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変容①

 口づけの雨が降る。乾いた大きな手が、身体を優しくなぞり、強ばった心を溶かしていく。

 いとしく名を呼ぶ、低く渋い声。鼓膜を震わせる、大人の男の色気。生娘のように恥じらい、温かに包まれる安堵の中、快楽に震えて弾けた。

 全てが甘く柔らかくて、砂糖菓子のような、ゆったりとしたひととき。務めでは味わうことのない、絶頂の余韻に惚けていると、ウィリアムが微笑んで、口づけを落とした。

「綺麗だ、ケイト――ああ、なんて綺麗なんだ……」

 そんなことはないと、ぼんやりした意識の中で思う。

 少し触れられただけで、感じて達してしまう、ふしだらな自分が嫌いだった。

 そう告げる度に、ウィリアムは、気持ち良くなることの何が悪い、女の一番綺麗な姿だ、と言う。俺の手で、良くなってくれていることが嬉しい、と。

 薄明かりの中で、青に緑に移りゆく色。きっと、遠い祖先に、真夜の民が連なっているのだろう。

 より深い紺青が、心に浮かぶ。暗く嗤い、揶揄する低い声。

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

「……ねえ――私……これで、いいの……?」

 青緑の双眸が、緩やかに瞬く。造作の鋭い顔に、優しい笑みが広がる。

「何も、悪いことなどない。俺は幸せだ。お前と、こうして触れ合えて」

 そっと触れる、温かで大きな手。ふんわりと、安心感が全身を満たしていく。

 手を重ね、青緑の双眸を見つめて、微かに頷いた。恥ずかしさに頬が熱くなったが、自分の調子に合わせて進められるのは、本当に有難かった。

 一度、どうしても気持ちが整わずに中止した時、ただ抱き締めて、頭を撫でてくれた。

 謝らなくていい、そういう日もあると囁く、優しい声。

 大切にされるとは、愛されるとは、こういうことなのだと、責め苦の現実と柔らかな温かさとの狭間で、ひたすらに泣いた。

 繋がりながら、ついばむように降る口づけ。互いが溶け合って、馴染むのを待つように、ひとつひとつが、ゆっくりと進んでいく。

 何も怖いことは起きないのだという安心感。抱き締められる、温かな重み。隅々まで丁寧に溶かされて、全てが甘く震える。

 いとしく名を呼ぶ低く渋い声が、耳元で掠れて、鼓膜を撫でる。本当は切実なのだと、気づく瞬間。

 その甘い色気が恥ずかしくて、心地よくて、温かさにくるまれながら、愛される喜びを味わった。


 流れるような斬撃が、美しく弧を描く。踏み出される足は軽やかで、まるで舞踏を踊るように華麗だ。

 早くも、相手が翻弄され始めている。もう終わるだろうと、当然のように思いながら、次の順番を待つ。

 盛秋に開催される、近衛騎士団の合同試合。今日は、その予選だった。

 抽選で対戦相手になったアドルフが、同じように、茫洋と試合を眺めている。

「隊長は……兄上のこと、どう思ってるんですか」

 浮かない顔で問われる。意図が読めず、黙っていると、少しためらってから、言葉を継いだ。

「……時々、思うんです。兄上は……女に生まれた方が、幸せだったんじゃないかって」

 驚いて振り見る。試合を眺めたまま、アドルフが続ける。悲しさと苦しさの混ざった、静かな声音。

「混血の容姿なら、下働きで当主に気に入られて――正式な結婚じゃないけど、そういう道もあったのに」

 本当に、羨ましいくらい仲のいい兄弟だ。同じ宿舎で暮らし、同じ隊で鍛練も職務もともにしてきた。きっと、どこかで気づいたのだろう。自分と同じように。

「どっちが、幸せなんでしょうね」

「……わからない……」

 緩やかに首を振る。

 たとえそうだとして、はたして愛情を結べるだろうか。ただの慰み者に貶めるような愚行はしないが、結局は私的な関係だ。そこに未来はない。

 エルドウィンが、決めの一撃に入る。

 その流麗で優美な所作。自分にはない性質。どこまでも心優しく、穏やかな親友。何度、助けられたことだろう。

「ただ――幸せになってほしい。それが、どんな形でも」

 真摯な心をこめて告げる。温かに微笑んだ若緑の瞳が、秋の柔らかな光に輝く。

「ありがとうございます。ずっと――兄上と、友人でいてくださって」

 隔たりなどいらないと願い、ともに過ごしてきた日々。大切で、かけがえのない日々。

