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分裂①

 冬の冴えた早朝の青空。冷気を切り裂いて、木剣が唸りを上げる。重い斬撃を斜めに受け止め、体勢を低くしながら滑らせる。

 ほんのわずかに、身体の軸がぶれる。勝機を逃さず、懐に深く入り、腹に力をこめて体当たりする。

 どうと、仰向けに倒れる巨躯。すかさず、丸い切っ先を、反れた太い首に向ける。

「――そこまで!」

 鋭く声が上がるとともに、男達の歓声が鳴り響く。

 荒く呼吸しながら、手を差し出す。乾いた分厚い大きな手。固く握って、引き上げる。

 見下ろす、群青の双眸。重く低い声が、やや乱れた息遣いの中で、降ってくる。

「機を過たなくなったな。いい内容だった」

「……お忙しいところ、ありがとうございました」

 角張った顎が、微かに頷く。差し出された木剣を受け取って、大きな背中を見送った。

 砂利を踏む足音がして、振り見る。審判を買って出たヘンリクスが、興奮冷めやらぬ調子で言う。

「いつ見ても、手に汗握るものだな。しかも、今日は俺の総取りだ」

「本当に()()(うえ)は。父上に知れたら、大目玉じゃ済みませんよ」

 したり顔に苦笑する。

 伯父と試合をすると誰かが聞きつけると、どこからともなく人が集まり、勝者を予想する賭けが始まる。

 許可された賭場以外での賭博は禁止されているから、本来は懲罰の対象だ。

 しかし、私的な試合ということで、うやむやになっている。知らないうちに誰かが主催し始めて数年、もはや暗黙の恒例行事と化していて、止める者もいない。

 困ったことだと思いつつ、それだけ勝敗が見えないという点では、誇らしくもあった。

「稼いだ分、楽しみにしていますから」

「もちろんだ。旨い酒を、たっぷり用意しよう」

 にやりと会心の笑み。明るく笑んで応えると、二振りの木剣を抱えて、装備の片付けに向かった。


 優しい歌声が、鼓膜を震わせる。絹糸と布地がこすれる音。歌の調子を取るように、一定の拍で刻まれる。木枠の中で、優雅な紋様が、一目ずつ生まれていく。

 腕を引く度に、うねる長い髪が揺れ、華やかな甘い香りが、ほのかに漂う。

 伏せられて際立つ、金褐色の長い睫毛。さえずる、ふっくらとした唇。冬の厚手の衣からでもわかる、豊かな曲線。

 絵画のような美しい姿を、傍らに佇んで眺めていた。

 時折、大きく切られた窓の外で、常緑樹の枝先が震えて、雪がさらさらと落ちる。穏やかな午後だった。

 不意に、歌声がやみ、手が止まる。見上げる碧色の瞳。柔らかな声が尋ねた。

「今、何時かしら?」

 腰に提げた小さな鞄から、時計を取り出して告げる。隊議には、まだ少し早かった。移動を加味すれば、出発まであと数分だ。

「あと一曲分ね。あなたも歌う?」

「……御耳汚しでございますから」

 悪戯っぽい笑み。思わず、口調が苦くなる。

 まだアメリアが小さな子供だった頃、寝台の傍らで本を読んだあとに、子守唄をせがまれた。

 幼い時に、エルドウィンにそっと指摘されて、音痴だという自覚はあったから、固辞したものの、結局、根負けしたのだ。

 ごめんなさい、と謝りながら、こらえて笑う顔。微笑ましく見守る、年上の侍女達。あれほど恥ずかしい思いは、この先も、二度とないだろう。

