束の間の休息②
新年祭から二週間が経とうとしている頃、ようやく退院が決まった。
着替えなどの荷物を片付け、なまりきった身体を伸ばしていると、
「いいですか。退院は、日常生活に戻るための大切な一歩です。絶対に、激しい運動をしてはいけませんよ」
と、医務官に、口を酸っぱくして言われた。
苦笑して冗談まじりに、信用ありませんね、と返したら、当たり前です、と叱られた。
それでも、医務院のフォルティス家側への出入口まで付き添い、温かく言葉をかけてくれた。
「確かに、困った患者でしたが――あなたが身を削って、務めを果たしたからこそ、殿下が御無事なのですからね。どうぞ、お大事にしてください」
「ありがとうございます。お世話になりました」
明るく笑んで、頭を下げる。穏やかに頷く、薄藍の双眸。
寒い中、佇む姿に会釈して、宿舎へと帰っていった。
翌日、昼間は自室の掃除や洗濯出しなどの雑事をこなし、夕方に仕官服を着て、隊議に出席した。
大勢で見舞うと迷惑だからと、ヘンリクスが諭したから、エルドウィンとアドルフ以外の部下達と顔を合わせるのは、久しぶりだ。安堵した表情で、温かく出迎える多くの姿に、あるべき場所に帰ってきたのだと、実感が湧いた。
復帰の挨拶を終えると、具体的な当番の確認に入った。
早番の前半のみに始まり、早番のみ、それに夜勤を除く遅番を加え、最後に通常勤務に戻す、という計画だった。
ヘンリクスから大まかな話は聴いていたが、空白の多い当番表を眺めていると、妙に不安な気持ちになってくる。特に、夜勤はかなり体力がいるから、代わりに立つ他の隊の隊長と副隊長には、申し訳なかった。
しかし、今は本調子に戻るのが先決だ。無理をして、倒れるようなことがあれば、皆に余計な迷惑がかかる。
何より、アメリアを心配させて、泣かせるようなことがあってはいけない。全ては、いとしいひとのためだと思って、飲み込んだ。
隊議のあと、アドルフとともに従騎士達の終礼に赴くと、少年らしい元気な声が挨拶した。
「おかえりなさい、隊長!」
「ただいま戻った。心配かけたな」
羨望と憧れで輝く、数多の純粋な眼差し。前に並ぶ上の年次の従騎士達は抑えているが、後方の後期課程に進んだばかりの少年達は、視線が痛いほどである。
心中で苦笑していると、アドルフが、強い口調で諭す。
「いいか、お前達。この前も言ったけどな、死人が出たんだ。喜ぶことじゃないんだぞ。剣を振るう意味を、今一度考えろ!」
「――はい!」
ぴったりと揃った返答。思い出したように、アドルフがつけ加える。
「あと、それとな。これも繰り返しだが――」
ちらりと、若緑の瞳が一瞥する。どこか苦笑まじりの色。溜め息と知れないよう、鼻がふっと吐息を出す。
「隊長と同じように、怪我をしても戦おうなんて思うなよ。自分の限界を見極められて、初めてできることだからな。無謀は命を縮めるだけだぞ。――以上、解散!」
再びよく揃った返答があり、従騎士達が騎士舎へと帰っていく。
話を聞きたげな表情で振り返る子もいたが、アドルフが事前に禁じていたのだろう。真っ直ぐフォルティス家の執務館側へと歩いていった。
その、まだ細い後ろ姿を見送りながら、アドルフに告げる。
「苦労かけたな。あの分だと、相当大変だっただろう」
「まあ、気持ちはわかりますからね」
言いながら、職務明けを示すために、マントを外して手早く畳む。留め具の鎖を革の肩帯にかけると、腰側に吊るした。
目顔で促されて、ともに歩き出す。
「でも俺は、他人の死を喜ぶような子達には、なってほしくないですから。たとえ相手が――極悪非道な奴だったとしても」
「そうだな」
強く頷く。
入院中、斬った男達は死んだと知った。警護の務めとして、やむなく殺傷した場合は、事前に刑を代理執行したとして許される。
それでも、尊い親である神から生み出された同じ子なのだ。むやみに傷つけ、命を奪っていいものではない。
