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追憶①

 暖炉の炎が、あたりを暖かく照らしている。

 火は、全てを無にする怖い存在だったけれど、ゆらゆらと、赤に橙に躍る景色は、見ていて楽しいものだった。

 保護柵に近寄ろうとして、ひょいと抱き上げられる。優しい紺青の瞳が、微笑んでいた。

「ちちえっ!」

「いけないよ、フェリックス。燃えてしまったら、御夜(みよ)の御元に還れなくなってしまう」

 恐ろしくて、でも、生き物のように揺らめく炎が気になって、精一杯手を伸ばす。

「ゆらゆら、いるの」

 しっかりと抱えたまま、父がしゃがむ。

 きらきら煌めく赤や朱が、眩しくて綺麗だった。母が、寝る前に読んでくれる絵本に出てくる、強い獣のようだ。

「お前には、何か違うものに見えるのだな」

 父の微笑む声。うんうん、と何度も頷く。何とはまだ言えなかったけれど、薪を舐めて激しく躍る光景は、本当に生き物そのものだった。

 大きな手が、優しく頭を撫でる。柔らかな低い声が語る。

「いいか、フェリックス。お前は、御夜の御寵愛を受けた真夜の王家の嫡子だ。だが、だからこそ――皆の支えがあって、私達がいることを忘れてはいけないよ。この炎のように、正しく接していれば、恵みをもたらしてくれるが、誤れば、身を焼いて無になってしまう。慎ましい振る舞いが、王家の在るべき姿なのだ」

