王議①
深く息を吸い、緩やかに吐き出す。さざめく雑念が鮮やかに晴れ、心が静かに凪いでいく。
気迫とともに木剣を振り薙いで、一点で、ぴたりと止める。
すかさず踵を返し、鋭い斬撃で空を切る。ぶれなく丸い刃先を留めて、ゆっくりと構えに戻り、木製の鞘に収める。
次の型に入るべく、抜剣しようとした時、目の端に、駆けてくる気配がかすめて、意識を戻す。アドルフだった。
近寄ってきたところで声をかける。
「どうした? 何かあったか?」
「父上に、渡すよう頼まれましたので」
少し弾んだ息が、白く尾を引いて、たなびいていく。差し出されたのは、一通の封筒だった。礼を言って受け取る。
「ここにいると、よくわかったな」
〈太陽の剣〉の調査を始めてから三ヵ月。
当番は遅番だけで、あとは書類仕事だ。最近は、主家直系嫡子の執務室や、宿舎の自室で過ごすことが多かった。
「ちょうど兄上と交替だったので、聞いたんですよ。そうしたら、天気もいいし、そろそろ飽きてる頃だからって」
秀麗な顔に、にやりと快活な笑み。
なるほどと納得し、エルドウィンには全てお見通しだな、と苦笑する。
一体何度、放り出そうとするところを諫めて、あるいは気分転換に付き合ってくれたことか。
「本当に、エルドにはかなわないな」
「そりゃあ、兄上ですからね」
アドルフが、嬉しそうに笑う。兄を慕う心に、温かい気持ちで、そうだなと返す。そして、すでに封の切られた口から、中身を取り出した。
美しい花の模様があしらわれた便箋。トリーナのものによく似た、しかし、よりあでやかで豊満な文字。一番館館主から伯父宛の手紙だった。
〈花蜂〉が、火消しの水を渡すので、〈主人〉に訪ねてほしい、という内容だった。期日は三日後だ。ついに来たと、心が打ち震える。同時に、息の詰まるような苦しさが、胸を締めつけた。
一ヵ月前、無理強いして、あれほど残酷に責め苛んだというのに、トリーナは、力を尽くして成し遂げたのだ。
泣き叫ぶ悲鳴。板張りの床の上で、物のように扱い、幾度も犯した。そしてさらに、翌々日には、欲に負けて、捌け口にしたのだ。
情報共有なら、手紙でもできる。頭領の男が、トリーナに惚れ込んで大切にしているのなら、いったん託しておこうと決めたのだった。
三日後、報告書を受け取れば、あらゆることが動き始める。きっと、しばらくは会えないだろう。罪滅ぼしになど決してならないが、恋慕う心に沿おうと、強く思う。
「……次代様? 大丈夫ですか?」
はっとして振り見る。
心配そうに見つめる、若緑の瞳。強ばった顔を解いて、淡く微笑む。
「ああ――火消しの水が、手に入ったそうだ」
目を瞠る、秀麗な顔。一気に緊張が走る。肩に手を置いて、あくまでも穏やかに告げる。
「埋み火のうちに、俺達で消そう。たとえ火事になったとしても、みんながいる。日々鍛練してきた猛者ばかりだ。きっと、うまく乗りきれる」
「――そうですね。そのために、俺達は、厳しい鍛練を積んできたんですもんね」
おもむろに、柔らかく明るい笑みが広がる。力強く頷いて、便箋を封筒に仕舞う。
「このあと空いているなら、外に食べに行かないか? せっかくの冬至祭りを、今のうちに楽しんでおかないとな」
秀麗な顔が、にやりと笑う。弾んだ声が、おどけた口調で同意する。
「いいですねえ! 次代様の奢りですか?」
「仕方ないな。遣いの駄賃だ」
喜色がみるみる広がり、飛び跳ねんばかりになったところに、すかさず釘を刺す。
「ただし、酒は禁止な」
えーっと、情けない悲鳴が上がる。
「じゃあ、いつもの酒場でいいな?」
意地悪く笑う。しょげた姿。
高級な料理店で、あの質の悪い酒癖を披露されたら、それこそ、末代までの語り草だ。呑めないのは残念だが、アドルフとなら、賑やかに楽しく過ごせるだろう。
と、背後から首に腕をかけられて、前かがみになる。
顔を向けると、ウィンケンスだった。濃青の瞳が、にたりと笑う。
「それ、楽しそうだな。俺も混ぜろよ」
「おい、わざわざ気配を消して近づくな!」
完全に不覚を取られて、苦々しく言う。
少年の頃のように、度が過ぎることはなくなったものの、本当に調子のよさは変わらない。
骨格のしっかりとした顔が、へらへらと笑う。
「油断しすぎじゃないですかあ、次代様?」
「今さらへつらっても、お前は自腹だぞ」
えーっと、不満そうな声。
冗談なんだか、本気なんだか。内心で苦笑する。とはいえ、同じ主家に奢ってやる義理はないので、放っておく。そして、アドルフに、
