暴動②
謁見の間の高い天井に、新年の挨拶が絶え間なく響く。
途切れることのない長蛇の列。鮮やかな色や煤けた色、中間色など、様々な身なりの人々がいる。ところどころ隙間の空いた箇所には、一際黒ずんだ色があった。
頭を垂れて挨拶する人々に笑んで返し、手を差し出されれば、触れていく父の姿。感動に目を輝かせ、時には涙する民。そして、自分の容姿を見て、その顔がはっとする。
驚き、落胆、不快、親和、期待、心酔、好奇。様々な表情が浮かぶ。
多くが負の感情だったが、すべからく尊い親から生み出された子であり、大切な民だ。自ら進んで手を差し伸べ、微笑んで、新年の挨拶をした。
〈太陽の剣〉の賛同者なのか、異常な熱量をもって返事をする者や、侮って胸ばかり注視する者など、困った人達もいたが、おおむね穏やかに、時が過ぎていった。
冬の澄んだ陽光が、窓から高く降り注ぎ始めた頃。一人の老人が、列の先頭にやってきた。
汚れて黒ずんだ粗末な服。曲がった腰でふらつきながら、前へ進み出て、ふごふごと不明瞭な声で挨拶した。
「新年おめでとうございます、真夜の王様」
「おめでとう」
応えつつ、父の群青の瞳が、わずかに引きつる。
病で腕が上がらないのだろう。小刻みに震えながら差し出された手を、父は気づかないふりをした。
案内役のレクス隊の近衛騎士が、意図を察して、老人を促す。
よろけて歩く、枯れ木のような姿。椅子から降り、膝をついて出迎えた。痩せこけた顔が、はっとする。
「王太女様、そんな畏れ多い……!」
「寒い中、遠いところから来てくれたあなたに、お祝いを」
手を伸ばして触れると、つんと饐えた刺激臭がする。垢にまみれて、真っ黒になった肌。
公衆浴場は、商人に補助を出しているから、入浴料は決して高くないはずなのに、それすらも払えない貧しさ。
その原因の一端を、父が担っているのだと思うと、心苦しくなる。
(こういう人にこそ、お金と支援が必要なのに……)
傍らに座る、父の密かな視線が突き刺さる。もうすぐ午前の部が終わる。激怒されても、詰られても、ここは譲れないと固く思う。
節くれ立って強ばった手を、労るようにさすって微笑む。
「新年おめでとう。あなたの日々に、幸せがあるように」
濁った茶色の瞳が見開いて、涙が滲んでいく。しわだらけの真っ黒な顔を、くしゃくしゃにして笑う様。日の光に、頬を伝う雫が、きらきらと輝いている。
「新年おめでとうございます、王太女様――おお、おお、これは、漆黒の神様のところに還ったばあさんに、いい土産話ができます」
温かな心が満ちる。鼻を刺す匂いも、もう気にならなかった。真っ直ぐで純粋な姿が、深く沁みていく。
「御夜の御元で会ったら、おばあさんともお話したいわ」
「ばあさんも、泣いて喜びますとも。おお、本当に……」
背後で長靴の音がして、振り返る。そろそろと目顔で告げる、アドルフの秀麗な顔。若緑の瞳に軽く頷き、そっと手を離す。
「よい一年を。どうぞお健やかに」
「ありがとうございます」
何度も繰り返し、ありがとうと、振り返って頭を下げる老人の後ろ姿を見届けて、引き裾を整えつつ座る。
再び列が動き出し、親子連れが、父の前に進み出る。両親が挨拶する中で、幼い男の子が、とことことやってくる。
「ねえねえっ! あのおじいさん、とってもくさかったね!」
大きな声が響き渡り、両親が、ぎょっとして振り見る。慌てて男の子を抱きかかえると、ともに平伏して、父親が必死に告げる。
「申し訳ございません! 躾がなっておりませんで、なんてご無礼を……!」
母親の胸の中で、きょとんとする男の子。大きな淡褐色の瞳が、くりくりとこちらを見ている。可愛らしくて、顔が綻ぶ。
「いいのよ、気にしないで」
青ざめた両親の顔に微笑みかけて、それから、男の子に語りかける。
「ねえ、坊や。厠は臭いわねえ?」
「うん! くさい!」
嬉しそうに連呼する我が子に慌てながら、戸惑う両親。頷いて応え、言葉を継ぐ。
「ということは、坊やも臭いのよ」
ぴたりと、男の子の歓声がやむ。不安そうに揺れる、淡褐色の瞳を見つめて微笑む。
