絆の形②
緻密に描かれた極秘の地図を指差しながら、ブラッツが、警護と王宮騎士団の警備の配置を説明する。
その落ち着いた静かな声が、心地よい眠気を誘う。わずかばかり、うつらうつらしていると、目敏く鋭い指摘が飛ぶ。
「ヘンリクス、ちゃんと聴いてください」
「――ああ、聞いているぞ。本当に、お前はいい声だなあ」
軽く伸びをする。明緑の瞳の温度が冷えていく。しまった、と思うが、もう遅い。
壮年の盛りを過ぎてもなお、容色の衰えない秀麗な顔が、凍てつく怒りに染まり始める。言葉を発しようと、白い喉が動いた、その時。
柔らかく扉を叩く音。返事をすると、アメリアの声が訪いを告げる。すかさずブラッツが書類を裏返す手を止め、立って行く。
引き開けた扉の先で、警護の騎士達に、外で待つよう指示する小柄な姿が見えた。
ソファから腰を上げて、出迎える。ブラッツを伴って歩み寄ってきたアメリアが、低い卓に広がる書類を見て、気遣わしげに話す。
「ごめんなさい。大事な話の最中だったのね」
「いえ。御自らお越しいただかなくても、お呼び立ていただければ、出向きましたのに」
上座を勧めながら返す。アメリアが腰を下ろすのを見届けて、座り直した。
微苦笑を浮かべながら、静かな声が告げる。
「人払いしやすいところで、話したくて」
「何か、ございましたか」
わざわざ自分達だけに、ということは、部下達が、重大な失態でもしたのだろうか。
そんな粗忽者はいないはずだが、女人の警護は、繊細さが要求される。感覚の違いが、思わぬ事案を招くこともあるのだ。
懸念を察して、ゆるゆると、アメリアが首を振る。いささかためらうように目を逸らしてから、意を決して、口を開いた。
「あなた達は、伯父様の顔を知っているのよね?」
「もちろんでございます。私は従騎士として一年間お仕えし、ブラッツはすでに叙任していましたから」
答えながら、話の行く先に、一抹の不安を覚える。そして、予想通りの問いが発せられた。
「……フェリックスに――そっくりだとは、思わない?」
長じるにつれ、記憶にある顔に似ていく過程を見続けながら、ずっと感じていたこと。肯定も、否定もできない。
逡巡していると、ブラッツが、穏やかに話し出した。
「さあ、どうでしょう。考えたこともございませんね」
優しく柔和な笑み。しかし、目の奥が冷たく冴えている。動揺している時の表情だ。隠し事があると悟って、強い口調で問う。
「ブラッツ。お前、何か知っているだろう」
緩慢に、秀麗な顔がこちらを向く。温厚な声が、言葉を紡ぐ。
「いいえ、何も。そんな怖い顔をして、急にどうしたのです?」
「お前がそういう顔をする時は、大抵後ろめたいことがある。殿下の御目は誤魔化せても、俺は騙されんぞ」
じりじりと、怒りの炎が身の内を焦がす。壁の外で、指を咥えて見ているのは、もうたくさんだった。
「このまま何もせず、ただ傍観しているだけで、あの子は救われるのか? 義父上の手中にあるのに?」
明緑の瞳が、微かに揺れる。穏やかな仮面に、曇りが生まれる。アメリアが、身を乗り出して乞う。
「ブラッツ、お願い。フェリックスを助けたいの。知っていることがあるなら、話して」
息を呑む声。つっと、秀麗な顔が歪む。
「……知らない方がいいことも、あるのですよ」
「クレメンスが、この状況に甘んじて、私の即位を許すと思う? ただでさえ、お父様の統治下で、情勢が不安定になっているというのに? 私が死ねば、事は収まる。でもそれは――逆もあり得る、ということよ」
はっとする。
フェリックスが、真にルキウスの嫡子なら、選択肢はふたつある。そして、ふたつあるうちのひとつが消滅すれば、他に取るべき道はなくなる。
「あの子が……? まさか――」
ブラッツの白い顔から、みるみる血の気が引いていく。
神の生み出した命を自ら奪うことは、他人を殺めるよりも、格段に重い大罪だ。穢れた者として火葬され、遺灰は〈罪人の河〉に流される。無となり、神の元に還ることはない。
十五年という歳月の重みが、胸に迫る。
恐慌を来すほど、苛まれ続けてきた心。思い詰めて、アメリアを殺めるための刃を自分に、と考える姿は、容易に想像できた。
ブラッツが、両手で顔を覆う。泣きそうに震える吐息。くぐもった声がこぼれる。
