開かれた扉①
「次代様! どこにいらっしゃるのです……!」
呼びかけながら、広大な裏庭を駆ける。
定刻になっても姿を現さず、自室にもいない。つらい境遇にあっても、めげずに努力してきた子だ。きっと、何かあったにちがいない。
庭の最奥に差しかかる。立ち並ぶ樹々に隠れるように、うずくまる子供の姿が見えた。
足を緩めて、正面に回っていく。抱えた膝の間から、震える声が、悲しく漏れる。
「どうしよう……父さん、母さん、どこにもいない……どこに行っちゃったの……?」
はっとして、立ち止まる。
いるはずのない両親を探して、ここまでさまよったのだろうか。記憶を欠け落とし、ただ親を求めて。
気丈に振る舞っていても、やっと今年の冬に九歳になるのだ。父と母を呼ぶ姿を、悲しく哀れに見つめる。
近寄って膝をつくと、そっと、小さな肩に触れた。
「……次代様」
緩やかに、顔が上がる。涙でぐしゃぐしゃに濡れた、紺青の瞳。痛々しさに、胸が詰まる。
しかし、不思議そうに瞬いてから、きょとんと、首を傾げた。
「あれ……? おれ……なんで、こんなところにいるんだろ?」
一瞬、言葉を失う。動揺をこらえて、穏やかに話す。
「講義の時間になってもいらっしゃらないので、探しましたよ。お屋敷に戻りましょう」
すると、少しの間のあと、勢いよく跪いて、頭を下げた。
「ごめんなさい! なまけるつもりじゃ――気がついたら、ここにいて……」
戸惑って揺れる紺青の瞳。欠けて、こぼれ落ちていく記憶。胸が締めつけられた。優しく諭すように告げる。
「わかっていますよ。大丈夫です。遅れた分だけ、鍛練に励んでいただければ、十分ですから」
「はい……ごめんなさい……」
すっかりしょげた表情に、少し安堵する。いつもと変わらない様子。立ち上がって、そっと促す。
「さあ、行きましょう。エルドも心配して、待っていますよ」
頷いて、立って歩き出す小さな背中を見つめる。屋敷でハンナと待つ、我が子を思う。
(私は、間違っていた……)
王子が生き残ったことを、神の寵愛の賜物だと歓喜した。
真昼の娘を王に戴くなど、決して許すべきではない。王の柱である六貴族を支えることこそ、従家の誇りなのだ。正しきが為されると、道具のように思っていた。
しかし、この小さな子には、何ら関わりないことだ。
両親を突然亡くしただけでも、深く傷つくことなのに、穢れた王家を正統な血によって救う希望だなどと、日々吹き込まれる。幼い心が壊れるには十分すぎるほど、酷な環境だった。
出自を知る者は、当主と息女、そして自分のみだ。
あの日を境に、豪放磊落だった当主は、完全に心を失くしてしまった。
主家の決めた事項に反することはできない。せめて自分は、何も言わずに見守っていようと、心に誓った。
*
「それでは、殿下。私はこれで失礼いたします」
きっちりと礼をして、低く心地よい声が挨拶する。背の高い姿を見上げて微笑む。
「ええ、ご苦労様。よく寝てね」
端正な顔に浮かぶ、優しく穏やかな笑み。爽やかに晴れた晩春の朝の光に、紺青の瞳が深く輝く。
思わず、じっと見つめていると、柔らかに問いかけられる。
「何か、御用がございますか?」
はっとして、大丈夫と伝える。
改めて礼をして、部屋を辞す扉の音。静かな硬い響きを聞きながら、頬が熱くなるのを感じる。とくとくと、鼓動が高鳴って、脈打っていく。
(気づかれたかしら……)
少し不安になって、すぐに、それはないと思い直す。見惚れていたなんて知ったら、フェリックスはどう思うだろう。
手元の書類に、目を落とす。明日の王議の資料。〈太陽の剣〉の勢力拡大を危惧して、広場や沿道での演説を、許可制にする法案だ。
王都の警邏を担うフォルティス家からすれば、全面的に禁止したいところだろう。しかし、印象の強い文言に、父は必ず反応する。法案を作成し提出するシエンティア家としては、段階的に踏み込んで、最終的な到達点に持っていく目論見なのだ。