「せっかくいい声なのに、本当もったいないわね。エルドウィンと合唱できたら、どんなに素敵かしら」

 よく通る、伸びやかで透き通った、親友の声。

 人前で歌うことは滅多にないが、従騎士で同室だった頃は、心地よい風景の一部だった。

 羞恥のあまり、思わず水を向けてしまい、翌日職務から帰ってきて開口一番、歌ったよ、と苦笑されてしまった。

 その少しあとのことを思い出して、口を開く。

「そういえば――あのあと、団長に言われて、一緒に歌いましたね」

 いつでもどこでも二人でいるから、芸の能力も同等と思ったらしい。たまたまエルドウィンと同じ当番で、歌を聴いたヘンリクスが、試しに一曲、と要望したのだ。

 話の予想がついたのか、アメリアが、少しおかしそうに微笑む。

「それで、ヘンリクスは?」

「どこをどうやったら、そんな酷い仕上がりになるんだと。本当に、容赦のないものです」

 苦く言うと、とうとう吹き出して、口に手を当てて、ころころと笑う。

 楽しさに煌めく、碧色の瞳。紅潮した白い頬。その美しい様に、緩やかに鼓動が高鳴る。

 笑いを少し含みながら、アメリアが、見上げて話す。

「歌も舞踏もだめなら、あなたはどうやって、女人に恋慕う心を伝えるんでしょうね」

 急な話の展開に戸惑う。

 ただ穏やかに微笑む顔。しかし、どこか問いかけるように見つめる、碧色の瞳。心の奥底にある扉が震えた。

 言葉が出ずに黙っていると、ゆっくりと視線が逸れる。木枠の金具を緩めて告げた。

「――そろそろ行かなくてはね。遅れてしまうわ」

 そして、手早く刺繍針や絹糸などを、木箱に片付けていく。部屋の隅で控えていた侍女を呼んで、いつもの場所に仕舞うよう指示した。

 引き裾を広げながら、緩やかに立ち上がる。歩き出したところで、少し後方に控えてついていく。

 扉の傍らに立っていたアドルフとともに、居室から出た。

 引き裾を踏まないよう、いつも通り、やや距離を取りながら、隊議室への廊下を歩く。

 隣から視線を感じて見遣ると、職務用の真顔――しかし、にやにやと笑う若緑の瞳に出会う。口と手が、静かに素早く動いて、声のない言葉が発せられる。

 ――隊長の歌、聴いてみたいです。

 同じように符丁で返事をする。

 ――お前の火遊びを、ブラッツに言ってもいいんだぞ。

 ――いや、それは勘弁してください!

 ひたすら謝る手の形。会話終了の合図をして、再び視線を前に戻す。

 さらさらと揺れる、金褐色の波立つ長い髪。明日から、四日間の休暇だ。

 傍を離れるくらいなら、休みなどいらない――という思いが、無意識の中で、淡く浮かんで消えた。


 しんしんと降る雪の中を、馬車が慎重に進んでいく。重苦しさと楽しみな気持ちがない交ぜになって、心に渦巻いていた。

 年明けからの二ヵ月間、騎士達は交代で休暇を取る。ヴィクトリアの産後が落ち着く頃に、というヘンリクスの配慮で、期間の半ばになった。

 忙しさに取り紛れて、ヴィクトリアには、なかなか会えずにいたのだ。久しぶりに会えると、心が弾んだ。

 一方で、伯父と話さなければならないと思うと、苦しさに息が詰まった。

 昨年は、冬と夏ともに、迎合したまま過ごしてしまった。今回こそはと、自分を叱咤するものの、おののく心は、なかなか一歩を踏み出そうとしない。ぐずぐずしているうちに出発が遅れ、結局、騎士舎の食堂で、昼を摂ってからになってしまった。