「……フェリックスは――間違いなく、ルキウス前王太子の御子息でございます」
大きく息を吸って、顔を上げる。愁眉を寄せて、哀しみを湛えた、秀麗な顔。
静かに語られた過去は、思い当たることが多く、それほど驚きはしなかった。
「一刻も早く王宮に戻るよう、お頼みしました。しかし――わずかだが、部下を預かっている。館主にも、ずいぶん世話になったから、急にいなくなるのは申し訳ない、と仰られて……」
遠い記憶が、心に浮かぶ。
まだ前期課程で、言葉を交わす機会はなかったが、風格ある堂々とした佇まいは、まさに、真夜の王となるにふさわしい姿だった。誰もが、英明で清廉な王太子を慕い、誇りに思っていた。
「職を辞する手筈を整えつつ、家を引き払う手続きなども進めていたのですが――」
手が、ぐっと握り締められる。心底悔やんだ色が、明緑の瞳に灯る。
「進捗の確認でお会いしていた時、火事の鐘が――燃えている方角をご覧になって、すぐさま駆け出されて。私は御下命に沿い、従家一番館の前で、待つしかありませんでした。あの時、お止めしていれば……」
「でも、フェリックスは助かったわ。伯父様は、一番守りたいものを守ったのね――命を賭けて」
アメリアの静かな声が告げる。明緑の瞳から、一筋涙が落ちる。手を伸ばし、そのしなやかな肩を掴んで、軽く揺すった。
「俺にとって、あの子は大切な家族だ。生きていてくれて、本当によかったと思う。だから、後悔なんてするな」
途端、溜まっていた涙が溢れ出し、とめどなく流れ落ちていく。
食い縛った歯から漏れる、絞り出すような悲泣の声。こらえようとして震える背中。そっとさすってやると、息を詰めて、喘ぐ声がこぼれる。
その様に、今までただ一人で背負い、向き合ってきた歳月を思う。
ブラッツは、フェリックスを、我が子同然に育ててきた。エルドウィンとともに、まるで双子の兄弟のように。伸びやかに成長していく二人を見る優しい眼差しは、まさに父親のそれだった。
命の天秤を見つめて、後悔に苛まれる日々は、どれほどの苦しみだっただろう。
やがて、少しずつ落ち着きを取り戻していくと、鼻をすすって、か細い声で言った。
「……申し訳ございません。お恥ずかしいところを……」
アメリアが、ふるふると首を振る。心から気遣う、優しい微笑みを湛える。
「つらいことを思い出させてしまったわね……話してくれて、ありがとう」
強ばっていた表情が、おもむろに柔らかくなる。
眉根を寄せて微笑む、秀麗な顔。そのほどけた色に、安堵する。ゆっくりと手を戻し、座り直した。
ブラッツが、こちらを振り見て礼を言う。そして、穏やかな声で、
「ここは冷えますね。お茶を淹れましょう」
と、立ち上がって、棚から茶瓶を取り出した。
小型の暖炉の上で湯気を吹くやかんを手にし、茶葉を入れた中に注いでいく。
その様を見ながら、アメリアが、膝下丈の厚い毛織の羽織を引き寄せて、身を縮める。
「湯温器を、持ってくればよかったわ。あなた達――こんな寒い部屋で、よく平気ね」
むしろ少し暑いくらいだったので、気づかなかったことにいささか沈む。
男ばかり五人兄弟で、そのまま男所帯で育ったせいか、どうにも、こういう細やかさが足りない。
「ありましたよ、湯温器」
茶葉を蒸らす時間で、引き出しを漁っていたブラッツが、大きな金物を取り出す。
もちろん、仕舞った覚えはない。そもそも、最奥の棚は全く把握していないから、記憶も何もあったものではない。よく発掘できるものだと、心の内で、軽く驚嘆する。
ブラッツが、湯温器の蓋を回して開け、やかんの湯を注いでいく。それから、蓋を固く閉めると、これまた発掘した厚い生地の袋に入れて、アメリアに渡した。
礼を言って受け取ると、腿の上に乗せて、ほっと息をつく。
「そういえば――フェリックスも、凍えるほど寒い日でも、全然平気そうに……」
言い差して、はっと思い出したように、口をつぐむ。
白い頬が、みるみる朱に染まっていく。伏せられた瞳が、ほのかに潤む。その、艶やかな恥じらいの色。おや、と思う。
二人の間に、何かあったのだろうか。尋ねようとして口を開こうとした時、茶器が目の前に置かれた。
「ありがとう。ああ、いい香り――」
先に受け取ったアメリアが、器を受け皿ごと持って感嘆する。そして、軽く息を吹いてから、口をつけた。
