形見の思い出②
これほど緊張することなど、きっとあとにも先にもない。
とくとくと早鐘を打つ鼓動を感じながら、北へ向かって流れる景色を眺める。
途中で西に折れて、六貴族の居住区に入ると、平民の住む街区とは、全く違う雰囲気になる。
質素で柔和なコムニア家。厳格で堅牢なシエンティア家。荘厳で重厚なフォルティス家。
フロス街の館は、どの地区も、華美で享楽的な外観だから、家風を表した屋敷の数々は、物珍しくて目に楽しかった。
ある程度、フォルティス家の区画を進んだところで、右側に馬車が傾ぐ。
手紙には、王宮北西の総帥正門を訪ねるように、とあった。これから東に折れて、王宮に入るのだ。
景色が変わって、大きな建物が目立ち出す。鞄から通行許可証を取り出し、薄絹の顔覆いを下げた。
馬車がおもむろに停まると、門番が近寄ってくる。小さな窓の鍵を外して開け、証を渡す。受け取りながら、門番が言った。
「覆いを上げていただけませんか?」
困って苦笑する。かつての〈主人〉達が、一堂に会する場所。顔を晒すわけにはいかないし、声も出せない。
透かして見える、少年のあどけない顔。もしかしたら、まだ十五歳になっていないのかもしれない。
どうしようもなくて沈黙していると、門屋から、一人の兵士が出てきた。
こちらは年嵩の男で、何事かと怪訝な顔をしていたが、許可証を見るなり、丁重に頭を下げた。
「〈奥方〉様、お話は伺っております。この者が、ご無礼を申しましたようで、大変失礼いたしました」
門番の少年が、驚いた表情で、年嵩の方を見る。それから、許可証に視線を落とすと、おそらくフェリックスの名を目にしたのだろう。はっとして、頭を下げた。
「ご無礼いたしましたっ……! まさか次だ」
言いかけたところで、ぴたりと止まる。
どうやら水面下で、視線のやり取りがあったようだ。微笑ましくて、張り詰めていた心が、ゆっくりと溶けていく。
二人で寸分違わず顔を上げると、年嵩の門番が、門を開くよう、他の兵士に指示を出す。
丁重に返された許可証を受け取り、謝意をこめて会釈する。窓を閉めるのと同時に、馭者が馬車を発進させた。
昼下がりの麗らかな春の光が、大きな二階建ての建物に降り注いでいる。
マニュルムの館も、一番館は相応の規模だが、これほど横に長い建物は、見たことがなかった。
石畳の道を歩く人々は、総じて男で、〈大きな〉地区と呼ばれる理由が、実感をもって腑に落ちた。
馬車はしばらく進むと、曲線を描くようにして方向を変え、緩やかに停まった。
今までとは、雰囲気の違う建物。過度な装飾のない様相で、漆黒の神の静謐さを感じる。王の柱として、六貴族が務める館。とうとう着いたのだと、感慨に心が震えた。
玄関に立っていた仕官服の青年が、優雅な所作で近づいてくる。馭者が恭しく扉を開けると、手を差し出して微笑んだ。
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
女と見まがうほどに美しい顔立ち。従家は総じて見目麗しいが、間近で見るのは初めてだ。思わず、少し見惚れてしまう。
問いかけるように淡く首が傾いで、はっとして、引き裾をまとめる。
絹の手袋を嵌めた、しなやかな手。その細やかさを有難く思いながら取ると、そっと地面に降り立った。
「歩きづらいでしょうから、そのままで。ご不便なことがございましたら、遠慮なく仰ってください」
微笑んで頷く。下を向いて確認しながら歩くなど、みっともないことはできないから、ほっとする。
手を引かれて歩き出すと、執務館へと足を踏み入れた。
扉が開き、広い部屋の奥に、フェリックスと壮年の男が佇んでいた。
直接、礼を言いたいそうだから来てほしい、という手紙。衣服から、近衛騎士団団長だと判断して、顔覆いを上げる。
明瞭になった視界で、二人が視線を交わす。からかう薄青と苦る紺青。子供の頃のような明快な表情に、ゆっくりと鼓動が高鳴る。
