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変容②

 部屋に入った途端、細い身体を壁に押しつけた。

 混乱する声を尻目に抱きすくめて、上衣の留め具を手早く外し、内着の紐を解いた。胸元に手をかけて、一気に引き下ろす。

 露になる、絹の胸覆いと滑らかな背中。その、若紫に区切られた白い景色に、点々と赤が広がっていた。

 明らかな男の痕跡。〈奥方〉を共有する以上、〈主人〉は印をつけない。そういう〈教え〉だった。

 そして、〈花蜂〉を使うと決定した際に、受け持つ子息が自分一人になるよう、あらかじめ手配しておいたと聞いていた。

 怒りの炎が揺らめく。耳元で、低く問う。

「トリーナ。この(あと)は、誰がつけた」

「……痕……?」

 戸惑う声。身体を反転させて、正面を向かせる。首筋も胸も、ただ白く、柔らかな景色が広がっていた。

 気づかない背中だけに、わざわざつけたのだ。怒りが、一気に噴出する。

「口づけの痕だッ! 背中に、たくさんついているだろう!」

 翠緑の瞳が動揺し、美しい顔が、急激に青ざめていく。

 信頼していたものが、崩れていくような表情。知らない関係性が透けて見えて、激烈な怒りが全身を突き抜ける。

 細い顎を掴み、刃で刺すように、翠緑を見つめる。

「その男が、好きなのか」

 首を振る感触。瞳に浮かぶ、裏切りに傷ついたような色。自分の触れない間に、一体どれほどの情をかけてきたのか。

「それなら、どうして許した」

「……ご、ごめんなさい……! 全然、気づかなかったのっ……」

 涙を溜めて、震える声。謝りながらも言い訳する態度など、教えた覚えはなかった。低く、(なぶ)るように詰る。

「そんなに夢中になるほど良かったか。君が、誰の〈奥方〉かも忘れて、いやらしくねだりでもしたんだろうな」

 途端、翠緑の瞳に強い色が灯る。反駁する声が、鼓膜を打った。

「ウィリアムは、そんなことしてくれなんて言わないわ! いつも気にかけてくれる、優しい人だもの。背中の痕だって、あなたが思うような意図はないはずよ!」

 きつく睨む、美しい顔を見つめる。長い歳月をかけて、刻みつけてきたものを、全て忘れた面立ちだった。

 片膝を、脚の間に差し入れる。手首を一纏めにしたまま細い腕を伸ばして、爪先立ちになる高さに引き上げた。

 擦りつけるように、膝と爪先を支点に、腿を動かす。途端、伸びやかな肢体が、小さく跳ね出す。

「君が、どんな女か忘れたみたいだな――トリーナ」

 あたりをつけて、胸覆いの上から、指の腹でさする。吐息が震え、翠緑の瞳に涙が滲む。

「……っいや! やめて、フェリックス! お願い……!」

 哀願する声。その知らぬ音色。甘やかされた言葉に、なるほど、と冷たく思う。

「そうか。君がそういう態度なら、〈離縁〉を申し入れるしかないな」

 淡々と告げる。するりと離れて、扉へと向かう。

 崩れ落ちる気配。すすり泣く声。構わず、持ち手を回す。すると、

「――待って……っ!」

 心の引き裂かれた悲鳴に振り向く。

 床にへたり込んで仰ぐ、儚げな姿。美しい顔を泣き濡らして、縋るように訴える。

「ごめんなさいっ……私がどうかしていたわ! お願いだから、〈離縁〉しないで……!」

 冷たく見下ろす。

 翠緑の瞳に灯る、怯えた色。会えなくなってしまうという怖れ。よく知った色に、暗い満足感が湧き上がる。

 正面に腰を下ろして、胡座をかく。そして、涙に濡れた瞳を見つめて問うた。

「今から何があっても、受け入れる。君の言動は、全て合意の前提に基づく。いいな?」

 息を詰める声。恐怖に震えて、細い身体が縮こまる。微かに頷く、美しい顔。しかし、鋭く質す。