ぬくもって安堵する、穏やかな顔。機会を逸して、仕方なく茶器に手を伸ばし、ブラッツに問う。
「それで――なんだって義父上は、家系登録したんだ? まさか、恩寵の証がない、なんてことは……」
「……その、まさかです」
ぎょっとする。
漆黒の神から賜った餞。この世界で失ってはならない宝のひとつが存在しないなど、にわかに信じがたい。
「ただ……私は、あの子が持っていると思っています」
茶の煌めく褐色を見つめながら、ブラッツが溜め息をつく。
「ご当主様の命で、恩寵の証を捜索することになった時――紛失などあり得ないと、フェリックスに尋ねたのです。あの子は、知らないと言いました。……胸元に、手を当てて」
宛がった手の、誓いを立てる時とは異なる場所。明緑の瞳が、悲しげに揺れる。
「酷く怯えた目を見て……それ以上、追及することはできませんでした。生き残っただけでも幸いだと、とりあえずは、あの子の言葉を信じて、捜索することにしたのです」
細い溜め息。伏せられた目が、遠い過去を眺めるように、茫洋と中空を漂う。
「数ヵ月探しましたが――案の定、見つかりませんでした。しかし、時折記憶を失い、両親を探して、屋敷をさまようほど傷ついたあの子に……大切な形見を差し出せとは、とても言えませんでした」
まだ小さな子供だったフェリックスの姿が、心に浮かぶ。
立派な騎士になると、目を輝かせて、勉学に励んでいた。その裏で、そんなことがあったとは。哀れさに、胸が詰まる。
重い沈黙の中、ふと、アメリアがぽつりと呟く。
「もしかして――私は、記憶の蓋を……開けてしまったのかしら……」
どういうことかと振り見る。静かに、囁くように、アメリアが肖像画の一件を語る。似ていると気づいた理由を知った。
「……私も……記憶が、ところどころ欠けているの。ただ忘れたのではなくて……すっぽりと、抜け落ちたように。……でも、あの男の顔を目にすると――」
不意に、茶器が卓に置かれる硬い音が響く。アメリアが、自らを守るように身を縮め、手で口元を覆う。荒く速い呼吸。瞳に、涙が滲む。
しかし、固く目を閉じると、ゆっくりと深呼吸し、長く息をついた。血の気が引いた顔に、おもむろに赤みが戻っていく。
浮いた涙を指先で拭うと、微かに震える声で言った。
「……ごめんなさい……」
「いえ……」
緩やかに、首を振る。
これまで受けてきた、数多の仕打ち。それはつまり、守れなかった、ということだ。忸怩たる思いが、心を刺した。
少し様子を窺ってから、ブラッツが、そっと口を開く。
「つまり――肖像画を見て、何か思い出した可能性がある、ということですね?」
「何かまでは、さすがにわからないけれど――もし、出自に関することだとしたら……」
その行き着く先。恐ろしさに、背筋が冷たくなる。
碧色の瞳が伏せられ、小さな溜め息が落ちる。静謐に満ちた声が語る。
「御夜の定めた通り、真夜の王家の嫡子が即位すべきだわ。だから、正しいことが為されるなら――あの手で死ねるなら、喜んで身を差し出そうと、覚悟してきた」
茶器を揺らめかせて、輝く褐色を見つめる。そこに、長い歳月の光景が映っているかのような、静かな表情。
「でもそれは、あのひとも同じこと。私は生きて、傍にいたい。大それたことを言っているのはわかっているけれど、フェリックスのためなら、何だってするわ」
顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見つめる、碧色の瞳。その強い光に感嘆する。
アメリアは、慕う心に気づき、新たな可能性を模索しようと、自分達を頼ってきたのだ。その、しなやかな勁さ。過ぎし日の妻を思い出す。自然と、笑みが広がった。
「それは、フェリックスと――夫婦になりたい、ということでございますね?」
凛とした表情が、たちまち崩れていく。頬を赤らめながら、それでも、はっきりと告げる。
「……そうよ。フェリックスがいい」
言ってしまって、急に羞恥心が起こったのか、両手で頬を挟んで俯く。
潤んで揺れる、碧色の瞳。初々しさに微笑ましくなる。思いが叶って、幸福に笑う光景が、温かく心に浮かぶ。
アメリアに身体を向けたまま、ブラッツの名を呼んだ。
「俺は、二人の結婚式が見たいぞ」
真夜の王家の嫡子と、真昼の従家の息女との結婚。