無言の会話が終わり、視線が向く。引き裾を広げ、腰を折って礼をした。
「お初にお目にかかります。フロス街マニュルム地区一番館所属、トリーナ・コールマンでございます。本日は、このような栄誉に与れますこと、大変光栄に存じます」
「近衛騎士団団長のヘンリクス・フルメン・フォルティスだ。わざわざ来てもらって、悪かったね。あなたのおかげで、民から死者を出さずに済んだ。心から感謝する。――本当に、ありがとう」
穏やかで労りに満ちた、深みのある低い声。顔を上げると、柔らかな微笑みを湛えた薄青と目が合う。
世辞の全くない、真摯で澄んだ色。自分の働きが、多くの人々を救ったのだという実感が、沸々と湧く。深い喜びに、胸が震えた。
団長が声をかけると、フェリックスが頷いて、正面に立った。手にした大きな封筒。称号の証書だと気づいて、先達の教えの通り、膝をつき、両手を胸に添える。
証書を読み上げる声が、朗々と響く。
聴き知っているものとは、全く違う音色。十年という長い付き合いの中で、初めて知る昼の一面。与えられた称号に、思いの深さを感じる。
(今、私はかけがえのない子を得た――恋慕う人との、大切ないとおしい私の子……)
封筒に入れた証書が差し出される。柔らかく穏やかな低い声が、降ってくる。
「本当にありがとう――トリーナ」
その優しい笑顔。冬の冴えた夜空のような紺青の瞳が、麗らかな春の陽に光る。
遠い幼い日の、好きだと言ってくれた顔が重なる。頬に、はらはらと涙が伝っていく。
突然、視界がぶれる。逞しい腕の感触。抱き締められたと知る。驚いて固まっていると、低く切ない声が囁いた。
「泣いていい……泣くななんて、もう言わないから……」
はっとする。涙を飲み込んで喘ぐ。怯えて、身体が震える。
「……いい、の……?」
強く頷く感触。苦しく絞り出すような声が、鼓膜を打った。
「本当に、すまなかった……」
震えながら、それでもそっと背中に触れる。大丈夫というように、抱き締める腕に力がこもる。
服越しの温かさ。日差しに照らされた、明るい昼の天井。ずっと望んでいた――。
視界が滲んでいく。涙がとめどなく溢れて、頬を伝う。心からの安堵が全身を満たす。服にしがみついて、しゃくり上げて泣いた。
身を離して見遣ると、団長の姿がなかった。いつの間にか、退室していたらしい。気を遣わせてしまったと、申し訳なさと恥ずかしさが胸に募った。
涙を優しく拭われながら、きっと酷い顔をしているだろうと思う。
これから、街に出かけるのだ。平常に戻った心が、体面を気にし出す。フェリックスも、さすがにこのままではと思ったようで、執務室に案内された。
到着するなり、私服に着替えてくると出ていき、用意は従家の青年がしてくれた。
水差しと小さなたらい、そして手ぬぐい。最低限の揃えだった。青年が、眉尻を下げて話す。
「すみません、気の利いた道具がなくて……足りないものがございましたら、仰ってください。下女に頼んで、持ってこさせますから」
「ありがとうございます。十分です」
やっと礼が言えて、ほっとする。案内役が、館の違う従家でよかった。
新緑の瞳が瞬く。そして、ゆっくりと柔和な笑みが広がった。美しい印象の強かった顔立ちが、途端に優しく愛嬌のある雰囲気になる。
従家ながら、フェリックスと親しく話していた青年。どんな関係なのだろうと、興味をそそられる。
「鏡はあちらに。私は、外でお待ちしております。支度がお済みになりましたら、扉を叩いてください」
頷いて、了解の意を伝える。
青年が退室するのを確認すると、顔覆いを取り、たらいの横に置く。水差しから注いで、丁寧に目の周りを洗った。
街に出る支度ができたというので、行きと同じように手を引かれながら、玄関まで行った。
そして、そっと覆いを上げて、礼を言った。柔和で優しい微笑みが返ってきて、温かな気持ちになる。もっと話してみたい、という思いが湧く。不思議な心地だった。
馭者が扉を開けると、フェリックスの姿があった。