 よくわからなくて、首を傾げる。紺青の瞳が、炎に照らされて、強く輝いている。

「今はわからなくていい。もう少し大きくなったら、考えてごらん」

「あいっ!」

 手を挙げて、元気よく答える。父が、いとおしむように微笑んで、頬に口づけを落とす。嬉しくて、大好きで、ぎゅっと抱きついた。

「よく学び、民を豊かに導くよい王になるのだよ――フェリックス。私のいとしい〈幸運〉の子よ」


 身体が、寒い。息が、できない。

 ごぼごぼと、胸に何かが入ってくる。冷たい。苦しい。

「いやあああっ! フェリックス! 目を開けてえ――ッ!」

「……っどうしてこんなことに……! ほら、フェリックス! 水を吐き出すのだ!」

 背中に、何度も衝撃が走る。

 胸から何かがせり上がって、たくさん咳をした。つらいけれど、空気が甘く、たっぷり入ってくる。

 怖くてびっくりして、声を上げて泣いた。


 温かい感触。父の匂いだ。浮き沈みする意識の中で、誰かと話す声が聞こえる。

「だからっ、通行証は、荷馬車ごと河に流されてしまったのだと、言っているだろう……! この子は溺れたのだ。早く医務師に診せなければ!」

「この時期の河に落ちて、平気だったなんて嘘、信じろって方がおかしいだろ。ほら、仕事の邪魔だ。とっとと失せろ」

「――お待ちくださいな」

「コールマンさん!」

「この人達の言うことは、本当ですよ。ずっと、マニュルムで腰を据えて商売したいと希望されていて――やっと、許可が下りたというのに……」

「ああ、そうでしたか! それは災難でしたね。さあどうぞ、お通りください」

 礼を言う父と母の声。

 抱え直されて、軽く身体が揺れる。歩く緩やかな振動に、ゆっくりと、意識が落ちていった。


 目を開けると、ぱっちりと大きな翠緑の瞳があった。可愛らしい声が、笑いかける。

「おめめ――きれいね」

 そして振り返って、開いた扉の向こうに呼びかけた。

「おたあさん、おっきした!」

 とても綺麗な女の人が現れて、父と母が駆けてくる。紺青と青藍が、潤んで見つめる。

「……ちちえ……ははえ……」

「ああっ、よかった……! フェリックス! ああ、ああ!」

 母が、どうしてか泣いている。つらくて、精一杯微笑む。

 父が母を抱き寄せながら、優しく撫でてくれた。温かな大きな手に安心して、柔らかな眠りに吸い込まれていった。


 意識がはっきりして、元気になると、父は言った。

「これから、お前の名は、フェリックス・ベネットだ。父上と母上のことは、父さん、母さん、と呼ぶのだよ」

 理由はわからなかったけれど、父と母の口調も、少しずつ変わっていったから、合わせることにした。

 その日を境に、生活はがらりと変わった。

 衣服は褪せた色になり、食事はほぼ同じ献立で、代わり映えしなくなった。

 変な感じはしたけれど、隣のコールマンさんのところのトリーナが、夜はいつも新しい家に来て遊んでくれたから、違和感はすぐに薄れていった。


 遠い家の子と関わるのは初めてだったから、入舎の日は、すごく緊張した。

 でも、トリーナが、

「おなじ組だもの。だいじょうぶよ」

 と言ってくれて、心丈夫でいられた。しかも、席は姓の頭文字順だったから、ちょうど隣になって、すごいね、と二人で笑い合った。

 教師が入ってきて、出欠を取っていく。初めの子達が呼ばれたあと、順番が回ってきた。

「フェリックス・ベネット」

「はい!」

 思いきり元気よく返事をする。

 他の名で――家族以外の人達からは、名とは違う呼び方で、呼ばれていた記憶が朧気にあったけれど、よく覚えていなかったから、これが自分の名だと思っていた。


 窓の向こうに浮かぶ満月を、二人で仰ぐ。漆黒の神様の見守ってくれる今夜なら、なんとなくうまくいく気がしていた。

 隣に座る可愛い横顔を、そっと見遣る。

 頭がよくて可愛くて、男子連中はトリーナに夢中だった。意中の人はだれだ、なんて騒いでは、おれだと名乗りを上げて、ふられていった。

 当たり前だと思う。入舎前から遊んでいた奴もいたけれど、ほとんどは、一年と少ししか付き合いがないのだ。ずっと小さい頃から、おばさんの仕事の都合で、日がな一日遊んでいた自分とは、わけが違う。

 それでも、いざ口にしようとすると、怖くてたまらなかった。もしかしたら、自分の思い上がりで、その他大勢の一人かもしれないのだ。

(……だけど、ほかのやつにとられるくらいなら)

 意を決して、名を呼ぶ。こちらを見て、小首を傾げる可愛い姿。どきどきと、鼓動が早鐘を打った。

「あのさ、おれ――トリーナのこと、すきなんだ。その……友だちとか、そういうんじゃなくて……とくべつな女の子としてさ」

 顔がすごく熱い。

 翠緑の瞳が、見開いて瞬く。ああ、だめなのかな、と恐ろしさが、心を震わせる。

「……本当……? フェリックス、わたしのことすきなの……?」

 思いきり頷く。そして、一息に告白した。

「トリーナ、大すきだよ。大きくなったら、おれのおよめさんになってほしいんだ」

 ふわりと、可愛い顔が微笑む。

 幸せそうに潤む、翠緑の瞳。白い頬が赤く染まって、本当に可愛くてたまらなかった。

「……うれしい――わたしも、大すきよ……およめさんに、なりたいわ」

「ほ、本当にっ⁉ トリーナも、おれのことすきなの⁉」

 こくりと頷く、可愛い顔。

 これほど幸せなことがあるだろうか。まさか、両思いだなんて。

 それならと、勇気を振り絞って、尋ねてみる。

「……口に、してもいい……?」

 戸惑う表情に、急ぎすぎたかな、と不安になる。可愛い顔がさらに赤くなって、それでも、小さく頷いてくれた。

 向かい合って両手を重ね、翠緑の瞳を見つめる。どきどきして、生唾を飲み込む。両親が、見送りと出迎えの挨拶をする光景を思い出す。

(だいじょうぶ……ちょっと、ふれるだけ……)

 ゆっくりと顔を近づけて、唇を触れ合わせる。

 目を瞑る頃合いが掴めなかったけれど、柔らかくて温かい感触に、そんなことは吹き飛んだ。好きな女の子と口づけをしているという現実が、全身を、甘い何かで満たしていった。

