追憶②
視線が、突き刺さる。そんなわけがないのに、誰もが自分を見ているような錯覚に陥る。業務連絡のために、声を低めて話す声も、噂話をしているように聞こえた。
一番安心できるはずの宿舎ですら、居場所ではなくなった。むしろ視線は、より強く突き刺さった。
鍛練場で木剣を振るっていても、食堂で食事をしていても、あまつ大浴場でさえ、見つめてくる数多の目。好奇と期待。知己が多いからこその苦しさが、重くのしかかった。
そんな中、新年の騒動で一ヵ月遅れた長期休暇が、とうとう巡ってきてしまった。
帰省すれば、伯父と向き合うことになる。そして、ハンナはブラッツの妹なのだ。もしかしてずっと知っていたのでは、という暗い疑念が、心にこびりついて離れなかった。遊びに来いと誘うヘンリクスにさえ疑いを持ち、頑なに断った。
結局、怪我でなまった身体の鍛練に当てたいからと、理由をつけて、宿舎に残った。しかし、気が休まるはずもなく、食事と風呂、鍛練以外は、自室に引きこもった。
休暇の終わる前日。混雑を避けて、風呂に入ってから、食堂に行った。夕食を摂っていると、ウィンケンスがやってきた。
「よお、フェリックス。ここ空いてるか?」
返事をするが早いか、盆を食卓に置いて、正面に座る。食事前の簡易な祈りをして、食器に手を伸ばした。柔らかい骨ごと、魚の白身を切っていく。
「最近さ、やっと雪降らなくなってきたよな。来月には、春になって、期も変わるし」
他愛ない世間話。いつもの調子のようで、瞳の奥に閃く感情が、心を鬱々とさせた。
あらかた食事が終わった頃、ウィンケンスが、ついに吐露した。
「……なあ、あれ本当なのか? お前が……その、ルキウス前王太子の嫡子だって話」
ああ、こいつもか、と冷ややかに思う。
時々度が過ぎて、少年の頃は喧嘩の多かった、同期の従兄。互いに言いたいことを言い合える、気の置けない友人だったはずなのに。
「……法務官の通達があっただろう。俺は、何も答えられない」
困ったような、戸惑ったような顔。悪気はないのだと責められているようで、苛立つ。
「そうなんだけど……そうだったらいいなって、思ってさ」
濃青の瞳に、期待が灯る。それ以上喋るな、と心の中で叫びながらも、次の言葉を待つ。
同期の、先輩や後輩――自分を知る仲間の総意なのだ。ただ従兄弟で仲がいいからと、役割を押しつけられた。粗野で調子がいいくせに優しくて、そういう損を引き受けてしまう奴だった。
どこか気遣うような口調で、言葉が継がれる。
「もし、お前が嫡子なら――真夜の王家は途絶えてなかったんだって、ほっとしてさ。やっぱり……その、殿下は真昼だから――」
途端、かっと眼前が真っ赤に染まる。拳を食卓に叩きつけて叫ぶ。
「ふざけるなッ!」
ウィンケンスのがっしりとした体躯が、ぎゅっと縮こまる。集まる視線。容赦なく突き刺さる。その痛みを跳ね飛ばすように、怒号を上げる。
「真昼だから。そう言われて、ずっとつらい思いをしてきたんだぞッ! やっと! やっと、あの下衆を捕縛できたというのに、お前までそんなことを言うのか!」
濃青の瞳が歪んでいく。傷ついた色。滲んで揺れて、涙を含んだ声がこぼれる。
「……ごめん……もう二度と、言わない……」
返事もせず、ただ黙々と、目の前の料理を掻き集めて飲み下す。
王が弑逆されて、皆が不安なのはわかっていた。長年警護を務めてきた者達は、たとえ姿は真昼でもと、アメリアを重んじ尊ぶ気持ちがあることも、よく知っていた。だからこそ、よけいに許せなかった。
盆を持って立ち上がる。沈む同期を一瞥すらせず、突き刺さる視線の中で下膳し、食堂を去った。
宿舎に戻ろうと廊下に出て間もなく、駆ける靴音とともに、名を呼ぶ声がした。歩みを止めて振り返る。
早番を終えて、とうに帰宅しているはずの親友の姿。とげとげしい声が、喉から滑り出た。
「……帰ったんじゃないのか」
苦笑する新緑の瞳。いつもの調子の声が告げる。
「書類が片付かなかったから、食べてから帰ろうと思って」
「……そうか」