「これからもずっと、エルドは俺の大切な親友だ」

 試合が終わり、健闘を称える穏和な笑顔。いつもの表情。

 こちらに気づいて、嬉しそうに笑いかけてくる。手を振って応える。いつもの日常。何も、変わらない。

 来月、エルドウィンは結婚する。直系嫡子として、子を為し、次に繋いでいく。ごく当たり前の営みだが、親友の本心を思うと、切なかった。


 樹々が色づき、常緑樹の緑が、一際目立つようになる秋の盛り。

 窓から差し込む柔らかな光が、がらんとした親友の部屋を淡く照らす。爽やかな朝の光の中で、ゆっくりと埃が舞う様を、見るともなしに眺める。

 隣に立つ、親友の姿。もう、この部屋の扉を叩いても、出迎える笑顔は見られないのだ。心が、しくしくと痛んだ。

「……寂しくなるな」

 騎士見習いでは大部屋、従騎士では相部屋、叙任してからは隣の部屋で、かれこれ十四年、ともに暮らしてきた。これからは、職務以外で顔を合わせる機会は、格段に減る。

 親友の新たな門出だというのに、どうしても素直に喜べない自分がいる。荷物が片付けられ、やけに広々とした部屋が、さらに駄々をこねる気持ちを強めてしまう。

「……そうだね……」

 ぽつりと呟く、親友の声。しかし、すぐに明るい口調が告げる。

「でも、ただ引っ越すだけだから。呑む日数が、少し減るだけだよ」

 まるで、自らに言い聞かせるような声音。そっと、親友を見遣る。

 真っ直ぐ、何もない白い壁を見つめる横顔。何かを決意した色に、焦がれる思いを告げずに去るのだと悟る。

 本当にそれでいいのかと、哀しみが閃く。あえて、不機嫌な調子で返す。

「……俺は、嫌だな。ずっと一緒だったのに。お前は、違うのか」

「フェリックス……」

 困ったように、眉根が寄る。じっと、新緑の瞳を見つめる。

 おもむろに涙が滲み、一筋、頬を伝う。はっとして俯く、秀麗な顔。こらえて震える声が落ちる。

「……僕、だって……」

 板張りの床に、ぱたぱたと雫が降る。口元を押さえた手から、澄んだ声が切なく告げる。

「僕だって、ずっと隣にいたい……! でも、君はっ……僕は……!」

 苦しさに喘ぎながら、嗚咽が漏れる。痛みが鋭く、心を射す。

 たとえ男女だったとしても、真夜と真昼では、決して結婚はできない。

 叶うことのない思い。それでも、紡いできた絆は、そこに向ける心は、同じだと、確かに信じていた。

 そっと、手に触れて繋ぐ。驚いて振り仰ぐ顔。柔らかく、懐かしむように微笑む。

「子供の頃、こうしてよく手を繋いだな」

 はしゃいで駆けゆく時、つらくて泣いている時、夕暮れを見ながら、歩いて帰る時――いつだって、隣にいた。

「あの日から、もう十五年か――早いものだな」

 綺麗な顔に驚いて、滑らかな口上にまた唖然として。まだほんの子供だったのに、今でも鮮明に覚えている。

 その、気遣わしげな顔。嬉しそうに笑う、愛らしい顔。

「主従に関係なく、心から心配してくれた。好きだな、友達になりたいなって、思ったよ」

 両親を突然亡くし、わけのわからないまま、状況を受け入れざるを得なかった。孤独で、寂しくてたまらなかった。

 そんな中、ただ直向きに自分を見て、へつらいなく接してくれた。いつも気にかけて、苦しい時には傍にいてくれた。嬉しい時は、ともに笑ってくれた。

 子供時代を、少年時代を、そして今を――ずっと過ごしてきた。隣にいるのが当たり前のように、ずっと一緒だった。

「エルド。お前は、俺にとって、かけがえのない存在だ。親友という言葉では、言い尽くせないほど。それは、この先もずっと――生涯変わらない」

 美しい新緑の瞳から、涙が伝う。苦しくて、哀しくて、切ない、温かな涙。

 視線を外して正面を向き、あえて景気よく言う。

「歌でも歌うか!」

「音痴なのに?」

「うるさい。結婚祝いだ。受け取れ」

 友の門出を祝い、行く末の幸せを願う歌。音律も何もない調子に吹き出す。

「やっぱり、下手、……――っ」

 新緑の瞳から、涙が溢れる。目に拳を当てて、しゃくり上げる。繋いだ手の温かさ。秋の陽光に照らされた明るい部屋に、調子外れの歌が響く。

 静かに、緩やかに、時が流れていった。


 爽やかな秋晴れの日、エルドウィンの結婚式が挙行された。

 直系の次代当主が花婿とあって、最高級の道具類が揃えられた。眩い金色の光が燦々と輝いて、御堂に会する人々を包み込んだ。

