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露呈①

 寝台の軋む、微かな気配。扉の閉まる音が、静寂に響く。

 微睡む意識が浮上し、寝返りを打つ。ウィリアムの姿がなかった。厠かしら、と茫洋と思う。

 再び瞼を閉じたが、覚めてしまって、眠りはなかなか訪れなかった。水でも飲んで、気分を変えようと、起き上がって内履きを履き、寝室を出た。

 手提げの灯りを頼りに、階段をゆっくり下りていく。左手の厨房に行こうとして、右手の居間に、小さな灯りが揺らめいていることに気づく。

 ソファの背もたれから覗く、短く切り揃えた髪。こんな夜更けに、何をしているのだろうと、そっと近づく。

 不意に、掠れた低い声が名を呼ぶ。熱い吐息。耐えるような、震える呻き。抱かれている時、耳にする音色に戸惑う。不審に思って、さらに歩み寄ってみる。

 角度が変わり、開けた先。驚いて、小さく声を上げてしまう。

 はっとして振り返る顔。全てが固まったまま、口だけが戦慄いて、(せわ)しなく動く。

 しかし、言葉は出なかった。申し訳なさが、胸を覆う。

 痕跡の一件以来、どうしても抱かれる気になれず、何もない夜が続いた。思えば、もう一週間余り経つ。

 一切そんな素振りを見せないから、歳を重ねると、こだわりがなくなるのかと、勝手に思っていた。ただ、悟られない(すべ)を知っているだけだったのだ。

 今朝見た書類が、頭を過る。

 来年の新年祭に、事を起こすという計画書。あと二ヵ月もすれば、ウィリアムは無への扉を叩くことになる。

 ソファの傍らの卓に灯りを置いて、寝巻きの前身頃の留め具を外す。さらりと、肌が露になる。驚いて、口を開こうとしたところを遮る。

「何も言わないで」

 押し寄せる羞恥を、必死に抑える。下着の紐を外して、斜め後ろのソファに放った。

 唖然として見つめるウィリアムの上に乗る。うまくできるか不安が過りつつも、とりあえず指で開いて、腰を合わせる。脈打つ熱に、吐息が震えた。

 六貴族の息女は、〈教本〉を読むのみで、当然ながら、手ほどきは受けない。だから、〈奉仕〉以外で、〈奥方〉が積極的に動くことはないのだ。

 自信はなかったが、気持ちが伝わればと思い直して、揺らめかせる。青緑の双眸を見つめながら告げる。

「ねえ、ウィリアム……ケイトと呼ぶのは、あなただけなの――」

 よく知った感覚が、身体の中心を伝う。羞恥に耐えて、一点に擦りつける。淡い絶頂の予感が、押し寄せる波のように、大きくなっていく。

「だから……今は、あなたの可愛いケイトでいさせて。あなたの手で愛して――甘く、溶かして……」

 ふるり、と身体が震える。張り詰めた糸が切れたように、弾けて高く声を上げる。

 準備が整う感覚。事を進めたいのに、熱が当たる度に反応してしまって、痙攣が止まらない。強い刺激に、涙が滲む。

 そっと頬に触れる、乾いた大きな手。唇を、甘く食まれる。震える熱い吐息の中で、低く渋い声が囁く。

「ああ、ケイト――俺の、可愛い女だ。大切にすると、今一度、約束しよう。だが――」

 昂った溜め息。耐えるように、眉間に寄ったしわ。漂う大人の男の色気に、腰がざわめく。

「今は難しそうだ……早く、お前の中に入りたい……」

 途端、両手で腰を掴まれる。過たず宛がわれる感触。見つめる、青緑の双眸。その、どこか危うい剣呑な景色。一気に全身が熱くなる。

 優しい所作の裏に隠されていた激しさ。わずかな怖れとともに、知りたいという思いが閃く。そして、真っ直ぐに見つめ返して告げた。

「……来て……」

 熱が、中心に収まっていく。久しぶりの質量に、身体が震える。

 呼吸できないほど深い口づけ。しがみついて、必死に受け止める。

 突き上げられる奔流と柔らかな愛撫との緩急に、意識がとろとろに溶けていく。

 手を変え品を変え、寝台に移ってもなお、とめどない豊かさ。白んでとろける甘さを味わいながら、激しく優しく愛された。


 *


 初冬の澄んだ朝日が、薄い窓掛けを透かして、降り注いでいる。

 食卓に並んだ、彩り豊かな料理を見渡して頷く。

 今朝は、うまくできたと思う。特に、この魚と野菜の煮物は初めてながら、なかなかの出来である。

 つやつやと光る黄金の汁。パンを浸したら、きっと絶対に美味しい。心配で味見しすぎて腹が膨れてしまったが、その甲斐があったというものだ。

 冷めないうちにと、二階の寝室に上がる。