ただ淡々と納得する。
周囲の視線が痛い。早くこの場から離れたくて、踵を返して歩き出そうとする。
腕を掴もうとする気配。振り払って阻む。行き場を失くした手が、一瞬さまよって落ちる。
言葉を見つけられずに震える唇。冷たく言い放つ。
「俺のことなんか構わずに、早く食べて帰れ」
ふるふると首を振る。痛みに滲む、新緑の瞳。曇りのない清廉な姿。
許さない自分の方が、心が狭いと責められているようだった。苛立ちが唸りを上げて、心を焦がす。
「……嘘つきだって、思ったくせに」
秀麗な顔が、はっとして苦悶に歪む。真っ直ぐに見つめて、必死な声が鼓膜を打つ。
「フェリックス、違う……っ僕は……!」
「何が違うんだよッ!」
あの時、はっきりと感じた。他の誰がわからなくても、エルドウィンの考えることは、誰よりもわかる。
「結局、俺の外側しか見てなかったんだろう! お前は、そんな奴じゃないと思っていたのに!」
強く首を振る姿。さらさらと、うねる金髪が揺れる。ずっと見てきた、その綺麗な様。
「違うんだ、フェリックス! 僕は、本当に君を」
「黙れッ!」
すかさず怒声で遮る。その先なんて、聴きたくなかった。
「ずっと一緒にいるって、言ったくせに! 大丈夫って、最初に言ってくれたのは、お前だったのに!」
乞い願うように、名を呼ぶ声。しなやかな腕が伸びる。
柔らかな、あの体温。日溜まりのような朗らかな匂い。
「……何が……親友だ――」
砕けて、落ちていく。
「俺が、主だから側にいただけじゃないか! お前が一番大切なのは、俺じゃなくて、主家だからな!」
ぴたりと、動きが止まる。瞳孔が狭まって、息を呑む顔。新緑の瞳が、みるみる色を失くしていく。
心の底から傷ついた時の、親友の表情。鋭い刃が、全てを突き刺す。視界が滲む。たまらず踵を返し、駆け出した。
心が、ばらばらに裂けていく。
自分は誰なのか――誰だったのだろうか。自分だと、思い込んで、刷り込んで、積み上げた歳月は。
暗い淵が、口を開ける。助けて、と叫びながら、溺れて落ちていった。
控え室から前室に移動し、扉が開くまでのわずかな時間。その中で、嬉しさと恐ろしさが忙しなく去来する。
しかし、昨年の初冬に会ってから、四ヵ月ぶりなのだ。きっと無事の再会を喜び合えると、淡い期待が胸を高鳴らせた。
扉が開く。いつものように礼をして迎える。重い大股な靴音に合わせて、顔を上げようとした、その時。
腹に、ずしりと固い感触が来て、息を詰める。頭に血が集中しそうになって、なんとか顔を上向ける。肩に担がれたのだと理解し、混乱する。
階段を上り、部屋の扉を開く音。反転した視界の先には寝台。乱暴に閉める音とともに、目まぐるしく変わる。
天井、そして引き裾と内着の裏地。高く掲げられて押さえられた自分の脚。下着の紐を解く音。ベルトに膝丈の上衣を挟み込み、下衣の紐に手をかける姿。
血の気が引く。その紐と下着をほどいて下ろしたら。恐慌を起こして叫ぶ。
「待って、フェリックス! お願い、それはっ!」
現れる影。激しい熱の感触。ひっと、息を詰める。肉が巻き込まれる苛烈な痛みに、悲鳴を上げた。
途端、ぴたりと全ての動きが止まる。
時が静止したかのように凝視する、紺青の瞳。
「……フェ……リッ、クス……?」
わけがわからず、戦慄きながら名を呼ぶ。
すると、みるみる顔が青ざめていった。震える声が落ちる。
「……え、あ……俺……何を――」
信じられない光景を見るかのように、視線が緩慢に、上から下へと這っていく。そして、見下ろした途端、見えない手に弾かれたように、即座に背を向けた。
「……すまない……今日は帰ろう」
震えて掠れた低い声。瞬間、行かせてはいけないと、切実に思いが閃く。自分でも驚くほどの速さで、立ち上がりながら服を整える背中に抱きついた。
戸惑って、名を呼ぶ声。腕に精一杯、力をこめる。
「行かないで……ここにいて……」
「……でも、トリーナ……」
強く首を振る。
久しぶりに抱き締めた身体は、細くなっていた。痩せたというより、弱ったような、力強い生気の薄れた感触。
