表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/69

開かれた扉②

 居室に入ると、一気に視界が明るくなる。

 大きく切られた窓から、夏の日差しが燦々と降り注ぎ、秀麗な親友の佇まいを、精巧な彫像のように浮かび上がらせている。

 さっと、視線で見渡す。アメリアの姿がなかった。

「おはよう。――殿下は?」

 近寄って、挨拶を交わす。職務中の、きびきびとした調子が返ってくる。

「まだ、お(やす)みになっていらっしゃいます。侍女が定刻に伺ったところ、今少し、とのことでしたので」

 珍しさに、心配が過る。

 子供の頃から寝つきがよく、寝覚めもいい。丈夫な性質(たち)で、体調を崩すことは、滅多にないのだ。

 振り返って、部屋の隅に控えている侍女達に声をかける。洗練された所作で、その中の一人が進み出てきた。

「御身体が優れない、というわけではないんだな?」

「はい。今朝は会議がないから、ゆっくり寝たい、と仰いまして。御顔色も、良好でした」

 確かに、ここ最近、商務官や財務官との会議が立て続いた。

 先月からの異例の暑さで、作物に少し影響が出る可能性があり、その対策を練るためだった。そして、昨日ようやく、一段落ついたのだ。理由に納得して、安堵する。

「よかった。ありがとう」

 礼をして侍女が下がると、エルドウィンに向き直って、定例通りに尋ねる。

「状況は?」

「終夜、異状ありませんでした」

「わかった。夜勤ご苦労。報告書は、いつも通りに」

「承知しました」

 敬礼を受けたあと、一瞬視線を交わす。

 穏和に微笑む新緑の瞳。またあとでな、と目で返す。今夜は、職務明けに部下達を連れて、マニュルムの酒場で呑む予定だった。

 扉の前で礼をして、部屋を辞する姿を見届け、朝の出迎えの位置に立つ。

 それからほどなくして、寝室の扉の開く気配がする。いつものように、頭を下げて待つ。扉の開閉する静かな音とともに、微睡んだ声が聞こえる。

「おはよう――あら、フェリックス。少し、寝過ぎたかしらね」

 顔を上げ、薄く微笑んで挨拶を返す。そして、はっと息を呑み、一瞬固まる。咄嗟に後ろを向いた。

「フェリックス……?」

 背後で、小首を傾げる声。侍女の慌てた軽い靴音と、扉が開き閉まる音。

 それを上回るほどに、鼓動が激しく脈打つ音が、身の内で響く。ざわざわと、甘い痺れが背筋を這う。強烈な衝動に固く目を瞑り、呼吸に意識を集中させた。

「殿下、羽織物をお忘れでございます……!」

「あらいやだ。ありがとう」

 侍女の焦った声。アメリアが応えて、羽織を着る衣擦れの音。

 聞いてはいけないと思うほどに、耳がより鋭敏になる。心が、勝手に甘やかな幻を(いだ)く。意識的にゆっくりと深く呼吸して、震える理性を繋ぎとめる。

 永遠に思える少しの間のあと、申し訳なさそうな声がかかる。

「ごめんなさい。驚かせたわね。もう、大丈夫よ」

 気づかれないよう、細く長く息をついて、振り向く。

 胸元まで留め具がかけられ、寝巻きの見えない、いつもの姿。心の中で、ほっと安堵する。碧色の瞳が、意外そうに瞬いて見つめる。

「……私の顔に、何かついておりますでしょうか……?」

 首を傾げて、穏やかに微笑む顔。ほのかに灯る、悪戯っぽい色。

「何でもないわ。――さあ、支度をしなくてはね」

 離れ際、ふわりと、華やかな甘い香りが、鼻をくすぐる。

 食卓に向かう、華奢な後ろ姿。薄手の夏の衣がなぞる、豊かな曲線。今しがたの光景が浮かびかけて、心を閉じた。


 短靴を脱いで放り、そのまま寝台に飛び込む。

 酔ってふわふわした頭に、柔らかな布団が心地いい。洗いたての石鹸の香りが、微かに漂う。

(……呑み過ぎた……)

 突っ伏したまま、ぼんやりと思う。

 職務明け、皆で出かけてから、ずいぶん長居してしまった。もうすっかり夜半だ。明日は遅番だから、ゆっくり寝られる。

 ただ、休日を利用して、朝から鍛練をする予定だったエルドウィンには、とんだ災難だろう。早番の部下達と抜けようとしたのに、強引に引き戻されて、結局、最後までいるはめになってしまった。

