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絆の形①

 文字を目で追いながら、背後できびきびと交わされる引継ぎの報告に、耳をそばだてる。敬礼する衣擦れの音。もう、終わってしまう。

 明日は遅番だから、夕方には会えるものの、今日の自分の態度を思うと、心が軋んで痛んだ。

「それでは殿下。私は、これで失礼いたします」

 傍らに立って礼をし、定型の挨拶。

 以前なら、また明日と微笑んで、楽しみな思いで満ちるのに、口をついた声は、淡々と冷たいものだった。

「……ええ、ご苦労様」

 本に集中するふりをして、顔は上げなかった。紺青の瞳を見たら、また理不尽なことを言ってしまいそうな気がして、怖かった。

 あの一件以来、どうしても、素直に接することができずにいる。そろそろ二週間。フェリックスは、いつもと変わらないままだ。

 職務なのだから当たり前なのだが、職務だから側にいるのだと思うと、これまでの日々が、まやかしのように感じられた。刷り込まれた悪意が、けたけたと嘲笑って、現実を突きつけてくる。

 落ち着かない心地で、長靴の重い靴音が遠ざかり、扉が開いて閉まる音を聞く。

 交替したエルドウィンが、側仕えの位置に控える気配。名を呼び、傍らに跪いたところで、小さく告げた。

「……新年祭の件、巻き込んでごめんなさい」

「殿下の御意に叶うよう動くことは、近衛の務めでございます。謝罪を受ける理由はございません」

 淡々とした声音。そっと、視線で窺う。

 常なら穏和な新緑の瞳が、冷たい色を灯していた。静かな憤り。本当に仲のいい二人だ。詳細な事情は伝わっているだろう。

 苦しくて、たまらず目を伏せて、顔をそむける。

「……そうね」

 装飾的な文字が滲む。震える息を、ゆっくりと吸って吐く。

「謝らなくてはと思ってる。でも……」

 幼い日、取り返してくれた熊のぬいぐるみ。不安な夜は、抱き締めて、思い慕うよすがにしていた。しかし、あの年の冬には、〈仮初めの奥方〉をもらっているのだ。

 自分を慈しみ守る一方で、同じ年月を平行して、他の女を抱いていた。

 七歳も離れていて、あの頃は、まだ成人もしていない子供で、嫡子の務めなのだからと思っても、激しい炎が心を焼いていく。

 これほどの妬ましさが、自分の内にあったのかと驚きながら、一人の男として愛しているのだと、痛烈に実感した。

 本当は、甘えたくて仕方ないのに、優しく微笑む顔が見たいのに、醜く嫉む心が、無意味な意地を張らせる。

 柔らかく流麗な手蹟。自分よりも、きっとずっと美しい女人。自分の知らない関係の形。決して知ることのない、夜の姿。

 ぱたりと紙面に雫が落ちて、慌てて本を閉じる。

 どうしようもなくて、溢れるままに泣いていると、穏やかな声が、鼓膜を撫でた。

「……身体の繋がりは、確かに特別でございます」

 ゆっくりと振り見る。静かな、新緑の瞳。

「ですが、心を縛ることはできません。そうでなければ――」

 ほんの微かに、苦痛に耐えるように、吐息が震える。そっと目を伏せ、息をつくと、真摯な視線が向けられる。

「殿下。隊長の心が、いつも誰に向いているか、おわかりのはずです。それほど器用ではないことも、よくご存知でしょう」

 真っ直ぐな光を宿す、紺青の瞳を思う。〈仮初めの奥方〉が原因などとは、きっと露ほども考えていない。

「それとも、落ち込んで悩む姿をご覧にならなければ、お信じになれませんか?」

 緩く首を振る。

 自分のために、多大な労苦を背負って――出自と誓いとの狭間で苛まれながらも、ずっと傍にいてくれた深い思い。数々の思い出が。心に去来する。

 誓いの言葉。本を読む、耳に心地よい低い声。宝物だと抱き締めてくれた、力強く逞しい腕。