「返事は?」

「……はい……受け入れます……」

 涙の混じる声音が答える。その瞬間、板張りの床に引き倒した。

「いやっ……! こんなところで……!」

 暴れる肢体を押さえつけ、留め金の連なる胸覆いの中心を握り締める。

 手を離すと、弾けて外れ、柔らかな胸が、灯りに晒される。加減など構わずに、掴んで揉む。吸いつく白い肌が、面白いように形を変える。

「痛いッ! フェリックス! やめてっ、お願い!」

 うるさい口を塞ぐ。くぐもった悲鳴。細い手首を握る手に、戦慄く震えが伝わる。

 暗い愉悦が全身を満たし、芯が熱を帯びていく。胸から脚へと手を伸ばし、指先で、引き裾と内着をまとめ上げ、一気にめくる。そのまま下着の紐をほどいて触れた。

 密やかな水音。口を離して、喉で低く嗤う。

「本当に、いやらしい女だな――トリーナ。少し触れただけで、こんなになるなんて」

「……い、いや……」

 美しい顔が、絶望に染まっていく。翠緑の瞳から、表情が消える。

 心が砕けて壊れた様。嬲るように、音を鳴らして責め立てる。

 いやと泣きながら、それでも感じて達する姿。暗い高揚感に昂り、間髪入れずに、何度も執拗に絶頂へと追い込んだ。

 卑猥な揶揄を囁き、やめてと哀願されても、余すところなく思い知らせた。

 悲鳴を上げて泣き叫ぼうと、決して許さず、容赦なく穿ち抉って注ぎ、気の済むまで犯し尽くした。


 ゆっくりと、意識が上がっていく。数回瞬くと、視界がはっきりした。

 見慣れた直系嫡子の部屋。昨夜、何があったのかを思い出して、涙が滲む。

 それでも、あれほど酷く責め苛まれたのだ。淡い期待が、心を撫でる。もう二度と約束は破らないと、必死に飲み込んで、布団をはぐって起き上がった。

 しかし、フェリックスの姿はなかった。ソファの前の低い卓に、一枚の便箋と筆記具が置いてあるだけだった。

 一晩中、硬い床の上で嬲られて痛む身体を叱咤して、手紙を取り上げる。

 たった、二行だけの文言。

 ――明後日、また来る。進捗をまとめておいてほしい。よろしく頼む。

 拍子抜けするほど、あっさりとした業務連絡。その上に、書きかけてやめた文字が、ぽつりとあった。

 一文字だけで、何を綴ろうとしたのかはわからない。ただ、謝罪を意味する単語の頭文字と、同じだった。

 謝る必要はないと思ったのか、それとも、今さらだと諦めてしまったのか――書き出そうとして、筆記具の置かれた、いくつもの黒い点。心の迷いが、見て取れた。

 寝巻きに手を触れる。

 最後の方は、意識が曖昧になっていたが、自分で着た覚えはない。そして、ソファには、務めの衣が綺麗に畳んで置いてあった。

 苛烈な責め苦のあとの気遣い。裏腹な行動は、フェリックスの動揺そのもののように思えた。

 ウィリアムと一緒に暮らしていることは伝えているから、館にいない可能性が高いのに、事前の約束なしに訪れたのだ。よほどのことがあったのかもしれなかった。

 それでも、と思う。

 その言葉に、恐ろしいことが起きると予期していたものの、あんなふうに乱暴されるなんて。

 どんなに許しを乞うても、責め苦はやむことなく、むしろ、より激しさを増した。思い出すだけでも、心が怯えて戦慄く。痛くて、恐ろしくて、たまらなかった。

 それなのに、〈離縁〉されて会えなくなったらと思うと、苦しくてつらいのだ。明後日を、楽しみに恋しく感じる自分がいる。

「……どうして――……」

 崩れ落ちるように、へたり込む。涙が、とめどなく溢れていく。

 今すぐにでも、あの逞しい腕に抱き締められて、広い胸に収まりたかった。名を優しく呼ぶ、耳に心地よく響く低い声が聴きたかった。穏やかに微笑む、紺青の瞳を見つめたかった。