立太子してから一年半。王議での父の横暴さを目の当たりにして、二十年近く大きな混乱もなくやっていけたのは、六貴族や従家の尽力があったからだと、強く実感した。
逆上しやすい父を宥めつつ、やり繰りしてきた苦労を思うと、娘として申し訳ない思いが募る。
次の書類は、来年の減税案だった。財務官の順番は、法務官の次だから、法案が紛糾すれば、決して通らないだろう。
しかし、度重なる増税に、人々は疲弊し、不満を感じている。〈太陽の剣〉が、少なからず共感を得ているのも、たとえわずかな増税だとしても、生活に直結するからだ。
だからこそ、特に王家は、不必要な贅沢はしてはならないと、それが、神の負託と寵愛に応えることなのだと、強く教え込まれる。
もし、人々が、日々働いて得た給金の使い途を知ったら、憤激するだろう。
贅を凝らした装飾品や衣服。父は、母に毎月のように贈り物をしている。
母は受け取るが、薬の作用で忘れてしまう。むしろ、記憶から消さなければ、より強い薬を服用しなければならなくなる。
積み重なる贅沢品の管理に、周りが苦慮していることは、幼い時から知っていた。
とはいえ、子供の身では、どうすることもできない。ようやく片がついたのは、成人の始まりに立って、フロス街の役割を学んだ頃だった。
フロス街には、目利きの商人や腕のいい職人が多くいる。
当時レガリス隊隊長だったフェリックスに頼んで、ヘンリクスに相談してもらい、最高等級の店を呼んでもらったのだ。
そのままでは、とても一般に販売できる価格で品出しできない、ということで、加工料を引いた値で、払い下げた。代金は、父の手が届かないように、自分の財として貯めて、災害や飢饉の時に使うと、財務官と取り決めた。今もなお、この習慣は続いている。
ただ気を引くために与え、贈ったことも贈られたことも、忘れられる品々。そんな愚かな行為のために、絞り取られる人々の生活の糧。
〈太陽の剣〉の台頭は、蔑ろにされてきた人々の憤りが、熾火から明確な炎に変わった結果だ。きっと、そう遠くない未来に、恨みの炎が、王宮を燃やそうと襲いくる時が訪れる。
優しく微笑む紺青の瞳を思う。真夜の民において、最も高貴で、王家しか持たない色。
王族の子女に現れることがあるものの、ほとんど見られない稀な事例である。
そして、幼い恋心を抱いた、肖像画の王太子。物語のように描いてきた空想。
どうして、クレメンスが、いまだ動かずにいるのかはわからない。しかし、ただ待っていては、何も解決しない。
(確めなれば。大きな災難が、起こる前に)
他人の空似であってほしいと願いながら、日々を過ごしてきた。
確信を持てば、穏やかな時は終わる。それでも、王太女として為すべきことを、無視するわけにはいかない。
側仕えの近衛騎士から、時が告げられる。応じて、侍女に書類を渡し、片付けるよう指示する。
居室を出て、長い廊下を歩きながら、必ず連れていこうと決めた。
見せたいものがあるからと、ついてくるよう言われたのは、明るい夏の気配の感じられる午後のことだった。
王殿の奥へと続く廊下を、躊躇なく進むアメリアに戸惑いながら、斜め後ろを歩く。強い要望に応じて、警護を自分一人にしたことを、少し後悔した。
王殿内は全て把握しているが、ここまで深部になると、記憶するために数回、足を運んだだけだ。自然と不安が募る。
「殿下。あまり奥まで行かれますと、万が一の時に、私一人では対応できかねます。警護の者を増やして――」
「大丈夫よ。子供の頃に、散々通ったところだから。あなただけに見せたいの。もうすぐだから、心配しないで」
振り返って、自信たっぷりに微笑まれ、何も返せなくなる。仕方なく承諾を伝えて、またついていく。
「さあ、着いたわ」
言葉通り、ほどなくして、質素な扉の前で立ち止まった。