いつもよりも洒落た、仕立てのいい服。真新しい生地に、嬉しくなる。差し出された手を取って、馬車に乗り込んだ。
「どうぞ、よい休日を」
微笑んで頷く。フェリックスが、身を乗り出して言った。
「エルド。殿下を頼んだぞ」
「フェリックス。そういうのを、野暮って言うんだよ」
ぐっと言葉に詰まった顔。無防備な表情に、思わず、くすりと笑ってしまう。
優しく諭すような口調で、青年が続ける。
「職務のことは全部忘れて、目の前の〈奥方〉を大切にね。こんなに綺麗な人を、悲しませたらだめだよ」
「……わかってる。お前こそ、野暮じゃないのか?」
反抗心が露な子供っぽい返しに、首を傾げて、爽やかな微笑が受け流す。そして、
「ほら、早く行きなよ。時間がもったいないから」
と、穏和に笑んで言うと、反撃する隙を与えないかのように、数歩下がって、馭者に出発するよう伝えた。
発進して大きく揺れ、フェリックスが、天井に頭を強かに打つ。
手を振って見送る青年に、振り返す。
きちんと座って、後頭部を押さえる姿。大丈夫と尋ねながら、どうしても笑いが抑えられない。
表情をよく見たくて、少しだけ覆いを上げる。わずかに赤くなった、しかめっ面。すねた子供のようで、いくつになっても格好つけたいのだと、微笑ましく思う。
「あの従家様と仲がいいのね。エルドって――確か、愛称でしょう?」
一瞬、意外そうな表情が浮かび、すぐに納得した顔になる。
必ずしも、母親と同じ館に配属されるわけではない。従家のことも、一通り学ぶのだ。
従家の個人名は、真昼の民が生み出された時の言葉を元にしているという。意味の区切りで、愛称になることが多かった。
「親友なんだ。子供の頃から、ずっと一緒だった。本当に優秀で、何度も助けられたよ。優しくて、すごくいい奴なんだ」
紺青の瞳が誇らしく輝く。心からの好意。大切な存在だと、ひしひしと伝わってくる。
正門に差しかかり、馬車が速度を緩める。門番の敬礼に頷いて応える様。凛々しい端正な面持ちに見惚れる。
「好きなのね。あの従家様のこと」
「ああ、もちろん。大好きだよ。俺は、あいつのためなら、全力を尽くす」
門を抜けて、覆いを外す。
紺青の瞳に宿った、意思の強い光。自分の知らない歳月の中で、育まれた絆。何のてらいもなく、好きと言ってもらえる関係が、羨ましかった。
「いつも他人を気遣って、自分のことは二の次で。つらい時は、必ず一緒にいてくれた」
数々の思い出を懐かしむような、穏やかな笑顔。優しい声が語る。
「あいつがいたからこそ――俺は、孤独にならずに済んだんだ」
紺青の瞳の奥底。深い絶望が閃く。
息を呑んで返せずにいると、苦笑の声が漏れた。
「――だめだな。エルドに言われた通りだ。どうにも、気の利いた会話ができない」
謝って見つめられ、我に返る。頭を振って、言葉を紡ぐ。
「私は、そういうところが好きなの。器用ではないかもしれないけれど――あなたの、そういう真っ直ぐなところが好き……」
「ありがとう、トリーナ」
優しい微笑み。同じ言葉は、返ってこない。
たとえ羨ましくても、偽りを言われるくらいなら、それでよかった。再会して以来、初めて伝えられたことが、ただ嬉しかった。
そっと、手が繋がれる。指を絡めて触れ合う掌。見つめ合い、額を寄せて微笑む。
務めのない、温かなやり取り。これ以上、幸せな時はないと思った。
それから、いったん館に帰り、正装から私服に着替えた。街に出ると、夫婦のように手を繋いで、寄り添って歩いた。
周囲からしたら、明らかに主家だとわかる、鍛えた長身の真夜の青年と、平民の女が並ぶ様は、決してそうとは見えない。
しかし、〈花蜂〉の功績が認められたことは、皆知っていたから、好奇の視線を送る不粋な者はいなかった。
様々な商店が並ぶ通りで、店先の商品を硝子越しに眺める。そして、装飾品店で立ち止まった。
「懐かしいな。変わっている店もあるが、ここはそのままなのか」