「誰か、気の合う従家を一人誘うといい。そいつの分も、俺が出そう。湯浴室に行くから、その間に馬車の手配をしておいてくれ」
「はい! 了解です!」
秀麗な顔が、ぱっと輝く。礼をして、駆け出していった。
耳元で、残念そうな声が響く。
「あーあ、奢ってくれないのかよ」
「……お前、本気だったのか」
呆れて溜め息をつく。離れて、肩を竦める姿。
「まさか。そんなこと、父上に知れたら殺される。今なんか、新年祭の警備計画の見通しが立たなくて、ただでさえ、ぴりぴりしてるのに」
「うまく、火消ししないとな」
気遣うように微笑む。
ウィンケンスの父親は、王宮騎士団の団長を務める。〈太陽の剣〉が、新年祭に暴動を起こす計画を立てていることは掴んでいたから、詳細を詰めるにも、情報が必要だった。
「――なあ、フェリックス」
ウィンケンスが、腰に手を当てて仰ぐ。
夕陽の残滓が、初冬の空を紫に染め、満ちかけた月が、煌々と冴えた紺青に浮かんでいる。
「俺さ……こんなにも、末っ子でよかったって思ったこと、今までないんだよな」
月明かりと、扉の開放された回廊から漏れる光に照らされた横顔を見遣る。
「婚期を過ぎるまで放っておかれて、やっぱり損だなって、思ってたけど……妻も子もいないなら、何かあっても、気が楽だなって――」
調子がいいくせに、こういうところで優しい奴。
しかし、伯母は、兄弟の中で、ウィンケンスを一番に可愛がっている。義伯父も、末子は出来が悪いと嘆きながら、いつも気にかけている。そして、歳の近い三兄は、自分達が喧嘩をすれば、仲裁に入って、諭してくれた。何かあったら悲しむ人は、たくさんいる。
「何か、なんてない。何もないようにするんだ。大切な人達を、悲しませないために」
顔がこちらを向き、濃青の瞳が微苦笑する。
「あーあ、やっぱりお前は違うな。覚悟が据わってる。俺は、全然だ」
「そんなことはないさ。お前には、人をまとめる力がある。慕っている奴は、たくさんいるぞ」
まるで、親鳥にくっついていく雛のように、従騎士の少年達が連なる光景が、心に浮かぶ。
分け隔てなく接する態度は、特に、若い者達に人気があった。
上官にはなかなか言えない悩みや困り事を、この従兄伝いに聞くことはよくあって、いつも本当に助かっているのだ。
濃青の瞳が、ほのかに滲んで、月明かりに煌めく。柔らかな声が告げる。
「そういうことを、さらっと言うんだよな、お前はさ。だから嫌いなんだよ」
「言ってろ。剣術でも、男の大きさでも負けている奴に、好かれても嬉しくないしな」
あえて鼻を鳴らして、肩を竦める。途端、剣呑な笑みが浮かぶ。
「あの時は、よくもすぐ折れるとか言いやがったな」
「よく言う。俺の最大を見て、負け犬面で吠えていたくせに」
わざと勝ち誇ったように笑う。
まだ前期課程の従騎士だった頃の、青く幼かった大浴場での思い出。あれからもう十年以上経ったのかと、しみじみ思う。
「あ、言ったな。久しぶりに、比べてやろうか。絶対、俺の方がでかいぞ」
「馬鹿言え。今やったら、怒りの雷どころじゃ済まないぞ」
言いきって、顔を見合わせて吹き出す。あの時は、本当に馬鹿だったよなあ、と声を上げて笑う。
遠い思い出を語りながら、装備を片付けて、大浴場へと向かった。
水流のような美しい文字で綴られた内容に、暗澹とした気持ちが湧き上がる。
とうとう、ワルターが〈太陽の剣〉の真の首謀者だという、直接的な証拠が見つかってしまった。
エルドウィンとイドニア――そして、アメリアのためにも、潔白でいてほしかった。
こうなったらもう、事前に機会を潰すほかない。調査結果を鑑みれば、人々を守るためにも、それが最善策だった。
エアネストの偽造書類によって設立された、架空の金融商店。そこから、備品と称して、余剰を横流しした装備。
実務に必要な数を差し引いても、かなりの量になる。人を集めれば、暴動を起こすには十分だ。
しかも、決行日は、年明けの新年祭である。即位二十周年を記念して、大規模な行事になる予定だった。
王宮が特別に一般開放され、王と王太女の謁見も行われる。王を狙うには、うってつけの機会だ。
アメリアを奉じる以上、直接、危害を加えることはないだろう。しかし、群衆が混乱状態に陥れば、何が起きてもおかしくない。
ましてや、王宮は、神の寵愛を受けた王家の住まう神聖な場所だ。民に死者が出たとなれば、王都中で動揺が深まり、思わぬ影響を及ぼしかねない。
〈太陽の剣〉の賛同者の名簿。その数の多さを鑑みれば、混乱に乗じて、散発的に行動を起こされた場合、王都は恐慌状態に陥るだろう。なんとしてでも、王を説得して、中止の承諾を得なければならない。
