形見の思い出①
まっさらな紙を凝視する。額に手を当てて悩んでも、一向に思い浮かばない。
いっそ定番の図案にしてしまおうかと、妥協が過るが、それはつまらないと、こだわりが否定する。
長い溜め息をついて、筆記具を置く。せっかく、久しぶりの何もない午後だというのに、楽しい気持ちは湧いてこなかった。
新年の騒乱から三ヵ月半。亡き父に代わり、政務の全てを取り仕切っていた。
幼い頃から講義で知識を蓄え、成人してからは、王議や各専門会議に出席して、実務の把握に努めてきた。
しかし、いざ決断を下すとなると、その重責は、想像以上に心労を伴うものだった。
あまりの激務で、ここ数ヵ月の記憶が、ほとんどない。残っているのは、父を喪った悲しみと、いとしいひとの行く末、そして母のことだった。
今月末、全ての裁判の判決が確定する。火刑に処されて無になれば、神の元に還っても、二度と会うことはできない。母を愛しているなら、どうしてあんな形を選んだのかと、責める思いが、心を燃やした。
しかし一方で、愛するからこそなのかもしれないと、哀しみが募った。
晩冬のヘンリクスの言葉――相手を深く思うがゆえの、すれ違い。
背後に控える、警護の近衛騎士の名を呼ぶ。応えて傍らに跪く姿。薄青の双眸を見つめる。
「お願いがあるの」
少しずつ解明されつつある古文書。手にすれば、愛するひとと生きる道が拓ける。しかし、母に同じ選択肢はないのだ。
「お母様と――ワルターが、会う手筈を整えて」
「……よろしいのですか」
彫りの深い顔に宿る、複雑な表情。頷いて、静かに告げる。
「お父様には申し訳ないけれど……お母様にとっては、最後になるから」
薄青の双眸に、ゆっくりと慮る色が浮かぶ。深みのある低い声が答える。
「承知いたしました。手配いたしましょう」
礼を言って、依頼を付け加える。
ずっと、迷いながらも考えてきたこと。驚いて、眉骨の下で薄青が瞪る。逡巡するように一瞬逸れたものの、問い合わせる旨を告げて、了解の意を表明した。
父の還った今、止める者はいない。きっと通るだろう。肩の荷が下りたような心地で、小さく息をつく。
ふと思いついて、小箱を入れる鞄をつくろうと、筆記具に手を伸ばした。
二週間後、全ての準備が整い、刑務棟を訪れた。
警護のエルドウィンを伴って、石畳の長い廊下を歩く。先導する看守の王宮騎士が、角を曲がる。
ついていくと、頑丈な鉄の扉が現れた。看守が、鍵の束からひとつを選び、扉を引き開ける。そして、エルドウィンに大きな鈴を渡して言った。
「一度、扉は閉めます。何かありましたら、この鈴を鳴らしてください。ここを外すと、音が出るようになりますから」
「わかりました。ありがとうございます」
受け取ったのを確認して、鉄の枠をくぐる。
背後で、扉の閉まる重い音が響き、鍵のかかる硬い音が鳴った。
死刑囚が収監されている区画。薄暗さに、不気味な空気が漂う。思わず、息を呑んだ。
引き裾を持ち直し、ゆっくりと歩を進める。物語にあるような恐ろしい場所を想像していたが、意外にも静かだった。収監者が、王宮裁判所で審理される身分だからだろうか。
分かれ道に突き当たり、左へと進む。右に行けばユリウスがいると、看守は話したが、もう二度と、生きて顔を合わせたくはなかった。
それから、さしてかからずに、ワルターの独房に到着した。
粗末な寝台に座って俯く姿。足音に気づいて、緩慢に顔を上げる。目が合った瞬間、はっとして鉄格子に駆け寄った。金属の硬い音が軋む。
「アメリアっ……!」
「あなたに呼び捨てにされるいわれはないわ、ワルター」
皮膚の薄い、骨張った手を見下ろす。
父を殺めた手。憎しみと怒りが、沸々と湧く。緑色の双眸を貫くように見つめる。
「私の父は、ティモテウス・レクス・ノクサートラ。あなたではない」
鋭い眼が瞠り、頬骨の高い顔が鉄格子に迫る。歳月を経た枯れた声が、打ち震えて叫ぶ。