「専属の職人がいるのよ。すごく腕がいいの」
へえ、と感嘆の声が上がる。
子供の頃には知らなかったこと。そして、今はちゃんと理解しているとわかる反応。
頑張って頷く姿も健気で好きだったが、歳月を感じる大人の表情も、凛々しくてときめいた。
「入ろうか。せっかくだから」
「え、でも……」
ためらって口ごもる。この流れだと、きっと買わせてしまうことになる。技が巧みな分、値も張るのだ。報奨は十分もらった。これ以上は、身に余るというものである。
「俺が見たいんだ。ほら、行こう」
手を軽く引かれる。本当に、嘘が下手だ。微苦笑して頷くと、二人で店に入った。
過度に意匠を施さず、品よくまとめた、洗練された品の数々。首飾りや耳飾り、指輪などが、木彫りの棚に並んでいる。
春の柔らかな光を浴びて、彩り豊かに輝く宝石。眺めているだけでも、心が弾む光景だ。
店主が、奥から立ってやってくる。のんびりとした口調が挨拶した。
「いらっしゃい、コールマンさん。今日はまた、ずいぶん男前な人と一緒だねえ」
「そうよ。羨ましいでしょう」
フェリックスのことを誉められたのが嬉しくて、つい、調子のいいことを言ってしまう。紺青の視線を感じて、顔が熱くなる。
見上げると、優しい笑みに出会う。いとおしむようなその色に、鼓動がおもむろに速くなっていく。
「ご主人。何か、おすすめのものはありますか? どうにも、こういうものには疎くて」
「それなら、本人に選んでもらうのが一番ですよ」
確かに、と納得する横顔。早速ついた嘘を放り出していて、頬が緩む。遠い幼い日が、心に浮かぶ。
ふと、店主が思い出したように、軽く声を上げた。
「ああ、そうだ。いいものがありますよ――少々、お待ちくださいね」
そう言って、店の奥の扉に消えていった。
しばらくして、重ねた木箱を抱えて戻ってくる。そして、店の中央の机に、順番に置いた。
丁寧に並べられた、数多の宝石。深い青色の宝石と鮮やかな桃色の宝石――フェリックスと自分の誕生石だった。
「好きな石と枠を選んでいただければ、おつくりしますよ。夕食前には仕上げますので、もしよろしければ」
柔和な微笑み。覚えていてくれたのだと、心が温かく震える。
まだ少女だった頃、少しずつ貯めた給金で、初めてこの店で指輪を買った。
青色の宝石は、真夜の民だけに許されているから、外では決してつけられない。好きな人の誕生石なのだと頼み込んで、売ってもらったのだった。
「ありがとうございます。でも、今日はやめておきます」
「どうして? いいじゃないか。時間はあるんだ。好きなものを選べばいい」
不思議そうな顔。急に察しがよくなるのは、どうしてなのか。もしかしたら、欲しい気持ちが出てしまっていたのかもしれない。
しかし、それよりも、肝心なところに気づいてほしい。
「青色の宝石は、真夜のものなのよ。だから、とても貴重なの」
さすがに、かなり高価だとは、あまりに直接的で言えず、ぼかした表現になってしまう。
少しの沈黙のあと、はたと気づいたように瞬くと、店主を店の端に呼んで、何やら話し始めた。
微かに聞こえる内容。見積りをしているらしい。桃色の方も、それなりの価格なのだ。ふたつとなれば、かなりの額になる。
とはいえ、止めることもできず、困り果てていると、
「――ああ、なんだ。そんなものなんですね」
という声が上がる。
信じられない思いで、広い背中を凝視する。六貴族の子息といえど、湯水のように散財はできないはずだ。一体、どういうことなのだろう。
戻ってきたフェリックスに、不安な気持ちで尋ねる。
「ねえ、大丈夫なの……?」
すると、苦笑が返ってくる。考え考え、言葉が紡がれる。
「なんて言ったら、いいんだろうな――まあ、その……余るんだ。騎士舎で、生活に必要なものは全部揃うから。毎日ほぼ仕事で埋まって、大がかりな趣味はできないしな。使い途といえば、本と酒くらいか」
唖然とする。
