暴動④
嫌な予感に、胸がざわめく。
三番目の順番を待つ男が二人。頭から垂らした布で、一人は顔全体を、もう一人は目を覆っている。
歳の差からして、親子のようだが、雰囲気が家族のそれではなかった。足元に気を配りながら、ゆっくりと、こちらに歩いてくる。
もし、皆の言う通りに顔を検分できたら、こんなにも不安にならなかっただろうにと、父をそっと見遣る。満悦な表情で、民に応える姿。
今この時はいいかもしれないが、何かあっては遅いのだ。万が一、身体に傷のつくようなことがあれば、その責は、近衛騎士団団長とレクス隊隊長が負うことになる。
警護計画は、六貴族当主全員の承認を得ているから、刑罰に問われることはないものの、懲罰は免れない。
近衛騎士団の最高格の長として、フェリックスとは違う側面で、守ってきてくれたヘンリクスが、父の我がままが原因で罰せられるなど、耐えがたいことだった。
(どうか……どうか、何事もなく終わって)
覆いを被った二人の順番になる。父が挨拶を返して、言葉をかける。
「せっかくなのだから、顔を見せてはくれまいか。挨拶に来てくれた民を、よく見たいのだ」
警護の騎士達の張り詰めた空気にそぐわない、鷹揚な声音。若い方が、静かに答える。
「……畏れながら、父は病で、顔が酷くただれています。私も、目に傷を負っていまして、とてもお見せできるものではありません」
父の顔色が、微かに動く。口を開く気配に気づいて、レクス隊隊長が、厳しい声で告げる。
「陛下の御前であるぞ。顔を見せないか」
「そんな……ご容赦を……」
息子が、震えた声で懇願する。
父が振り返り、隊長を見上げる。一瞬、燃え盛る憤怒が、群青に閃く。エウゲニウスの顔から表情が消え、静かに下がった。
その隣に立つヘンリクスの方に、視線を向ける。しかし、厳格な面立ちで佇んだまま、動かない。
父が、うんうんと頷いて微笑む。
「構わぬ。見せたくないものを、無理に晒す必要はないぞ」
「寛大なお心、感謝いたします――さあ、父さん」
父親が進み出て、手を差し出す。
父が、腕を伸ばし、その手に触れようとした瞬間、
「死ねえッ――!」
絶叫が響き渡り、父の身体が折れ曲がる。そのままの勢いで男が馬乗りになり、その頭から、茶褐色の髪がずれ落ちる。
真冬の陽光に輝く、うねる金髪。鋭い刃。その、横顔。
一斉に騎士達が飛びかかり、男を押さえる。
父の身体から広がる、赤い液体。快哉の叫びが、広間にこだまする。
「アメリア! ああ、やったぞ! 父は、ついに成し遂げたッ!」
けたたましい笑い声。
先頭に並んでいた婦人が、悲鳴を上げる。途端、雪崩のように、混乱が民衆を襲う。
「……っお父様あぁッ――!」
引き裾につまづいて転びかけながら、傍らに座って、一心不乱に父を呼ぶ。
「嫌……! いやあッ! お父様っ! お父様!」
胸元に、しなやかな腕の感触。父が遠のき、鋭い光が閃く。
鮮烈な赤が、一直線に飛沫を上げる。どさりと倒れる人影。ひっと、詰まった声が漏れる。耳元で、強い声が聞こえる。
「殿下! 今は御身の安全を! どうかッ!」
「いやっ! いや! 離して――っ!」
思いきり腕を振りかぶる。うっと呻く声とともに、縛めが緩む。すかさず這い寄って、父の手を握り締める。
「お父様……! お願いっ、目を開けて!」
「……ア、メ……リ……ア……」
掠れた声。瞼の隙間から、うっすらと群青が覗く。
身をかがめて、顔を近づける。大きな手が、冷たくなっていく。ぬくもりを留めるように強く握る。身体が、震えて止まらない。
「あ……いや……お父、さま……」
ぱたぱたと、父の白んでいく頬に、雫が落ちる。その顔に、淡く優しく、微笑みが広がる。柔らかく鼓膜を撫でる、掠れた微かな声。
「……ああ、アメリ、ア……可愛、い……私の、娘……よ……」
心が、ずきずき痛い。その群青に映る姿は、まやかしなのだ。
それでも、涙を飲み込んで、父を呼んで応える。ふーっと、深い吐息が、薄く開いた口から漏れる。
