〈太陽の剣〉②
さすがに寝ないと集中力が続かないと思い、早い昼食を摂ってから、たっぷり午睡した。ヘンリクスと話して気がほぐれたのか、夢を見ることなく、久しぶりに深い眠りに落ちた。
目が覚めたのは、日がだいぶ傾きかけた頃だった。部屋着のまま、机に向かう。
この時間に、仕官服で執務館に向かうのは目立つし、あまり封筒を持ち歩きたくなかったから、必要なものは、午前のうちに、まとめて持ち出していた。
封筒から報告書を取り出して、机に置く。
華麗ながら力強さも兼ね備えた、親友の字。よくまとめられた統計と、明晰な言葉で綴られた分析に、つくづく感嘆する。
しかし、その内容は、エルドウィンにとって、酷なものだった。
資料によれば、義父となるワルターは、ほぼ確実に、〈太陽の剣〉の首謀者であるという。混乱に乗じて王を弑するために、暴動を起こす準備をしており、装備の調達手段として、金融商店を利用しているようだった。
弑逆罪には、極刑が科される。
真昼の民は、生きたまま灰になるまで焼かれて、〈罪人の河〉に流されるのだ。神の元へ還ることはない。
もし、ワルターが計画を実行すれば、アメリアは、血の繋がった父を、火刑台に送る書類に署名することになる。本来、論理的であるコンシリウム家の――その当主が、思い至らないはずがない。
盲目になるほどの憎悪。父が無事に即位していたら、起きえなかったこと。
資料の文字をなぞる。親友の、明晰な筆致。王家の嫡子として生きていれば、決して生まれなかった絆。
そして、従家の下女という、最も関わりのない――生涯会うことはなかった、いとしいひと。
窓を振り見る。木枠に区切られた満月が、夏の夜空に浮かんでいた。
(御夜よ。あなたは、どうして――)
アメリアに出会わせたのか。
どうして、苦しい生を背負わせてまで、王家に据えたのか。
煌々と輝く月。せめて碧色の瞳が、悲しみの涙に濡れることのない未来を願い、祈った。
作業が一区切りして、大浴場への廊下を歩いていると、同期と談笑している親友の姿が見えた。もう風呂は済ませたらしく、寝巻きに羽織を着たいで立ちだ。
こちらに気づくと、新緑の瞳が、柔和に微笑む。手拭いや着替えの入った籠を認めて問う。
「これから?」
「ああ、家の方の仕事があってな」
新緑の瞳に、察したような色が浮かぶ。微かに、愁眉が寄る。
「――今夜、どう?」
「わかった。済んだら、部屋に行くよ」
頷くと、軽く手を上げて挨拶する。
どこか安堵したような微笑に、話の内容の検討がついて、律儀な親友らしいと、心の内で苦笑した。
低い卓に置かれた灯りの炎が、煌々と部屋を照らす。
斜に据えられた一人用の二対のソファに、それぞれ腰かけて、ゆったりと酒を楽しむ。精緻な切子細工のグラスと黄金の液体が、時折灯りを反射して煌めく。
深々と背もたれに身を預けて、グラスに口をつける。独特な香りが鼻に抜け、度数の高い刺激が舌にまとわりつく。
雑味のない、豊潤な味わい。喉が焼けるような、心地よい感覚。何度飲んでも旨いと感じる、飽きの来ない名酒だった。
エルドウィンも同じように一口吞んで、息をつく。気遣わしげに、愁眉が寄る。
「ごめんね。途中で投げる形になっちゃって」
「事情が事情だ。仕方ないだろう」
そうだね、と小さく落ちる声。微苦笑が、細く漏れる。
「でも、少し……ほっとしてるんだ。〈花蜂〉に、したくなかったから」
灯りの炎に輝く、金色の髪と新緑の瞳。
真昼の民が生まれた頃の姿として、最も格の高い色だ。冬の古本市でのブラッツのように、外套で隠さなければ、様々な色が混ざる平民に紛れるには難しい。
何より、〈花蜂〉を使う理由は、そのもともとの務めにある。男では、代替が利かない。