 顔を少し離すと、微笑み合った。

 照れくさくて、こそばゆくて――けれど、びっくりするくらい幸せで、きっとこれ以上はないと、真剣に思った。

 それから二人で、満月を仰いで祈った。

 大人になったら結婚しますと、ずっと一緒にいたいですと、心をこめて誓い合った。


 格式ばった口調で、教師が講義する声を必死に聴く。

「家系名は、王家及び六貴族ならびに従家にのみ、名乗ることが許されております。クランは〈一族〉を意味し、六貴族の直系当主とその嫡子に付与されます。次代様は、フォルティス家直系の嫡子であられますから、フェリックス・クラン・フォルティス、となるわけでございます」

 だから、フロス街の人達は、名と姓だけなのかと納得する。一方で、ざらざらした気持ちが心を食んだ。

 クレメンスが語るには、本当の名は、フェリックス・レガリス・ノクサートラだという。立太子すれば、真夜の王の称号を戴き、レガリスがレクスに変わるのだ、と。

 平民の息子と、フォルティス家直系の嫡子と、王家の嫡子。

 提示された引き出しの正解を、教えてくれるはずの父と母は、もういない。

(おれは……だれなんだろう……)

 心が分かれて、ゆっくりと裂けていくのを感じた。


「フェリックス! 待ってよっ……!」

 後ろで呼ぶ声に構わず、ひたすらに駆ける。

 終着点まであと少し。前回は負けたから、今日は絶対に勝つと決めていた。

 振り返って、エルドウィンに叫ぶ。

「言っただろ! 本気を出せば、おれの方が速いって!」

 新緑の瞳が、はっと見開く。すかさず声を上げた。

「――あ、待って! 前見て!」

 怪訝に思って正面を向いた瞬間、大きくのけ反った。そのまま地面に、仰向けに倒れる。

 春のふかふかした草。頭が、ずきずき痛い。

 追いついて顔を見たエルドウィンが、青ざめる。

「フェリックス! 血が……血が……!」

 言われて起き上がりながら、痛む場所に手を当てる。鮮やかな赤が、べっとりと手についていた。思わず、息を詰める。

「だいじょうぶ? 頭、ふらふらしたりしない?」

 少し考えて頷く。幸い、皮膚を切っただけのようだった。

 ほっとした、愛らしい顔。すると、急に衣服を裂き始めた。びっくりして慌てる。しかし、エルドウィンは構わずに、生地を細く長くしていく。

「とりあえず、きずをおさえて、血を止めなきゃ。本で読んだだけだから、うまくできるかわからないけど――何もしないよりは、いいと思うんだ」

 そして、頭にくるくると巻いていった。

 気遣うように、丁寧な所作。できたよ、と優しい声。途端、涙が溢れ出した。

「えっ……あ、ごめん……! きつくしすぎた?」

 慌てて直そうとするところを、首を振って意を伝える。たいして痛くないのに、心が苦しくてたまらなかった。

 屋敷に戻っても、父も母もいないのだ。叱りながらも手当てしてくれる柔らかな母の手が、大事にならなくてよかったと抱き締めてくれる父の腕が、恋しかった。

 けれど、どんなに会いたくても、もしかしたら全て焼けてしまって、無になっているかもしれないのだ。

「……う、あ……ああっ……ああ……!」

 父さん、母さん、と叫びたかった。会いたくて、たまらなかった。

 しかし、今持っている引き出しは、フォルティス家直系の嫡子だった。

 この目の前にいる優しい友達にすら、話せない秘密。何度打ち明けようとして、何度恐ろしくて口を閉ざしたか。

 あの密室で引き出しを持ち替えて、やっと食事と寝室と教育が与えられて、生きていけるのだ。

 何より、エルドウィンが、あんな怖い目に遭うのは嫌だった。

 振り絞るように泣いていると、手が伸びて、抱き締められた。優しい声が、鼓膜を撫でる。

「だいじょうぶ……だいじょうぶだよ、フェリックス。ぼくがずっと、いっしょにいるから」

 腕を回して、背中にしがみつく。ぎゅっと、力のこもる感触。温かくて柔らかくて、安心感が全身を包む。涙とともに苦しみが流れ、裂けた心が溶けていく。

「……っエルド……! エルド!」

 しゃくり上げて泣きながら、何度も名を呼ぶ。その度に、大丈夫と返ってくる声。

 日溜まりのような朗らかな匂いに包まれて、やっと、本当の居場所を見つけた気がした。


 *


 裁判の結審と時を同じくして、行政官から、一通の手紙が届いた。

 誰もいない執務室で封を切る。枚数は少ないが、便箋には、密度の濃い内容が記されていた。

 それは、戸籍の記録の調査結果をまとめたものだった。

 ――フェリックス・レガリス・ノクサートラ。ノクサートラ家にて出生し、王太子ルキウスの嫡子として家系登録。二歳で事故により死亡し、除籍。

 ――フェリックス・ベネット。ルーク・ベネットの長男として出生。二歳の時、出生地である東の山岳地方から、王都に転居。移住の際、やむを得ない事故により、移籍証明書を紛失し、中央行政局フロス街区マニュルム支所にて、戸籍を再作成。八歳で火災により死亡し、除籍。

 ――フェリックス・クラン・フォルティス。フォルティス家にて出生し、直系当主クレメンスの嫡子として家系登録。病の快復により、出生時に遡って作成。

 簡潔な箇条書きの文章。それなのに、歩みの過酷さに手が震えた。

 通常、婿入りしなければ、出生時の名で生涯を過ごす。それが、たったの八年余りで二回も姓が変わり、死亡扱いで除籍されている。

 そして、再作成時の二人の身元保証人。一人は一番館の前館主だった。もう一人は、一番館所属の高級娼婦――エリザ・コールマン。

 平民において、それほど珍しくない姓。

 しかし、もし(おや)()だったとしたら。フェリックスは、どんな思いで〈主人〉になったのだろう。

(……あの子は、全て知った上で……)