近衛騎士の仕事は機密が多い。だから、わざわざ予定を尋ねることはしない。忙しいとは想像していたが、まさかこれほどとは。
それでいて、夜は疲労を微塵も感じさせないのだから、全く恐ろしいものである。
返す言葉が浮かばず、見つめていると、困ったような微笑に変わる。
「だから、君のために使えるなら、俺も嬉しいんだ。――な?」
うっすらと、朱に染まる頬。言い慣れないことを吐いてしまったように、もごもご動く口。
ふと、王宮でのやり取りを思い出す。
もしかしたら、親友の方が女人の扱いが上手で、いろいろと相談したのかもしれない。
(本当に、可愛い人……)
いとおしさに笑みが広がる。そっと、大きく武骨な手に触れた。
「ありがとう。それなら今日は、甘えさせてもらうわ」
ほっとした表情。指が絡み、手が繋がる。その温かさ。自分のためにと言ってくれたことが嬉しくて、幸せだった。
店主に向き直って告げる。
「――すみません。そういうことですので、お願いします」
「もちろんですとも。さあどうぞ、お選びください」
満月を象った首飾り用の型枠と、宝石をひとつずつ指し示す。即決に驚いたらしく、フェリックスに何度も確認された。
「青色の宝石は、真昼の私は外ではつけられないもの。首飾りなら、服の中に隠せるから。石だって――ほら、全然違うでしょう」
選んだ石と他のものを、光に透かして見せる。輝きも色の深みも、格段に異なっていた。
フェリックスは、しばらく眺めていたものの、結局首を傾げ、
「トリーナがいいなら。それにしよう」
と言った。
先に店を出て、支払いが済むのを待つ。見当はつくが、聞かないのが礼儀というものだ。
店主の挨拶の声とともに、店から出てきたフェリックスに、心から礼を言う。
微笑んで頷いたあと、喫茶店に行かないかと誘われて、妙に察しがいいと思う。ちょうど歩き疲れた頃だから、座って、ゆっくり話したかったのだ。予想が、確信に変わる。
承諾したはいいものの、どうすればいいか困り果てて、親友に相談する姿。
想像して、微笑ましく思う。優秀だという、あの美しい従家の青年に、心の内で感謝した。
それからは、本当に夢のような時間だった。美味しい茶と菓子を楽しみながら談笑し、あっという間に時が過ぎた。
夕食前、約束の首飾りを受け取りに、装飾品店に立ち寄った。想像以上の仕上がりで、腕のよさを再認識する。
何より嬉しかったのが、青色の宝石を隠せるように細工がしてあって、気兼ねなく出歩けることだった。
早速、もともとつけていた方を外して、箱に入れてもらい、贈り物を身につけた。
似合うよ、と少し照れて言う笑顔。本当に幸せで、胸が弾けてしまいそうだった。
上品な佇まいの高級料理店で、ゆっくりと食事を堪能したあと、大通りに続く支道で、馬車を拾った。
一番館ではない方向へと進んで流れる景色。
不思議に思って尋ねると、気遣うような微笑が返ってきた。
「あそこは君にとって、自宅で職場だろう。落ち着かないと思ってな」
ずいぶん経って、馬車が停まったのは、かなり大きな建物の前だった。月明かりのおかげで、かろうじて屋敷と知れる。
フェリックスが玄関に立つと同時に、両開きの片側が、ゆっくりと静かに開く。灯りを持った使用人が佇んでいた。
「すまない、ハンナ。遅くなった。……父上は?」
「お寝みになっていらっしゃいます。明日の朝も、予定通り早いそうです」
柔和な微笑みに、従家の青年を思い出す。格好は使用人なのに、同じような高貴な麗しさを感じるのが、不思議だった。
中に入り、長い廊下を進んでいくと、途中でフェリックスが立ち止まる。そして、ハンナと呼ばれた使用人に声をかけた。
「じゃあ、頼んだよ」
驚いて見遣ると、
「その先が風呂だから。ゆっくりしておいで」
と、言われて納得する。一日中外にいたから、湯に浸かれるのは有難かった。
交代で入って、居室のソファに収まると、気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、もしかして父上って……」
