に叙任されました」

 伯父の群青が、ほのかに滲む。

 師と、父と、仰げる存在を得た。数えきれないほどの思い出が、去来する。

「王家の嫡子としての務めを果たしてこなかったことは、申し訳なく思います。ですが、それと過日の事件は関係ない。私の実家を――父を、これ以上侮辱するのであれば、相応の手続きを取らせていただきます」

 ぐっと詰まる、商務官の小狡い顔。薄藍に宿る敵意を、臆すことなく受け止める。

 緊張感があたりを覆いつつある中、呵々と笑い声が響いた。振り見ると、行政官が愉快そうに笑みを湛えている。

「いやはや! 本当に親子というものは、血ばかりでは決まらんのう」

 そして、気勢を削がれて唖然とする姿に、穏和に語りかけた。

「商務官よ。もう、ここで手打ちにしておくがよい。見ての通り、次代は親思いの立派な青年に育った。王となるにふさわしい心映えの人柄よ。それで、十分ではないか」

 商務官は、わずかばかり口を開きかけたものの、結局ふっと息をついて、肩を竦めた。

 それを見届けて、にこにこと笑む行政官の面立ちが、柔和な流れで真顔になる。視線が、宰相と総帥に向き、穏やかな声が尋ねた。

「さて、話を戻そうかの――結婚の件、王族のご両家は、異論ありませんな?」

 宰相が頷く。やつれた細面が、沈痛に歪む。

「もとより私の責めに帰すべきこと。総帥の意向に従おう」

 あとを引き受けて、総帥が首肯する。重く低い声が、静かに答える。

「異論はない。これで、……」

 ためらうように、息を吸い込む。群青の双眸が、微かに揺れた。

「……王妃の苦しみも、少しは報われるだろう」

 そっと、伯父を見つめる。どこか、安堵したような表情。憎悪に焼かれ続けた歩みが、ついに終わったのだと、心に沁みていった。

 全会一致と認めて、宰相がアメリアに問う。

「民には、いかが知らせましょう」

「本当に秘すべき事項以外は、余さず公表して。どちらにせよ、ルキウス前王太子の嫡子が実は生きていたと、説明しなければならないのだから」

 答える明瞭な声。碧色の視線が、右側の中央に向く。

「法務官。頼めるわね?」

「文務官に依頼いたします。文学者の中でも、才のある者を選ばせましょう」

 意図がわからず瞬いていると、法務官と行政官の説明が挟まれた。

 概要は、広場と街区役所に公示書を掲示し、詳細は、物語風にして本を作製するという。本は各役所に設置し、行政吏員である語り部が、広場で周知するとのことだった。

 なるほどと納得しつつ、財務官の言う通りだと沈む。

 そっと、腕に触れる感触。優しく勁い言葉が、鼓膜を打つ。

「三年あれば、為せることはたくさんある。私達で、いい政をするの。人々に、心から受け入れてもらえるように」

 聡明で美しい微笑み。不安はあったが、アメリアと二人なら、成し遂げられる気がした。碧色を見つめて頷く。

 それから、戸籍と家系登録の修正時期や、王殿の居住区の整備、侍従の選定など、詳細な事柄が議論された。

 的確に答えて指示を出すアメリアの隣で、何もできない不甲斐なさを改めて痛感する。

 聡く察して、卓の下で、触れて繋がる手。これからは、夫婦として歩むのだという実感が、心を優しく温めた。

 議論の結果、戸籍と家系登録の修正は、行政手続きと諸々の引き継ぎ期間を考慮して、三ヵ月後に決定した。総帥の嫡子の地位が空くため、同日に、ヘンリクスの家系登録も変更されることとなった。

 こうして、冬至の立太子式までの慌ただしい日々が、始まった。


 翌日の軍議において、家系登録変更後の新しい編成が決定した。

 人員は、王の神還により、一時的に王宮騎士団に所属していたレクス隊、及びパラレ隊の騎士達から、選出された。

 レガリス隊王子付きが新たに組織され、付長にレクス隊隊長であった総帥長姉嫡子の次弟エウゲニウス・マーレ・フォルティス、副長に従家次代当主エルドウィン・カーサ・エクエスが任命された。