 ――柔らかに抱いて、愛してほしかった。

「……っフェリックス……! 私はあなたが――あなたしか、いないのに……!」

 全てが軋んで痛い。

 振り絞るように、声を上げて泣きながら、恋慕う人を思った。


 警護の騎士が交替する風景を眺める。幾度繰り返されてきたかわからないほど、平凡な日常。しかし、端正な面立ちを見た瞬間、何かよくないことがあったのだと察する。

 他の人ではわからないような、わずかな違い。きっと、フェリックス自身も気づいていないほどの、ほんの少しのずれ。

 側仕えの配置についたところで、声をかける。短い返答とともに、傍らに跪く姿。紺青の瞳を見つめて告げる。

「まだ夕食まで時間があるから、話したいわ。ねえ、昨日のエルドウィンの結婚式の話を聴かせて?」

「承知いたしました。――失礼いたします」

 薄く微笑んで、対面に腰かける。一瞬、隣に座ってほしいのに、と思ってしまった自分を叱る。

 それでも、〈太陽の剣〉の調査のために遅番だけになって、顔を合わせる機会がずっと減っていたのだ。久しぶりに相対する姿に、とくとくと鼓動が高鳴る。

「数年前、エルドウィンの長妹の式は、金色に輝いてたって、話してくれたけれど――昨日も、同じ雰囲気だったの?」

「はい。ですが、直系嫡子の式でございますから、道具類は、最高級の品々が揃えられました。太陽の光に包まれているような――とても美しい式でございました」

 想像を巡らす。さぞかし綺麗だろうと、心が躍る。

 式典関係は、カンチェラリウス家の講義で学んだが、王家が関わるのは、六貴族の時だけだ。式の流れや必要な道具類は、知識として持っているものの、目にする機会はない。

 月明かりに守られているような、真夜の銀色の式も素晴らしいが、真昼の式も見てみたいと、残念に思う。

「羨ましいわ。きっと、花婿姿も素敵だったでしょうね」

 端正な顔が、ふと綻ぶ。紺青の瞳に穏やかな光が灯り、声音が柔らかくなる。

「本当に、惚れ惚れする晴れ姿でございました。あれほど絵になる男は、そういません」

 まるで我が事のように喜んで、嬉しさに満ちた微笑み。張り詰めていた糸が緩むように、纏う空気が変わる。心の内で安堵しながら、柔らかに告げる。

「それは素敵ね。見てみたかったわ」

「殿下にも、ご覧になっていただきたかった。一日で終わるのは、もったいないくらいでございました」

 優しく微笑む、紺青の瞳。

 普段の二人を見る機会はなかなかないが、本当に仲のいい大切な親友なのだ。主従を超えた関係。深い絆に、温かな気持ちになる。

 そして、ふと、二年前に、エルドウィンと話したことを思い出す。

 立太子式の数日後、側仕えの当番の時だった。初めて見たフェリックスの正装が、あまりに格好よかったものだから、ときめきを共有したくて、うずうずしていたのだ。

「そういえば――エルドウィンも、同じようなことを言ってたわね」

 優しく答える穏和な声が、胸に浮かぶ。

 男らしく、逞しさが強く出やすい他の騎士達にはない、繊細に機微を察して共感する力。ある意味、分野によっては、フェリックスよりも話しやすいかもしれなかった。

「立太子式の夜の祝宴の時、あなたは正装だったでしょう? 二人で、素敵だって話してたの。そうしたら、誰よりも絵になりますよね――って」

 真冬の夕陽に輝く、新緑の瞳。心から、親友を思って語る姿の美しさ。

 感嘆する低い声が、鼓膜を震わす。

「左様でございましたか――」

 紺青の瞳がほのかに潤み、秋の光を反射して煌めく。その深く冴える色を見つめて、穏やかに告げる。

「ねえ、フェリックス。最近は、週に二回しか顔を合わさないけれど、寂しいとは思わないわ。だって、あなたのしてることは、私を守るためだって――信じてるから」

 何かが突然、腑に落ちたように、はっと微かに瞠る紺青の瞳。穏やかで優しい微笑みが、端正な顔立ちに広がる。

「たとえお傍にいられなくても、私の心は常に、殿下とともにございます」

 温かな幸せが、全身を満たす。心から笑んで、いとしい名を呼ぶ。

 礼を言うと、真っ直ぐに見つめて、柔らかい微笑が返ってくる。触れられそうなほど、確固とした絆を感じる。

 侍女がやってきて、夕食の支度が整ったと告げる。立ち上がり、食卓へと足を運ぶ。

 後ろに控えて歩く気配。大丈夫と、言い聞かせる。ヘンリクスの平静な低い声が、頭に響く。

 ――今回は、〈太陽の剣〉の頭領に近づく手駒として、〈花蜂〉を使います。品のない言い方ですが、色仕掛けで情報を引き出そう、ということでございます。男は欲に弱いですからね。美人にねだられれば、大抵のことは喋りますよ。

