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〈花蜂〉の罠①

 夏の明るい光が透ける朝、広い背中を見送った。

 進捗や情報の共有は、主に手紙になるとのことで、少し残念に思ったが、合間に必ず来るからと、約束してくれた。

 遅い昼食を摂ろうと、寝巻きから私服に着替えようとした時、扉の隙間に、何か覗いているのが見えた。

 拾い上げると、折り畳まれた細長い便箋で、館主からの呼び出しだった。起床後の食事を済ませたら、執務室に来るようにと、見慣れた文字で綴られている。

 再び畳んで、専用の文箱に仕舞う。身支度を整えて、食堂に向かった。


 執務室の扉を叩いて、返事に名乗ると、入るよう告げられる。

 押し開けて中に入った先に、館主の姿があった。机に向かって、何か書き物をしている。手元が見えない、少し離れたところで待つ。

 ややして、館主が書き終えた紙を揃えて、丁寧に折る。手紙だったようで、華やかな模様の描かれた封筒に入れて、封蝋を垂らし、印璽を押す。

 手招きされて近寄ると、しっかりとした紙質の白い封筒を渡された。

「ご当主様から頂戴した資金だよ。しっかりやりなさい」

「ありがとうございます」

 丁重に押し頂く。顔を上げると、心配そうに揺れる緑青の瞳に出会う。

「……無理は、するんじゃないよ」

 母の温かく優しい声音。柔らかく微笑んで答える。

「大丈夫よ。フェリックスも、望んでいないわ」

「そうだね――あの子は昔から、気持ちの優しい子だったものね」

 遠い日々を懐かしむように、細まる瞳。素知らぬ顔で、そうね、と何気なく返す。

 部屋で起きることは、たとえ館主でも、決して話さない。冷酷な責め苦も、偽りの優しさも、薄明かりに輝く紺青の瞳も――全ては、自分だけのものだった。

 そして、子供の頃にくれた恋慕う心は、今は別のところにある。

 無意識に呟いた、その名。いとしく切ない響き。冷たいほどの一途さは、ずっと変わっていないのだ。

「せめて、子ができていたらね……」

「仕方ないわ。全ては、漆黒の神様のご意思だもの」

 穏やかに返す。それから口調を改めて、部屋を辞した。

 扉を背にして、腹に触れる。空しい思いに、溜め息をついた。

(漆黒の神は――私のお腹に、雫を垂らしてはくださらなかった……)

 十五歳から、九年を過ごしてきた。任期明けまであと一年。きっと、もう望めないだろう。

 妊娠すれば、手厚く保護され、生まれた子は、男女の別と見目によって、下働きや娼婦になる。たとえ自分と同じ運命を背負うとしても、恋慕う人と過ごした証が欲しかった。

 他の子息達との間にも、子のないことが、唯一の慰めであり、心の支えだった。

(ご当主様に認めてもらえれば、称号と報奨がもらえる。それが、フェリックスとの子――その子を抱いて、私は残りの生を歩んでいく)

 厚みのある封筒を見つめる。その意味の重さが、ずっしりと心に迫る。

 〈主人〉以外に身体を開くのは気が進まないが、やると決めたからには、腹を括らなければならない。せめて、対象だけで済むようにと願う。

 自室に戻り、封筒から必要な分だけ取り出して、あとは金庫にしまう。悪目立ちしないよう、一番質素な私服に着替える。

 最近は、平民の居住する四つの街区を巡回している。確か、今日はフロス街のはずだ。

 住民の圧力に追いやられて、いつも貧民区との境に、演説台を設置している。

 南の端だから、シエンティア家とコムニア家の地区を抜けなければならない。遠いが、辻馬車を拾えば、間に合うだろう。

 鞄の中身を再度確認して頷くと、自室を出て、館を出発した。


 大勢の人々が、列を為している。商人や職人、館の関係者など、職業は様々だ。門番の警備兵に通行許可証を提示して、街の外に出る理由を伝えている。

 近づくにつれ、検分する兵士の徽章が見えて、暗澹とした気分になる。

 今日は、北隣の街区の隊が担当だ。フロス街区隊なら、ごく普通に挨拶を交わして、平和に通れるのに。

 案の定、胸元に揺れる首飾りを見て、兵士の顔つきが変わった。

 高級娼婦を示す身分証。無遠慮な視線が、全身を這っていく。悪寒に身を縮め、薄手の外套の前を搔き寄せる。

 緩んだ下衆の顔。侮った口調が飛んでくる。

「で、外出の理由は?」

 口も利きたくなかったので、黙って証書を渡す。

 理由を問わず、自由に通行させるよう命じる、と書かれ、一番館館主の署名がされている。そして、その下に、館主と自分に全権を委任する旨と、フォルティス家直系の家紋の印。闊達で力強い字は、フェリックスのものだ。