 十六年を、フォルティス家直系の嫡子として生きてきたのだ。あれほど小さい頃から、たった一人、秘密を抱えて。痛ましさに胸が詰まる。

 一枚目をめくると、陳謝とともに、進捗が書かれていた。

 そもそも、王太女の存命中に嫡子の地位を変更するなど、あまりに特殊な事例だ。そう簡単にはいかなかったようで、古文書まで遡って調べているという。

 真昼の民が生まれた頃の言葉で書かれており、読める者が限られている。注釈書もすでに古く、嫡子と二人で解読しているものの、なかなか進まず申し訳ないと、綴ってあった。

 焦りが、じりじりと心を炙る。

 出自に関する話が噴出してから二週間余り。フェリックスは、笑わなくなった。

 未婚の部下達から聴いたところでは、宿舎でも自室にこもって、誰とも関わらずに過ごしているという。

 心配しながらも触れられない、といった状況で、(さと)い者は、気配が薄くなっていると怖れていた。

 せめて顔を上げて立っていられる土台を修復しなければと、切に思うのに、本人が拒絶してしまっている。いつもと変わらず声をかけても、淡々と返されて終わるだけだった。

 もし、このまま立て直せずに、剣を自らに向けたら。

 手紙の文字が滲む。他者に奪われてきた、歩みの軌跡。

 たとえ死が、フェリックスにとって、苦しい生からの解放となるとしても、無になるなど、絶対にあってはならないことだ。

 傾きつつある晩冬の陽光に沈む部屋を見つめる。他人に委ねるしかないもどかしさ。

 しかし、アメリアの命と身分が法的に保障されなければ、フェリックスの心は、決して戻ってこない。

 ふと、扉を叩く音がする。よく通る澄んだ声。便箋を封筒に入れて、執務机の引き出しに仕舞うと、扉を引き開けた。


 進捗を説明する平静な声を聴く。想像以上に特殊な事例なのだと痛感しながら、こんな状況になった意味を、どうしても考えてしまう。

 どうして神は、寵愛する王家の嫡子を苦しめ、負託のない真昼の娘を一人残したのか――。

 あっさりとした報告が終わり、ヘンリクスが口を閉じる。礼を言いつつも、なんとなく違和感を覚えた。

「ねえ、話してないことがあるでしょう」

 薄青が、おもむろに瞬く。深みのある低い声が、静かに告げた。

「繋がりが深いほど、知らない方がいいこともございます。――特に、過去については」

 すうっと理解が下りていく。心に、嫉妬の炎が揺らめいた。

「〈仮初めの奥方〉、ね……?」

 冬の河のように凪いだ表情。

 ブラッツの話によれば、フェリックスは、マニュルム地区で幼少期を過ごしたという。

 そして、大抵は、歳の近い者同士で縁が繋がるのだ。何らかの関わりが、あるかもしれなかった。

 自分の知らない子供の頃の声。姿。思い出。知るのなら、フェリックスの口から聴きたかった。それでも、醜く嫉む心が悶えてやまない。

 掠れた声が、落ちた。

「……私……嫌な女ね……」

 薄青が瞬いて、彫りの深い顔が綻ぶ。怪訝に眉をひそめると、淡い苦笑が漏れた。

「――いえ、先日の冬季休暇で帰省した長女に、言われたことを思い出しまして」

 確か、第三子で、今年十歳になるはず。そこまで記憶を掘り起こして、促すように見つめる。

「好きな人がいると言うんです。王妃付きの従騎士だそうで。ただ、他の子とも文通をしているという話を聞いたから、どういうつもりなのか質してほしい、と」