 ずっと、考えないようにしてきた。自分の他に――自分よりも、深い関係の女人がいると。今までは、ほぼ毎日顔を合わせていたから、意識しないでいられたのに。

 〈仮初めの奥方〉に会えば、ただ情報を得るだけで終わるはずがない。

 フェリックスが調査を始めて二ヵ月。一体、何度――ともに夜を過ごしたのか。

 ぎゅうと、心が締めつけられる。あくまで身体だけだと、気持ちを折り畳む。さざめく心に大丈夫と言い聞かせて、食事に手をつけた。


 低い卓に広げた資料を元に、進捗と成果を報告する。時折頷いて、傾聴する横顔。平静な表情に安堵しながら、どこか不安を感じていた。

 いつもなら、何度も目が合うはずなのに、前室からずっと、全くかすりもしない。

 これまでの言動を繰り返し反芻して、何も不備はないと確かめる。それでも、座る距離の遠さや淡々とした声音といった、普段とは違う態度に、どうしようもなく不安が募った。

 説明し終えると、資料を封筒に入れて渡す。書類に目を落として、礼を言う低い声。鞄に仕舞うと、平坦な調子で言葉を継いだ。

「さて、寝よう。今日はもう遅い」

 立ち上がって背を向け、ベルトをほどく後ろ姿。

 意図がわからず茫然としていると、あっという間に、下着一枚だけになった。流れるように、ソファの肘掛けに置いた寝巻きを着る。

 そして、寝台へと向かうと、横になって布団を被ってしまった。

「……フェリックス……?」

 どうしたらいいか、戸惑って名を呼ぶものの、返事がない。

 仕方なく、寝巻きに着替えると、寝台の壁側の隙間に潜り込んだ。そっと、広い背中に身を寄せる。

 いつもより、熱い体温。緊張して硬くなった筋肉。心配になって起き上がり、顔を覗き込む。

 紺青の瞳と目が合った。しかし、すぐに逸らされる。掠れた低い声が呻く。

「……トリーナ、だめだ……君を見ていると――」

 察して、布団の中に手を伸ばす。激しく熱を帯びて、形を為す身体の芯。どうしようもなく滾る若さが、そこにはあった。

 それなのに、耐え忍ぼうとしたのだ。その理由。苦しさが、心を刺す。

 いとおしむように柔らかく撫でながら、身を添わせて囁く。

「フェリックス――ちょうだい……私は、あなたの〈奥方〉だもの……」

 振り返って、真っ直ぐに見つめる紺青の瞳。震えて漏れる、熱い吐息。それでもなお、ためらい耐える面立ち。

 寝そべって抱きつく。腰を合わせて揺らし、甘く誘う。

「ねえ……欲しいの……」

 途端、組み伏せられて、口づけが落ちる。激しい所作。

 あっという間に下着の紐が解かれて、生身の熱を感じる。擦りつけられて、身体が跳ねる。水音が鳴り、責め立てられて、淡く痙攣した。

 広がっていく感覚。その質量に、息を詰める。苦しくて、涙が滲む。

 きつく抱き締めて、掠れた低い声が、耳元で囁く。

「……トリーナ……すまない……」

 背中にしがみついて、強く首を振る。次の瞬間、高く声を上げた。


 明くる朝、広い背中を見送ったあと、どうしても戻る気になれず、自室で二日過ごした。

 いつものように、マニュルムの検問所を抜け、中央通りを横切って、ウィリアムの家がある街区に到着した。

 ペクニア街で働く人々が多く住む地区。まだ出勤前の時間帯で、金融商人や警備兵の妻達の煮炊きをする煙が、秋の薄青い空に立ち上っていた。

 家に着いて、扉の持ち手を回すと、鍵が開いていた。

 押し開けると、ウィリアムが食卓の椅子に座って、本を片手に喫茶している。造作の鋭い顔に、穏やかな微笑みが浮かぶ。

「おはよう、ケイト。今回は、ずいぶん長かったな」

 何かあったのか、と気遣うように尋ねる声。

 途端、はらはらと涙がこぼれ落ちた。たまらず手で顔を覆う。

 近づく靴音と、そっと肩に手が置かれる感触。抱き締められると察して、顔を上げ、身を(よじ)って躱す。

 驚いたような表情。涙を飲み込んで尋ねた。

「……どうして、痕なんてつけたの?」

 造作の鋭い面立ちが、はっとする。申し訳なさそうに、眉尻が下がる。

「お前を可愛いと思ったからだ。何か揉めたなら、悪かった」

 やはり、他意などなかったのだ。たまたま背中だけについていた。それだけだった。

 唸るような苛立ちが、心を貫く。

 あの時どうして、ウィリアムを庇う言葉を吐いてしまったのか。自分の浅薄さと弱さが嫌になる。

 確かにあの日、フェリックスは最初から様子が違った。それでも、痕跡さえなければ、あれほどのことにはならなかっただろう。

 誘いに乗る直前、ほんの一瞬閃いた、今にも泣きそうな苦悩の表情。紺青の瞳に宿る、強い後悔と自責の念。

 乱暴なんてして、平然といられるような人ではないのに、一番悪い方向へと進んでしまった。苦しさが、心を苛む。

 青緑の双眸を見つめて、静かに告げる。

「もうつけないで。私は、真夜の〈主人〉の〈奥方〉なのよ」

 一瞬の間。瞳の奥に閃く、傷ついたような色。

 微かに唇が震えたあと、真摯な声が言う。

「……わかった。嫌な思いをさせて、悪かった」

 頷くと、荷物ほどきをするべく、二階の寝室へと上がった。

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