「さすがに、〈教育隊の悲劇〉を思い出させるのは可哀想だから、やめておきましたけど」
その単語に、思わず背筋に寒気が走る。
騎士見習いとして教育隊に入隊し、初めて剣を貸与される日に、必ず行われる恒例行事。教育隊隊長が、罪人の死体を実際に斬ってみせるのだ。
その年に、ようやく十歳になるという子供達。当然、阿鼻叫喚の大混乱になる。
泣き出す子、漏らす子、吐いてしまう子。ぐちゃぐちゃな状況で、隊長の言葉が重くのしかかるのだ。
同じように思い出したのか、アドルフが身震いする。
「俺の時なんか、酷かったんですよ。隊長の虫の居所が悪かったみたいで、首まで刎ねて。一番前に座ってた同期の足元に落ちて、そいつは総まみれ。しばらくみんな、近寄らなくて、可哀想でしたね」
「ああ、それは……」
あまりにも悲惨で同情する。
剣を振るう意味を叩き込むことが最大の目的だが、ある意味、度胸試しでもあるのだ。
暗黙の了解があって、ひとつならまだしも、全部揃えてしまうと、男の風上にも置けないと、軽蔑の対象になる。しかも、後々まで語り継がれるのだから、まさに悲劇である。
一方で、たとえ泣いたとしても、そのあとの食事を問題なく終えられれば、憧れの的となる。
「まあ俺も、泣きませんでしたけど、紙袋の世話になりましたからね」
人の事は言えないと、秀麗な顔が苦笑する。そして、フォルティス家の執務館に続く渡り廊下の扉を開けると、
「次代様は、どうだったんですか?」
と、尋ねた。興味津々な若緑の瞳。
真冬の冷気に、示し合わせて足早に抜け、館に入る。
「泣いたが、昼はきちんと食べたぞ。入舎祝いだとかで、なかなか上等な肉が出たな」
「へえ、そうなんですかあ。すごいですねえ」
平板な声。期待が外れて残念、といった表情。あまりにあからさまで、思わず吹き出す。
「総帥の嫡子が総まみれだったら、それこそ語り草になっているだろう」
そうなんですけど、と不満そうな声で、若緑の瞳が見上げる。顔立ちのよく似た、新緑の瞳を思う。
「隣に、エルドがいたからな。手を繋いで、怖かったねって言い合っていれば、心強くいられるさ」
アドルフが、納得した表情になる。どこか嬉しそうな横顔。兄を慕う心に和む。
(そういえば――あの時はまだ、普通に手を繋いでいたんだな)
〈教育隊の悲劇〉から数日後、同期の一人にからかわれた。もう幼い子供ではないのだと悟って、エルドウィンと話し合ってやめたのだ。
大切なものが切れてしまったような恐怖。人は簡単に死んでしまうという生々しさが、まだ心に残っていた頃。
抱擁は、家族や親しい者との挨拶だから、何も言われないことに気づくまでは、人目につかないところで、こっそり繋いでいたものだ。
執務館から既婚者用の更衣室へと続く通路に行きつく。吊るされて並ぶ外套。
パラレ隊隊長専用の鉤から、分厚い毛織の外套と襟巻きを取って纏う。アドルフも同じように、しっかりと防寒して、宿舎に向かうべく外に出る。
粉雪のちらつく夕暮れ。寒さに震えながら、アドルフが、いつになく真剣な口調で言う。
「まあ、なんというか――初めて人を斬って、改めて剣を振るう意味を考えましたよ。……エアネストのことも、最初は腹が立って、いい気味だって思ってましたけど……入院生活すら、不自由してるところを見ると、可哀想なことをしたなって」
さくさくと、小さな歩幅で進む音。白い息が、凍てつく空気を滑っていく。
「……そうだな。俺も考えたよ。五人も……殺めてしまった」
「四人、ですよ。一人は、俺がとどめを刺したんですから」
静かな声。そうだな、と返して、ただ粉雪を踏んで歩く。
手袋を嵌めた右手を、無意識にさする。瞬間、目の前の景色が一変する。
人の肉を斬り裂く重さ。刃に伝わる骨を断つ軋み。断末魔。飛沫を上げる、鮮烈な赤。
――次に、血の海に沈むのは。