 馬鹿にした目で、物珍しそうに、じろじろと書面を眺められて、大切なものを汚されている気分になる。

 兵士は鼻で嗤うと、雑な仕草で差し出した。素早く、半ばひったくるようにして受け取る。

 妙に距離が近くて気持ち悪い。嫌な予感がして、足を踏み出そうとした、その時。

「――痛ってえッ!」

 背後で喚く声が響く。

 驚いて振り返ると、腕を捻り上げられた兵士が、情けない悲鳴を上げていた。

 きつく手首を掴んだ青年の顔に、あっと声が漏れる。懇意にしている衣装店の店主の息子だった。普段は穏和な、黄みの差した浅緑の瞳が、怒りに燃えている。

「あなた今、通行証を見たでしょう。フォルティス様の〈奥方〉に触れようなんて、不遜にもほどがある。このことが知れたら、どうなるか――しかるべき方に伝えてもいいんですよ」

 兵士の顔が、みるみる青ざめていく。

 趣味のいい衣装店は、母もよく使っている。館主からフェリックスに伝われば、刑罰は免れない。衆人環視の中で去勢され、下半身を晒したまま、縛り首に処される。だから、普通は、視線を寄越しても、手を出そうとは思わない。

 何事かと、行列に並ぶ人々が、様子を窺う。

 友人や知人、顔見知りの面々。状況を把握して、一様に、兵士に非難の視線を浴びせかける。

 マニュルム随一の花を――我らの誇りを汚そうとしたなんてと、数多の目が語っていた。

 無言の怒りに、慌てた情けない調子の声が上がる。

「わかった! 悪かった! お願いだから離してくれっ……!」

 ぱっと、手が離される。兵士が腕をさすりながら、元の配置に戻る。張り詰めた空気が、おもむろに緩んでいった。青年が、柔和に微笑む。

「最近、外は物騒ですから。どうぞ、お気をつけて」

「ありがとうございます。今年の秋物を仕立てたくて――今度、伺いますね」

「かしこまりました。お待ちしております」

 爽やかな笑顔に挨拶して、後ろの人々にも会釈する。

 目顔で、温かな応答。微笑むと、踵を返して、門の外へと足を踏み出した。


 王都の南の端。貧民区の境に着くと、景色が一変する。

 左手は、一般的な平民の、木の骨組みの覗く白い壁の家並みに対し、右手は、半ば倒壊した、とても家とは言いがたい残骸が、所狭しと詰まっている。雨よけと(おぼ)しき薄汚れた布が、時折風にはためく。

 力なく道にうずくまった人々を、なるべく見ないようにしながら、声のする方へと向かう。

 まばらな群衆の前、木組みの台に乗った男が、拳を振り上げて叫んでいる。

「今こそ、真昼の民による統治を! 真夜の王を廃し、真昼の王太女に即位の栄光を!」

 取り巻きなのだろう。群衆が、高らかに声を上げる。通りを行き交う人々が、身を縮めながら過ぎ去っていく。

(愚かな人達……)

 あくまでも感銘を受けた表情で、熱い視線を送りながら、冷ややかに思う。

 たとえ王太女が真昼の民として即位したとして、政務は誰が執り行うのだろうか。

 従家は真昼の民だが、指揮と補佐は、求められる資質が異なる。それほど単純ではない。それとも、自ら行うつもりなのだろうか。読み書き算術しかできない、その頭で。

 男が一際高々と演説し、掛け声を叫ぶ。群衆が、拳を振り上げて喝采する。

 興奮冷めやらぬ空気の中、男が台から降り、こちらへ一直線に向かってくる。首飾りを見て、目に蔑みの色が灯る。しかし、淡々とした声で尋ねた。

「フロスの女が、何の用だ?」

「活動に参加したくて――真昼の王太女様の即位を後押ししてるって、聞いたから……」

 あえて頼りなく、弱々しく答える。上目遣いに、じっと男を見つめる。

 何か言おうと、男の口が動いた時、横から、青年の声が飛んでくる。

「六貴族に股開いて悦んでる奴に、話すことなんてねえよ」

 息が詰まる。卑猥な侮辱が、胸に突き刺さる。さすがにこたえて、声が震えた。

「そんな……酷いこと、言わないで……」

 話しながら、過去の出来事を思い出す。

 還ったのだと諭された日々。娼婦に決まったと、館主になったばかりの母に言い渡された朝。先輩に、夜ごと手ほどきを受けた、ひたすら恥ずかしくてつらい時間。暗い淵に落ちて、責め苦に耐える、数多の夜。おもむろに、涙が滲んでいく。