 出迎えたハンナに、外套と荷物を託し、二階のヴィクトリアの居室に向かう。

 伯父は、基本的に日勤だ。早ければ、夕食頃に帰ってくる。それまでは、束の間の安息を享受しようと決めて、扉を叩いた。

 返事に答えてから少しして、下女が恭しく引き開ける。

 部屋に入り、扉が閉まると、暖かさが、冷えた身体を包んだ。赤々と燃える暖炉の傍らのソファで、ヴィクトリアが、赤子を抱いてあやしている。

 近づくと、見上げた顔に微笑んで、祝辞を贈る。

「出産おめでとうございます、姉上」

「ありがとう。久しぶりね。立太子式以来かしら」

 炎に光る青藍の瞳。明るく朗らかな笑顔に、温かな気持ちが灯る。

 促されて、隣に腰かけた。

「無沙汰してすみません。なかなか、身体が空かなくて」

「いいのよ。きっと、ヘンリクスがこき使っているんでしょう。放っておくと、すぐ手を抜こうとするんだから」

 言いように破顔する。皆に恐れられる厳格な近衛騎士団団長も、妻の前では形無しだ。出発前のやり取りを思い出して告げる。

「寂しがっていましたよ。言伝はないか尋ねたら、いつ帰ってくるのか聞いてこい、と」

 本当は、図画は飽きただの、早く抱きたいだの、執務室で二人きりなのをいいことに、言いたい放題だったのだが、照れ隠しなのはよく知っているから、真意だけ伝える。

「あらあら、散らかった家には帰りたくないって、言っておいて。大きな坊やが一番、片付けないんだもの。仕方ないわよね」

 そうよねえ、と微笑んで、赤子に話しかける。

 ふにゃりと笑う、無垢な顔。薄青の大きな瞳が、きらきらと煌めいている。

 屋敷には、使用人がいる。家事には困らないが、主人の書斎や夫婦の寝室は、立ち入らない領域だ。

 気の利いた者が多いものの、奥方の采配がなければ、うまく回らない部分もあるのだろう。あれがいないと家が締まらん、と苦く笑う顔が浮かんだ。

 ひとしきり赤ん坊と触れ合ってから、ヴィクトリアが顔を上げる。そして、優しく穏やかな声で告げた。

「来週には帰るわ。私も早く会いたいって、伝えて」

「わかりました。義兄上も喜びます」

 青藍の瞳が、柔らかく形を変える。幸福に満ちた笑み。互いを思い合う温かさが、心を和ませる。

 ふと、幼い日の夏が胸に過る。顔合わせの昼食のあと、東屋で、二人はどんな会話をしたのだろう。

 子供の頃には気づかなかったこと。問いかけるように見つめる、碧色の瞳。

 無意識に、言葉が滑り出ていた。

「……女人を口説くには――どうしたらいいんでしょうか……」

 青藍が、意外そうに瞬く。それから、おもむろに楽しげな笑みが、満面に広がる。

「まあまあ! あなたから、そんな話が聴けるなんて! どんな方? 姉上に話してみなさいな!」

「ち、違いますっ! ただ、俺は歌も舞踏もからっきしなので、その……」

 顔から火が出る。一体、何を口走ってしまったのか。

 うんうんと頷く顔。じっと見つめる、青藍の瞳。これ以上ないほど、期待に輝く様に負ける。

「聡明で、美しいひとです。楽しく笑う顔が、とても――」

 名を呼ぶ澄んだ声。明るく煌めく、碧色の瞳。さえずるように笑う、聡明な面立ち。甘えて腕に触れる、華奢な手のぬくもり。

 心の奥底にある扉が開こうとして、息を詰める。

 目を伏せて、そっと溜め息をつく。浮かんだ情景が、静かに引いていくのを感じる。

「……あくまで、仮定の話です。誰を妻とするかは、父上が決めることですから」

 腿に置いていた手を、白い手が、柔らかく握る。青藍の瞳が、悲しい色を宿しながら、(つよ)く光る。

「あなたが、自分の道を歩みたいのなら、私はいくらでも力になるわ。――たとえ、お父様の逆鱗に触れるとしても、ね」

「姉上……」

 真摯な思いに胸が詰まる。幼い頃の記憶が、心に浮かぶ。

 屋敷でともに暮らし始めた頃、その優しさに甘えて、つい、苦しいと縋ってしまった。ヴィクトリアは、すぐさま抗議した。

 伯父は激怒し、拳が飛びかけたところを、泣きながら止めた。

 私は大丈夫だから、と抱き締めるヴィクトリアに、一切関わらなくていいと懇願して、伯父には一人きりで向き合うことにしたのだ。

 あれから十五年。もう、あの頃のように無力ではない。

 再び憤怒が向くと思うと苦しかったが、賢明なヴィクトリアのことだ。きっと、うまく切り抜けるだろう。そして、ヘンリクスを嫡子として家系登録すれば、フォルティス家は問題なく存続していく。