神の負託と寵愛に悖る凶事だが、そもそも本人達が望んで、この状況になったわけではない。
もしかしたら何か、神の意思が働いているのではないか。不遜で大胆な思いが湧き上がる。ブラッツを見遣ると、穏やかだが、不敵な微笑みが返ってきた。
「そうですね。私も見たいです。実現すれば、どんなに素晴らしいことか――」
改まって締まった、その顔に頷く。そして、アメリアを真っ直ぐに見て告げた。
「殿下。我々にできることは、手を尽くしましょう。――ただ、その前に、ひとつ伺いたいことがございます」
「何かしら?」
表情が、すっと引き締まる。強く輝く碧色の瞳。その聡明な面立ちに、これまで願ってきたことが、心に浮かぶ。
「仮に、フェリックスに嫡子の地位を戻して、即位したとして――陛下の処遇は、いかがなされるおつもりでしょうか」
大きな瞳が、みるみる怖れに染まり、歪んでいく。微かに震える声が落ちる。
「慣習通り……高王として、お暮らしいただくわ」
「……左様でございますか」
先代の王を意味する身分名。
アメリアは、蔑ろにされた王が、大人しく隠居するはずがないとわかっている。それでも、生きていてほしいというのだ。
不安に揺れる、碧色の瞳。心が、確かに定まる。穏やかに微笑んで言った。
「まずは、戸籍の修正と家系登録の変更が先決です。あとのことは、また考えましょう」
「――そうね。それができなくては、何も始まらないものね」
ほっとして、安堵に微笑む顔。
たとえこの先、憤怒と憎悪に歪むとしても、家族を救い、主君を守るためなら、甘んじて非道になろうと、固く決意する。
ふと、アメリアが時を尋ねる。正午が間近だった。
「あら、もうそんな時間なの。戻らなくてはね」
おもむろに立ち上がるのに合わせて、腰を上げる。ブラッツが先導して、扉を引き開ける。振り向いて見つめる碧色の瞳に、二人で頷いた。
扉が閉まってソファに戻ると、すぐさま口を開いた。
「ブラッツ。お前は、指揮所につけ」
「……え……どういうことです……?」
新年祭において、近衛騎士団は、主にふたつの任務を受け持つことになっていた。王家二人の警護、そして、フォルティス家の執務館に近い、王殿の西側に設置する指揮所だ。
前者のうち、王は副団長のブラッツとレクス隊隊長のエウゲニウスが、後者は、団長である自分が、任にあたる予定だった。
剣術の腕は、ブラッツの方が上だし、何より見目が抜群にいい。王の近衛として警護に立つには、適任だった。
しかし、フェリックスを解放し、アメリアを守るには、もう本望を遂げるしかない。
あの日あの場にいた、全ての者の総意を。
「……命令だ。理由は聞くな」
明緑の瞳が、はっと見開く。秀麗な顔が、青ざめていく。
「何を……するおつもりですか」
「何もせん。いつも通り、警護するだけだ。……陛下の御機嫌を取りながらな」
いつも、顔色を窺ってきた。
団長に昇任し、アメリアと接するようになってから、初めて心の底から、近衛騎士に叙任してよかったと思えた。初春のあの日に誓った瞬間、新たに叙任した心地だった。
明緑の瞳が、窺うように見つめてくる。しかし、ふと視線を逸らすと、目を伏せた。
「……わかりました。お考えの通りに――ヘンリクス」
苦しみに満ちた声。
あの場にいたかどうか。長い付き合いの中で、唯一の隔たりだった。
あの日の翌朝、宿舎を訪ねてきたブラッツを、大切な言葉を使って責めた。あれほど傷ついて苦しむ顔は、後にも先にも見たことがない。生涯、決して忘れない光景だった。
当番表を書き直す姿を眺めながら、いつか本当の意味のまま伝えたいと、切に願った。
その日の午後、コムニア家直系当主の行政官に、問い合わせの手紙を送った。
それから、兄を訪れたのは、ようやく身体が空いた数日後のことだ。訪問を喜んでくれはしたが、事情を話したあとの回答は、法務官らしい淡白なものだった。
「次代のことは、好ましく思っている。殿下も、才ある御方だ。だが、結婚は手放しでは賛成できん。未来ある若者達が、無為に命を落とすような事態にならんよう、その点では手を貸そう」
予想はしていたものの、さすがに落胆した。
肩を落としながら、団長の執務室に戻ると、一通の招待状が届いていた。差出人は行政官で、冬に咲く珍しい花が見頃だから、食事でもどうか、という内容だった。