どれほどのことがあったのだろう。我を失うほどのこと。その心中を思うと、苦しかった。
「行かないで……お願い……」
手を伸ばして繋ぐ。微かな震え。背に当てた耳に聞こえる、今にも泣きそうな呼吸音。
優しく、柔らかく囁く。
「フェリックス――抱いて……私に、あなたをちょうだい。私だけが知る――あなたを」
震えながら、息を呑む声。そして、
「……っトリーナ……!」
振り返り様、口づけが落ちる。
掻き抱く腕の中で、何度もその感触を受けた。存在を確かめるようになぞる手を、唇を、激情を、ひたすらに受け止めて、抱き締めた。
灯りの消えた暗がりの中で、泣き疲れたように眠りに落ちた寝顔を見つめる。
閉じた瞼から、滲んでこぼれる涙。父さん、母さん、と呟く声。その悲痛な切実さ。ありのままの心の形が、そこにはあった。言いようのない不安がさざめく。
歳月を重ねるごとに、大きくなっていく心の振り幅。
振りきった先に、何があるのか――暗い淵の底には、何が待っているのか。
そっと、広い胸に耳を寄せる。緩やかな鼓動。
せめてこれ以上の苦しみが、この恋しい人を苛むことのないようにと、祈りながら眠りについた。
片脚で歩くような心許ない意識の中、宿舎に着いた。
正面玄関口の壁一面に並ぶ、所在表の札。自分のところに近寄ると、外泊になっていた。
昨夜ここを通った記憶も、札を切り替えた覚えもないのに、長年の習慣が、そうさせたのか。
その隣の札の色に気づいて、目を瞪る。
既婚者が職務の都合で泊まる、仮宿室。まさかと思って、廊下を少し行った先の伝言板を見る。
そこに、エルドウィンの身分名があった。子供の落書きのような図柄の下に、注釈が書いてある。
――次代様宛なので、消さないでください。従家次代。
誰がどう見ても、言葉には見えない文字。子供の頃に考えた、二人だけの秘密の暗号。切れ切れの単語を、ひとつずつ解読して繋げる。浮かび上がる言葉。
――初めて会った時に、君が言ったことを思い出して。
途端、記憶が鮮やかに甦る。
麗らかな午後。あまりの綺麗さに、目が落ちそうになるくらい驚いた。心からの気遣いが温かくて、好きだと思い、友達になりたいと願った。
初めて、エルドと呼んだ時の、本当に嬉しそうな優しい笑顔。
札の部屋番号を再度確認する。歩くのももどかしく、早足で仮宿室区画に向かった。
扉を叩くと、返事とともに引き開く。新緑の瞳が瞠り、すぐにほっとしたように、柔らかく微笑む。
「暗号、読んでくれたんだね」
口を開きかけたところで、寒いからと促されて入る。寝台と棚、姿見という、一時的に寝泊まりするだけの簡素な部屋。
窓の縁に軽く腰かけて、穏やかな声が言う。
「あれから、君の部屋に行って探して――外泊だってわかったから、この機会に、みんなと話しておこうと思って」
心が、ぎゅうと苦しくなる。
今まで、苛立って酷いことを言ってしまったことはあっても、あんな言葉は決して口にしなかった。
むごく傷つけたのに、それでもなお、自分のために動いてくれた心の深さ。頑なな冷たさがほどけていくとともに、いくつもの仲間の顔が、次々と浮かぶ。
「みんな、心配してたよ。君が、王位に就けると、手放しで喜ぶような奴じゃないのに――一番、殿下のことを思って、傍にいてきたのにって」
特に気に病んでたよ、と、ウィンケンスの身分名。会って謝りたいと、思いが沸々と湧く。
「フェリックス。確かにあの時――嘘をつかれてたって思ったよ。僕達の間に秘密はないって、信じてたから」
心が、ずきずき痛む。たとえ話さなくても、互いに察して、何でも一緒に感じてきた。それなのに自分は、出会ったその瞬間から、偽りで塗り固められていた。
「でも、落ち着いて考えてみたら――そんなこと、どうだっていいって、思ったんだ」
穏やかで柔和な声。優しく微笑む、秀麗な顔。薄絹の窓掛けに透ける、雪に反射した白い輝き。
「だって、君は君で、僕は僕だから――初めて会った時から、ずっと」
視界が滲む。涙が、とめどなく伝い落ちる。
