〈花蜂〉の罠②
明けた朝、見慣れない部屋に一瞬混乱して、背後で身じろぐ気配に、そういえばと思い出す。
ゆっくりと振り返ると、薄く開いた瞼から、青緑が覗いていた。おもむろに瞬いて、その色と目が合う。穏やかで柔らかな微笑みが、鋭い造作の顔立ちに浮かぶ。
「おはよう。よく眠れたか?」
頷いて、挨拶を返す。そっと触れ合うだけの口づけ。薄く感じる朝の反応に、心が身構える。いつ触れられてもいいように、次の行動を見つめる。
ところが、予想に反して、青緑の双眸が、うつらうつらし始めた。淡い苦笑が漏れる。
「ああ――もう、歳だな。少し頑張っただけで、こんなに眠いとは」
のんびりとした欠伸。
どうしたらいいかわからなくて戸惑う。そっと、髪が撫でられる。
「無理に触ったりしなくていい。お前がそうしたいなら、俺も頑張るが」
静かに首を振る。
もともと行為自体、好きではないのだ。しかも、〈主人〉以外となれば、なおさらである。避けられるなら、避けたかった。
不快に思うかもしれないと案じたが、ウィリアムは頷いただけだった。そして、微睡みながら、言葉を継いだ。
「今日は夜勤だから、まだ時間はある。俺はもう少し寝るから、好きに過ごしていてくれ」
おもむろに、青緑が消える。静かな寝息。
帰ろうかとも思ったが、なぜかそんな気になれなくて、そっと瞼を閉じた。
再び目を覚ました時には、窓掛けの隙間から差し込む光が、だいぶ明るくなっていた。身を起こすと、隣で淡く唸る声がした。眩しそうに、青緑の双眸が瞬く。
「ごめんなさい。起こしてしまったかしら」
「ああ……いや、さすがに起きないとな」
大きな欠伸をしながら、伸びをする姿。〈主人〉達には見られない、ゆったりとした振る舞いに、年輪を重ねた男の余裕を感じる。
「……しまったな。何もないんだった」
尋ねると、食料と返ってくる。家に食べ物がないなんてと戸惑う。苦笑する声が話す。
「出勤前に、近所の食堂に寄るんだ。外の席で食べると、よけいにうまくてな」
そうだ、と呟いて、ウィリアムが起き上がる。
窓掛けの隙間から入る昼の光に、青緑の双眸が輝いて、変化していく。穏やかに微笑んで言う。
「せっかくだから、食べに行かないか。あそこは、昼の定食もうまいんだ」
一瞬、逡巡する。
受け持つ子息は、もうフェリックスだけだ。約束も、まだない。急いで帰る必要はなかった。そして帰れば、体調不良で休んだ〈奥方〉の代わりに、子息の相手をするのだ。
青緑の双眸を見つめる。それなら、ウィリアムの方がいい、という思いが閃く。
自分の心に戸惑ったが、さらに仲を深めて、情報を引き出す好機なのだからと、言い訳する。
「行きたいわ。もうお腹が空いて、仕方ないもの」
造作の鋭い顔に、淡く微笑みが浮かぶ。青緑の双眸に灯る嬉しさ。表情が、はっきりと変わることがないのに、心の機微の細やかな面立ち。
節のしっかりした長い指が、そっと頬に触れる。柔らかな口づけ。甘く食まれて、事の始まりかと思ったが、するりと離れて、告げられる。
「――さあ、支度をしよう」
頷くと、ウィリアムは手早く服を着て、水を汲んでくると言い、寝室を出た。その後ろ姿を、茫然と見送る。
あっさりと、呆気なく始まる一日。何かにつけて、事を予感し、身構えてしまう心の癖。〈主人〉と〈奥方〉と呼びながら、暮らしのない関係。
目をそむけ続けてきたつらい現実に、沈む思いで、支度にかかった。
食堂は、ウィリアムの自宅のある街区と、ペクニア街の境にあった。昼の休憩時で、多くの金融商人や警備兵で賑わっている。
ウィリアムの勧めた通り、外の席に座る。
初秋の薄青い空の広がる、気持ちのいい天気。献立表を眺めていると、男の野太い声がかかった。店員なのだろう。でっぷりとした体躯に、前掛けを着けている。
「よう、ウィリアムじゃねえか。今日はまた、えらい美人を連れてるなあ」
どことなく、不審に思う視線。
この歳で、未婚の下げ髪は目立つから、未亡人の結い上げ髪にしたが、おかしなところでもあったかと、少し不安になる。
「ああ、親父さん。ずっと結婚しようと言ってたんですが、昨日やっと、首を縦に振ってくれましてね。これから、届けを出しに行くんです」