「……お、まえの……碧、いろ、は……な、んて……美、し……」
握った手に、ずっしりと重みが来る。冷たい感触。背後から伸びた腕に引き剥がされる。
「いやっ! お父様! お父様あああッ! いやあ――ッ!」
「殿下! お願いですッ! 御気を鎮めて……!」
「いや! いや! いや!」
激しく身を捩っているのに、後ろから抱えられて、びくともしない。
こんなことをしている場合ではないのに。早く医務院に運ばなければいけないのに。あの赤を、止めなければいけないのに。
――そうしなければ。
「エルドウィン離して! お父様が! お父様がっ……!」
「だめですッ! あなたに何かあったら、一番悲しむひとを思い出してください!」
途端、数々の思い出が去来する。
武骨で温かな大きな手。頭を撫でて、髪を梳く柔らかさ。抱きとめる広い胸。逞しい腕。少し高い体温。殿下と呼びかける、耳に心地よい低い声。
優しく微笑む――紺青の瞳。
「……あ、ああ……」
謁見台を流れ落ちていく鮮血が、現実を突きつける。
――父の死んだ、そのあと。
「お父様あああああッ――!」
するりと、縛めが解けた。
躍りかかってきた影を、すんでで躱す。体勢を深く沈めた瞬間、びりっと鋭い痛みが走って、息を詰める。
隙を過たず、斬撃が振りかかる。素早く抜剣して、その勢いで弾き飛ばす。甲高く鳴る金属音。よろけたところを容赦なく斬り伏せる。噴き上がる血飛沫。
背後から襲ってきた気配を、振り返りざま薙ぎ払う。絶叫とともに、鮮烈な赤が目を刺す。
男達が、間合いを取りながら、じりじりと、にじり寄ってくる。
総勢五人。正面に、エアネストが立っていた。
その向こうには謁見台。遠い視界で、アメリアを捕らえようとした男が、血を噴いて倒れる光景が見える。
顔を押さえて床に伏せる、エルドウィンの姿。
(……ッくそ……!)
なるべく人死には出したくなかったが、負傷したこの状態では無理だ。もう二人斬った。腹を括るしかない。――それでも。
「エアネスト。馬鹿な真似はやめろ。お前の本分は、商務だろう」
「はッ! 毒の回った身体で、強がるのも大概にしろ」
引きつった嗤い。憎悪に燃える、緑色の瞳。
その瞬間、点と点が繋がり、一直線に繋がっていく。
どちらが先に提案したか――殺したいという利害が、合致したのだ。ユリウスの動機は、今までの因縁だけとは言いきれないが、殺意は明らかだった。
そして、二人を繋ぐ接点。アメリアに対する、認識の相違。
天秤が、傾いだ。
「猛毒なんていうのは嘘だ。医務官から施術を受けた。解毒剤を処方されて、もう痛みはない」
緑色の瞳が揺れる。聴いてくれと願う。しかし、炎がより燃え盛った。
「嘘を言うなッ! フォルティスは、俺の全てを奪った! そんな奴らの言葉なんか、信じるものか!」
エアネストが構えを取る。その拙さ。一方で、他の男達の隙のなさ。
かつて軍において、精鋭だった者達。突破するなら、謁見台に最も近い正面を突っきるしかない。
どこを斬るべきか――その時、目の端に、異様な気配を感じる。
陽光に閃く光。侍女服の女。謁見台に向かって、一直線に駆けていく。
その行き先。瞬時に息を吸い込んで、鋭く叫ぶ。
「エルドッ! 後ろ!」
その振り返る姿を最後に、視界が目まぐるしく変わる。
飛びかかる男に振り薙ぎ、回転しながらしゃがんで、もう一人の脚を払う。倒れてきたところで、剣を突き立てる。素早く胴を蹴って引き抜き、身体を起こしながら振り向いて、背後の男を斬り上げる。
脇腹に走る、引きつれる痛み。一瞬、動きが鈍る。足首を掴む感触。はっとした瞬間、背後に迫る気配。ぎゃあと叫ぶ声と、床で呻く声。
振り返ると、血まみれの姿があった。
「――アドルフ!」
「こんな雑魚、相手にしてないで、早く殿下のところに行ってください!」
頷いて、真っ直ぐに駆ける。斬りかかるエアネストを、体勢を素早く変えて躱す。背後で、絶叫がこだまする。
(――ルチナ……!)