身体の芯から、凍てつく寒さが広がる。視界が明滅し、急激に傾いだ。
「――次代様っ!」
背中に、しなやかで力強い腕の感触。驚いて瞪った若緑の瞳と目が合う。どうやら、滑って転びかけたらしい。
礼を言って、しっかりと地に足をつける。背を支えたまま、心配した声が問う。
「大丈夫ですか? 医務師を――」
「いや、少し疲れが出ただけだ。だいぶ、体力がなくなっているな」
安心してほしくて、柔らかく苦笑する。若緑の瞳に一瞬、考えるような色が閃く。そして、にやりと笑った。
「じゃあ今、騎戦盤やったら――俺、勝てますね」
瞳の奥底に揺れる不安。はっきりとではなくとも、察したのだと知る。
疲れているからではないことを――暗く沈む心を。
心からの気遣いに、全身に温かさが宿る。親友と同じように敏く、しかし親友とは異なる心の配り方。おもむろに、顔が綻んだ。
「言ってくれるな。体力が落ちても、エルド仕込みの戦術は衰えていないぞ」
思い出したように、しまったという顔。それでも、おどけた快活な声が宣言する。
「わかりませんよ? 心身が一致してこそ、真の騎士! 身体が弱れば、心も然り――ってやつです。絶対、勝ちますからね」
そこまで言うか、と調子を合わせて、片眉を上げる。挑むように、若緑の瞳を見る。
「それで、負けた方は?」
「これまで生きてきた中で、一番恥ずかしい話を披露するってことで」
白熱しそうな敗れ罰だ。躍る心で、拳を胸に当て、応戦の仕草をする。同じようにして、にやにやと笑う秀麗な顔。
それから、宿舎の購買に寄って、薄切りの揚げ芋や塩味の焼き菓子を買った。
量り売りの香辛料入りの温かい茶は、背の高い陶器の茶瓶に注いでもらい、準備万端でアドルフの部屋に向かった。
着替えを待ちながら、盤と駒、食料を卓に置いて、いよいよ開戦だ。
結局、アドルフの言う通り、病み上がりのせいか、集中力が続かず、一勝二敗で負けた。
アメリアが子供の頃に子守唄を歌った話をし、挙げ句歌わされて、アドルフにも知られることとなった。
「話は、この前聞きましたけど……本当に音痴なんですね」
心底申し訳なさそうに気遣うように言われて、久しぶりの出仕よりも、ぐったりとした。
可愛らしい花模様の道具類が並ぶ厨房。若い女達の賑やかな声が、空間を華やかに彩る。
牛肉の煮込みが火にかけられて湯気を立て、野菜の塩漬けと戻した干し肉を炒める平鍋が、小気味よい音を鳴らす。
お喋りと指示が飛び交い、かしましい中で、着々と夕食の準備が整っていく。
調理が終わり、食卓に温かな料理が並ぶと、厨房についていた女達の中で、一際美しい女達が席につく。見目が平凡か醜い女達は、食堂の隅に下がって、終了を待った。
先程までの喧騒が嘘のように、しんと静まり返る。食卓の中央に座る一人が、静かな声で唱える。
「私達を生み出してくださった尊い親――漆黒の神様のお恵みに、感謝いたします」
「――感謝いたします」
一斉に応え、指先で、右目、左目、唇、胸に触れる。それぞれに食器を手に取り、一気に騒がしさが戻る。
その聞き慣れた日常の音の中で、物思いに沈む。籠から硬く丸いパンを取って、小刀で一切れ取る。小さな端っこを、煮込みの深皿の縁に乗せた。
「やだ、トリーナ。またそれだけ?」
匙で、煮込みを少しずつ掬いながら食べていると、右手から声がかかる。
少ない食事の量を見咎める、琥珀の瞳。苦笑して答える。
「でも……あまり、食欲がなくて……」
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。ただでさえ少食なのに。また貧血で倒れるわよ」
確かにそうなのだが、新年の騒動から一ヵ月、フェリックスから全く音沙汰がない。
王が殺されるという大事件が起きたのだ。多忙を極めているのだろうと思っても、不安は消えていかない。
謁見の間で、王太女の警護についているとすれば、まさに渦中にいたということになる。
