表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/69

〈花蜂〉の罠②

 明けた朝、見慣れない部屋に一瞬混乱して、背後で身じろぐ気配に、そういえばと思い出す。

 ゆっくりと振り返ると、薄く開いた瞼から、青緑が覗いていた。おもむろに瞬いて、その色と目が合う。穏やかで柔らかな微笑みが、鋭い造作の顔立ちに浮かぶ。

「おはよう。よく眠れたか?」

 頷いて、挨拶を返す。そっと触れ合うだけの口づけ。薄く感じる朝の反応に、心が身構える。いつ触れられてもいいように、次の行動を見つめる。

 ところが、予想に反して、青緑の双眸が、うつらうつらし始めた。淡い苦笑が漏れる。

「ああ――もう、歳だな。少し頑張っただけで、こんなに眠いとは」

 のんびりとした欠伸(あくび)

 どうしたらいいかわからなくて戸惑う。そっと、髪が撫でられる。

「無理に触ったりしなくていい。お前がそうしたいなら、俺も頑張るが」

 静かに首を振る。

 もともと行為自体、好きではないのだ。しかも、〈主人〉以外となれば、なおさらである。避けられるなら、避けたかった。

 不快に思うかもしれないと案じたが、ウィリアムは頷いただけだった。そして、微睡みながら、言葉を継いだ。

「今日は夜勤だから、まだ時間はある。俺はもう少し寝るから、好きに過ごしていてくれ」

 おもむろに、青緑が消える。静かな寝息。

 帰ろうかとも思ったが、なぜかそんな気になれなくて、そっと瞼を閉じた。


 再び目を覚ました時には、窓掛けの隙間から差し込む光が、だいぶ明るくなっていた。身を起こすと、隣で淡く唸る声がした。眩しそうに、青緑の双眸が瞬く。

「ごめんなさい。起こしてしまったかしら」

「ああ……いや、さすがに起きないとな」

 大きな欠伸をしながら、伸びをする姿。〈主人〉達には見られない、ゆったりとした振る舞いに、年輪を重ねた男の余裕を感じる。

「……しまったな。何もないんだった」

 尋ねると、食料と返ってくる。家に食べ物がないなんてと戸惑う。苦笑する声が話す。

「出勤前に、近所の食堂に寄るんだ。外の席で食べると、よけいにうまくてな」

 そうだ、と呟いて、ウィリアムが起き上がる。

 窓掛けの隙間から入る昼の光に、青緑の双眸が輝いて、変化していく。穏やかに微笑んで言う。

「せっかくだから、食べに行かないか。あそこは、昼の定食もうまいんだ」

 一瞬、逡巡する。

 受け持つ子息は、もうフェリックスだけだ。約束も、まだない。急いで帰る必要はなかった。そして帰れば、体調不良で休んだ〈奥方〉の代わりに、子息の相手をするのだ。

 青緑の双眸を見つめる。それなら、ウィリアムの方がいい、という思いが閃く。

 自分の心に戸惑ったが、さらに仲を深めて、情報を引き出す好機なのだからと、言い訳する。

「行きたいわ。もうお腹が空いて、仕方ないもの」

 造作の鋭い顔に、淡く微笑みが浮かぶ。青緑の双眸に灯る嬉しさ。表情が、はっきりと変わることがないのに、心の機微の細やかな面立ち。

 節のしっかりした長い指が、そっと頬に触れる。柔らかな口づけ。甘く食まれて、事の始まりかと思ったが、するりと離れて、告げられる。

「――さあ、支度をしよう」

 頷くと、ウィリアムは手早く服を着て、水を汲んでくると言い、寝室を出た。その後ろ姿を、茫然と見送る。

 あっさりと、呆気なく始まる一日。何かにつけて、事を予感し、身構えてしまう心の癖。〈主人〉と〈奥方〉と呼びながら、暮らしのない関係。

 目をそむけ続けてきたつらい現実に、沈む思いで、支度にかかった。


 食堂は、ウィリアムの自宅のある街区と、ペクニア街の境にあった。昼の休憩時で、多くの金融商人や警備兵で賑わっている。

 ウィリアムの勧めた通り、外の席に座る。