雨天が奇跡のように晴れて差し込む、午後の光。強く輝く、新緑の瞳。
たとえ何があろうとも、全力を尽くして応えようと、固く心に誓った。今、全てを果たす。
「殿下!」
一息に謁見台を上がり、滑り込むように正面に跪く。涙に濡れた碧色の瞳が見上げる。
「フェリックス――お父様がっ……お父様が……!」
震えた悲泣の声。抱き締めて、抱え上げる。しがみつく感触。
エルドウィンが、気絶させて捕縛したテレジアを肩に担ぐ。頷き合って、駆け出した。二人で、一番近い扉に体当たりしてこじ開け、蹴って閉める。
最も近いのは、運営本部だ。しかし、ユリウスのことがある以上、カンチェラリウス家の手は借りられない。一刻も早く、反対のフォルティス家側に抜けて、近衛の指揮所に避難する必要がある。
経路を手短に確認し合い、角を曲がった、その時。
「おお! 近衛のお二人よ! 無事であったか!」
目の前から、宰相が駆けてくる。隣にはユリウス。こちらを見て、群青の瞳が激しい苛立ちに歪む。
その、わずかに下がった左肩。長袖の上衣から覗く、袖のすぼまった内着。
嫌な予想が当たってしまった。そっと、アメリアの耳元に囁く。
「少し体勢を変えます。両肘をしっかり掴んで、決して離さないでください」
微かに頷く感覚。何気なく話しながら、膝裏に差し入れていた片腕に腰を乗せて、もう一方の手で背中を支える。
「宰相方も、ご無事でよかった。今、避難しようと思っていたところで――」
「それならば、我が運営本部が最適であろう。道は確保している。さあ」
促されて頷く。歩き出したところで、脇腹が引きつれる。上段でも脚を使えるようにと、体勢を変えたが、腹の力がいる。長くはもたない。
と、何かを感じ取ったのか、ほんの一瞬、ユリウスの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。宰相に、愛想よく微笑んで言う。
「僕が案内します。父上は、まだ残されている人達の手助けを」
「そうか。気をつけるんだぞ」
宰相が、踵を返して歩き出す。
ユリウスが、促すように近づく。エルドウィンと一瞬、視線を交わす。ユリウスの右手が左手首に伸び、袖の紐が解かれて、細い柄が見える。
瞬間、エルドウィンの身体が深く沈み、脚を払う。均衡を失くした胴体に蹴りを当てて、そのまま胸を踏みつける。
エルドウィンが、袖から柄を引き抜く。鞘に納まった短刀。証拠として、ベルトにたばさんだ。
物音を聞きつけて宰相が戻ってくる。青ざめた顔。ユリウスが、口を開く気配。すかさず体重をかける。苦しそうな呻き声。構わず、淡々と告げる。
「殿下の御命を狙った実行犯として、捕縛します。身柄は、法務官に引き渡しますので、ご了承を」
視線を彷徨わせて、茫然とする姿。
自慢の嫡子の極悪非道な行いを知ったら、打ちのめされるだろう。憐れだが、このまま野放しにするわけにはいかない。
エルドウィンに視線を送ると、頷いて、担いでいたテレジアを降ろし、縄を用意する。無言の合図の瞬間に脚を上げ、同時にうつ伏せさせて、後ろ手に縛った。
アメリアを抱え直して、ほっと息をつく。不意に、宰相の声が響いた。
「テレジア⁉ テレジアなのか⁉」
「刃物を持って、殿下に襲いかかりましたので、捕縛しました」
再び担ぎ上げて、エルドウィンが話す。その背中に面をつけるように、だらりと垂れる頭。宰相の顔が、これ以上ないほど白む。
ユリウスが再び口を開こうとする気配。エルドウィンが、容赦なく脇腹に蹴りを入れる。
新緑の瞳に冴える、冷たい怒り。初めて本気の激怒を目の当たりにして、恐ろしさに思わず視線を逸らす。
穏和な、実に穏和な声が告げる。
「そういうことでございますので、あとは我々で処理いたします。宰相様は、どうか残された方々の避難のお手伝いを、お願いいたします」
凄まじい威圧感。蒼白な顔で、振り子のように何度も頷いて、宰相が去っていく。
その姿を見届けて、エルドウィンが穏やかに尋ねる。