 一人で生きる(すべ)も、十分身につけた。平民になっても、やっていける自信はある。――それでも。

「俺は、お守り申し上げると誓いました。裏切るなんて、できません」

 少年の日の記憶が、鮮やかに甦る。

 大きな熊のぬいぐるみを抱いて微笑む、愛らしい小さな王女。繋いだ手の温かさ。

 あの日からずっと、ただ一人を見つめてきた。

 青藍の瞳が見開かれ、ゆっくりと歪んでいく。いつも快活で明るいヴィクトリアの、初めて見る泣きそうな表情。手を握る力が、強くなる。

「どんなことがあっても、あなたは大切な家族よ、フェリックス。それを忘れないで」

 白い手を包み込むように、手を重ねる。真っ直ぐに瞳を見つめて、静かに微笑む。

「あの夏の日に言ってくれたことを、忘れたことはありません。あなたが姉上でいてくれて、俺は幸せです」

 緩やかに、温かな喜色が浮かんでいく。切なく、しかし幸福に満ちた顔。青藍の瞳に、勁い光が宿る。

「可愛い弟。私はいつだって、あなたの心に寄り添うわ。ヘンリクスもきっと、同じことを言うはずよ」

 笑んで、強く頷く。確かな絆が、堅固な支えとして、そこにはあった。

 柱時計が鳴ると同時に、扉を叩く音がする。

 返事をすると、押し開いて、下男が現れる。そして、当主の帰宅と夕食の準備が整ったことを告げた。

 ヴィクトリアが、赤子を自宅から伴ってきた下女に預ける。それから連れ立って、階下の食堂へと向かった。


 話好きなヴィクトリアのおかげで、普段は静かで冷たい食卓は、珍しく賑やかだった。

 満ち足りた思いで、食後の会話を楽しむ。このまま、就寝まで時が過ぎればいいと願った。

 しかし、そんな望みも虚しく、話の区切りで、伯父が、席を立つよう、ヴィクトリアに告げた。

 おやすみなさい、と微笑む青藍の瞳。握った手の温かさを思い出して、少しだけ勇気づけられる。

 それから、伯父に促され、ともに食堂をあとにした。


 書斎に着くと、習慣通り、上座に腰かける。下座に伯父が座り、改まった口調で尋ねる。

「卑しい真昼の娘が、不当に立太子してから、一年余りが経ちました。計画のご進捗は、いかがでございましょうか?」

 群青の双眸を見つめる。感情のない色。

 今は静かなその眼が、これから激烈に燃え立つのだ。このままいつものようにやり過ごしてしまおうかと、弱気が心に訴えかける。次第に、呼吸が浅く速くなっていく。

 恐慌を起こしかけていると察知して、片手で、もう一方の手首をきつく握って耐える。目を逸らして伏せ、意識して、ゆっくりと息をつく。

 先刻のヴィクトリアの言葉が、心に浮かぶ。優しい手のぬくもり。そして、どうして今、向き合おうとしているのかを思い出す。揺れていた心が、くっきりと定まる。

 視線を上げて、おもむろに言葉を押し出した。

「伯父上。もう、やめにしませんか」

 群青が瞬く。

 逡巡するような間のあと、しわの険しく刻まれた顔に、微苦笑が広がる。

「また、左様なお戯れを」

「本気です。俺は、このまま殿下に御即位いただきたい。あの聡明な御方を守り、お仕えするのが、俺の望みです」

 努めて、平静に話す。身体の芯が、怯えて震える。

 それでも、決して逃げないと、強く心に決めたのだ。もう、親を必要とする子供でも、未熟で無力な少年でもない。足裏に力を入れ、厚織りの絨毯を踏み締める。

 沈黙が、部屋に降り注ぐ。妙な静けさに、淡く耳鳴りがする。沸々と湧いてくる恐怖に耐えながら、じっと待つ。

 長い長い、わずかばかりの時。地の底から這い上がるような、重々しい声が響いた。

「……御夜の御寵愛を、裏切られると……?」

 分厚い巨躯が、わなわなと震え出す。群青の双眸が、かっと見開く。大きな口が、一気にまくし立てる。

「我がフォルティス家に対する侮辱は元より、王位は御夜の御寵愛を受けたノクサートラ家が継ぐべきもの! それを、卑しい真昼の娘などに差し出すと仰るのですかッ!」

「確かに、陛下の行いは許し難いことです! でも、殿下には何の罪もありません! 罪のない子の死を、御夜がお望みになるとは思えない! それに、殿下は王妃の」

 突如、絶叫が轟く。獰猛な獣の咆哮が、耳をつんざく。