確か、物置きとして使われているはずだ。長らく使わず、さりとて捨てられない物を保管するための、開かずの部屋。
アメリアが扉に手をかけ、ともに中に入ると、埃臭さが鼻をついた。
引き裾が汚れないように軽くたくし上げて、ためらいなく進んでいく。そして、最奥にある長方形の物にかかった、埃よけの布を取り払った。
それは、一幅の絵画だった。人の丈ほどはある大きな版。王家のみが許される紺青の正装を纏い、威厳をもって佇む青年の姿が、描かれていた。
「――王太子ルキウス・レクス・ノクサートラ」
額縁に掲げられた札の名を、静かに読み上げる声。碧色の瞳が、問うように見つめる。
「……あなたに、そっくりね?」
言葉もなく、青年の顔を凝視する。朧気だった記憶が、次々と甦る。
冬の古本市。綺麗なエクエスさまに似た行商人。父の、いつもとは違う態度。騎士道物語。恐ろしく燃え盛る炎。助けられなかった母――そして父。最期の、穏やかな笑顔。
それは、紛れもなく父だった。記憶よりも少し若い、父の肖像画。
馬車の中、相対した人は誰だったか。秀麗な顔。柔らかな声が語ったこと。
(……ブラッツは、知っていた……)
古本市で父に出会い、王宮に戻る算段をしていた。
ブラッツは、レガリス隊嫡子付きの従騎士に任命後、パラレ隊の近衛騎士に叙任されたのだ。間違えるはずがない。父に息子だと紹介されたからこそ、自分を連れて、伯父に引き合わせたのだ。
騎士の真似事が、母の血だと言われたことの意味が、はっきりと輪郭をもって、浮かんでくる。そして、この身に流れる血は、王家ノクサートラ家なのだと、冷たく心に染み込んでいった。
「フェリックス……? 大丈夫?」
腕に触れられて、はっと振り見る。心配そうに見上げる碧色の瞳に出会う。
無意識に胸元に――神眼石に手を当てていたと気づいて、腕を下ろす。動揺して、言葉が定まらない。
何も返せずにいると、アメリアが、視線を肖像画に移して、静かに語った。
「まだ小さな子供だった頃に見つけたの。とても素敵で――一瞬で、恋に落ちたわ。結婚するなら、こんな人がいいって、ずっと思ってた」
意外な言葉に、その横顔を見つめる。懐かしむような、穏やかな表情。
「警護をまいて――ユリウスに見つかれば、酷い目に遭うと知りながら、どうしても、会いに行くのをやめられなかったの」
長年の謎に思いがけず解答が出て、不思議な心地で、父の姿を眺める。
まさか肖像画を観るためだったとは思いもよらなかったが、確かに、幼い女の子が憧れるには十分なほど、見事な絵だった。
「そうしたら、そっくりな人が助けに来てくれた。本当に驚いたわ。嬉しくてたまらなかった。ヘンリクスには、悪いことを言ったわね」
あの初春の日。大仰に落ち込む姿が、頭に去来する。思わず顔が綻んだ。
見上げて微笑む、聡明な顔立ち。穏やかな声が告げる。
「あなたは――誰なのかしらね?」
息を呑む。碧色の瞳を見つめる。静かに凪いだ色。
途端、重く冷たい枷が、足にまとわりついて、思わず身を引く。
腰に当たる、鞘の感触。頭の中で、巨大な獣の獰猛な咆哮が轟く。恐怖に、心が戦慄いた。視界がぼやけ、溺れゆく人のように浅く喘ぐ。
助けて、と叫びそうになって、手で口を押さえる。
心が、裂けていく。広がり開く、暗い淵――。
と、名を呼ぶ声が聞こえる。腕を掴む感覚。
縋るように、視線を向ける。仰いで見つめる、碧色の瞳。その勁く、聡明な輝き。
「……殿……下……」
視界が、ゆっくりと定まる。空気が深く、胸に入ってくる。裂けかけた心が融け合わさり、獣の咆哮が遠のいていく。
頬に触れる温かな手。涙を拭う所作に、泣いていたのだと気づく。
優しく柔らかな表情で、アメリアが告げる。
「フェリックス。あなたが何者でも――あなたが、あなたでいてくれれば、私はそれでいい。あなたのままで、傍にいて」