「フェリックス――いいよね? このままだと、運ぶの面倒だし」
「まあ、そうだな。俺は一回やったことがあるから、譲るよ」
「やったね! ありがとう」
優しい柔和な微笑み。しかし、目が完全に笑っていない。その暴風雪のような冷たさに、ブラッツより怖いのではと、おののく。
エルドウィンが、流れるように構えを取る。青ざめるユリウスに、にっこりと笑いかける。
「安心して? 内臓の無事は、保障するから」
「それなら、俺も保障できるから、参加させてくださいよ」
背後から声が飛んできて、振り返る。
血で真っ赤に染まった姿。アドルフとエアネストだった。
エアネストは、手首の途切れた右腕を掲げて、とぼとぼと、アドルフの後ろをついてきている。すっかり戦意喪失した表情に、さしたる覚悟はなかったのだと、鬱々とする。
同じことを思ったのだろう。エルドウィンの怒りが、わずかに緩む。
しかし、気持ちは揺るぎなかったようで、
「そうだね。せっかくだから、二人でやろうか」
と、遊びにでも誘うような軽やかさで返した。
アドルフが、にやりと笑い、兄弟が向かい合って立つ。そして、
「せーの!」
ぴったりの声と、流れるような華麗な脚さばき。ユリウスが落ちた。
アドルフが担ぎ、エアネストを前に歩かせて急かしながら、なんとか王殿西側の近衛の指揮所にたどり着いた。
アメリアに声をかけて、ゆっくりと降ろす。
駆け寄る、ヘンリクスとブラッツ。その彫りの深い顔と秀麗な顔を見た瞬間、視界が傾いだ。
殿下、と呼びかけられて頷く。そっと静かに降ろされて、床に足をつける。
安堵の声を上げるヘンリクス。その薄青の双眸を見た途端、気がつけば立ち上がり、平手を打っていた。
「よくも……! よくもお父様をッ!」
感情のない目が見下ろす。強烈な怒りが湧き立ち、飛びかかって、騎士服を引っ掴む。彫りの深い顔を仰いで叫ぶ。
「明らかに不審だとわかってたじゃないっ! あの時、検分していれば……! どうして無理にでも覆いを取らせなかったの⁉ ねえっ!」
力任せに胸を拳で打つ。それなのに、びくともせず、ヘンリクスは、ただ静かに見つめるだけだった。
腹立たしくて、やりきれなくて、唸りながら言葉を継ごうと、息を吸った時。
「――フェリックス!」
背後で声が上がって振り返る。
フェリックスが倒れて、呻いていた。信じられない光景に、駆け寄って、傍らにしゃがみこむ。
荒い呼吸。霞んだ紺青の瞳。掠れた声が、淡く微笑む。
「……殿、下……」
「いやっ、フェリックス! どうして……⁉」
混乱しながら叫ぶ。さっきまで、あれほど元気だったのに。
と、顔が揺れて、身体が仰向けになる。頭を正面に直して、エルドウィンが、マントの留め具を外しながら話す。
「刺されたんです。ユリウスの次妹に」
「……刺さ、れた……? そんなこと……」
非現実的な言葉に戸惑う。
ベルトと剣帯が解かれる。騎士服の留め具が、ひとつずつ手早く外されていく。
「命に関わる傷ではございませんので、お伝えしないと決めました。医務官から施術を受けたはずですが――先程の騒動で、傷が開いたのでしょう」
言いながら、騎士服の前をはだけ、内着と肌着を引き上げる。
逞しい腹筋の凹凸に巻かれた白布が、真っ赤に染まっていた。その鮮烈さに、息を呑む。
背後から、平靴の音がして回り込み、女人がエルドウィンの隣に座る。医務官の奥方の産務官だった。
白藍の瞳が、真剣な色を宿して告げる。
「殿下。これから施術を始めます。御目に毒でございますから」
息を詰める。
熱に浮かされて、苦しそうな呼吸。焦点の定まらない、紺青の瞳。鮮烈な赤――血の海に沈む、父の身体。
命に関わらないなんて、どうして言いきれるのだろう。
もし、助からなかったら。このまま、紺青が閉じて、消えてしまったら。
ぼろぼろと、涙がこぼれる。声にならない叫びを上げて、強く首を振る。ぼやけた視界の中で、困惑した表情が滲む。