ウィリアムの心から嬉しそうな返答に、納得した表情が浮かぶ。にこにことした丸い顔で、大きな声が笑う。
「おお、そうかそうか! そりゃ、めでたいなあ。でも、変わらずうちには通ってくれよ」
「もちろんです。ただ、朝は妻の料理を食べたいので、そこは勘弁してください」
ウィリアムは、おどけて言うと、注文を始めた。決めかねていたので慌てる。結局、おすすめを尋ねて、鶏肉と野菜の煮込みにした。
確かに、勧めるだけあって、どの料理も、とても美味しかった。特に、主菜の煮込みは、鶏肉を口に入れた瞬間、ほろほろと溶けて、絶品だった。
ただ、副菜と合わせると、かなりの量で、全部は食べきれなかった。
どの食材も、神の生み出した命だ。残すのは憚られる。かといって、かなり頑張って食べたので、もう腹が膨れて限界だった。
困っていると、煮込みの深皿が、ひょいと取り上げられる。ウィリアムが、気遣うように優しく告げる。
「やっぱり、多かったな。俺が食べよう」
「でも……」
食べかけの皿。家族でもないのにと、申し訳なく思う。しかし、ウィリアムは全く気にするふうもなく、匙ですくって食べている。
困惑して、造作の鋭い顔を見つめていると、不意に、含みのある笑みが浮かぶ。
「ケイト――今さらだ」
途端、揺らめくように、色気が立ち上る。大人の男の、余裕のある香り。羞恥に、急激に頬が熱くなる。
昨夜までは、手玉に取っていたはずなのに、自分の心がわからなかった。
何も言えずに縮こまっていると、あっという間に、皿が空になり、
「――ああ、うまかった。やっぱり、ここの煮込みは最高だ」
と、水を飲んで、息をついた。そして、伝票とともに、ばねつきの板に代金を挟み込む。
少し多い金額。それなのに、ウィリアムは立ち上がって、行こうか、と言った。じろじろ見るものではないと思っても、釣り銭はいいのかと、気になってしまう。
すると、気づいて、穏やかな声が語った。
「次来た時に、おかずが一品増えたり、飲み物をつけてくれたりするんだ。馴染みならではだな」
なるほどと思う。品数が、他の席より多い気がしたのも、そのせいかもしれない。
代金を置いたまま、立ち去ろうとするので、心配していたら、こんな警備兵がうようよいるところで、盗みをする馬鹿はいない、と穏和な声に諭された。
帰りがけ、市場に寄って、食材を買った。
金融商人の警備兵士長と〈太陽の剣〉の頭領をやっているだけあって、ウィリアムは顔が広く、度々声をかけられた。その度に、店で話したことと、同じ話をした。
こんなに触れ回ったら、あとで困るのではと思ったものの、あまりにも嬉しそうに話すものだから、体裁だけでなく、否定してはいけないような気になっていった。
大量の荷物を抱えて家に着き、小さな食料庫や貯蔵棚に収める。茶を淹れて、市場で買った菓子で休憩する中、ふと、ウィリアムが真剣な口調で言った。
「どうせなら、一緒に暮らさないか」
驚いて、顔を上げる。真摯な光を宿す青緑の双眸に、思わず返事をためらう。
そもそもの目的が果たせるのだから、またとない好機だ。しかし、ウィリアムは、自分が何のために近づいたのか、気づいている。そしてきっと、恋慕う人がいることも。
口をつけかけていた茶器を下ろす。動揺する心に戸惑った。今すぐ微笑んで、嬉しいと、承諾しなければいけないのに。
問うように、青緑の双眸をじっと見つめる。ふっと顔が綻んで、優しい笑みを湛える。
「惚れた女と一緒にいたい。それだけじゃ、だめか?」
鼓動が跳ねる。決して好意を伝えてはいけない、という〈教え〉。
〈奥方〉になってから、可愛いと、綺麗だと、〈主人〉達に言われ続けてきた。しかし、好きだとは、ついぞ告げられなかった。
照れながら、明るく笑う紺青の瞳が浮かぶ。まだ小さな子供だった頃の、満月の夜。
――トリーナ、大すきだよ。大きくなったら、おれのおよめさんになってほしいんだ。
あれが、最後だった。再会した夜には、何も言ってくれなかった。そして、縋るように約束した。
それでも結局は、恋しい人の心は、他のところにあるのだ。もうずっと、あの初夜の前から、きっと。