 誓いを立てる、花婿と花嫁。真昼の新緑の正装を纏った秀麗な佇まいと、親友の言葉通り、小鳥のような可愛らしい容貌は、一幅の絵画のようだった。

 そこに、わざと汚したしみのように、ワルターの姿が際立って見えた。

 トリーナの調査で、〈太陽の剣〉との繋がりを示す間接的な証拠が上がってきている。あと一息で、確証が掴めそうな状況だ。

 アメリアとイドニア――二人のためにも、思いとどまってくれと切に願う。そして、親友が、哀しみに沈むことのないようにと、心から祈った。

 式のあとの食事で、主家それぞれの次代当主として、ユリウスと向かい合って座ることになった。

 嫌な相手との会話は聞き役に徹する、という親友の有難い助言を実行して、なんとかやり過ごした。ただ、正面から相対する中で、気がかりなことがあった。

 激しい増悪と殺意が閃く、群青の瞳。長年の因縁はあっても、そこまでの強烈な感情を向けられたことは、今までなかった。

 不穏な変化と予感。心に留めておこうと思いながら、食事を終えた。


 御堂のあるカンチェラリウス家の敷地から、フォルティス家へと戻る馬車が、王殿の裏手の小道をゆっくりと進んでいく。

 小さな窓から覗く、真っ赤に燃える秋の森の景色。少し先を行けば、王家の墓に続く通りに行き当たる。豊かな森は、王殿と墓を区切る境界線だった。

 物言わぬ彫像を、横目で見遣る。瞼は閉じているが、寝ている気配はなかった。顔を向けて、静かに問う。

「……父上。俺は……いつ、妻をもらえるのですか」

 人々の目に浮かぶ、不審の色。五歳下のユリウスと比較されて、今日はよけいに視線が痛かった。

 とうに一般的な婚期を逸していると、伯父がわからないはずがない。結婚を盾に、状況が変わらないかと淡く願う。

 おもむろに瞼が開き、群青が現れる。感情のない色。淡々と、重低音が答える。

「〈黄色の者達〉の調査は済んだのか」

「いえ、まだです」

 短く答えて、すかさず次の言葉を継ぐ。強い口調で訴える。

「ですが、俺はもう、来年には二十五歳になります。普通なら、結婚して、子が一人いても、おかしくありません。嫡子の務めを果たして、父上には、安心して代替わりを――」

 言い差して、はたと止まる。まるで陽炎(かげろう)のように、獰猛な獣の気配が立ち上り、揺らめいていた。

 心が戦慄く。鼓動が早鐘を打ち、呼吸が浅く、速くなる。馬車の中なのだからと思っても、手の震えが止まらない。

 視界が滲む。心が裂けていく。何か正しいことを言わなければ、喉笛を噛み千切られる。

 もう目前に、巨大な獣は、迫っているのだから。

 と、馬車が揺れて、左に身体が振れる。

 フォルティス家の敷地に入る曲がり角。生唾を飲み込んで、言葉を押し出した。

「……余計な口出しでした。やるべきことをやります」

 えらの張った顎が、微かに頷く。そして、群青の双眸が閉じられ、静かな彫像へと戻った。


 宿舎に着いた途端、早足で自室を目指した。

 ようやくたどり着き、鍵を開けて部屋に入ると、礼服を脱いで放った。私服に着替えて、廊下に出る。隣の部屋の扉を叩きかけて、止まる。

 名札の外された、扉の横の壁。部屋番号だけが、やけに鮮烈に目に突き刺さる。親友はもう、ここにはいないのだ、という実感が、沸々と湧いてくる。

 途端、半身を無理矢理引き剥がされたような、鋭い痛みが心を貫く。置いていかれたと、激しい喪失感が全てを覆う。

 赤々と燃え盛る家。大切な人を喪う恐ろしさを、寄る辺ない心細さを、穏やかに温めて埋めてくれた日溜まり。

 ずっと明るく輝いて、隣にいたのに。

 裂けたままの心。留める手もなく弾け飛んで、暗い淵に落ちた。


 はたきで棚を掃除していると、ふと、暦紙が目に入る。

 マニュルムから戻って、もう五日が経っていた。そろそろ帰って、フェリックスから手紙が来ていないか、確認しなければならない。今日は夜勤だから、自室で寝て、明け方に出れば、帰りに間に合う。

 手早く残りの掃除を片付けると、前掛けを取って、二階の寝室へと上がった。

 小さな鏡に映して髪をほどき、下げ髪に結い直す。いつもの揃えを鞄にまとめて、書き置きをした。

 扉の持ち手を引き、鍵がかかっていることを確かめる。忘れ物がないか、反芻して頷く。

 秋の涼しい風が吹く中、恋慕う人の手紙を楽しみに、館を目指した。

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