最初から、身分なんて家名なんて出自なんて、そんなものはなかった。自分と親友は、そのままで、いつも二人だった。
「……エルド……ごめん、俺……っ」
近寄る、しなやかな所作。手が伸びて、抱き締められる。
少し低い肩。子供の頃から慣れ親しんだ、日溜まりのような朗らかな匂い。温かな安心感が、心に広がる。優しい声が、鼓膜を震わす。
「大丈夫。大丈夫だよ、フェリックス――大好きだよ。大切な、親友だから」
鼻をすすって頷く。
喧嘩した時。傷つけてしまった時。小さな頃からそうして、仲直りしてきた。
「俺も、大好きだから……全部……違う、からっ……」
つらくて苦しくて、嗚咽が漏れる。温かな手が、優しく背中をさする。
「わかってるよ。大丈夫だから――大丈夫……」
名を呼ぶ度に、柔らかに答える声。
確かなぬくもりに包まれて、安堵のうちに涙した。
それからは、視線を感じても、囁き話を耳にしても、気にならなくなっていった。自分は自分なのだ、という思いが、心の土台として支えとなった。
休暇後すぐに、ヘンリクスに呼び出されて、職務明けに執務室を訪れた。
扉を開けて閉めた途端、視界が急激に下がる。間近に迫る、彫りの深い顔。人の悪い笑みが浮かぶ。
「たまには家族として――こう抱き締めんと、と思ってな」
「いや、今にも投げ飛ばそうって構えなんですが」
体術の基礎の技を変形させた型。このまま腕を捻れば、あっという間に床に転がされる。
剣術なら、もはや負け知らずだが、体術は、いまだに勝てないことがある。好きだからよけいに打ち込んだだけだと、ヘンリクスは言うが、身体の使い方が根本的に違うのだ。
首に、ずっしりと腕の重みが乗る。はたと気づいて、得意げに笑う。
「もしかして義兄上、背が足りないから――っ痛てて」
「全く、もっと小さい時に可愛がっておけばよかったな」
極めたところが、ぎりぎりと締まっていく。限界を告げる合図を必死にやる。
あと少しで無理、というところで、するりと離れる。息をついて、腰と背を伸ばす。
頭半分ほど下にある、薄青の双眸。全く、図体ばかり大きくなりやがって、と、ぼやきながら、執務机の椅子に座る。そして、書類の山に手を伸ばして言った。
「いいか。今度の非番は、必ず遊びに来るんだぞ。ヴィクトリアが、会いたかったのにとうるさいんだ。協力しろ」
思わず顔が綻ぶ。斜めから迂回してくる気遣い。久しぶりに、従姉と子供達に会いたかった。温かな心持ちで答える。
「わかりました。明後日の夕方、伺います」
ああ、と短く返事をし、書類に署名する。本当に読んだのか、疑わしい速さ。ブラッツに怒られないといいが、と内心苦笑しつつ、部屋を辞そうとすると、
「フェリックス。何があっても、俺達は家族なんだ。それを忘れるなよ」
書類の山から覗く、真摯な面立ち。今となっては、どうして疑念を持ったのかと思うほどに、素直に心に染み込んでいく。
真っ直ぐに、薄青の双眸を見つめて告げる。
「ありがとうございます、義兄上。姉上に、楽しみにしています、と伝えてください」
ひらひらと、書類が揺れて応える。柔らかく微笑んで、執務室をあとにした。
期末が近づき、日常が戻ってきた頃、ウィンケンスと当番がうまく重なって、ようやく話す機会ができた。
互いに謝り合って、いやいや俺の方が、と言って、吹き出し笑った。
不安は常に心の奥底にあったが、もう惑い迷うことはなかった。
春が盛りに向かう、麗らかな日。求刑について異議申立てはなく、判決が確定した。
宰相次代の次妹は、執行猶予により、実家に帰された。その他の被告らは、監視棟から刑務棟に移送され、刑の執行を待つこととなった。
期が変わって、暖かくなった頃、商務官従家当主の次男の容態が安定し、審理が再開された。
動機から反逆罪は認められず、一ヵ月の裁判ののち、公文書偽造罪と殺人未遂罪が成立した。
しかしながら、妻による減刑の申立てを受け、執行猶予五年の懲役刑三年が求刑された。
申立てを認定した上での判決のため、即日確定した。