「なぜだ⁉ あの男はアグネスに強いて、まだ腹にいたお前まで穢した! あんな下劣な男を、父と呼ぶのか⁉」
息が詰まる。ひとつひとつ、言葉が突き刺さる。滲む涙に震えながら、押し出すように肯定する。
「……そうよ」
信じられないといった表情。十八年間の記憶が去来する。
「あの人のせいで、お母様は薬なしでは生きていけなくなった。あの人のせいで……私は蔑まれ、暴力を受けてきた――それでも……っ」
名を呼んで、抱き締める温かな腕。ふかふかの友達を贈ってくれた、優しい微笑み。まやかしの中でしか生きられない弱さを、どうして愛せなかったのだろう。
悲痛な叫びが、喉を切り裂いていく。
「私にとって、たった一人の父なのよ! たとえまやかしの愛でも、家族として生きてきた――あの人が、私の父なのよっ!」
青ざめて、縋るように伸びる手を、後ずさって拒絶する。息を深く吸って吐き、涙を追いやって、淡々と告げる。
「……これから、騎士舎の大浴場に行ってもらうわ。身綺麗にして、王妃の居室に来なさい。最後に過ごす時間を与えましょう」
言うだけ吐いて、後方に控えるエルドウィンを振り見る。
秀麗な顔が頷き、隣に立つ。
「なぜ、こんなことをしたのですか?」
静かな声音。緑色の双眸に、敵意が灯る。新緑の瞳が、冷えた色を湛える。
「あなたには、家族がいる。火刑に処されて無になれば、悲しむと考えなかったのですか」
「……何が、わかる」
枯れた声が戦慄く。憤怒の炎が、緑色の中で、ごうと燃え盛る。絶叫が、監獄にこだまする。
「主家に守られ、安穏と生きているエクエスに何がわかるッ! 私は、全てを奪われた! 愛するひとを穢され、娘を奪われ、足蹴にされて! 平然と主家と寝食をともにし、補佐官だからと庇ってもらえる腑抜けた家などに何がッ――!」
「……その主家に、僕は強いられました」
思わず見上げて凝視する。感情のない、静かな横顔。
「何をされるか、承知の上で……主家の呼び出しに、従い続けました」
新緑の瞳から一筋、涙が落ちていく。震える声が、悲しく叫ぶ。
「こんな汚れきった僕を、フェリックスは抱き締めてくれた。何があっても離れないと、約束してくれた……っだから、僕は――」
深い呼吸。溢れる涙を振り落とすように、決然と顔を上げて告げる。
「目を向ければ、あなたにもいたはずです。傍にいて、心から大切に思ってくれる人が」
新緑の瞳が、冷たい怒りに燃える。普段の穏和な言動からは想像できないほど、強くて激しい口調が宣告する。
「あんなに優しくて可愛いひとを悲しませた――絶対に許しません、義父上」
茫然と、ワルターが新緑を見つめる。それから、こちらに視線を移すと、おもむろに緑色が滲んだ。つーっと、痩せた頬に、雫が流れ落ちる。
緩やかに力なく崩れ落ち、振り絞るように咽び泣いた。
誰何に答えた声に頷く。侍女が扉を引き開けると、護送を担った王宮騎士達に連れられて、ワルターが姿を現した。
少しやつれているものの、従家の仕官服を纏った姿は、何も言われなければ、囚人だと気づかない平静さだった。
いつものように安楽椅子に座って、外を眺める母に呼びかける。
「ご家人様。ご当主様が、お帰りになりましたよ」
母には事前に、そろそろ王宮から帰ってくる頃だと話していた。
ここは、コンシリウム家の屋敷で、出仕からの帰りを待っていると――娘は王女ではなく、慣例通り下女として働いていると――そう、思い込めるように。
硝子玉の青色の瞳に光が宿る。首を巡らすと、さっと白い頬に赤みが差す。
「――っワルター様……!」
見たことのない身のこなしで母が立ち上がり、手を伸ばして駆け寄る。衰弱した身体がついていかず、ふらついたところを、ワルターが抱きとめる。
「アグネス、帰ったよ」
この上なく優しい微笑み。引き合うように、口づけを交わす。
母の幸せに満ちた輝く顔が、現実を突きつける。これでよかったのだと思いながら、心が、ずきずきと痛んだ。
母は、父と相対する時、いつも怯えていた。