(アドルフめ……本当に、酒癖の悪い。どこをどうしたら、あんなふうになるんだ)

 引き止めた張本人を、苦々しく思う。

 普段は軽口を叩いても、場を明るく楽しくするような洒落た言葉を選ぶ。その機微をよく掴む感覚は、才能といってもいいほどだ。

 ところが、酒が入ると、途端に低俗になる。人に絡んで、猥談をまくし立てては、げらげら笑う。

 女っ気の皆無な男所帯では、大いに盛り上がるが、あけすけな話が苦手な兄を巻き込むのは、いただけなかった。

 騒ぎ立てるアドルフの隣で、居心地悪そうにしていたエルドウィン。

 助けてやりたかったが、耳に入る数多の話で、今朝のことを思い出してしまって、それどころではなかった。気を逸らそうと話に加わるうち、とうとう閉店まで過ごしてしまったのだった。

(エルドには、悪いことをしたな……)

 帰りの馬車で、大丈夫か、と尋ねたら、いつもごめんね、と逆に謝られてしまった。

 二人で、なるべく酒量を制御しようと腐心しても、誰かが面白がって呑ませてしまう。結局、酩酊して、後始末を引き受けることになるのだ。

 それでも、兄の肩に寄りかかって、安心しきった表情で寝入る姿を見ていると、なんだか許せてしまうから不思議だ。

 ふと、体勢がきつくなって、仰向けになる。額に当てた手の下から、窓を見遣る。

 月はなく、星明かりが瞬いていた。漆黒の神の眠る朔。命を、吸いきった夜。

 アドルフの騒がしい声が、頭に響く。

 猥雑に語られる数々の行為。その度に、夏の朝日に晒された、薄絹を纏った美しく香る姿が、心に去来した。羽織のない寝巻きの――夫となる男しか、知ることのない姿。

 ずっと、目をそむけてきた。心の奥底の扉に閉じこめて、どうしても向けてしまう視線の理由を、考えないようにしてきた。――それなのに。

 今すぐに抱き締めて、その柔らかな体温を感じたいと、切なく狂おしく、心が震える。ずっと抑えていた、甘やかな幻が立ち上る。抱き締めた先の、果てを思う。

(……もし……俺を受け入れて、名を呼ばれたら――)

 恥じらい震える豊かな姿。上気した白い肌。見つめる、潤んだ碧色の瞳。甘い声。

(どんなに幸せだろう……)

 目尻から、つーっと、涙が一筋こぼれる。どれほど願っても、決して叶わない幻だ。

 血にまみれて、事切れた顔。命が流れ出したように広がった血溜まりに沈む、華奢な身体。

 このまま歩き続ければ、目にするのは、そうした光景だ。

 曖昧にしていた出自が、確信に変わってしまった。

 刑罰以外で、神の生み出した命を奪うことは、神に悖る大罪だ。しかし、神の寵愛を受けた真夜の王ならば、神の意思として赦される。手を下せるのは、王家の嫡子である自分しかいない。

 そして、伯父が、アメリアを無事に引き渡すはずがない。神の元には、決して還さないだろう。燃え狂う炎の中、灰になるまで焼かれるのだ。想像するだけで、息が止まる。

(……できない……俺は……)

 視界が滲む。涙が、とめどなく溢れ出す。たまらなくて、両手で顔を覆った。

 足に絡みつく、重く冷たい枷。巨大な獣の獰猛な咆哮が、頭に轟く。

 あれは、卑しい真昼の娘だと。下劣な王を、突き落とすための道具だと。

 けれど、心に浮かぶのは。

 名を呼んで微笑む、いとしいあの笑顔。

(愛している……)

 しゃくり上げて喘ぐ。心が裂けて苦しい。

 絞り出すように悲泣の声を上げて、ただひたすらに涙した。


 星明かりを拭い去るように、厚い雲が流れていく。視界が、無に閉ざされる。

 神の呼吸が凪ぐ夜。全てに見放されたような、絶望感が心に広がる。茫然と、浅い呼吸を繰り返す。

(……俺は……どうしたら……)

 そこに在るのは、ただ虚無のみだった。一片の命すらない、漆黒の神が生まれる前の世界のような。

 それならいっそ、このまま溶けて、消えてしまいたかった。神の元に還ることもなく、無に沈んで。もう何も、考えたくなかった。

 その果てに、赤く血に染まった道が続いているかのように、涙を流しながら、ただただ無を見つめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