 初秋の薄青い空の広がる、気持ちのいい天気。献立表を眺めていると、男の野太い声がかかった。店員なのだろう。でっぷりとした体躯に、前掛けを着けている。

「よう、ウィリアムじゃねえか。今日はまた、えらい美人を連れてるなあ」

 どことなく、不審に思う視線。

 この歳で、未婚の下げ髪は目立つから、未亡人の結い上げ髪にしたが、おかしなところでもあったかと、少し不安になる。

「ああ、親父さん。ずっと結婚しようと言ってたんですが、昨日やっと、首を縦に振ってくれましてね。これから、届けを出しに行くんです」

 ウィリアムの心から嬉しそうな返答に、納得した表情が浮かぶ。にこにことした丸い顔で、大きな声が笑う。

「おお、そうかそうか! そりゃ、めでたいなあ。でも、変わらずうちには通ってくれよ」

「もちろんです。ただ、朝は妻の料理を食べたいので、そこは勘弁してください」

 ウィリアムは、おどけて言うと、注文を始めた。決めかねていたので慌てる。結局、おすすめを尋ねて、鶏肉と野菜の煮込みにした。

 確かに、勧めるだけあって、どの料理も、とても美味しかった。特に、主菜の煮込みは、鶏肉を口に入れた瞬間、ほろほろと溶けて、絶品だった。

 ただ、副菜と合わせると、かなりの量で、全部は食べきれなかった。

 どの食材も、神の生み出した命だ。残すのは憚られる。かといって、かなり頑張って食べたので、もう腹が膨れて限界だった。

 困っていると、煮込みの深皿が、ひょいと取り上げられる。ウィリアムが、気遣うように優しく告げる。

「やっぱり、多かったな。俺が食べよう」

「でも……」

 食べかけの皿。家族でもないのにと、申し訳なく思う。しかし、ウィリアムは全く気にするふうもなく、匙ですくって食べている。

 困惑して、造作の鋭い顔を見つめていると、不意に、含みのある笑みが浮かぶ。

「ケイト――今さらだ」

 途端、揺らめくように、色気が立ち上る。大人の男の、余裕のある香り。羞恥に、急激に頬が熱くなる。

 昨夜までは、手玉に取っていたはずなのに、自分の心がわからなかった。

 何も言えずに縮こまっていると、あっという間に、皿が空になり、

「――ああ、うまかった。やっぱり、ここの煮込みは最高だ」

 と、水を飲んで、息をついた。そして、伝票とともに、ばねつきの板に代金を挟み込む。

 少し多い金額。それなのに、ウィリアムは立ち上がって、行こうか、と言った。じろじろ見るものではないと思っても、釣り銭はいいのかと、気になってしまう。

 すると、気づいて、穏やかな声が語った。

「次来た時に、おかずが一品増えたり、飲み物をつけてくれたりするんだ。馴染みならではだな」

 なるほどと思う。品数が、他の席より多い気がしたのも、そのせいかもしれない。

 代金を置いたまま、立ち去ろうとするので、心配していたら、こんな警備兵がうようよいるところで、盗みをする馬鹿はいない、と穏和な声に諭された。


 帰りがけ、市場に寄って、食材を買った。

 金融商人の警備兵士長と〈太陽の剣〉の頭領をやっているだけあって、ウィリアムは顔が広く、度々声をかけられた。その度に、店で話したことと、同じ話をした。

 こんなに触れ回ったら、あとで困るのではと思ったものの、あまりにも嬉しそうに話すものだから、体裁だけでなく、否定してはいけないような気になっていった。

 大量の荷物を抱えて家に着き、小さな食料庫や貯蔵棚に収める。茶を淹れて、市場で買った菓子で休憩する中、ふと、ウィリアムが真剣な口調で言った。

「どうせなら、一緒に暮らさないか」

 驚いて、顔を上げる。真摯な光を宿す青緑の双眸に、思わず返事をためらう。

 そもそもの目的が果たせるのだから、またとない好機だ。しかし、ウィリアムは、自分が何のために近づいたのか、気づいている。そしてきっと、恋慕う人がいることも。