挨拶の抱擁も口づけも、青ざめて震えながら受け止めた。父の話に淡く微笑み、微かな声で答える姿。そして、父が居室から去ると、吹雪のように凍てついた悲鳴を上げるのだ。
それが今、ワルターと身を寄せ合ってソファに座り、睦まじく過ごしている。
ただ目の前の景色を映すだけの硝子玉は、青く煌めいて幸福を湛え、表情が浮かぶことのなかった顔は、豊かな変化を見せる。
美しい姿に応えるように、ワルターは優しく穏やかに笑う。まさか王を弑逆した大罪人だと、言われなければわからないほどに。
まるで、名匠による一幅の絵画のような光景。父が、母に恋慕しなければ――宰相が、伯父一家を謀略により貶めなければ、生涯続いたであろう睦まじい二人。
しかし、父が母を奪ったから、今の自分がある。本来ならば、従家の下女であるはずの身で、王家の嫡子と出会い、かけがえのない絆を結んだ。
その、否定できない事実。いとしいひとを愛するほどに、心は苦しく軋んだ。
ワルターが、添っていた身を起こし、栗色の髪を撫でる。そして、優しく告げた。
「――そろそろ行かなくては」
「奥方様が、お呼びでして……?」
甘えるように、青色の瞳が見上げる。ワルターが、緩く首を振って、説明する。
「明日から、地方の視察に出かける。その支度をするから」
聡明な美しい顔が、寂しさに揺らめく。痩せて骨張った手が、血色のいい頬を包み込み、緑色が青色を見つめる。
「そんな顔をしないでくれ。離れがたくなる」
重なる華奢な白い手。切ない声が囁く。
「どのくらいで、お戻りになりますの?」
「全ての地方を回るから、しばらくは帰れないが――遣いをやって、土産を寄越そう。それを私だと思って、傍に置いてほしい」
名を呼んで頷く、美しい顔。ワルターが、真っ直ぐに青色の瞳を見つめて語る。
「愛しているよ、アグネス。私の心は、いつもお前を思っている」
「ああ、ワルター様――私も、心よりお慕いしております」
柔らかな口づけが交わされる。いとしく唇を食み、抱き合う、ひとつの姿。
おもむろに離れると、ワルターは立ち上がり、王宮騎士達の控える元に戻った。
見送る家人の華奢な身体をきつく抱き締めて、護送の騎士達とともに、王妃の居室を去っていった。
子供の頃のように、一緒に街を散策したい。
流れるような美しい手蹟の文章の中で、その一文だけ、ところどころ滲んだ点があった。書くべきかためらって、途中で何度も手を止めた跡。いじらしい心を切なく思う。
今日、トリーナが王宮の執務館を訪れ、報奨と称号を受け取ることになっていた。
身を挺して依頼を成し遂げた功績に対し、個人的にも報いたい。そう思って、何か欲しいものはないかと尋ね、返ってきた答えだった。
叶えてやりたいと願って、幾度か手紙のやり取りをし、日取りがやっと決まったのだ。
当番の調整のために、月に一度ある二日連続の休日。トリーナは、二週間に一度の休日を当日にずらして、授与のあと、街に出かけることにした。
学舎の帰りに、商店の立ち並ぶ通りを寄り道しては、大人になったら、こんなにもいろいろな物を好きに買えるのだと、心弾んで、店先を二人で眺めていた。そして、必ず衣装店や装飾品店で足を止めるのが、決まりだった。
わたしなら、ここをこうするわ、などと真剣に話す、可愛い横顔。
服飾には無頓着だったから、内容は全くわからなかったが、好きな女の子と一緒にいるのが嬉しくて、真剣な格好で頷いていた。
命を断つと決心したあの夜、職務が明けてすぐに、ペクニア街に行った。
十五歳から貯め続けてきた給金。死亡届が受理された時、トリーナに送金されるよう、手続きを取った。
臨時の王議まで、あと一週間余り。真実が暴かれることは、おそらく避けられないだろう。
手形とともに遺書が届けられた時には、もう〈罪人の河〉に流されたあとだ。せめて形見として、抱き締めて生きていける思い出を、残してやりたかった。
手紙を畳んで、文箱にしまう。姿見で確認すると、自室を出て、執務館へと向かった。