 巨躯から手が伸びたところを、すんでで躱す。その勢いのまま駆け出して、扉も閉めずに書斎から逃れた。


 扉を後ろ手に閉めると同時に崩れ落ちる。身体が、がたがたと戦慄く。身を守るように膝を曲げて、頭を抱える。苛烈な恐怖に涙すら出ず、喘いで呻いた。

 心が裂けて、暗い淵が口を開くのを感じる。許しを乞う悲鳴が、胸にこだまする。今すぐに貪り壊して、暗い愉悦に溺れてしまいたかった。

 不意に、背後で扉を叩く音がする。返事ができずにいると、そっと呼ぶ声がした。

「次代様、いらっしゃいませんか……?」

 柔和で優しい声。扉を杖に立ち上がり、一気に引き開ける。そして、まるで母を見つけた迷子のように縋りついた。

「……っハンナ!」

 手提げの灯りの持ち手が軋む音。片腕が、そっと背中に回される。

「まあ、小さなお子様のような。木陰には何もおりませんと、申しておりますのに」

 幼い頃から慈しんでくれた、温かな声。柔らかな石鹸の香り。

 ゆっくりと、裂けた心が溶け合わさっていく。震えがやみ、視界が定まる。感情が輪郭を伴って、胸に迫ってくる。

「いたんだよ、確かに……いたんだ――巨大な獣が……」

 目を固く瞑る。涙が溢れた。

 背中をさする感触。柔らかな手に、幼い子供のように安堵しながら、ただ静かに、すすり泣いた。


「ねえ、フェリックス。……そこに、いるんでしょう?」

 か細い月が高く昇る夜半。寝室の扉越しに、アメリアの声が聞こえる。

 こんな夜更けに起きているとは思わず、少し驚きながらも、返事をする。

「いかがなされましたか?」

「ちょっと……来てほしいの」

 何事かと、怪訝に思う。

 警護対象が女人の場合、寝室の不寝番は、就くべき職位が厳格に定められている。

 もう、小さな子供ではないのだ。頼まれたからといって、迂闊に扉を開けることなどできなかった。それは、アメリアも、重々承知のはずである。

 声が通りやすいよう、扉に向き合う。

「申し訳ございません。差し支えなければ、こちらで御用件を伺いたく存じます」

 一瞬の間。息を呑む気配。

 少しして、微かに震えた声が聞こえてきた。

「……フェリックス、お願い……来て……」

 今にも泣き出しそうな、頼りげない声色。これ以上は難しいと判断する。立ち入ることを告げ、扉を開いた。

 寝室は、真っ暗だった。闇に慣れた目で、うっすらと、一人掛けのソファに座る姿を視認する。

 距離を計りながら進んで、一歩踏み出しても、手の届かないところで止まる。

 すると、消え入りそうな弱々しい声が、聞こえてきた。

「本を読んでいたら……灯り油が少なくなっていると、気づかなくて……」

「――今、灯りを点けます」

 理解して、腰に提げた小さな革鞄から、携帯用の手燭を取り出す。折り畳んである柄を伸ばし、打ち石のついた歯車を擦る。

 炎が一瞬、勢いよく揺らめき、小さな光に落ち着く。急な光に、目が眩む。

 慣れるのを待っていると、毛足の長い絨毯を踏む、柔らかな足音が聞こえた。

 そして、胸に軽い衝撃。手燭を掲げて見下ろす。金褐色の波立つ長い髪。くぐもった声が聞こえる。

「ごめんなさい……でも、暗いのは怖くて……」

 騎士服を掴む華奢な手から、微かな震えが伝わってくる。

 すっぽりと胸に収まる、小柄な身体。服越しに伝わる、豊かな弾力。

 不意に、抱き締めたい衝動に駆られる。理性で素早く心を閉じて、平静に穏やかに告げる。

「殿下。灯り油を取ってまいりますので――」

「いや……暗いところで、一人でいるのは嫌っ……!」

 ふるふると、(かぶり)を振る。揺れる、波立つ金褐色の髪。服を掴む手の力が、強くなる。

「……殿下……」

 涙声に困惑する。

 幼い頃は、暗闇を怖がって、寝静まるまで、傍らで本を読んだものだが、それもずいぶん遠い昔のことだ。長じるにつれ、徐々に減っていったから、克服したのかと思っていた。

「ごめんなさい……でも、朔に向かう夜の暗さは、どうしてもだめ……」

 弱々しく、消え入りそうな声。怯えて震える、華奢な身体。引き剥がすこともできず、ただ次の行動を待つ。

「……こんなだから――」

 不意に、きつく身を縮めて呟く。

「あんな目に……遭うのかしらね――夜を怖がるような、親不孝な真昼の娘だから……」