はらはらと、涙がこぼれ落ちる。つらくて苦しくて、会いたくてたまらなかった。
涙を飲み込んで抑えようとして、口元に手を当てる。すると、長い指先が、そっと優しく、雫をすくい上げていく。穏やかな声が語る。
「ケイト。同じ気持ちでいてくれとは言わない。お前には、お前の事情があるだろう。ただこの家で、一緒に時を過ごしてほしい――それだけだ」
「……わけが、わからないわ……そんな……そんなことっ……」
たまらずしゃくり上げて泣く。
ただ一緒にいてほしいと乞われる。そんなことが、あるのだろうか。自分は、男の欲を受け止めるためにつくられた、淫らな器なのに。
骨のごつごつした手が触れて、繋がる。初秋の午後の陽光に移ろう、青緑の双眸。その色合いに反する、誠実な眼差し。
「わからなくていい。俺の傍に……いてくれるか?」
嗚咽で言葉にならず、かろうじて頷く。繋いだ手を包み込むように、手が重なる。穏やかで、幸せに満ちた微笑みが、歳月で磨かれた面立ちに広がる。
「ありがとう、ケイト。大切にすると、約束しよう」
優しい声に、これ以上ないほどの安堵感が、心に満ちた。
気持ちの落ち着いたあと、必要なことを話し合った。
結婚していない男女が、ひとつ屋根の下で暮らすとなれば、駆け落ちではなどと、悪い噂が立ちかねない。周囲には、ウィリアムが話した通り、再婚同士の夫婦だと、説明することにした。
添い遂げることを神に誓えるのは一度きりだから、再婚なら、式を挙げなくても不審に思われない。ただ自分が髪覆いをつけて、既婚の装いをすればいいだけだ。
そして、不審に思われないよう、気をつけさえすれば、いつでもマニュルムに帰っていいと、ウィリアムは言った。さすがに都合がよすぎると、困惑していると、
「無理をされるのは本意じゃない。俺も、仕事で家を空けることが多いから、気にしなくていい」
と、あっさりと告げられて、できる限り家にいて、出迎えようと思った。
至れり尽くせりで不思議な心地の中、夕方に、夜勤に出るウィリアムを見送った。そして、結い上げた髪をほどき、未婚の下げ髪に戻して、家を出発した。
この時期は、夜になると、もうずいぶんと寒い。髪と首飾りを襟巻きで隠して、マニュルムの検問所を目指して歩いた。
外の辻馬車は稀に、金銭など様々な目的で、人を襲う悪質な馭者がいるから、女一人では乗れない。
それでも、夜の戸張が下りて、暗くなっていく馴染みのない街区を一人歩いていると、通りがかる馬車に、声をかけたい衝動に駆られる。
そんな最中、警邏の兵士に、無許可の街娼に間違われて、尋問を受けた。
首飾りを見せると、恭しく礼をして、護衛を申し出てくれた。ほっとひと安心し、有難く頼む。
途中、引き継ぎを挟みながら、ようやく検問所にたどり着いたのは、すっかり夜が深まった頃だった。石積みの壁の向こうでは、灯りが煌々と輝き、賑やかな笑い声が響いている。
護衛を買ってくれた兵士に礼を言い、列に並ぶ。ちょうど知人が前にいて、談笑しながら、順番を待った。
館に着いて早々に、館主に事情を話し、外で暮らす許しを得た。
母は、かなり心配したが、優しい人だからと言うと、少しばかり表情を緩めた。それでも、不安そうな母を抱き締めて、心強く告げた。
「主家様に〈花蜂〉に選んでいただけるなんて、こんな機会は滅多にないわ。だから、後悔したくないの。私は大丈夫よ、お母さん」
「そうだね。でも、トリーナ――お前の無事が、一番だからね」
母の柔らかな肩の上で、しっかりと頷く。
優しく頭を撫でる、温かな細い手。おやすみの口づけを頬に受けて返す。安心感に包まれて、執務室を辞した。
自室に戻ると、扉の持ち手に、手紙を入れる小さな袋がかけてあった。差出人には、総帥次代、と力強い闊達な手蹟。
飛び上がる心を抑えて部屋に入り、丁寧に封を切る。
手紙には、来週訪ねると、書かれていた。一週間後に会えるのだ。嬉しくてたまらなくて、たった数行を、何度も眺めた。
弾む気持ちで、入浴を済ませて寝巻きに着替えると、文字通り夢心地で、眠りについた。