怪我をしていないか、総帥の嫡子なのだから、戦いで負けるはずがない、でも――と、思考が堂々巡りを繰り返した。
「そうなんだけれど……心配で……」
ぽつりと言ったところで、ふっくらとした唇が、言葉を紡ごうと動く。しかし、その前に明るい声が響いた。
「でも、わかるかも。ここ一ヵ月、本当に暇だしね」
うんうん、と一様に頷く。こうして下女に料理を教わって、質素な私服で夕食を囲むなど、普段ならあり得ないことだ。
艶のある華やかな声が言う。
「私なんて、なんかもう暇すぎて、身体がうずうずするのよねえ。このままだと、干からびちゃいそう!」
「やあね、はしたない」
隣が窘める。しかし、別の席から、同情する声が上がる。
「でも、夏ならともかく――こんな寒い冬に、抱いてもらえない夜が続くと、やっぱり寂しいわよね」
そして、どこからともなく、呟きが落ちる。
「人肌恋しいなあ……」
「可愛いって、綺麗って、言ってもらいたい……」
「抱き締めて――いっぱい愛してほしいのに」
盛大な溜め息。様々な色の瞳が、それぞれの〈主人〉を思い出すように、ぼんやりと虚空を漂う。
自分のように、〈主人〉に恋慕の情を抱く〈奥方〉は稀だが、やはりお気に入りはいるものである。その情をかけた〈主人〉に会うことが、心身を削る務めにおいては、数少ない楽しみのひとつだった。
重くなった空気を振り払うように、快活な声が話し始める。
「ほら、でも、こういう暇な時にさ、しっかり身体を磨いておけば――久しぶりに会えた日には、一段と燃えるってものでしょう」
「そうねえ。肌のお手入れも、最近ちょっと怠け気味だったし、気合い入れ直さないとね」
苦笑する声。途端、できもの治さなきゃとか、お菓子食べすぎよとか、口々に喋り出す。
そっと、頬に触れる。なんだか、張りがなくてかさついている。
手入れは欠かしていないが、ここ最近は、あまり睡眠をきちんと取れていなかった。今すぐ自室に戻って、鏡を確認したい衝動に駆られる。
と、目の前に小さな平皿が置かれて、削がれたパンが二切れ落ちる。傍らには、塩漬けの葉物野菜と乾酪。目を上げると、優しく微笑む琥珀の瞳に出会う。
「食べる気になった?」
こくりと頷いて、礼を言う。
具材をパンに載せてかじる。塩漬け野菜のほどよい酸味と、牛の乳の濃厚な旨み。小麦の香ばしい甘さ。
渇ききった心身に、温かく沁み渡っていく。ほっと、溜め息が漏れた。
「……美味しい……」
頷く同輩の、優しい面立ち。手が伸びて、柔らかく髪に触れて撫でる。
「見違えるほど綺麗になって、びっくりさせましょうよ。次代様、きっとお喜びになるわ」
紺青の瞳を思う。名を呼ぶ、耳に心地よい低い声。恋しさが、心を切なく震わせる。
それでも、だからこそ、綺麗な自分で会いたいと願う。十五歳の夜、奇跡のような再会を果たしたのだ。きっと、また無事に会える。
「そうね。楽しみに、磨いておかないとね」
髪を撫でる手に、手を重ねて、するりと繋ぐ。温かに微笑み合って、頷いた。
それから一週間ほど経ったあと、軍によって、騒乱の終結が宣言された。
〈太陽の剣〉は壊滅し、フロス街の人々は、ようやく普段通りの生活ができると、胸を撫で下ろした。
一縷の期待をかけていた同輩は、知らせを聞いて、意外にも、ほっとした表情で言った。
「王様が殺されたって聞いて、本当に怖かったの。だから、いなくなってよかったわ」
そして、声を低めて、不安げに言葉を継いだ。
「ただ――王太女様は、噂通り、混血の真昼なわけでしょう。漆黒の神様のご寵愛が続くのかしらって、時々すごく不安になるの」
あんなに期待していたのにおかしいでしょう、と複雑な顔で、苦く微笑む顔。気持ちはよくわかったから、静かに首を振った。
平穏が戻り、王の死後から月が一巡りして、神還が終わったにもかかわらず、言いようのない不安が、暗雲のように王都を覆っていた。