グラスを緩やかに揺らしながら、新緑の瞳が、煌めく水面を見つめる。灯りに照らされた秀麗な横顔。静かな声が語る。
「不思議なものだね。もう会えないって思うと、寂しいんだ。すごく親身になってくれて――これ以上、苦労はかけられない」
「いい〈奥方〉だったんだな」
穏やかな微笑みが応える。苦痛だけではなかったのだと、心の内で安堵する。
思えば、親友の口から、〈仮初めの奥方〉の話を聞いたのは、これが初めてだった。
名は伏せた上で、雑多に語られる隊の飲み会において、あけすけな話は苦手だ、という共通認識の下、切っ先の向かない仕組みが確立しているのだ。
その代わり、とでも言わんばかりに、ひたすら囃し立てられるわけだが、話題に困ることはないのだから、そこは親友の出番というものだろう。
「優しくて、綺麗な人だよ。それから――」
ふふっと、おかしそうな笑い声。グラスの中身が、だいぶ減っている。
「君とアドルフが、諸手を上げて喜びそうな感じ。好みと逆だなんて――本当に、どうしてなんだろうね?」
「お前っ、今! それを持ち出すか!」
思わず、がたりと上体を起こす。
笑い上戸に、うまく嵌まってしまったのだろう。歌うように、楽しげな笑い声が響く。
「だって、胸の話になる度に騒ぐから。よほど好きなんだなって」
頭を抱える。端からずっと思われていたのだと振り返って、布団にこもりたい気持ちになる。悔し紛れに返す。
「それ、アドルフにも言ってみろ。きっと、すごい顔するぞ」
「嫌だよ。絶対、根掘り葉掘り聞いてくる」
苦笑しながらも、楽しげな表情。悪戯好きな子供のように、新緑の瞳が輝く。
「それに、〈奉仕〉はいつも断るから、挟んだことなんてないし」
あまりの贅沢に唖然とする。不満に思ったことはないが、他の〈奥方〉の話を聞く度に、否応なしに羨ましさは募った。
つい、情景が頭に浮かびかけて、グラスの残りを煽る。
息をついて見遣ると、秀麗な顔が、おもむろに静かな面持ちに変わっていく。記憶が映し出されているかのように、硝子越しの灯りを、新緑の瞳が見つめる。
「まだ従騎士だった頃――帰省して、久しぶりに家族が揃ったのに、ルチナが夕食に出てこなくて。様子を見に行って、せっかくなのにって言ったら、お兄様にはわかりませんって、泣きながら怒られたよ」
揺らめく灯りに照らされた、秀麗な横顔。長い金色の睫毛が、伏せた目に影を落とす。
「大変だよね。男に関わることは、全部苦しいんだ。男は、ただ……気持ち良いだけ……」
新緑の瞳が、虚ろな色に沈む。
大人になった今でも、優しい心に影を落とす、むごく苛まれた傷。たまらない気持ちで、親友を見つめる。
深い溜め息。片手で顔を拭うと、誠実で穏やかな視線が向けられる。
「――フェリックス、ありがとう。君のおかげで、僕は僕のままでいられた」
切なく苦しい思いが湧き上がる。同時に、たとえ応えることができなくても、支えになれたのだと、深く心が満たされていく。
「何があっても離れないと、約束した。俺が、そうしたかったから。ただそれだけだよ、エルド」
温かな幸せに微笑む、新緑の瞳。どこか泣きそうな色が滲む。
新居に引っ越すまで、あと一ヵ月余り。隣にいるのが当たり前の、純粋で単純な時は終わる。どうしようもなく、寂しさが募った。
翌日は、朝から作業に取りかかった。本来なら、明日は早番だが、免除されたから一日空く。動くなら早い方がいいと、今夜行くことにしたのだ。
必要な書類をまとめると、夕食を摂って、湯浴室で汗を流し、手配しておいた馬車で、宵の口に騎士舎を出発した。
軽やかに流れていく車窓の景色を眺めながら、夕べの会話を思い出す。親友には話していない――あの夏から明けた年の、真冬の邂逅が、心に去来する。