「生まれた時から、決まってたんだもの……仕方ないじゃない。いつも、あんな……乱暴に、扱われて……」

 はらはらと、雫が頬を伝い落ちる。

 信じてと乞うように、男に歩み寄って、そっと腕に触れる。留め具を外しておいた外套が、さらりと広がり、上衣が露になる。

 務めの衣のように胸元は開いていないから、極力、身体に沿う形のものを選んできた。下着も、着脱はしにくいものの、しっかりと下支えして、大きく見せてくれる、とっておきの品だ。

 男の目線が、わずかばかり下に落ちる。青年は、わかりやすく胸に釘づけになっている。後方で、様子を窺う取り巻きの視線が、気持ち悪い。

「もう耐えられない。真夜の民なんて、いなくなればいいのに」

 腕で胸を挟んで、両手で顔を覆い、身を震わせる。

 胸に腰に尻に注がれる、無遠慮な視線。下品なこの男達こそ、消えてなくなればいいと、心の内で叫ぶ。

 〈主人〉達は皆、優しかった。〈教え〉を反故にしたのは、フェリックスだけだ。しかし、それすらも、幼馴染みの自分に甘えているのだと思えば、慕わしかった。

 総じて教養高く賢明で、こんな卑猥な目で辱しめてくることなど、決してない。

 そっと、肩に手が置かれる。おもむろに顔を上げると、意外にも、憐れむ表情に出会う。

「お前の気持ちはよくわかった。この馬鹿のことは詫びよう。――俺は、ウィリアム・ハワード。〈太陽の剣〉の頭領だ」

 名を尋ねられて、ケイト・コールマンと答えた。素性は知れているとはいえ、大切な人達と同じ愛称で呼ばれたくなかった。

 ウィリアムは頷くと、これから会合を開くから、一緒に来ないかと言った。女達は午前に集まるから男だけだが、それでよければ、と。

 涙を指先で拭って微笑む。見目は平凡だが、醜男でないことが救いだった。


 ついていくと、会場は、さびれた酒場だった。

 予想はしていたものの、ただ低俗に酔って、くだを巻く光景は、見ていてかなり不快だった。まともな議論など、もちろんない。

 最初、酒を呑むよう強要されたが、ウィリアムが、女が呑むのははしたないと言って、男達を黙らせた。

 他とは、少し毛色の違う様子。平民でも、裕福な家の出かもしれない。

 薄めすぎて、味のしない果汁で口を湿しながら、他愛のない――しかし、それなりに違和感のない会話を交わした。

 酒が進み、叫ぶように意味不明な会話が飛び交うようになった頃、青年が絡んできた。目が、爛々と光っている。酒臭い息に、顔をしかめる。

「なあ、フロスの女って、何人の男とやるんだ? さっきはああ言ってたけど、本当は好きなんだろ」

 優しく微笑む紺青の瞳が浮かぶ。たとえ規則がなくても、絶対に教えたくなどなかった。

「そんなこと……本当に、つらいのに……」

 恥じらうように俯き、密かに周囲を見回す。

 ウィリアムの姿がない。さっきまでいたのに、どこへ行ったのか。

 青年の荒い呼吸。背筋に、冷や汗が伝う。刺激しないように、ゆっくりと後ろに下がりつつ、立ち上がろうとした、その時。

 あっと思う間もなく引き倒される。板張りの床に、強かに背中を打ち、息が詰まる。頭が無事だったのが幸いした。

 覆い被さる、猛った影。大きく息を吸い、声の限り叫んだ。

 何事かと男達が集まり、青年が、力ずくで引き剥がされる。袋叩きに遭う様子を、震えながら見つめる。

(ああ、漆黒の神よ……なんて恐ろしいこと……)