 砂を食むような虚ろな響き。

 鋭い痛みが、心を貫く。強い口調で、否定する。

「そのようなこと、断じてございません」

 はっと顔が上がる。涙に濡れた碧色を、真っ直ぐに見て語る。

「いかなる出自であれ、あのような――」

 八ヵ月前の、あの忌まわしい光景が甦る。怒りの炎が、身の内を焦がしながら、立ち上っていく。無意識に、語気が強まる。

「あんな仕打ちを、受けていいはずがない」

 高く響く哄笑。身体を暴かれ、怯え震える様を喜んで、悦に浸る顔。強く宛がわれた腰。

 憤怒と殺意が、激烈に燃え立つ。

「――叶うことなら殺してやりたい……ッ!」

 きつく食い縛った歯から、絞り出すように呻きが漏れる。

 驚いて瞪る、碧色の瞳。はっと我に返る。

「……失言でした。申し訳ございません」

 アメリアが、強く首を振る。真摯な瞳が見つめる。

「ありがとう……私のために、怒ってくれて。あの時――ずっと、傍にいてくれて」

 柔らかく穏やかな笑顔。潤んだ碧色の瞳が、灯火にきらきらと光っている。身を縛っていた恐怖が溶けるように、強ばった力が抜けていくのを感じる。

 掴んでいた手を下ろして、アメリアが離れていく。そして、いつもの明るい声で尋ねた。

「そろそろ、寝なくてはね。寝台まで照らしてくれる?」

 その調子に、心の中で安堵の息をつく。薄く微笑んで頷き、先導して歩く。

 寝台の傍らに立つと、手燭を小さな棚に置いて、背を向ける。

 羽織を脱ぐ衣擦れの音。布団をはぐる気配のあと、声がかかって振り向く。枕元に置かれた厚い毛織の羽織を、衣服掛けに吊るす。

「それでは、おやすみなさいませ」

 静かな所作で礼をし、手燭を持って、立ち去ろうとする。

 と、服が引っ張られる感覚。首を巡らせて見遣れば、白い指が、脛丈の上衣の裾を掴んでいた。

「ねえ、撫でて?」

 柔らかく甘えた声。じっと見つめる、碧色の瞳。いささか困って、逡巡するものの、

「……少しの間、だけですよ」

 と、先程までの様子を思って観念する。

 手燭を、再び棚に置いて跪く。そっと、緩やかに、金褐色の頭を撫でる。

 嬉しそうに頬を朱に染めて微笑む、美しい顔。幸せに潤んだ碧色の瞳が、うとうとと微睡み始める。

 ほどなくして、静かな寝息が聞こえてくる。少し様子を見て、寝入ったことを確認すると、手燭の灯りを吹き消して、音を立てずに部屋を出た。

 星明かりの中、掌を見つめる。滑らかな髪の感触が、離れずそこにあった。今しがたの情景が、心に去来する。

 華やかな甘い香り。鳩尾に残る、胸の豊かな弾力。服越しに伝わる体温。揺らめく衝動に、息が詰まった。心の奥底にある扉が、震えて戦慄く。

 欲しい、という思いが閃き、咄嗟に全てを遮断する。苦しさと痛みが、心を突き刺した。

 目を閉じて、深く呼吸し、凪いでいくのを感じる。最後に、ゆっくりと吐くと、緩やかに目を開ける。静かな深い夜が、広がっていた。

 一ヵ月前の帰省を思う。

 大丈夫ですよ、と囁く優しい声。

 幼い頃、夜の木立に恐ろしいものが潜んでいそうで、傍にいて、と寝る前にハンナにせがんだ。毛織の窓掛けを閉めて、守りは固めましたよ、と微笑む美しい顔。子守唄を歌い、頭を撫でる柔らかな手。

(俺は……何も、変わっていない……)

 結局、三日滞在したものの、伯父から書斎に来るよう言われたのは、初日のあの一度だけだった。

 出仕している間に、全て余さず成し遂げると書き置きしたのが、効を奏したのかはわからない。ただ、恐怖に負けて決意を翻すみじめさは、心を深く萎ませた。

 そっと、胸元に手を当てる。

 神眼石の硬い感触。どんなに記憶をたどっても、朧気にしか浮かばない父の顔。

 あれほど大好きだったのにと、ずっと不思議に思いながら、心が拒絶の声を上げて、そのままにしてきた。

 出自に確証を持たないこと――伯父に対する唯一の抵抗。もはや自分にできることは、変わらず曖昧な状況で、日々を過ごすだけだった。

(……それでいい。ただ、傍にいられれば……それで――)

 腕を組んで、目を瞑る。薄く意識を残して、緩やかに眠りに落ちた。

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