暗い愉悦に酔って罪を重ねた夜から、帰路に就いた朝。
積もった雪と石畳の無彩色な景色の中、自宅から出仕して、騎士証を門番に見せる姿があった。
避けようもなく、最悪な気分で、隣を歩いて交わした会話。行為を楽しめて羨ましいと言われて、苦しさに言葉が詰まった。
仰いで見つめた藍色の双眸。悲しく微笑む、その色。
静かな低い声が響く。
――何事も終わりがある。その時に、何を残せるかを考えてみるといい。
任期明けまであと一年。もう、子は望めないだろう。
ともに過ごした日々のよすがとして、恋慕う心に残してやれるもの。
書類の入った鞄を撫でる。ひたすらに貪り壊して、なお証となるものが、危険を冒して、初めて与えられるのだと思うと、苦しくてたまらなかった。それでも、自分にできることは、これくらいしかないのだ。
馬車が、おもむろに速度を緩め、一番館の前に停まる。
降り立つと、夏の強い日差しに暖められた夜の外気が、頬をさする。浅い階段を上り、両開きの扉の片側に、手をかけた。
前室の扉を押し開けると、優美な所作で礼をして、トリーナが出迎える。
「フェリックス――ずっと、待っていたわ……」
幸福に潤む、翠緑の瞳。微笑んで頷くと、その細い手を取って、階段を上がった。
精緻な木彫りの扉の先。見慣れた華美な装飾の部屋が、薄明かりに浮かび上がっている。
中に入ると、手早く外套の留め具を外す。トリーナが扉を閉めて、背後に回る気配。白い手が襟元に触れると、するりと外套が腕を滑っていく。
薄手の亜麻がしわにならないよう整える細い背中に、静かに声をかける。
「頼みたいことがある」
振り返って、身を寄せて見上げる美しい顔。いつものように抱き返さず、ソファに座るよう促す。
隣り合って腰かけると、穏やかな口調で切り出した。
「〈花蜂〉になってほしい。功績が認められれば、慣習通り、報奨と称号が授与される。だが、かなり危険だ。君には、断る権利がある」
窺うように見つめる、翠緑の瞳。怯えた色に、胸が痛む。優しく微笑んで、柔らかに話す。
「断っても、怒ったりしないよ。別の策を考えるだけだ」
迷うように、瞳が揺れる。大丈夫と、気持ちをこめて見つめる。
しばらくして、そっと、言葉が紡がれた。
「……称号は、ご当主様が……?」
「俺が考えよう。君に、ふさわしいものを」
意図を悟って、はっとした表情。ゆっくりと、白い頬に赤みが差していく。
心からの嬉しさに、翠緑の瞳が潤む。柔らかな声が告げる。
「――受けるわ。詳しい話を聴かせて」
微笑んで礼を言う。鞄から書類を取り出して、低い卓に置く。
トリーナが立って行って、壁に備えつけの灯りを調節して、火を大きくする。手元が照らされて、かなり読みやすくなった。隣に戻ったところで言う。
「ありがとう。さあ、まずはこれだな」
それから、覚書の読み合わせをして、署名をもらい、通行許可証を渡した。開示できる事項を全て共有し、対象から引き出してほしい情報を説明する。
途中、何も言わずに聴いているから、最後に、質問があるか尋ねると、
「大丈夫よ。理解できたわ」
と、しっかりとした口調が返ってきた。
昔から頭の回転が速く、学舎でも、成績は常に上位だったと思い出す。
苦手な算術を、根気よく教えてくれたこともあった。どうすれば飲み込みやすいか、一生懸命考える可愛らしい横顔。優しい幼い思い出。
あの頃から変わらない、翠緑の瞳を見つめる。男を知った、艶やかな美しい顔が微笑む。相反する、その儚げな貌。触れた先の変化が重なって、背筋がさざめく。
細い身体を抱えて、寝台に横たえると、口づけながら、脚の中心に手を伸ばした。