 怒り狂って足蹴にする男達が、尊い親を崇敬する同じ子なのだと、切に実感する。口の中で祈りの(ことば)を唱えながら、ただひたすら感謝した。

 ウィリアムが戻って、事情を知ると、憤怒に燃えた目で小刀を手に取り、青年の顔に印をつけた。

 女に行為を強いた証。抉れて、一生消えないだろう。ぼろ屑になった青年を容赦なく放逐して、男達に散開するよう告げた。

「俺が目を離したばかりに、申し訳ない。今日はもう遅い。フロスまで送ろう」

 差し出された手。労る微笑み。灯りに照らされて、緑から青へと移り変わる瞳。より深く濃い、紺青が心に浮かぶ。

 はらはらと、涙がこぼれ落ちる。会いたくて、抱き締めてほしくて、たまらなかった。

 止めることもできず、しゃくり上げて泣いていると、ウィリアムが手を引っ込めて、腰を下ろした。

 腕が伸びてくるかと身を固くしたが、そのまま胡座をかいて、何もしなかった。ただ泣きやむまで、傍らで見守るだけだった。

 そういう優しさを持つ人が、なぜ〈太陽の剣〉の頭領などしているのだろう。

 フロス街まで無事に送り届けられて、帰っていく背中を見つめながら、暗い予感を覚えた。


 それから、酒場に誘われることはなくなった。

 女達の集会に参加してはどうかと、ウィリアムは言ったが、あなたと話したいと返すと、少し逡巡したあと、わかったと頷いた。

 二人きりで会うようになり、他愛のない時間を過ごす中で、優しく細やかな人となりを知って、より疑問が深まっていった。

 フェリックスは、王宮で昼間に焚き火をしている者がいると言っていた。つまり、従家で不穏な動きがある、ということだ。

 フロス街の外の平民が、どうやって繋がりを持つのかはわからない。しかし、背後にあるものの尻尾を掴めれば、かなり大きな一歩となる。

 とはいえ、言葉の端々から、そこそこいい家の出身だと察せられたから、はしたなく攻めるわけにもいかない。時機を見極めながら、慎重に距離を縮めていった。


 短い夏が終わり、秋の気配を感じる頃、その時は訪れた。

 いつものように、フロスまで送ると言いながら、瞳に逡巡する色が閃いた。恥じらうように頬を朱に染めて、まだ少し一緒にいたいと囁いた。

 覚悟していたより、ずっとまともな行為に安堵しながら、次の一手を考える。

 温厚で細やかな性格。あえて、単刀直入に聞いてみる方が、響くかもしれない。まずは、正常な思考を奪うことだ。

 動きに合わせて腹圧をかけ、身の中心に力を入れて締める。緩急をつけて制御すれば、よほどのことがない限り、馬鹿馬鹿しいほど呆気なく落ちる。

 かなり体力のいる技だから、普段はほとんどやらないが、困るくらい長丁場の〈主人〉相手には、率先して実施した。

 結婚して無事に送り出せたが、きっと奥方は苦労するだろうと、当時は憐れに思ったものだ。

 まさか身の内を制御できるとは露知らず、よほど感嘆したらしい。事を終えて惚けた顔に、達成感を覚える。洗いざらい話してもらおうと、意気込んだ。

 しかし、甘えながら誘導して聞き出した話は、想像以上に暗く、悲しいものだった。


 ペクニア街の中央にある金融商店を知っているだろう――そう、羊の紋章を掲げた、あの商店が、俺の実家だ。

 ずいぶん大きい店だって? まあ、確かに、おかげで何不自由なく育った。

 ただ、三男だったから、家を継げなくてな。学舎を卒業してすぐに、軍に志願した。宿舎があって、寝床には困らないし、給金も、他の下働きよりはかなりいいからな。

 代わりに、訓練は厳しかった。だが、一人前になったら、幼馴染みに結婚を申し込むと決めていたから、苦にはならなかった。

 教育隊を終えて八年後、班を任されるようになって、幼馴染みと結婚した。

 まさか、両思いだとは思っていなかったし、三男で兵士になった自分を認めてもらえる自信も正直なかったから、飛び上がって喜んだ。

 あとで聞いた話だが、金融商人だと姉妹で競合するから、次女の嫁ぎ先は、他の職種にすると決めていたらしい。どちらにせよ、運がよかった。

 それから、息子が生まれた。可愛くて仕方なかった。日々変わる姿を余さず見ようと、好きだった職場の酒宴も、度々断ったほどだ。

 すくすくと育つ息子の傍らで、妻はいつの間にか壊れていた。

 突然怒ったと思えば泣き出し、出て行けと叫んで、物を投げつけるようになった。