自宅で秘密裏に話したい、との意図を汲んで、早速、ブラッツに日程の調整を頼んだ。
有能な従家達のやり取りのおかげで、食事会は、二日後の休日に決まった。
年末の迫る、真冬の昼下がり。既成事実の醸成のため、しっかり食事と花見を堪能して、当主の書斎へと移った。
下女を使わず、自ら茶を淹れる手慣れた所作。平民に直接関わることの多いコムニア家の精神を垣間見る。
茶器を手渡しながら、当主が鷹揚に話し出した。
「さて、どこから話したものかの」
恐縮して受け取る。
いつも飲んでいるものとは異なる、薄い赤紫色の茶。淡い花の香りが、軽やかに漂う。
「貴方の照会の件――立太子後の嫡子の地位の変更について――あれは、総帥の次代のことだね?」
「ええ、そうです。……やはり、気づいておられましたか」
当主は、六貴族の直系当主の中で、最年長のクレメンスに次ぐ古参だ。ルキウスが、幼い頃から仕官してきた。察するのも早かったにちがいない。
ゆったりと、当主が頷く。一言一言を噛み締めるように、おもむろに紡いでいった。
「まだ殿下がお小さかった頃――講義を受けにいらした際の警護で、顔を見てね。なぜルキウス前王太子が騎士服をと、驚いたものよ。背格好はお母方のフォルティス家だが、顔立ちは本当によく似ている。また、過ちを犯してしまったと、心から悔やんだよ」
緩やかに、深い溜め息。茶を一口含んでから、哀しみを湛えて語る。
「私は、三度過ちを犯した。一度目は、ルキウス前王太子は死亡した、との決議に同意したこと。二度目は、宰相従家当主の家人を、実家に復帰させて結婚に追い込み、陛下の実子として、生まれた赤子の出生届を受理したこと。そして、三度目は――前王太子の嫡子を、総帥の嫡子として家系登録したこと。真実に即して、手続きが為されなかったために、若い者達に苦しみを背負わせている。総帥とて、わからぬはずがなかろうに。あれほど人が変わってしまっては……昔はよく笑う、豪快な男だったものを」
優しく眉根を寄せて、ほのかに微笑む。困り果てたような、柔和な表情。
遠い昔の、まだ少年だった頃の記憶が甦る。
前期課程最後の期末、クレメンスが、特別に評価試合を観閲することとなった。
型は独特だが筋がいい、と励ましてくれた、おおらかな笑顔。結婚するまで、直に接する機会は少なかったが、ヴィクトリアの快活な明るさに触れていると、父親譲りなのだと実感する。
あんなことがなければ、きっと今頃は、代替わりを済ませて、穏やかに余生を過ごしていただろうに。
沈んだ気持ちで、茶の薄赤紫を見つめていると、扉を叩く音が聞こえた。
当主が返事をすると、下女が挨拶とともに入ってきた。手にした盆に、焼き菓子が乗っている。作りたての香ばしい匂いに、思わず見入ってしまう。
当主が、下女に礼を言って、扉が閉まるのを確認する。そして、鷹揚に口を開いた。
「あれは菓子をつくるのが、本当に上手でねえ。もう歳だから、食べ過ぎは身体によくないと思いつつ、つい頼んでしまうのだよ」
さあどうぞ、と勧められて、ひとつ取る。
見た目は固そうだったが、口に入れて、ひと噛みすると、ほろほろと崩れて溶けていく。香ばしさのあとに、牛の乳の甘い風味が抜ける。
確かに、そこら辺の菓子店より、ずっと美味だった。自然と笑みが広がる。
「いや、これは――美味しいですね」
「それはよかった。多めにつくらせてあるから、土産に持っていきなさい」
微笑んで礼を言う。子供達はもちろん、ヴィクトリアも甘いものには目がない。きっと喜ぶだろう。
茶を飲んで、器を受け皿に置くと、当主が温厚な口調で言った。
「長姉の婿よ。私はもう、過ちを繰り返したくはない。そして、過去の結果は、私自らが贖うべきものだ。若い者達が澄んだ未来を歩めるよう、手を尽くしましょう」
茶器を受け皿ごと卓に置く。深々と頭を下げて、心から礼を述べた。
それから、詳しい経緯を話し終えた頃には、すっかり日が暮れていた。特殊な事例のため、詳しく調べないと明確に回答できない、ということで、ひとまず帰路に就いた。
土産にもらった菓子は、日持ちすると聞いたので、夕食後にヴィクトリアと二人で食べ、残りは子供達のおやつにと渡した。
明くる日の職務明け、帰宅すると、子供達にまた食べたいとせがまれたが、それが実現したのは、随分先のこととなった。