呼びかける、柔らかな声。穏やかな新緑の瞳を見つめる。
「フェリックスの顔を、ご覧になっていてください。御手は重ねて、包むように」
言われた通り、布を口に咥えた顔を見つめ、綿の巻かれた棒を握る手に触れる。
紺青に生気が灯り、傾き始めた真冬の陽光に光る。その輝きを逃さないよう、ひたすらに見つめる。
と、かっと目が見開かれる。激しい呻き声が漏れ、手が力任せに握られる。筋が盛り上がる感触。苦しみ悶える姿。泣きながら、何度も名を呼びかける。
「フェリックス、死んじゃだめっ……! フェリックス!」
永遠に思える、わずかな時。産務官の、優しい声が告げる。
「――終わりましたよ。よく頑張りましたね」
ほっと、強ばっていた顔が緩む。口から布が外れて落ちる。ふーっと意識が遠のくように、おもむろに瞳が閉じられていく。
エルドウィンが、慌てて頬を叩く。
「待って! 薬飲んで!」
応える、微かな声。しかし、再び落ちていく。
エルドウィンが素早く薬と水を含み、身をかがめて、口を合わせた。
大きく隆起した喉頭が、ごくりと上下に動く。すると、上体を起こして、息をつきながら口を拭った。
なんだか、とてつもないものを見た気がして、唖然とする。視線に気づいて、安堵した平静な声が告げる。
「寝台に、運びますので」
頷いて手を離し、立ち上がる。
アドルフや他の騎士達も加え、体格のいい長身を運んだ。
仮眠用の簡易な折り畳み式の寝台。傍らに膝をついて、そっと手に触れる。
苦しげに震える吐息。少し眉根を寄せた寝顔。それでも、施術前より、ずっと顔色はよかった。
寝台に伏せて、その手を頬に当てる。武骨な感触。熱い体温。命が、確かに息づいていた。安堵に、涙がこぼれ落ちる。
声をかけられて、差し出された小さな椅子に、礼を言って座る。薄青の双眸を見上げる。
「ごめんなさい――あんなことを言って……叩いたりなんかして……」
「どうか、謝らないでください。私には、謝罪を受ける資格がございません」
どこか泣きそうな表情。初めて見る、沈痛な面持ちに戸惑う。
静かな声が、語り出す。
「陛下が御結婚の承認を迫ったあの日――私はレクス隊で、居室前の警護をしておりました。……まだ、従騎士でした」
はっとする。薄青の双眸が、うっすらと滲む。息を深く吸って吐き、言葉を継ぐ。
「正直に申し上げます。この結末を……私は、願っておりました。あのような蛮行に及んだ報いを、受けるべきだと」
その表情の意味を知る。
送った視線に気づかないふりをして、ただ佇んでいた厳格な横顔。感情のない目。従騎士の少年が負った、深い心の傷。
そして、そんな穢れた生まれを目の当たりにしてもなお、常に心を配り、守ってくれた日々。温かで切実な思いが、心を満たす。
「ありがとう、ヘンリクス。私の傍に、〈幸運〉をもたらしてくれて。あなたのおかげで――私の心は、温かく満たされてきたわ」
薄青の双眸が、はっと瞠る。微笑んで細まった目尻から、涙が一筋、伝い落ちていく。
「――全ては、御身のために」
真冬の静謐な夕陽が、穏やかな顔を照らしていた。
急に明るくなって、眩しさに顔をしかめる。左の脇腹に、鋭い痛みが走って呻く。年嵩の女の声がする。
「次代様、気づかれましたか? 聞こえたら、返事をしてください!」
看護服を着た姿が、霞む視界に映る。渇いた喉で、なんとか声を出すと、すぐに姿が消える。
するすると意識が落ちていき、深い眠りについた。
次に目が覚めたのは、昼を過ぎ、日が傾き出した頃だった。
今度は、はっきりとした視界で、周囲を見渡す。
白い壁と焦げ茶色の木の柱。小さな棚と椅子しかない、簡素な部屋。
移動式の小型の暖炉が、ぱちぱちと音を立て、鉄の蓋の上で、やかんが湯気を吐き出している。宿舎の自室ではないことは確かだった。
頭がぼーっとして、物が考えられない。身体がだるかった。
叩く軽い音がして、返事をする。引き戸が開く音。数歩の靴音のあと、医務官と看護長の姿が現れる。彫りの深い顔に、笑みが浮かぶ。