 両名は、レガリス隊隊長及び副隊長を兼務する。また、本隊は、冬至の立太子よりパラレ隊に、翌年の即位からは、レクス隊へと再構成される。

 そして、アメリアの廃太子に伴い、パラレ隊は解散し、レガリス隊高王女付きに変更されることとなった。

 付長は、総帥長姉嫡子の末弟ウィンケンス・マーレ・フォルティス、副長は、従家次代当主の長弟アドルフ・ラムス・エクエスが務める。

 両名は、パラレ隊の発足を始期として、レガリス隊隊長及び副隊長に昇任し、同隊高王女付きを兼務する。

 なお、レガリス隊王妃付きについては、主治医である医務官より、環境の変化は最小限に留めるべきだ、という提言があったため、現行通りとなった。


「もう、()()(うえ)。ちゃんと聴いてください。寝ている暇なんて、ないんですよ」

 春の麗らかな陽光の差し込む、フォルティス家当主の屋敷。初めて穏やかな心地で帰省できたというのに、状況は全く芳しくない。

「全く――お前まで、ブラッツみたいなことを言うな」

 ソファの背もたれに身を預け、手を額に当てて、天井を仰ぐヘンリクスに苦笑する。

 自分が抜けることで、次代当主長姉の婿から総帥の嫡子へと、家系登録を変更することになり、その引き継ぎに追われていた。

 今日は、伯父から管理を任されていた土地と屋敷の権利書や、使用人の契約書など、大切な書類の確認をする予定で、当番を急遽やり繰りして、朝からみっちり作業していたのである。

