開かれた扉②
居室に入ると、一気に視界が明るくなる。
大きく切られた窓から、夏の日差しが燦々と降り注ぎ、秀麗な親友の佇まいを、精巧な彫像のように浮かび上がらせている。
さっと、視線で見渡す。アメリアの姿がなかった。
「おはよう。――殿下は?」
近寄って、挨拶を交わす。職務中の、きびきびとした調子が返ってくる。
「まだ、お寝みになっていらっしゃいます。侍女が定刻に伺ったところ、今少し、とのことでしたので」
珍しさに、心配が過る。
子供の頃から寝つきがよく、寝覚めもいい。丈夫な性質で、体調を崩すことは、滅多にないのだ。
振り返って、部屋の隅に控えている侍女達に声をかける。洗練された所作で、その中の一人が進み出てきた。
「御身体が優れない、というわけではないんだな?」
「はい。今朝は会議がないから、ゆっくり寝たい、と仰いまして。御顔色も、良好でした」
確かに、ここ最近、商務官や財務官との会議が立て続いた。
先月からの異例の暑さで、作物に少し影響が出る可能性があり、その対策を練るためだった。そして、昨日ようやく、一段落ついたのだ。理由に納得して、安堵する。
「よかった。ありがとう」
礼をして侍女が下がると、エルドウィンに向き直って、定例通りに尋ねる。
「状況は?」
「終夜、異状ありませんでした」
「わかった。夜勤ご苦労。報告書は、いつも通りに」
「承知しました」
敬礼を受けたあと、一瞬視線を交わす。
穏和に微笑む新緑の瞳。またあとでな、と目で返す。今夜は、職務明けに部下達を連れて、マニュルムの酒場で呑む予定だった。
扉の前で礼をして、部屋を辞する姿を見届け、朝の出迎えの位置に立つ。
それからほどなくして、寝室の扉の開く気配がする。いつものように、頭を下げて待つ。扉の開閉する静かな音とともに、微睡んだ声が聞こえる。
「おはよう――あら、フェリックス。少し、寝過ぎたかしらね」
顔を上げ、薄く微笑んで挨拶を返す。そして、はっと息を呑み、一瞬固まる。咄嗟に後ろを向いた。
「フェリックス……?」
背後で、小首を傾げる声。侍女の慌てた軽い靴音と、扉が開き閉まる音。
それを上回るほどに、鼓動が激しく脈打つ音が、身の内で響く。ざわざわと、甘い痺れが背筋を這う。強烈な衝動に固く目を瞑り、呼吸に意識を集中させた。
「殿下、羽織物をお忘れでございます……!」
「あらいやだ。ありがとう」
侍女の焦った声。アメリアが応えて、羽織を着る衣擦れの音。
聞いてはいけないと思うほどに、耳がより鋭敏になる。心が、勝手に甘やかな幻を抱く。意識的にゆっくりと深く呼吸して、震える理性を繋ぎとめる。
永遠に思える少しの間のあと、申し訳なさそうな声がかかる。
「ごめんなさい。驚かせたわね。もう、大丈夫よ」
気づかれないよう、細く長く息をついて、振り向く。
胸元まで留め具がかけられ、寝巻きの見えない、いつもの姿。心の中で、ほっと安堵する。碧色の瞳が、意外そうに瞬いて見つめる。
「……私の顔に、何かついておりますでしょうか……?」
首を傾げて、穏やかに微笑む顔。ほのかに灯る、悪戯っぽい色。
「何でもないわ。――さあ、支度をしなくてはね」
離れ際、ふわりと、華やかな甘い香りが、鼻をくすぐる。
食卓に向かう、華奢な後ろ姿。薄手の夏の衣がなぞる、豊かな曲線。今しがたの光景が浮かびかけて、心を閉じた。
短靴を脱いで放り、そのまま寝台に飛び込む。
酔ってふわふわした頭に、柔らかな布団が心地いい。洗いたての石鹸の香りが、微かに漂う。
(……呑み過ぎた……)
突っ伏したまま、ぼんやりと思う。
職務明け、皆で出かけてから、ずいぶん長居してしまった。もうすっかり夜半だ。明日は遅番だから、ゆっくり寝られる。
ただ、休日を利用して、朝から鍛練をする予定だったエルドウィンには、とんだ災難だろう。早番の部下達と抜けようとしたのに、強引に引き戻されて、結局、最後までいるはめになってしまった。