 ともに踊った、心躍る時。恐怖から救い出してくれた、吸い込まれそうに澄んで冴えた、紺青の瞳。頭を柔らかく撫でる、体温の少し高い、大きく武骨な手。

 そして、きっと誰も知らない――心からの優しい笑顔。

 目には見えない、しかし確かな絆を感じる。温かな思いに、いとしさが湧いていく。涙を拭い、新緑の瞳を真っ直ぐに見つめて告げる。

「――明日、きちんと話すわ。ありがとう、エルドウィン」

 優しく柔和な微笑み。

 夕食の支度をしていた侍女が、準備の完了を伝える。侍女に本を渡して、棚に仕舞うよう指示すると、立ち上がって、食卓へと向かった。


 しんしんと冷える、真冬の夜。揺らめく硝子越しの灯火を眺めながら、入浴からの戻りを待つ。

 扉が開く気配がし、侍女がゆっくりと押し開けたあとに続いて、アメリアが居室に入ってくる。

 厚手の綿の寝巻きに、しっかりとした織りの羽織を、幅広の紐で留めたいで立ち。

 昼間は編んで飾られる髪が、今は解かれて、さらさらと揺れている。優美な様に、密かに見惚れる。

 アメリアが、侍女から手提げの灯りを受け取り、下がるよう伝える。

 控え室の扉が閉まるのを確認してから近づいて、そっと腕に触れる。見上げる、碧色の瞳。

「フェリックス、ごめんなさい。子供の頃のように接することができないのは、当たり前なのに、あなたを責めて……」

 眉根を寄せて、切なく揺れる色。

 確かに、あの言葉は胸を痛く刺したが、つらい時に抱き締められない方が、ずっと心を苛んだ。碧色の瞳を見つめて、静かに告げる。

「私のことなど……ただお傍にいることしかできず、心苦しく存じます」

 アメリアが、ふるふると首を振る。灯りに煌めきながら、長い金褐色の髪が揺れていく。柔らかな声が微笑んで、言葉を紡ぐ。

「あなたが傍にいてくれるだけで、どんなに心強いか。あなたと過ごす日々が、私の心の支えなのだから」

「殿下……」

 いとしい思いが、沸々と湧く。触れたいと、抱き締めたいと、心が震える。灯りに煌めく碧色の瞳を、切なく見つめる。

 甘くねだる声が、艶やかに鼓膜を打った。

「ねえ、撫でて……?」

 上目遣いの、香る瞳。たまらずそっと、その小さな頭に手を伸ばす。波立つ豊かな金褐色の髪を梳くように、優しく緩やかに撫でる。

 洗いたての滑らかさ。香油の華やかな甘さが、鼻をくすぐる。心地よさそうに潤む、碧色の瞳。

 小さな耳に、淡く触れる。手にすり寄ってくる、白く柔らかな頬。温かな幸福が、心に満ちていく。

(もし……このまま抱き締めて、愛せたら……)

 決して叶わない願いが、胸を食む。

 王太子の肖像画に、生き写しの自分。首に提がる神眼石。身に巡る、王家ノクサートラ家の血。

 出自を知るのは、伯父とヴィクトリア、そしてブラッツだ。

 それが暴露された時、正統な王家の嫡子である自分が、為さなければならないこと。血塗られた、赤い道の先――。

 ありがとうと微笑む、澄んだ美しい顔。優しく穏やかで、幸福に満ちた、碧色の瞳。

「おやすみなさい。また、朝ね」

 微笑んで、緩やかに離れていく。

 挨拶を返して、よい夢をと添える。寝室の扉が閉まったことを確認し、夜勤の配置につく。

 高く切られた窓。煌々と輝く満月。神の覗く裂け目を仰ぐ。

御夜(みよ)よ、お赦しください――)

 祈って呼びかける。

 漆黒の雫を垂らして、自分を生み出してくれた尊い親。決心したこと。

 この裏切りは、神に悖る大罪だ。それでも、あのいとしいひとを守れるのなら。

(俺は、あなたの御寵愛に、お応えすることはできません)

 腰に佩いた、剣を思う。

 守りたいとひたすらに願って、鍛練を重ねてきた。向けるべきは、アメリアではない。

(秘密が晒された時、俺は、この命を絶とう)