「生きていれば、みんな臭いの。だから、わざわざ言いふらして、笑うことではないわ」
何かを悟ったように、様々な表情が、幼い顔に浮かぶ。
ぎゅっと、母親の服を掴む小さな手。大きな瞳が滲み、えうあうと、言葉にならない声が漏れる。
母親が、抱え直して抱き締める。しがみついて、鼻をすする音。安堵したような色が、両親の顔に浮かぶ。
「素直ないい子ね。家族仲よく、末永く幸せが続くように」
「ありがとうございます、王太女様。お優しいお言葉、新年の何よりの贈り物となります」
微笑んで頷くと、頭を下げ、温かな笑みを残して去っていく。父の視線が痛かったが、後悔は全くなかった。
それからは、大きな混乱もなく、午前の部が終わった。
「あの態度はなんだッ⁉ あんな、さも自分が主役のように振る舞うとは、一体どういうつもりだ!」
広い居室を苛々とうろつきながら、父が叫ぶ。咀嚼していた肉の欠片を素早く飲み込んで、淡々と返す。
「お父様。午後の部まで、時間がありません。召し上がってください」
「アメリアッ!」
力任せに食卓が叩かれる。食器が跳ね、甲高い音が重なって響く。驚きと恐怖に、思わず身体が震えたが、食事に集中して耐える。
「お前まで、私を裏切る気か! お前だけは味方だと思っていたのに、父を見下すのか!」
口に入れた肉が、涙の味がする。それでも、手と顎を動かすことだけを考える。
今泣いてしまったら、目が腫れる。不審に思われる顔で、謁見に臨みたくはなかった。
それに、〈太陽の剣〉は、人出の増える午後から動く、という情報があるのだ。何があるかわからない状況で、言い争いなんてしたくなかった。
「……お願いですから、お座りください。本当に、時間がないのです」
瞬間、声にならない絶叫が上がり、手が伸びる。はっとして、食器を手放す。叩かれるか、髪を引かれるか――固く目を瞑って、その瞬間を待つ。
しかし、その時は訪れなかった。
怪訝に思って、そっと目を開ける。長身から、低い声が降ってくる。
「陛下。畏れながら、午後の部の開始まで、間がございません。民が、陛下とのご挨拶を心待ちにしております。どうか、御心を鎮めていただけますでしょうか」
淡々とした、平静な面立ち。しかし、紺青の瞳は、怒りに燃えていた。手首を掴まれて、父の顔が、みるみる赤黒く染まっていく。
「……ッこの無礼者……! 離さぬか!」
怒号を発して見上げた瞬間、はたと固まる。血の気が引いたように、顔が白く染まっていく。掠れた声が、微かに呟いた。
「……あ……あ、に……う、え……」
紺青の瞳が瞪る。息を呑む声。手を伸ばして、そっと騎士服に触れる。
はっと振り見たところを、淡く微笑んで頷く。表情が冷静さを取り戻し、父の震える手を離した。
「……そう、ですね……仰る……通り、です……」
父が、緩慢に腰を下ろしながら、ぶつぶつと呟く。そして、蒼白な顔で、食事を始めた。
控えの配置に戻ったフェリックスを時折仰ぎ、怯えた顔で、料理を口に運ぶ姿。
死人を見た衝撃ではなく、分不相応な振る舞いを見られた、という恥のような、畏れにも似た表情。
兄弟の関係を、垣間見た気がした。同時に、もしかしたら、譲位を説得できたかもしれないと、後悔が襲う。
父は、気づいていて知らないふりをしていたのではなく、見えていなかったのだ。都合のいいものしか見ない――そういう性質は、よく知っていたはずなのに。
(今はもう、できることをやるしかないわ)
綿密に練られた警護計画。フェリックスとヘンリクスにウィンケンス、ブラッツやエルドウィンとアドルフ――長年を過ごした、近衛の騎士達。そして、アリーセを始めとする侍女達。
忠誠を誓い、懸命に働く人々がいる。皆を信じていくしかない。
いつもの倍の速度で食べ終えて、食後の喫茶をしていると、扉が叩かれる音がする。
侍従が誰何し、名を聞きつけて、引き開ける。側仕えの警護の騎士達を認めて、フェリックスが、そっと告げる。
「それでは殿下。私も食事に行ってまいります」
「ごゆっくり、とは言えないけれど――好物だといいわね」