そこまで思考して、頭が痛くなる。激怒する光景が、ありありと浮かんだ。
額に指を当てて溜め息をつくと、隣から、心配そうな声がかかる。
「何か……不備でもあったかしら……?」
緩く首を振る。翠緑の瞳を見つめて、苦笑した。
「いや――政は、難しいことが多くてな」
そして、書類の束を揃えて封筒に入れ、鞄に仕舞った。心からの謝意をこめて告げる。
「報告書は、期待以上だ。本当にありがとう。授与については、状況が落ち着くまでは難しいかもしれないが、きっと父上も評価される。楽しみにしていてくれ」
「ええ、待っているわ……」
喜びに潤んで煌めく、翠緑の瞳。
細い手に、そっと触れる。真っ直ぐに見つめて告げた。
「これからしばらくは、来られないだろう。何が起こるかわからないが――きっとまた、無事に会える」
美しい顔が、不安に曇る。紅色の薄い唇が震えて、微かに開く。瞳に灯る、恋慕う心。じっと見つめて、言葉を待つ。しかし結局、
「気をつけてね」
と、いつも通り微笑んだ。
〈仮初めの奥方〉が、決して口にしてはいけない言葉。たまらず手を伸ばして、強く抱き締める。
「トリーナ、すまない……ありがとう……」
肩に頷く感触。腕を緩めて、白い頬に触れる。翠緑の瞳を見つめ、柔らかに口づけた。
それから、トリーナの全てを抱いた。甘く囁き、細い身体をなぞって、余すところなく味わった。
受け入れて、深い喜びに震える美しい姿。互いの名を呼び合って抱き合い、恋人のように溶け合って、幸せな時間を過ごした。
読み終えた書類を、卓上で揃える硬い音が響く。大きな溜め息。深みのある低い声が、静かに告げる。
「義父上を介して、一応進言はしてみるが……中止は、難しいだろうな」
やはりか、と思う。王議での王の横暴さは、この二年余り、散々見てきた。
法務官と連携して、幾度も提出した〈太陽の剣〉に対する法案。何かと理由をつけて、毎回却下されてきた。そうして結局、ここまで規模が大きくなってしまったのだ。
賛同者名簿に記載された人数も、かなりのものだが、掘り返せば、まだまだいてもおかしくない。トリーナの尽力に頭が下がる一方で、その膨大さに眩暈がした。
もっと早く手を打てていれば、と思いながら、それができなかった数多の事由に、頭が痛くなる。
「ですが……中止できなかったら……」
謁見の間には、多くの民が訪れる見込みだ。
あんな王でも、民には、神の寵愛を受けた真夜の王である。実態を知らない人々が、新年の挨拶をしたいと願う気持ちは、よくわかる。
しかし、人出が多ければ、それだけ紛れこみやすくなる。計画書には、侵入経路の有力候補として挙げられていた。
と、不意に、薄青の双眸から、表情が消える。平坦な声が、鼓膜を撫でた。
「その時は――その時だ。俺はとうに、どちらを選ぶか決めている」
ぞわぞわと、嫌な悪寒が背筋を這う。伯父と相対しているような恐ろしさ。選ぶとは、どういうことか。
淡々とした声が、言葉を継ぐ。
「フェリックス。義父上の本心を考えたことがあるか? 誰を最も憎み、誰に最も生きてほしいと願ったか――あの日、あの場所にいた者達の総意を」
はっとして、血の気が引く。冷たい氷のように凍てついた薄青の双眸が、心に過る。
引き取られて初めての夏。顔合わせの会食。レクス隊の話をする時の、冷ややかさ。子供心に、違和感を覚えていた。その正体。
頭の中で、巨大な獣の重い声が轟く。
足を掴んで狂い泣く、恐ろしい姿。繰り返し聞かされてきた、おぞましい話。
――その、望み。
「フェリックス……⁉ おい、フェリックスッ!」
肩を強く揺さぶられて、はっとする。眼前に、薄青の双眸があった。
耳鳴りが遠のき、周囲の音が戻ってくる。浅く速くなっていた呼吸が深くなり、一気に新鮮な空気が入ってきた。
滲んだ視界が、はっきりする。戦慄きが、おもむろに止まる。
震えた声が、こぼれた。
「……あ、に……うえ? ……おれ……」
手が頭に伸びて、抱えられる。深みのある低い声が、胸に響いて聞こえる。
「ずっと部屋にこもりきりで、疲れただろう。よく頑張ったな」
優しい声音。心が、溶け合わさっていく。
温かに安堵し、合図のように手を伸ばして、そっと背に触れる。すると、ゆっくりと離れていった。
薄青の双眸が、柔らかに微笑んで告げる。
「本当に助かった。今日はもう、帰って休め」
頷いて礼をし、部屋を辞す。
ヘンリクスの言葉の意味を、再び考えそうになって、深い意識の中に沈めた。