 厚織の窓掛けを開け、寝台の(ふち)に座って、肩に触れた。

「――起きて。朝よ」

 ウィリアムが、眩しそうに目を細めて瞬く。

 日の光に、鮮やかに色を変える、青緑の双眸。造作の鋭い顔に、ゆっくりと穏和な微笑が広がる。

「おはよう」

 挨拶を返して、軽く口づける。

 思いきった伸びに、大きな欠伸。のんびりした光景に、温かく笑みがこぼれる。平和な週末の朝だった。

 二人で階下に行き、食卓を囲む。旬の食材を活かした料理に、感嘆の声が上がる。

「いつも悪いな。先に起きて、大変だろうに」

「いいのよ。好きな料理を存分に楽しめるんだもの。むしろ、有難いくらいだわ」

 微笑んで答える。実際、家事や細々とした雑事をするのは好きだった。

 普段は、下女が一切を世話してくれるから、自分ですることはない。だから、任期明けの独り立ちの練習として、月に一度やってくる家事日が、楽しみで仕方なかった。

 あまりに生き生きと、掃除や料理などの諸々をこなす姿を見て、せめて鼻が曲がって生まれていたらね、と母が呆れながら、冗談を言ったほどだった。

 ごちそうさまと挨拶をして、うまかったありがとう、とついてくる言葉。世辞のない調子に、いつものことながら嬉しくなる。

 食後の喫茶をしつつ本を読む姿を、横目で見ながら、食器を片づけていく。

 まるで、長年連れ添った夫婦のような時間。ウィリアムは〈太陽の剣〉の頭領だと忘れかけるほど、穏やかで温かな日々を過ごしている。

 しかし、時は確実に刻まれ、もう冬が到来してしまった。

 年明けの新年祭での計画。きっと、年末まで一緒にはいられないだろう。

 時間になって、玄関口で見送る。朝の光に、青緑の双眸が、淡く移り変わる。優しい声が告げた。

「じゃあ、行ってくる」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 微笑んで答え、口づけを交わす。指先が頬に触れ、離れていく。

 遠ざかる背中。日々見送るごとに、少しずつ薄れていく気配。

 その度に、死ぬために生きているのだ――という思いが浮かんだ。どんなに苦しくても、引き止めることはできない、と。

 角を曲がって、姿が消える。

 扉を閉めると、出かける支度をすべく、二階へと上がった。


 王都には、七つの広場がある。

 最も大きな中央広場は、外周が、馬車の円形交差点になっていて、王宮に関わる行事や処刑が行われる。その他の六つは、人々の憩いの場であり、午前と午後それぞれに、市場が立って、買い物客で賑わっていた。

 色とりどりの野菜や、豊富な種類の肉、魚、加工品などを眺めながら、目当ての物を買っていく。

 結い上げて髪覆いを被り、奥さん、と店員から呼びかけられていると、本当に、ごく普通の警備兵の妻になった気分になる。もし子供がいたら、学舎に入ったばかりか、その直前だろう。

 ふざけて駆けていく、入舎前の子供達。叱る母親の声。はぐれないようにと、小さな手を繋いで歩けたら、どんなに幸せかと思う。

 服に隠した首飾りの感触。何かあった時は、この身分証さえあれば、警邏を担う兵士に保護を求められる。

 これまでも、マニュルムとウィリアムの家を行き来する道中で、職務質問を受ける度に、恭しく丁重に応対してくれた。

 そういう特権を、自分は享受している。

(本当に特権だと思えたら、幸せだったのかしら……)

 〈仮初めの奥方〉になったからこそ、フェリックスと再会できた。一方で、あのまま火事がなかったら、どうなっていただろうと思う時がある。

 叶うことなら、初夜をともに過ごせなくても、任期明けまで待ってもらわなければならないとしても、ごく普通の職人か商人の妻として、生きてみたかった。

 ただ、何度想像しても、フェリックスが、そういう平凡な道を歩く姿を、思い描けなかった。

 結局のところ、人とは違う何かが備わっているような、特別な雰囲気があったからこそ、好きになったのだし、総帥である父親を、試合で負かしたと喜べる腕があるのだから、夫婦となる道は、最初からなかったのかもしれない。

 最後にパンを買って、木製の長椅子に腰を下ろす。

 遠く斜め前方で、〈太陽の剣〉が台を組んでいる。ウィリアムは仕事だから、今日は副頭領を務める男が、指示を出していた。

 背の低い醜男で、いかにも権力に媚びて、生き永らえてきた、といった風体だ。最初は言い寄ってきたこともあったが、ウィリアムが、俺の女だと宣言してからは、全く見向きもしなくなった。