真っ直ぐに見つめる碧色の瞳。温かな思いが、心を満たしていく。
自分が、これまでずっと願ってきたこと。全身に、気力が湧いてくるのを感じる。
ゆっくりと息をつくと、微笑んで応えた。
「従騎士の頃に立てた誓いを、片時も忘れたことはございません。たとえ何があっても、殿下のお傍に――私が必ず、お守り申し上げます」
「ありがとう。私は果報者ね」
幸福に満ちた、聡明で美しい笑み。
はっとして、言葉を失う。心の奥底にある扉が軋む。
アメリアが、扉の方へと歩いて振り返る。波立つ金褐色の長い髪が、さらさらと揺れる。
「さあ、戻りましょう。隊議に遅れたらいけないわ」
我に返って返事をすると、ともに部屋をあとにした。
隊議の定例報告を聞きながら、沸々と湧き上がる哀しみと向き合っていた。
(やっぱり、空想は当たっていたんだわ……)
願いは砕かれ、虚構は確信に変わってしまった。そして、今まで名乗り出なかった意味が、はっきりと立ち上ってくる。
にわかには信じがたいが、おそらく、恩寵の証が失われたのだ。出自が証明できないとすれば、残るは父か自分を懐柔して、王位を明け渡すよう迫るほかない。
あれほど似ているのだから、年嵩の者は気づいているだろうが、父は、英明と讃えられた伯父を激しく嫌っている。下手に騒いで逆鱗に触れれば、何が起こるかわからない。
(だから、クレメンスは、レクス隊ではなくレガリス隊に配属した――)
まやかしを溺愛する父の姿に注がれる、数多の冷ややかな視線。
当時まだ幼かった自分なら、手懐けて利用しやすいと、考えたのだろう。たとえ一縷の望みでも、歪んだ愛情を傾ける娘の言葉なら、聴くのではないかと。
しかし、それが、フェリックスにとっては、苦しみの始まりだったのかもしれない。
口を押さえた武骨な手から漏れ聞こえた、くぐもった微かな声。――助けて、と。
昔、子供の頃の話が聴きたいとねだった時、幼い時は身体が弱かったと、言っていた。王都郊外の療養先で暮らしていて、九歳になる年に、屋敷に戻ったのだと。
おそらく、両親を亡くし、クレメンスに引き取られた事実を隠すための作り話だろう。
十五年の歳月で、二人の間に何があったのかはわからない。
ただ、頼るべき親を失った小さな子供が生きていくためには、養い育ててくれる人が必要だ。そうして、憎悪に燃える炎の中に落ちたとしたら。
(……なんてむごいこと)
隊長の席に座って、部下達からの提案や質問に、的確に答えているフェリックスをそっと見遣る。
普段の平静な面持ち。真剣な表情が一転、部下の意見を褒めて、嬉しそうに微笑む。率直で、飾り気のない面立ち。今の姿が本来なのだと、改めて深く心に迫る。
察しよく気づいて、紺青の瞳が、こちらを向く。
「殿下? 気になられる点がございますか?」
「いいえ、問題ないわ。――続けて」
頷いて、フェリックスが話を再開する。
低く響く、心地よい声。幼い時は本を読んで寝かしつけ、ともに過ごす時を宝物だと抱き締め、暴かれる恐怖から救い出してくれた声。
(あなたが温めて育ててくれた命。その時が来たら、私は喜んで、この身を差し出そう)
たとえフェリックスが望んでいないとしても、王位を継ぐべきは、真夜の王家の嫡子だ。
そして、自分が死ねば、誓いは役目を終え、出自との狭間で揺れる苦しみから解放される。
度を失って、怯え涙するほどに、長い歳月を苛まれてきたのだ。その深い思いが、切なく哀しく、心に刺さる。
(本当に幸せだった。これ以上望むのは、欲張りというものね)
望まれず生まれ、穢れた真昼の娘と疎まれてきた。
それが思いがけず、〈幸運〉に出会い、温かな庇護の下で、慈しみに満ちた日々を過ごすことができた。今度は、自分がこの命をもって返す時だ。
団長が、隊議の内容を簡潔にまとめて締めに入る。承認を伝えると、終了が告げられた。