 苦笑が深くなる。我が子をいとしんで思い遣る、柔らかな色が浮かぶ。

「こんなにずっと好きでいるのにひどい、と、いっぱしに言うんですよ。それならと――そんな大事なことを、俺の口から聴きたいか、と返したら、お父様なんて大嫌い、なんて泣くものですから」

 弱りきって、頭を抱える姿が浮かぶ。微笑ましい話に、強ばっていた心がほどけていく。

 深みのある温かな低い声が、優しく鼓膜を撫でる。

「ひとを強く慕うほど、苦しいこともございます。しかし、その分、喜びも深いものです。――殿下。フェリックスへの思いを、後悔されていますか?」

 ゆるゆると、首を振る。

 本来ならば、あり得なかった絆。出会えてよかったと、心から愛し、愛されてよかったと、深く全てで思う。

 それでも、日々生気の薄れていく姿を――心を失くした紺青の瞳を見る度に、誓いを受けた幼い自分を責め苛んだ。

「……でも、ヘンリクス……」

 はらはらと、涙がこぼれる。

 フェリックスは、十年もの歳月をかけてきたのだ。それなのに、自分は何の糧にもなれない。

「私はフェリックスを守れない――私は、あのひとを死に追いやる存在にしかなれない!」

 苦しくて悶える。

 こんなにも愛しているのに、愛されていると知っているのに、なぜ繋がり合えないのだろう。確かな絆を信じていても、今はとても遠く感じられた。

「――殿下、それは違います」

 深みのある低い声。彫りの深い面立ちが、優しく微笑む。

「男というものは、愛する女のために命を賭けます。大切だと思うからこそ、遠ざけるのですよ」

「……っそんなの……全然ッ、嬉しくないわ!」

 思わず強い口調で吐く。

 フェリックスと、ともに生きたかった。傍にいて、抱き締めてほしいのに、どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう。

「そうですね――ですから、それを止めるのもまた、女なのです。あなたがいるからこそ、フェリックスはどんなにつらくても、今まで生きてこられた。殿下との誓いが、あの子の何よりの支えなのですよ」

 あの春の午後が甦る。

 初めて自ら腕を伸ばし、抱き締めてくれた。心の底から叫ぶ、素の口調。一字一句、四年経った今でも、鮮明に覚えている。

「フェリックスが言ってくれたわ――あなただからこそ、日々の職務にも励むことができたって……あなたと過ごす時間は、かけがえのない宝物だって」

 あの瞬間、本当の恋に落ちた。そうして深く、愛した。

 十年間の鮮やかな思い出。愛するひとと自分を繋ぐ、いとしく温かな心の支え。

 穏やかな声が、鼓膜を柔らかく撫でる。

「どうか御顔を上げて、いつもの殿下で、お立ちになっていてください。あの子が戻ってくる時の、道しるべとなるように」

 頷きながら、それでも涙が止まらなくて、溢れるままにすすり泣く。

 優しく微笑んで見守る、薄青の双眸。よく知った安心感が、怖れをゆっくりと(つよ)さに変えていく。

 春の空の晴れやかな色に守られながら、もう不安に嘆くことはしないと、心に決めた。

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