 しばらくして戻ると、今度は捨てないでと、縋りついた。よく笑う明るい妻は、どこにもいなかった。

 分隊長に昇任したばかりで忙しかったことも合わさって、次第に帰る時間が遅くなっていった。それがまた、妻の怒りを買った。

 寝静まるまで過ごせる場所は、そうそうない。かといって、家に帰りたくないと、辟易していたところで、久しぶりに同期に会った。

 昇任祝いに景気よくやろうと言って、連れていかれたのが、賭場だった。

 兵士になっても、金融商人の息子だからな。一目で許可証は偽造で、違法だとわかった。だが、自棄(やけ)になっていて、構わず楽しんだ。

 それからは、転落の一途だった。

 給金を支給されたその日に使い果たし、借金をしてまで、賭け金を工面した。家には帰らず、賭場と職場と公衆浴場を回って、日々を過ごした。

 借金は、生涯かけても返せないほどになった。一斉摘発が行われた時、正直ほっとしたな。これでやめられると思った。捕縛されて裁判になり、三年の実刑が言い渡された。

 刑期を終えて家に帰ると、全く違う家になっていた。妻の実家に行ったが、商店も屋敷も取り壊されて、新しい建物になっていた。

 周囲の知人に聞いても、誰も話してくれない。信用問題で、実家には散々迷惑をかけたから、今さら帰れなかった。

 方々探して、ようやく共通の友人が話してくれた。

 収監された直後に、馬車に()ねられたのだという。幼い息子の手を引いて、自ら飛び込んだ、と。

 貨物用の早駆けの馬車は止まれず、妻の身体は、容赦なく吹き飛んだ。地面に落ちた時には、死んでいると、はっきりとわかる姿だったそうだ。

 ――そう、自殺だった。妻は火葬されて、遺灰は〈罪人の河〉に流された。

 息子は運よく、馬車と地面の隙間に入って助かった。だが、事故の直後に、行方不明になった。

 友人が言うには、死亡届を書いてもらうために、遺体を医院に運んだ時、妻の実家の希望で、事故として還されたようだった。

 それから噂が広まって、妻の実家の金融商店は、商売が立ち行かなくなっていった。店を畳み、一家は離散して、もう誰も行方を知らない。

 絶望して、自暴自棄になった。

 職もない。金もない。くすねた酒で、貧民区で呑んだくれていた時、従家の当主だと名乗る男が訪ねてきた。


 長い溜め息が、薄く開いた唇から漏れる。青緑の双眸が、ゆっくりと瞬く。

「――あとは、知る通りだ。あの日から四年、俺は、金融商店の警備兵をしながら、〈太陽の剣〉の頭領をしている」

 凪いだ日の湖面のように、静謐に満ちた顔を見つめる。悲惨さは、どこにもなかった。心がさざめくほど、静かで平らかな表情。

「正直、ご当主様の思惑なんて、どうでもいい。暴動を起こせば、火炙りになるのは確実だ。せめて灰になって、〈罪人の河〉でともに無になれれば、それでいい」

「……愛しているのね……奥さんのこと」

 思わず、言葉が口をついて出ていた。

 死よりも恐ろしいことを成そうと思うほど、愛されている人。空ろな羨望が、心を覆った。

 そっと、乾いた大きな手が頬に触れる。視線を上げると、心から慮った面持ちに出会う。

「ケイト。今、この状況が答えだ。泣いて訴えた言葉を、片時も忘れたことはない」

 静かな声に、胸が詰まる。ためらって揺れる色を、何度も感じてきた。

 灯りに煌めいて、青に緑に彩りを変える瞳。しかし、そこに光る表情は、真摯で嘘のないものだった。

 吸い込まれそうな、紺青の瞳を思う。その深く暗い淵に落ちて、溺れていった日々。

 視界が、おもむろに滲んでいく。涙を飲み込む。すると、緩やかに身体が反転して、後ろから抱えられる。

 胸をまさぐられると、息を詰めたが、静かに告げられた言葉は、意外なものだった。

「こうしていれば、互いの表情は見えない。……俺の顔も、直視しなくて済む」

 その意味に、はっとする。喉がせり上がって、飲み込んだはずの涙が溢れる。そっと、髪に優しく、口づけが落とされた。

「――おやすみ」

 次第に緩やかになっていく呼吸音。

 全てに気づいていて、どうしてこれほど心を配れるのだろう。

 とめどなく、雫が伝い落ちる。背中に柔らかなぬくもりを感じながら、口に両手を当てて、声を殺して泣いた。

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