 長子の父は亡く、王の下には、宰相に降嫁した王妹しかいない。王家の嫡子である自分が死ねば、即位できるのはアメリアのみだ。

 そして、ノクサートラ家の血は絶える。原初から続いた――神の寵愛を受けた家系が、終わるのだ。その、恐ろしいほどの重みに、心がおののく。

 しかし、たとえ暗愚だと謗られても、神に悖るとしても、罪のない愛するひとを殺めることなど、決してできない。

 どうして、こんな状況になったのか。

 アメリアは生きるだけで苦しみ、自分は血に縛られて、もはや取るべき道は他にない。

 冬の冴えた夜空に輝く満月。

 祈り問いかけても、神からの答えはない。その意思は、人にはわからぬところにある。それでも、アメリアも等しく、神が漆黒の雫を垂らして生み出した子だ。

 満月を見つめて、指先で、右目、左目、唇、胸と触れていく。そして、柔く手を合わせて祈った。

(どうか、あのひとを――あなたの子を、慈しみ守り、行く末を明るく照らしてください)

 冴え渡る青白い月は、ただ静かな光を放っていた。


 冷えた身体に、じわじわと、熱い湯のぬくもりが染み込んでいく。

 明かり取りの細長い窓から、湯気に霞んで、楕円形の月が見える。ぼんやりと眺めながら、先日の満月の夜を思う。

 優しく撫でる、大きく強い手。その、少し熱を帯びた温度。

 なぞるように、味わうように――そのまま首筋から胸へと落ちてしまいそうな、色の匂い立つ所作。その指先を、掌を――耳で、頬で、感じた。

 背筋を這う、甘く痺れる感覚。子供の頃に感じていた安心感とは違う、艶やかな心地よさ。

 触れ方が変わっていることに、フェリックスは気づいているのだろうか。

 いとしさに切なく見つめる、紺青の瞳を思う。女として愛されているのだと、心が喜びに震えた。

(あのまま、肌に触れられていたら……私は……)

 羞恥と甘やかな色香に、顔が熱くなる。

 子供の頃、何も考えずに飛び込んだ、素肌の広い胸。少年から青年へと成長した今は、どんな(かたち)をしているのだろう。

 鍛え上げられた逞しい腕を、胸を、熱い温度を――肌で感じたら。

(はしたないこと……)

 膝を抱えて、顎を湯につける。

 未婚の女が、婚約していない男との閨を考えるなんて。頭で否定しても、真に望む情景を、心が思い浮かべてしまう。

 優しく響く低い声は、どんなふうに、心を囁くのだろうか。甘く触れてきた指先は、どんなふうに、この身をなぞるのか。――知識でしか知らない、その先は。

 苦しくて、たまらず手で顔を覆う。抱き締めてほしいと、心が悶える。いとしいひとの全てが欲しいと、あらゆる全てが叫ぶ。

 あの日に約束してくれた通り、神の元に還っても、傍にいたかった。離れたくなど、なかった。

 巨躯の群青から、刃のように突き刺さる、憎悪と殺意。

 フェリックスが即位したあと、必ず殺されると、ずっと覚悟してきた。一方で、譲位が叶えば、人々の怒りが鬱積した現状を打破し、事態の好転する望みが生まれる。

 積年の恨みが晴れる上に、正しい統治の下で、民の暮らしが安定するのなら、それが最善だと思っていた。

(でも、それでは何も解決しない)

 湯気の舞う先の、真冬の冴えた夜空を仰ぐ。

 いとしく見つめる、紺青の瞳。その奥底に沈む、深い哀しみと絶望の色。肖像画を見た時の、酷く怯えた横顔。涙。

 心を知った今、はっきりと進むべき道を悟る。

(生きたい――フェリックスのために。あのひとに添い、行く先を支えたい)

 真昼の民を実父に持つ自分が、真夜の王家の嫡子との結婚など、神に悖る重大事だ。

 たとえ叶わなくても、王となったフェリックスの傍にいられる方法があるのなら。雲を掴むような話だが、探す価値は十分にある。

 楕円形の月を見つめる。裸であることを詫びてから祈ると、勢いよく浴槽から上がった。

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