早朝、夜の喧騒が嘘のように静かな街を出て、ウィリアムの家に戻った。渡された合鍵で入り、帰りを待ちながら、家事をこなした。
二階の掃除をしていると、扉の開く音がして、急いで階下に向かう。
こちらに気づいて、いささか驚く姿。微笑んで出迎える。
「おかえりなさい」
「ああ――ただいま」
思い出したように、はっとしてからの返事。おもむろに、造作の鋭い顔に喜色が広がる。
掃除道具を置いて、前掛けで手を拭いながら近づくと、不意に抱き締められた。
唐突にそんなことをするのは初めてだったから、戸惑って固まる。耳元で、嬉しさに満ちた声が響く。
「まさか! ああ、まさかな! お前がいるとは」
切なさが、心を貫く。
他意のない、真っ直ぐな思い。余裕だと感じる裏に隠れていた不安。
そっと、腕を背中に回す。すると、口づけが落ち、唇を食まれる。まるで確かめるように、激しい所作。合わさる腰に熱を感じて、思わず声を上げる。
「……っだめ! 掃除していて、汚れているのっ……だから……!」
おもむろに、顔が遠ざかる。薄く開いた唇から、熱く溜め息が漏れる。しかし、声は平静で、穏やかだった。
「――そうか。じゃあ、今夜の楽しみにしておこう」
微笑んで、するりと離れる。呆気に取られていると、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「歳を重ねると、引いた方が、有利になる時があると学ぶ。若造には、難しいだろうな」
造作の鋭い顔に、余裕のある大人の男の色気が漂う。今夜はどうなってしまうのだろうと、妙に意識して、鼓動が早くなる。
恥ずかしくて俯いていると、穏やかな声がかかる。
「腹が減ったな。何か、作ってくれるか?」
はっとして返事をし、食べたいものを尋ねる。軽食でいいと言うので、火を使わないで、手早くできる献立で出してみた。
ただ具材を切って、パンで挟んだだけなのに、
「うまかった。ありがとう」
と、優しく微笑まれて、ささやかながら、温かな幸せを感じた。
一週間後、館に帰って、フェリックスを迎えた。前室で顔を合わせて開口一番、柔らかな笑顔が告げた。
「なかなか来られなくて、すまなかったな」
抱き締めて見つめる、紺青の瞳。恋慕う思いが溢れ出す。口づけを交わし、広く逞しい胸の中で、少し高い体温を感じた。
それから部屋に入り、ソファに座って、この三週間余りの成果を報告した。
主に、ウィリアムの身の上話と、女達の集会で耳にした一週間分の話を中心に、手紙には書ききれなかったことも含めて、事細かに伝えた。
話が終わると、大きな溜め息が漏れた。
「なるほどな。そういう繋がりだったか――当主の名は、わからないんだな?」
「何度か、聞いてみたけれど……」
緩やかに、首を振る。
尋ねれば、大抵のことは答えてくれるものの、それだけは頑なに喋らず、いつもはぐらかされた。
それでも、と思う。話していないことは多いだろうが、その誠実な口振りから、偽りはないと、ひしひしと伝わってきた。
「まだ証拠を見つけていないから、断言はできないけれど……嘘はついていないと思うわ」
ここ一週間の日々が去来する。驚くほどに、平穏な日常を過ごした。
事あるごとに、ウィリアムは礼を言って褒めた。生活のことで、嫌だな、と密かに思っていると、敏く気づいて謝り、同じことは繰り返さなかった。
そして、優しく丁寧な触れ合い。務めではなく、愛されて、大切に抱かれる温かさ。
ともに暮らして初めて、ただ語らって、眠りにつく夜があるのだと知った。
留め具をかけ違えなければ、きっと平凡な――しかし、幸せに満ちた生を歩めたはずだろうに。
視線を感じて、紺青の瞳を見つめる。感情の凪いだ色に、言いようのない不安を覚える。
「……ずいぶん、信用しているんだな」
どこか、むっとした言い方。もしかしてと、さざめく予感に怯えながら、それでも言葉を継ぐ。
「本当に、ごく普通の人だもの。拍子抜けするくらい、優しくて、気遣いのある人だから」
「それはよかったな。普段は気遣いのない奴が相手で、苦労している分、報われただろう」
棘のある声。どこで間違ったのかと反芻して、何も誤りはないはずだと、思い直す。