 口をつけかけていた茶器を下ろす。動揺する心に戸惑った。今すぐ微笑んで、嬉しいと、承諾しなければいけないのに。

 問うように、青緑の双眸をじっと見つめる。ふっと顔が綻んで、優しい笑みを湛える。

「惚れた女と一緒にいたい。それだけじゃ、だめか?」

 鼓動が跳ねる。決して好意を伝えてはいけない、という〈教え〉。

 〈奥方〉になってから、可愛いと、綺麗だと、〈主人〉達に言われ続けてきた。しかし、好きだとは、ついぞ告げられなかった。

 照れながら、明るく笑う紺青の瞳が浮かぶ。まだ小さな子供だった頃の、満月の夜。

 ――トリーナ、大すきだよ。大きくなったら、おれのおよめさんになってほしいんだ。

 あれが、最後だった。再会した夜には、何も言ってくれなかった。そして、縋るように約束した。

 それでも結局は、恋しい人の心は、他のところにあるのだ。もうずっと、あの初夜の前から、きっと。

 はらはらと、涙がこぼれ落ちる。つらくて苦しくて、会いたくてたまらなかった。

 涙を飲み込んで抑えようとして、口元に手を当てる。すると、長い指先が、そっと優しく、雫をすくい上げていく。穏やかな声が語る。

「ケイト。同じ気持ちでいてくれとは言わない。お前には、お前の事情があるだろう。ただこの家で、一緒に時を過ごしてほしい――それだけだ」

「……わけが、わからないわ……そんな……そんなことっ……」

 たまらずしゃくり上げて泣く。

 ただ一緒にいてほしいと乞われる。そんなことが、あるのだろうか。自分は、男の欲を受け止めるためにつくられた、淫らな器なのに。

 骨のごつごつした手が触れて、繋がる。初秋の午後の陽光に移ろう、青緑の双眸。その色合いに反する、誠実な眼差し。

「わからなくていい。俺の傍に……いてくれるか?」

 嗚咽で言葉にならず、かろうじて頷く。繋いだ手を包み込むように、手が重なる。穏やかで、幸せに満ちた微笑みが、歳月で磨かれた面立ちに広がる。

「ありがとう、ケイト。大切にすると、約束しよう」

 優しい声に、これ以上ないほどの安堵感が、心に満ちた。


 気持ちの落ち着いたあと、必要なことを話し合った。

 結婚していない男女が、ひとつ屋根の下で暮らすとなれば、駆け落ちではなどと、悪い噂が立ちかねない。周囲には、ウィリアムが話した通り、再婚同士の夫婦だと、説明することにした。

 添い遂げることを神に誓えるのは一度きりだから、再婚なら、式を挙げなくても不審に思われない。ただ自分が髪覆いをつけて、既婚の装いをすればいいだけだ。

 そして、不審に思われないよう、気をつけさえすれば、いつでもマニュルムに帰っていいと、ウィリアムは言った。さすがに都合がよすぎると、困惑していると、

「無理をされるのは本意じゃない。俺も、仕事で家を空けることが多いから、気にしなくていい」

 と、あっさりと告げられて、できる限り家にいて、出迎えようと思った。

 至れり尽くせりで不思議な心地の中、夕方に、夜勤に出るウィリアムを見送った。そして、結い上げた髪をほどき、未婚の下げ髪に戻して、家を出発した。

 この時期は、夜になると、もうずいぶんと寒い。髪と首飾りを襟巻きで隠して、マニュルムの検問所を目指して歩いた。

 外の辻馬車は稀に、金銭など様々な目的で、人を襲う悪質な馭者がいるから、女一人では乗れない。

 それでも、夜の戸張が下りて、暗くなっていく馴染みのない街区を一人歩いていると、通りがかる馬車に、声をかけたい衝動に駆られる。

 そんな最中、警邏の兵士に、無許可の街娼に間違われて、尋問を受けた。

 首飾りを見せると、恭しく礼をして、護衛を申し出てくれた。ほっとひと安心し、有難く頼む。

 途中、引き継ぎを挟みながら、ようやく検問所にたどり着いたのは、すっかり夜が深まった頃だった。石積みの壁の向こうでは、灯りが煌々と輝き、賑やかな笑い声が響いている。