少し首を傾けて、目を合わせる。深い紺青の瞳が、間近に迫っていた。柔らかく形を変えて、優しい低い声が囁く。
「食堂は、必ず肉の定食がございますから。いつでも、好物に不足はございませんよ」
微笑みを残して、ゆっくりと端正な顔が離れる。そして、配置を交替すると、礼をして居室を辞した。
斜め後方に立つエルドウィンに声をかけ、時間を確認する。ずれなく予定通りだ。礼を言ったところで、
「御加減でも……? 御顔が赤くなっていらっしゃいますが」
と、気遣わしげに尋ねられる。一瞬ためらって、エルドウィンならと、正直に答える。
「……フェリックスの耳打ちは、胸に悪いわ」
新緑の瞳が瞬く。そして、おもむろに柔らかな笑みが広がった。
「いい声ですからね。近くで目を見ていると、吸い込まれそうな気がします」
思っていたことをそのまま言われて、さらに顔が熱くなる。とくとくと高鳴る鼓動に、恥ずかしくなる。
引き締まった端正な顔立ち。耳に心地よく響く低い声。深く冴える紺青の瞳。この上なく優しい笑顔。いとしさが、沸々と湧いてくる。
「……もう、こんな時なのに」
「こんな時――だからこそ、ですよ」
秀麗な面立ちに浮かぶ、柔和な微笑。そうね、と礼を言う。
新緑の瞳が、真冬の陽光に優しく輝いた。
「いやあ! 本当に、殿下すごかったですね! 俺、感動しました!」
「口より手を動かせ。さっさと済ませるぞ」
いつもより浮き足立って、落ち着かない騎士舎の食堂。
祭り仕様の豪華な料理を食べつつ、窘める。対面のアドルフが、わかってますよ、と言って、両手の食器で、器用に肉から骨を外していく。
「騎士見習いで、配属の辞令が下りた時――レガリス隊王女付きって聞いて、すごくがっかりしたんですよ。混血なんかに、仕えるのかって」
皿から視線を上げる。数回の咀嚼で丸呑みして、言葉を継ぐ。
「でも、今はよかったって思うんです。主君が殿下で、近衛騎士としてお仕えできることが、俺の一番の誇りです」
裏表のない明快な言葉。若緑の瞳が、強く輝く。
「だから絶対、守り抜きます。父上や兄上には、遠く及ばないけど――俺にやれることを、全力で尽くします」
「及ばないなんて、そんなことないぞ」
意外だったのか、咀嚼していた顎が、一瞬止まる。はっと我に返り、再び動く。
兄に似た、しかし表情の全く違う秀麗な顔を見つめて告げる。
「お前には、お前のよさがある。その明るさが、みんなを奮い立たせる。一緒にいて、お前ほど楽しい奴はいないよ」
ふわあと、白い頬が、朱に染まっていく。
喜色に輝く、秀麗な顔。引き結んだ口が、むぐむぐと動く。若緑の瞳が、逸れて落ちる。
「……やっぱり次代様って、恥ずかしいですよね」
「なんだそれ。どういうことだ?」
全く意味がわからなくて、思わず顔をしかめる。視線を落としたまま、盛大な溜め息。
「こんな時――兄上なら、君のそういう率直なところがいいところだよ、とか言うんでしょうけど――もうなんか、恥ずかしいんですよ。殿下とだって、朝っぱらから見つめ合ったり、誉めまくったり。なんかこう……恋仲みたいで」
口をつけかけた水を、思いきり吹き出す。むせて咳込みながら、この目の前にいる青年が、親友の弟だったことを思い出す。
アドルフは、こと色恋沙汰にかけては、エルドウィンより敏いのだ。何か妙なものが漏れ出ていないか、心配になる。
「……そんな……不敬だろう。恋仲だなんて」
呼吸を整え、目尻に浮いた涙を拭う。
散らばった水滴を、備えつけの布巾で拭きながら、秀麗な顔が、ふーんと傾ぐ。
探るような、若緑の瞳。思わず逸らしてしまう。にやりと、楽しげに笑う顔が、視界の端に映る。
「さて、落ち着きましたね。行きますよ、隊長」
と言って、盆を持って立ち上がる。仰ぐと、含みのある笑顔に出会う。
「……覚えていろよ」
振り回されたことに悔しさを覚えつつも、同じように、手に持って腰を上げた。下膳台に向かうべく、並んで歩き出す。
何をですか、と、にやにやするものだから、調子に乗るな、と軽く頭をはたいた。