 法律的な事柄だから、得意だろうと踏んでいたが、早々に音を上げてしまった。まるで、数字に弱い自分を見ているようで、厳しくもできず、遅々として進まなかった。

「言わせているのは義兄上です。契約書の条文を見て、溜め息つくなんて、シエンティア家の血が泣きますよ」

 もうそろそろ昼食だというのに、ほぼ進んでいない。

 明日の昼過ぎには宿舎に帰って、遅番の支度をしなければならないから、あまり時間がなかった。さすがに焦りが出てきて、つい、嫌味なことを言ってしまう。

 と、がばっと上体が起きる。彫りの深い顔が、不敵に笑う。

「座学を放り出して、外で遊び回っていたから、父上は兵舎に入れたんだぞ。今さらだ」

「そんな自慢げに言うことじゃありません」

 深々と溜め息をつく。書類を改めて精査しながら、最も重要なものを抜き出す。

「――王家は常に中立であれ。家系登録が済んだら、フォルティス家の務めを手伝うわけにはいかないんですよ」

 銀箔で豪奢な紋様の施された権利書。

 フォルティス家直系の当主が代々受け継いできた、この土地と屋敷は、初代の王から賜った大切な財だ。無下に扱うわけにはいかない。

 何より、八歳から今まで、実家として過ごしたのだ。思い出もある。訪れることはできなくても、ヘンリクスとヴィクトリアの子孫が受け継いでいくのだと、安心したかった。

 ヘンリクスが、書面を眺めて、ふっと真顔になる。薄青の双眸が、申し訳なさそうに歪む。

「悪かったな。ずっと、お前に任せきりだった。本来なら、全部俺がやるべきことなのに」

 ゆるゆると首を振る。静かに、言葉を紡ぐ。

「義兄上は、知らなかったんですから。……俺が、もっと勇気を持てていれば……」

 冷静に考えてみれば、伯父の言動は、かなり相反していた。抑圧しながら、実際的な話はしてこなかった。そうして気がつけば、十六年が経っていたのだ。

 ひたと見つめる、薄青の双眸。真摯な声が、鼓膜を打つ。

「まだ子供だったお前に、何ができた。本当なら、俺達大人が、対処すべきことだ」

「……でも、俺が一番近くにいました。大人になって、知恵も思慮も身についたはずなのに――ただ怯えて……何も……」

 私の宝だ、と告げた声が、心に響く。

 恩寵の証の問題があったにせよ、早い段階で、秘密裏に他家に働きかけていれば、多大な時間と労力をかけて、フォルティス家の剣術を修めるまで鍛えなくても済んだのだ。

 そもそも、歳の離れた末妹の大切な息子を、ただの道具だと思えるほど、伯父は冷酷になれる人ではない。

 憎悪に駆られた理由を思い返せば、わかることだったのにと、哀しく後悔が残る。

「フェリックス。それは違うぞ」

 深みのある穏やかな声が、緩やかに語る。

「親が子に、寄りかかっていい理由なんて、どこにもない。子が、親を救ってやる必要なんて、ないんだ」

 はっと目を瞪る。

 優しい薄青の、春の空のような色。震えて、言葉がこぼれた。

「……それでも、俺は……いい息子でいたかったんです――父さんにとっても、伯父上にとっても。それなのに、逃げてしまった……」

 赤々と燃える家に、置き去りにした。狂って縋る手を、何度も振りほどいてきた。

 幼い子供だったからだなんて、何の言い訳になるだろう。

 固く握り締めた手に、手が重なる。眉尻を下げて微笑む、彫りの深い顔。

「悪い息子だったと、本当に思うか? たった一人で、十六年間も恩寵の証を守り続けてきた上に、総帥の嫡子の名に恥じない騎士になったんだぞ。――全く、よく頑張ったな」

 おもむろに、視界が滲んでいく。記憶が、ゆっくりと立ち上がる。

 崩れゆく中の、最期の穏やかな笑顔。木剣を突きつけられたまま、驚嘆に輝く顔。

 もういいのだ、という思いが、心に浮かぶ。涙が一筋、頬を伝った。雫を払って、苦笑する。

「だめだな。最近、泣いてばかりいますね」

 大の男がと、情けない気持ちで呟くと、柔らかな声が返ってきた。

「ずっと、溜めていた分だ。当然だろう」

 緩やかに納得して、また涙が滲み出す。鼻をすすり、手の甲で目を拭う。大丈夫というように、薄青を見つめて頷く。手が、そっと離れた。

 ふと、並んだ書類を眺めて、彫りの深い顔が揺らめく。見たことのない表情に瞬く。

「……いや……寂しいものだと思ってな」

 淡い苦笑。思い出が、一気に去来する。

 義兄として、上官として、ずっと導いてくれた。温かな思いで告げる。

「義兄上は、これからも〈あにうえ〉ですよ。義従兄(いとこ)なんですから」

 薄青が瞪る。おもむろに微笑んで、いとおしむ声がこぼれる。

「全く、お前は可愛いなあ」

 優しく温かな音色。小さな子供に戻ったような安堵が、心をくるむ。

 ふと、幼い頃の吹雪の夜を思い出す。背中に感じていたぬくもりは、ヘンリクスだったのだと知る。

「――さて、さっさと片付けるか」

 のんびりとした伸び。全く気合いの入っていない風景に、眉根を寄せて吹き出す。

 気を取り直して、書類に手を伸ばしたところで、扉を叩く音がする。返事をすると、ハンナだった。中に入って、優美な所作で礼をする。

「次代様、お婿様。昼食のご用意ができました。本日の主菜は、牛肉の蒸し焼きでございます」

 時機がいいと、ヘンリクスが、にやりと笑う。睨みつつも、好物に心が揺れる。

 冷めても美味だが、熱々はたまらなくうまいのだ。特に、ハンナのつくるものは、擦った果肉がいい隠し味になっていて、絶品だった。

 引き継ぎの進捗が気になったが、ヘンリクス相手なのだから、なんとかなるだろうと思い直して、連れ立って食堂へと向かった。

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