 そして、女達の目は厳しいから、身寄りのない未亡人を世話して、結婚したことにしていると言うと、心得たとばかりに、にやりと笑って、口裏を合わせると約束した。

 他の男達も似たり寄ったりで、それぞれ異なる動機があるにしろ、統率をもって動く姿は、軍で厳しい規律を叩き込まれた元兵士であることを感じさせた。

 副頭領が組み上がった台に立ち、演説が開始された。群衆が集まり、口々に上がる賛同の声が、広場に響く。

 遠巻きに見ている人。ひそひそと非難を囁く人。野次馬で眺めている人。通常業務を装って、目を光らせる警邏の兵士達。異様な空気が、あたりを包む。

 頭領の妻として、感動しているふりをしながら、隣に誰かが引っかかるのを待つ。

 他愛ない会話をしながら、氏名や住所を聞き出し、賛同者の素性を探るのだ。そして、それを一覧にして、フェリックスに渡す手筈だった。

 ウィリアムと暮らし始め、市場に通うようになってから、二ヵ月余り。もうだいぶ溜まってきている。

 と、視界がかげる。振り見ると、若い婦人が、逆光の中に立っていた。

「こんにちは、ハワードさん。お隣、いい?」

 挨拶を返して、どうぞと勧める。

 大きな荷物を抱えながら、腰を下ろす姿。顔がはっきり見えて、瞬時に記憶を手繰り寄せる。

 最近、女達の集会に参加し始めて、一昨日やっと初めて話せたのだと思い出す。この街区に引っ越してきたばかりで、〈太陽の剣〉の熱烈な信奉者だという夫の勧めで、参加したのだと言っていた。

 婦人が息をついて、困ったように苦笑する。

「引っ越してきて、やっと一月経つけど――ここの市場は高くて……」

 確かに、この街区の市場には、比較的上等な品が並んでいる。

 フロス街の生活区にある、平民相手の商店と、さして変わらない質。当然、その分値も張る。しかし、フロス街では住民だと証明できれば、安く購入できる。

 戸惑うほどの価格の違い。最初は、感覚が掴めなくてやり繰りできず、元は税金だからと忌避したウィリアムに内緒で、主家からもらった資金を足したものだ。

「最近は、野菜が値上がりしてて、特に高いんですよ。いつもはもうちょっと、やり繰りに困らないんですけど。この前つい、夫にお給金は上がらないのって、言っちゃって」

「まあ! でも、言いたくもなりますよね」

 うんうんと頷き合う。楽しくて、心が弾む。たとえ演技でも、平凡な家庭の妻でいられる時間は、幸せなものだった。

 女達には、頭領の妻でありながら、控えめで、夫を献身的に支える理想の婦人、と認識されている。

 同じ生活者として悩みに傾聴し、共感してくれる、聴き上手。警戒心のないお喋りが絶え間なく続く集会は、まさに情報の宝庫だった。

 そうして、いつものように、生活の困り事や夫の愚痴をひとしきり聴いた。

 その話によれば、婦人の夫は料理人で、フロス街のプロピエタス家の地区にある高級料理店で働いていたという。しかし、これからは真昼の民が世界を統べるのだと言って、この街区の大衆食堂に、転職を決めてしまったのだ。

「お給金も、ずっと下がって……うちは子供がいないから、まだなんとかなるけど、せっかくの冬至祭りに、節約しなきゃいけないなんて」

 マニュルムの絢爛な光景が浮かぶ。

 しばらく帰っていないが、もうそこかしこの商店で、関連の品々が溢れているだろう。

 見渡す限り、一面の銀色に輝く街並みを歩く楽しさを知っていたら、裕福なこの街区でも、残念に映ってしまう気持ちはよくわかった。

「それにね、先週、母から手紙が届いたのよ。父の具合がよくないらしくて……でも、外の辻馬車は危ないでしょ。フロス街なら、安心して乗れるのに……」

 長く深い溜め息が落ちる。集会で、あまり積極的に輪に加わっていなかった理由。心の底から同情して、そっと肩に触れる。

「慣れれば、ここの生活も、きっとよくなるわ。今はつらくても、ずっと悪いってことはないはずよ」

「ありがとう。そうなることを祈るわ」

 不安の滲む微笑。心が、しくしく痛む。

 名簿をどう使うかは、主家次第だ。ただ、自分が追記すれば、確実に軍の警邏に目をつけられる。せめて、監視がいい方向に運ぶようにと、切に願った。

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