 護衛を買ってくれた兵士に礼を言い、列に並ぶ。ちょうど知人が前にいて、談笑しながら、順番を待った。

 館に着いて早々に、館主に事情を話し、外で暮らす許しを得た。

 母は、かなり心配したが、優しい人だからと言うと、少しばかり表情を緩めた。それでも、不安そうな母を抱き締めて、心強く告げた。

「主家様に〈花蜂〉に選んでいただけるなんて、こんな機会は滅多にないわ。だから、後悔したくないの。私は大丈夫よ、お母さん」

「そうだね。でも、トリーナ――お前の無事が、一番だからね」

 母の柔らかな肩の上で、しっかりと頷く。

 優しく頭を撫でる、温かな細い手。おやすみの口づけを頬に受けて返す。安心感に包まれて、執務室を辞した。

 自室に戻ると、扉の持ち手に、手紙を入れる小さな袋がかけてあった。差出人には、総帥次代、と力強い闊達な手蹟。

 飛び上がる心を抑えて部屋に入り、丁寧に封を切る。

 手紙には、来週訪ねると、書かれていた。一週間後に会えるのだ。嬉しくてたまらなくて、たった数行を、何度も眺めた。

 弾む気持ちで、入浴を済ませて寝巻きに着替えると、文字通り夢心地で、眠りについた。


 早朝、夜の喧騒が嘘のように静かな街を出て、ウィリアムの家に戻った。渡された合鍵で入り、帰りを待ちながら、家事をこなした。

 二階の掃除をしていると、扉の開く音がして、急いで階下に向かう。

 こちらに気づいて、いささか驚く姿。微笑んで出迎える。

「おかえりなさい」

「ああ――ただいま」

 思い出したように、はっとしてからの返事。おもむろに、造作の鋭い顔に喜色が広がる。

 掃除道具を置いて、前掛けで手を拭いながら近づくと、不意に抱き締められた。

 唐突にそんなことをするのは初めてだったから、戸惑って固まる。耳元で、嬉しさに満ちた声が響く。

「まさか! ああ、まさかな! お前がいるとは」

 切なさが、心を貫く。

 他意のない、真っ直ぐな思い。余裕だと感じる裏に隠れていた不安。

 そっと、腕を背中に回す。すると、口づけが落ち、唇を食まれる。まるで確かめるように、激しい所作。合わさる腰に熱を感じて、思わず声を上げる。

「……っだめ! 掃除していて、汚れているのっ……だから……!」

 おもむろに、顔が遠ざかる。薄く開いた唇から、熱く溜め息が漏れる。しかし、声は平静で、穏やかだった。

「――そうか。じゃあ、今夜の楽しみにしておこう」

 微笑んで、するりと離れる。呆気に取られていると、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

「歳を重ねると、引いた方が、有利になる時があると学ぶ。若造には、難しいだろうな」

 造作の鋭い顔に、余裕のある大人の男の色気が漂う。今夜はどうなってしまうのだろうと、妙に意識して、鼓動が早くなる。

 恥ずかしくて俯いていると、穏やかな声がかかる。

「腹が減ったな。何か、作ってくれるか?」

 はっとして返事をし、食べたいものを尋ねる。軽食でいいと言うので、火を使わないで、手早くできる献立で出してみた。

 ただ具材を切って、パンで挟んだだけなのに、

「うまかった。ありがとう」

 と、優しく微笑まれて、ささやかながら、温かな幸せを感じた。


 一週間後、館に帰って、フェリックスを迎えた。前室で顔を合わせて開口一番、柔らかな笑顔が告げた。

「なかなか来られなくて、すまなかったな」

 抱き締めて見つめる、紺青の瞳。恋慕う思いが溢れ出す。口づけを交わし、広く逞しい胸の中で、少し高い体温を感じた。

 それから部屋に入り、ソファに座って、この三週間余りの成果を報告した。

 主に、ウィリアムの身の上話と、女達の集会で耳にした一週間分の話を中心に、手紙には書ききれなかったことも含めて、事細かに伝えた。

 話が終わると、大きな溜め息が漏れた。

「なるほどな。そういう繋がりだったか――当主の名は、わからないんだな?」

「何度か、聞いてみたけれど……」

 緩やかに、首を振る。

 尋ねれば、大抵のことは答えてくれるものの、それだけは頑なに喋らず、いつもはぐらかされた。

 それでも、と思う。話していないことは多いだろうが、その誠実な口振りから、偽りはないと、ひしひしと伝わってきた。

「まだ証拠を見つけていないから、断言はできないけれど……嘘はついていないと思うわ」

 ここ一週間の日々が去来する。驚くほどに、平穏な日常を過ごした。

 事あるごとに、ウィリアムは礼を言って褒めた。生活のことで、嫌だな、と密かに思っていると、(さと)く気づいて謝り、同じことは繰り返さなかった。

 そして、優しく丁寧な触れ合い。務めではなく、愛されて、大切に抱かれる温かさ。

 ともに暮らして初めて、ただ語らって、眠りにつく夜があるのだと知った。

 留め具をかけ違えなければ、きっと平凡な――しかし、幸せに満ちた生を歩めたはずだろうに。