「総帥クレメンス・クラン・フォルティス。つまり、ここは俺の実家だ。戸籍上のな」
淡々とした口調。どこか、冷たい棘を感じる言い方。養父ではなく、実父として届出されているという齟齬。
触れてはいけないと悟って、話題を変えようとする。しかし、
「気にしなくていい。干渉し合わないのが、この家の決まりだから」
と、先手を打たれてしまう。
灯りに照らされる、暗く陰った紺青の瞳。
両親を喪ったとはいえ、六貴族の子息という恵まれた環境で育ったとは思えない色に戸惑う。これまでのつらい責め苦が、心に過った。
端正な横顔が、気分を変えるように、淡く溜め息をつく。立ち上がると、手を差し伸べた。
「さあ、今日はもう遅い。寝よう」
そっと手を取ると、奥の扉に誘われる。手提げの灯りの照らす先は、寝室だった。
館よりも、ずっと広い寝台。一人で眠るにはあり余る大きさに、子供の頃は寂しかっただろうと切なくなる。
「――トリーナ」
低く囁く声。柔らかく抱き締められる。
「今日はありがとう。本当に楽しかった」
「私も、とても楽しかったわ。本当に、幸せで――」
声が震える。涙が滲む。後にも先にも、これほどの幸福は決してない。
明るい陽の光の下で、たくさんの色の表情を見た。昔と変わらないと微笑ましく思い、歳月を重ねた大人の面持ちに鼓動が高鳴った。ずっと恋慕ってきた人とともに、大切な時を過ごせた。
報奨よりも称号よりも、世界中の何よりも、かけがえのない贈り物。ためらいながら、勇気を振り絞って書いた希望が、こんな形で実現するなんて。
頬を伝い落ちる涙を、武骨な指先が優しく拭っていく。紺青の瞳を見つめて、溢れるままに告白した。
「好きよ、フェリックス。大好き……子供の頃からずっと――私には、あなただけ……」
「ああ、わかっているよ、トリーナ。――俺の、可愛いトリーナ」
穏やかで、優しい低い声。照れて笑う、幼い男の子の声が重なる。本で読んで、言ってみたかったんだ、と頬を朱に染めて。
恋しく温かな思いが、心に満ちる。背伸びをして、そっと頬に口づける。
顔を離すと、驚いた表情に出会う。自分から進んでするのは、初めてだった。
柔らかく頬に触れる手。手を重ねて、紺青の瞳を見つめる。逡巡したように揺れる色。そして、熱を帯びて震える吐息とともに、言葉が紡がれた。
「……いいか……?」
「――はい」
幸福に微笑んで答える。ついばむような口づけ。そのまま抱えられて、ゆっくりと降ろされる。
干したての、ふんわりとした布団の感触。髪に額に頬に首筋に――全てに優しい口づけを受けて、柔らかに抱かれた。
幸せに満ちた心地よい微睡みの中で、端正な顔立ちを眺める。
灯りに輝く、紺青の瞳。吸い込まれそうなこの色が、昔から好きだった。
見惚れながら、うとうとしていると、そっと名を呼ばれる。応えると、静かな声が告げた。
「この先に起こることを――許してくれとは言わない。ただ、これが俺の選んだ道なんだ。だから……どうか、わかってほしい」
穏やかな――あまりにも、穏やかな顔。
死にゆく人のような表情に、一気に意識がはっきりする。
死を覚悟する何かが、王宮内で起きている。そして、この幸せな時間は、ただの贈り物ではない。
(……最期の、別れの挨拶……形見のための思い出……)
はらはらと、涙が落ちる。
止めたくても、自分の身の上ではどうにもできない。覚悟させる事情を取り去ることを――ただ笑って、送り出すことしか。
涙を飲み込む。指先で拭って、柔らかく微笑む。
「私はいつだって――たとえどんなことでも、あなたの選択を受け入れるわ。子供の頃から変わらず真っ直ぐな――そんなあなたに添うのが、私の幸せだもの」
「……トリーナ……」
紺青の瞳から、一筋、涙が伝う。掠れた低い声がこぼれる。
「すまない……本当に、すまない……」
腕を伸ばして、抱き締める。
せめて今この時だけは、その苦しい心が温まることを願った。