「目が覚めたようですね。気分はどうですか?」
「……ここ、は……」
自分のものとは思えないほど、弱々しく掠れた声。喉が、からからだった。
看護長の差し出した吸い飲みに口をつけて、ゆっくりと飲み下す。渇いた喉に、冷たい水が、甘く滑っていく。
意識が輪郭を為して、記憶がはっきりとしてくる。同時に、血の気が引いた。
指揮所に着いたあとがない。あれから、どれほど経っているのか。アメリアは、エルドウィンやアドルフ達は、捕縛した者達は、人々は、王は。
言葉を発しようとしたところで、医務官が手で制す。
「まあまあ。聞きたいことは山ほどあるでしょうが、まずは手当てが先です。傷を洗いますから」
確かに、その通りだ。急く気持ちを抑えて、緩やかに息をつく。
看護長が布団をはぐり、寝巻きの上をはだける。見覚えのある上下。誰かが、わざわざ部屋から持ってきて、着替えさせてくれたのかと、有難い心持ちになる。
医務官が、看護長の手を借りて、腹に巻かれた白布を外しながら、話し出す。
「今日は、祭りの翌日です。あれから民を無事に退避させて、王宮と近衛の騎士団や軍の皆さんが、片をつけましたよ。それはもう、鮮やかなものです」
医療用の酒の、独特な刺激臭。傷口に当てた綿の布が、剥がれていく。痛みを覚悟したが、湿らせたせいか、すんなりと取れた。思わずほっとする。
傷の状態を見て、医務官が頷く。酒を浸した綿で、丁寧に傷を拭っていく。
「ふむ。悪くないですね。膿んでもいないし、きちんとくっついている。これなら、治りも早いですよ。一度開いたのに、全く運がいい」
呆れまじりの声音に苦笑する。
新しい布が当てられ、再び白布が巻かれる。寝巻きが整えられて、布団が被さると、安堵が広がった。
身体が本当に弱っているのだと、実感する。よくも、あそこまでもったものだ。
「怪我人は、民と王宮側の方々にも、少なからずいます。ただ、死者は〈太陽の剣〉の関係者のみでした」
「そうですか――」
緩やかに溜め息をつく。
やはり、トリーナの情報は正確だったのだ。これで間違いなく、報奨と称号が授与される。重ねた罪が償えるわけではないが、自分にできる最大限の贈り物だ。ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がした。
そして、ある懸念が胸に浮かぶ。遠目に見えた、謁見台の光景。死ねと絶叫する声。
「陛下は……御無事ですか……?」
医務官が目を伏せて、ゆるゆると首を振る。そして、静かに告げた。
「我が家の医務師が、総出で施術に当たりましたが、力及ばず……今朝、御夜の御元にお還りになりました」
呼吸が震える。
とうとう、この時が来てしまった。ノクサートラ家の血を継ぐ者が、自分たった一人になってしまった。その重みが、ずっしりと心に迫る。
言葉が出ず、黙っていると、薄藍の双眸が、気遣うように微笑んだ。
「殿下は、とても気丈であられましたよ。私達に――自分を責めないでほしい、力を尽くしてくれてありがとう、と仰って……」
心が痛む。きっと泣きたくてたまらないのに、王太女として、ふさわしい振る舞いを課しているのだ。
会いたい思いが、沸々と湧く。傍にいて、泣ける居場所をつくりたかった。
尋ねるように、薄藍の双眸を見つめる。彫りの深い顔立ちに、穏やかな微笑みが浮かぶ。
「あなたが目覚めたら、真っ先に報告するよう、申しつかりました。今朝早くに意識が戻ったとお知らせしたので、午後の務めを終えられて、間もなくいらっしゃるはずですよ」
「そうでしたか――ありがとうございます」
会えると思った途端、気力が奮い立つ。
医務官は笑んで頷くと、吸い飲みはここに、と傍らの棚を示して、看護長とともに去っていった。
それからほどなくして、引き戸を叩く音が聞こえて、返事をする。
一気に引き開ける音と、平靴の軽やかな足音。いとしい声が名を呼ぶ。
「――フェリックス!」