それでも、せっかく久しぶりに会えたのだ。平穏に過ごしたかった。そっと尋ねる。
「ねえ、どうしたの……?」
「……別に。優しい男と寝られて、よかったな」
息が詰まる。返す言葉が見つからず、押し黙る。
そんなことは、微塵も思っていないと、わかっているはずなのに。
そもそも〈花蜂〉は、情交による調査対象の籠絡を目的に、主家が利用する制度だ。戸惑って、混乱する。
苛立ちの炎の揺らめく、紺青の瞳。よく知った色に、思わず身を引く。恐怖に心が戦慄いた。必死に訴える。
「フェリックス。私はあなたの〈奥方〉で、それは、どんなことがあっても変わらないわ。今回のことは、情報を引き出すためよ。あなたを裏切る心で、関係を持ったわけじゃないわ」
「……そうだな」
重く、低い声。息を詰めて、挙動を見守る。
永遠に思える間のあと、深い溜め息が、長く吐かれる。
「――ああ、そうだろうな」
眉間に強く、しわの寄った横顔。理性と感情が、せめぎ合うかのような。
どちらに傾くか。苛立ちが爆発すれば、確実につらい思いをすることになる。しかも、それは、慕う心から来る嫉妬ではないのだ。固唾を呑んで見守る。
不意に、こちらを向く顔。その冷たい色。淡々とした声が命じる。
「灯り油を増やして。そこで脱いで」
対面の壁に備えつけられた灯り。硝子の覆いに触れないよう気をつけながら、つまみをゆっくり捻る。
染み出す油の量が、徐々に増えていく。小さな炎が一気に大きくなり、あたりが明るくなった。意図を悟って、強い羞恥に、逃げ出たい気持ちに駆られる。
しかし、拒絶は許されない。それが、約束なのだから。
正面を向き、上衣の留め具を外していく。幅広の帯を解けば、さらりと床に落ちた。
内着の胸元の紐を緩めて、ゆっくりと下げていく。下着だけの姿になり、そっと様子を窺う。
一片の感情もない紺青の瞳。冷淡な色に涙を飲み込んで、下着の留め具と紐に手をかける。
全てが露になった姿を、灯火が容赦なく明るく照らす。紺青の視線が、全身に突き刺さる。欲に溺れない淡々とした目が、よけいに羞恥心を煽った。
どれくらい、そうしていただろう。フェリックスが、おもむろに立ち上がる。
思わず後ずさって、背中が壁につく。手首を一纏めに縫いとめられ、一方の手が、脚の中心に伸びる。静寂に、水音が響いた。
薄い微笑。その、色香の匂う表情。卑猥に揶揄されるよりもずっと、恥辱が増した。
唇を味わうように、じっくり食まれる。戦慄く脚で必死に身体を支えて、されるがままに、意識を弾けさせた。
結局、恐れていたような、つらい思いをすることはなかった。むしろ、丁寧で濃密な愛撫に、甘い眩暈がした。
ただそれは、検分し、所有物として塗り直すための作業だと、ひしひしと伝わってきたから、心が幸福に満たされることはなかった。
明けた朝は一転して、とろけるほどに優しかったものの、もう以前のように、甘受できなくなっていた。
無意識に、切なく苦しく呟いた名――王太女の名。
家を継ぐべきフォルティス家の嫡子として、結婚は避けられない。そして、いずれは他人の妻になるその人に仕え続ける。それは、どれほどに深い心だろう。
ずっと不思議だった。成人して七年経っても、なぜ結婚しないままなのか。愛するその人のためなのか――それとも、他にどうにもならない事情があるのか。
もし、任期明けまで知らずにいられたら、長い付き合いを素直に喜べたのに。
優しさは偽りではなくなり、真実として、虚像に注がれるようになった。したいと願ってやまないことを、自分を通して叶えているのだ。それは、ただ偽りにくるまれて抱かれるより、ずっとつらく、空しいものだった。
そして、本来の姿をしっかり見つめるのは、捌け口にする時だけになった。
嗜虐的で卑猥な揶揄。恥辱をねぶって、いたぶる静かな暴力。それでも、この繋がりしか、自分には縋る術がないのだ。
(獲らないで……私の居場所を……奪わないで……お願い……)
窓掛けの隙間から差し込む朝日に、淡く照らされた薄暗い天井。広い背中にしがみついて受け止めながら、ただひたすらに乞うた。