(アドルフめ……本当に、酒癖の悪い。どこをどうしたら、あんなふうになるんだ)
引き止めた張本人を、苦々しく思う。
普段は軽口を叩いても、場を明るく楽しくするような洒落た言葉を選ぶ。その機微をよく掴む感覚は、才能といってもいいほどだ。
ところが、酒が入ると、途端に低俗になる。人に絡んで、猥談をまくし立てては、げらげら笑う。
女っ気の皆無な男所帯では、大いに盛り上がるが、あけすけな話が苦手な兄を巻き込むのは、いただけなかった。
騒ぎ立てるアドルフの隣で、居心地悪そうにしていたエルドウィン。
助けてやりたかったが、耳に入る数多の話で、今朝のことを思い出してしまって、それどころではなかった。気を逸らそうと話に加わるうち、とうとう閉店まで過ごしてしまったのだった。
(エルドには、悪いことをしたな……)
帰りの馬車で、大丈夫か、と尋ねたら、いつもごめんね、と逆に謝られてしまった。
二人で、なるべく酒量を制御しようと腐心しても、誰かが面白がって呑ませてしまう。結局、酩酊して、後始末を引き受けることになるのだ。
それでも、兄の肩に寄りかかって、安心しきった表情で寝入る姿を見ていると、なんだか許せてしまうから不思議だ。
ふと、体勢がきつくなって、仰向けになる。額に当てた手の下から、窓を見遣る。
月はなく、星明かりが瞬いていた。漆黒の神の眠る朔。命を、吸いきった夜。
アドルフの騒がしい声が、頭に響く。
猥雑に語られる数々の行為。その度に、夏の朝日に晒された、薄絹を纏った美しく香る姿が、心に去来した。羽織のない寝巻きの――夫となる男しか、知ることのない姿。
ずっと、目をそむけてきた。心の奥底の扉に閉じこめて、どうしても向けてしまう視線の理由を、考えないようにしてきた。――それなのに。
今すぐに抱き締めて、その柔らかな体温を感じたいと、切なく狂おしく、心が震える。ずっと抑えていた、甘やかな幻が立ち上る。抱き締めた先の、果てを思う。
(……もし……俺を受け入れて、名を呼ばれたら――)
恥じらい震える豊かな姿。上気した白い肌。見つめる、潤んだ碧色の瞳。甘い声。
(どんなに幸せだろう……)
目尻から、つーっと、涙が一筋こぼれる。どれほど願っても、決して叶わない幻だ。
血にまみれて、事切れた顔。命が流れ出したように広がった血溜まりに沈む、華奢な身体。
このまま歩き続ければ、目にするのは、そうした光景だ。
曖昧にしていた出自が、確信に変わってしまった。
刑罰以外で、神の生み出した命を奪うことは、神に悖る大罪だ。しかし、神の寵愛を受けた真夜の王ならば、神の意思として赦される。手を下せるのは、王家の嫡子である自分しかいない。
そして、伯父が、アメリアを無事に引き渡すはずがない。神の元には、決して還さないだろう。燃え狂う炎の中、灰になるまで焼かれるのだ。想像するだけで、息が止まる。
(……できない……俺は……)
視界が滲む。涙が、とめどなく溢れ出す。たまらなくて、両手で顔を覆った。
足に絡みつく、重く冷たい枷。巨大な獣の獰猛な咆哮が、頭に轟く。
あれは、卑しい真昼の娘だと。下劣な王を、突き落とすための道具だと。
けれど、心に浮かぶのは。
名を呼んで微笑む、いとしいあの笑顔。
(愛している……)
しゃくり上げて喘ぐ。心が裂けて苦しい。
絞り出すように悲泣の声を上げて、ただひたすらに涙した。
星明かりを拭い去るように、厚い雲が流れていく。視界が、無に閉ざされる。
神の呼吸が凪ぐ夜。全てに見放されたような、絶望感が心に広がる。茫然と、浅い呼吸を繰り返す。
(……俺は……どうしたら……)
そこに在るのは、ただ虚無のみだった。一片の命すらない、漆黒の神が生まれる前の世界のような。
それならいっそ、このまま溶けて、消えてしまいたかった。神の元に還ることもなく、無に沈んで。もう何も、考えたくなかった。
その果てに、赤く血に染まった道が続いているかのように、涙を流しながら、ただただ無を見つめた。