椅子があるのに、ためらいなく床に膝をつく姿。碧色の瞳が、真冬の冴えた夕陽に煌めいている。その美しい光景を眺める。
「……殿下……」
「ごめんなさい。いろいろ立て込んでて、遅くなってしまって――」
枕の上で、微かに首を振る。
王が還ったとなれば、一大事だ。しかし、家族は、王妃である母親しかいない。
頼れる血縁がいない中で、王のたった一人の子として、準備を指示するつらさ。その孤独を思うと、苦しくてたまらなかった。
碧色の瞳を見つめながら、そっと言葉を押し出す。
「医務官から聴きました……陛下が、お還りになったと――心から、お悔やみ申し上げます」
はっと目が見開かれる。滲んで揺れる、その色。震える声が語る。
「お父様が……仰ったの――お前の碧色は、なんて美しい……って……」
はらはらと、涙が落ちていく。悲泣の声が、鼓膜を打つ。
「どうして愛してるって言わなかったんだろう! お父様の孤独をわかってあげられるのは、私だったはずなのに――っどうして……!」
手を伸ばして、そっと頬に触れる。指先で、柔らかく雫を拭っていく。
縋るように、手が重なる。胸にしがみつく、柔らかな重み。父を呼んで、振り絞るように声を上げて泣く姿。その小さな頭を撫で、金褐色の長い髪を梳いていく。
痛々しい悲泣が響く中、どんな親でも親なのだ――という思いが、心に立ち上る。
自分にとっての父親。強く優しい紺青が浮かび、厳しくも温かな明緑が、たくさんの思い出を運んでくる。そして――。
目尻から一粒、涙が落ちて、耳へと流れる。
淡い願いを、ずっと抱いてきた。息子となった時から、ずっと。心が保てなくて、裂けてしまうほどに。
嗚咽して震える華奢な身体を片腕で抱きながら、せめて、このいとしいひとだけは守りたいと、切実に願った。
二日間の準備のあと、上弦の月が浮かぶ夜に、王の葬儀は行われた。棺は謁見の間に安置され、六貴族直系の当主と奥方、それに連なる子女が参列した。
総帥の嫡子が、その長姉の婿に付き添われて出席したことに、参列した人々は驚いたが、負傷した身で、よくぞ務めを果たして王太女を守り抜いたと、誉め称えた。
高い天井に厳かに響く、進行役の宰相の静かな声。嫡子の代理として、長弟が、神を称える詞を詠唱した。
少年特有の澄んだ声。応える、参列者の数多の音色。終盤の送る挨拶。
王太女の凛とした声が、冴えた空気を震わせた。
「御夜よ。この夜、あなたの御吸息により、ご寵愛なされるノクサートラ家の子が還ります。――陛下、御夜の御元で、どうぞ安らかにお過ごしください。また御目にかかる日を、楽しみにしております」
そして、父に温かく語りかける娘の言葉が、人々の心を打った。
「私の優しいお父様。心から、愛しております。またお会いするその時は、どうぞアメリアを抱き締めてください。あなたの、可愛い娘を」
王の棺を乗せた馬車は、王殿を出発し、王都の北に位置する王家の墓地へと向かった。
月の高く上る真夜中、灯火と月影に照らされながら、棺が納められた。
人々は、神の元での安らかな暮らしを願う詞を歌い、漆黒の神の覗く裂け目を仰いで、王の還りを見送った。
のちに、〈太陽の騒乱〉と呼ばれることとなるこの暴動は、死者二十一名、重傷者五十三名、軽傷者二百八名と、甚大な被害をもたらした。特に、王が弑逆されたことは、人々に衝撃を与えた。
しかしながら、軍及び王宮近衛両騎士団、そして民において、死者が一人も出なかったことは、まさに奇跡と呼べる成果だった。
〈花蜂〉のもたらした情報は、その後、一ヵ月余り頻発した小規模な暴動でも、いかんなく効果を発揮した。
軍によって、〈太陽の剣〉の残党は摘発され、王都は、徐々に元の平穏を取り戻していった。
総帥は、情報の有用性を認め、〈花蜂〉を務めた〈仮初めの奥方〉に、報奨と称号を与えると決定した。授与は、〈主人〉である総帥の嫡子より行うこととなり、長い冬が終わる頃、準備が開始された。