 視線を感じて、紺青の瞳を見つめる。感情の凪いだ色に、言いようのない不安を覚える。

「……ずいぶん、信用しているんだな」

 どこか、むっとした言い方。もしかしてと、さざめく予感に怯えながら、それでも言葉を継ぐ。

「本当に、ごく普通の人だもの。拍子抜けするくらい、優しくて、気遣いのある人だから」

「それはよかったな。普段は気遣いのない奴が相手で、苦労している分、報われただろう」

 棘のある声。どこで間違ったのかと反芻して、何も誤りはないはずだと、思い直す。

 それでも、せっかく久しぶりに会えたのだ。平穏に過ごしたかった。そっと尋ねる。

「ねえ、どうしたの……?」

「……別に。優しい男と寝られて、よかったな」

 息が詰まる。返す言葉が見つからず、押し黙る。

 そんなことは、微塵も思っていないと、わかっているはずなのに。

 そもそも〈花蜂〉は、情交による調査対象の籠絡を目的に、主家が利用する制度だ。戸惑って、混乱する。

 苛立ちの炎の揺らめく、紺青の瞳。よく知った色に、思わず身を引く。恐怖に心が戦慄いた。必死に訴える。

「フェリックス。私はあなたの〈奥方〉で、それは、どんなことがあっても変わらないわ。今回のことは、情報を引き出すためよ。あなたを裏切る心で、関係を持ったわけじゃないわ」

「……そうだな」

 重く、低い声。息を詰めて、挙動を見守る。

 永遠に思える間のあと、深い溜め息が、長く吐かれる。

「――ああ、そうだろうな」

 眉間に強く、しわの寄った横顔。理性と感情が、せめぎ合うかのような。

 どちらに傾くか。苛立ちが爆発すれば、確実につらい思いをすることになる。しかも、それは、慕う心から来る嫉妬ではないのだ。固唾を呑んで見守る。

 不意に、こちらを向く顔。その冷たい色。淡々とした声が命じる。

「灯り油を増やして。そこで脱いで」

 対面の壁に備えつけられた灯り。硝子の覆いに触れないよう気をつけながら、つまみをゆっくり捻る。

 染み出す油の量が、徐々に増えていく。小さな炎が一気に大きくなり、あたりが明るくなった。意図を悟って、強い羞恥に、逃げ出たい気持ちに駆られる。

 しかし、拒絶は許されない。それが、約束なのだから。

 正面を向き、上衣の留め具を外していく。幅広の帯を解けば、さらりと床に落ちた。

 内着の胸元の紐を緩めて、ゆっくりと下げていく。下着だけの姿になり、そっと様子を窺う。

 一片の感情もない紺青の瞳。冷淡な色に涙を飲み込んで、下着の留め具と紐に手をかける。

 全てが露になった姿を、灯火が容赦なく明るく照らす。紺青の視線が、全身に突き刺さる。欲に溺れない淡々とした目が、よけいに羞恥心を煽った。

 どれくらい、そうしていただろう。フェリックスが、おもむろに立ち上がる。

 思わず後ずさって、背中が壁につく。手首を一纏めに縫いとめられ、一方の手が、脚の中心に伸びる。静寂に、水音が響いた。

 薄い微笑。その、色香の匂う表情。卑猥に揶揄されるよりもずっと、恥辱が増した。

 唇を味わうように、じっくり食まれる。戦慄く脚で必死に身体を支えて、されるがままに、意識を弾けさせた。


 結局、恐れていたような、つらい思いをすることはなかった。むしろ、丁寧で濃密な愛撫に、甘い眩暈がした。

 ただそれは、検分し、所有物として塗り直すための作業だと、ひしひしと伝わってきたから、心が幸福に満たされることはなかった。

 明けた朝は一転して、とろけるほどに優しかったものの、もう以前のように、甘受できなくなっていた。

 無意識に、切なく苦しく呟いた名――王太女の名。

 家を継ぐべきフォルティス家の嫡子として、結婚は避けられない。そして、いずれは他人の妻になるその人に仕え続ける。それは、どれほどに深い心だろう。

 ずっと不思議だった。成人して七年経っても、なぜ結婚しないままなのか。愛するその人のためなのか――それとも、他にどうにもならない事情があるのか。

 もし、任期明けまで知らずにいられたら、長い付き合いを素直に喜べたのに。

 優しさは偽りではなくなり、真実として、虚像に注がれるようになった。したいと願ってやまないことを、自分を通して叶えているのだ。それは、ただ偽りにくるまれて抱かれるより、ずっとつらく、空しいものだった。

 そして、本来の姿をしっかり見つめるのは、捌け口にする時だけになった。

 嗜虐的で卑猥な揶揄。恥辱をねぶって、いたぶる静かな暴力。それでも、この繋がりしか、自分には縋る(すべ)がないのだ。

()らないで……私の居場所を……奪わないで……お願い……)

 窓掛けの隙間から差し込む朝日に、淡く照らされた薄暗い天井。広い背中にしがみついて受け止めながら、ただひたすらに乞うた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