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凶行②

 けたたましい音を立てて、扉が開く。何事かと、休息を取りながら控える近衛騎士や従騎士達が、顔を向ける。

 部下から日常のことなど聴き取りをしていたところに、エルドウィンが、息せき切って駆けてきた。

「――フェリックスッ!」

「どうした、エルド。何があった?」

 驚きながら、席から立って尋ねる。膝に両手をついて、荒く呼吸する親友を見下ろす。

「宰相様の食堂にっ、早く! 殿下が……!」

 言葉の並びに、はっとする。片膝をついて肩を掴み、先を促す。

「ごめん、僕じゃ対抗できなくて……殿下の居室に続く導線にいるはず――早くッ!」

 その言葉の意味を正確に把握して、ぞっとする。

 アメリアが、ユリウスと二人きりでいる。あの、好色で鬼畜な男と、たった二人で。もし、実行に移すつもりなら。

 一目散に駆け出して、待機室を飛び出し、長い廊下をひた走る。驚いて振り返る人の目も構わず、頭の中で地図を描きながら、最短距離を計算する。

 人気(ひとけ)の少ない暗がり。どこにいるかは、見当がついていた。

(あの下衆は、人を嬲って楽しむ――すぐには、事を起こさないはずだ)

 エルドウィンが全速力で駆けつけた時間と、自分が探している時間。きっと、まだ間に合う――絶対に、間に合わせる。

 何も知らずに、ただ怖い思いをしたと泣いていた二年前。

 しかし今は、身体を暴かれる意味を理解している。それは、どれほどの苦痛と恐怖か。たまらない気持ちで走り続ける。

 片側の視界が開ける。

 一方の壁のない、宰相の執務館に続く渡り廊下。刈り揃えられた下生えの向こう、斜め前方に人影が見えた。目を凝らして、暮れ始めた陽光を透かし見る。

 背を向けて立つ、漆黒の長い髪を束ねた男。足元には、絹地の引き裾が見えた。

(――いた!)

 廊下を外れ中庭に出て、一直線に目指す。目が慣れて、はっきりと姿を視認する。

 アメリアを壁に押しつけて立つユリウス。掴んで反った腰に、股間を宛がうその様はまるで。

「ユリウスッ! 今すぐ殿下から離れろ!」

 激烈な憤怒に頭の芯が痺れる。同時に、急激に冴え渡って冷えた感覚が、鋭敏な思考を支える。

 床は硬い石畳だ。中庭に押し飛ばすには、位置が悪い。

 それに、あの体勢では、角度を過てば、アメリアにも危険が及ぶ。駆け出して、確実に体術で引き剥がせる位置で、足を止めた。

 その様子に、ユリウスが薄く、侮るように嗤う。

「またお前か。本当に、僕の楽しみを邪魔したいみたいだね」

「……殿下から離れろ」

 少しずつ間合いを詰めながら、低く警告する。身の内を、激しい怒りの炎がねぶる。

 愉快げに、歌うように、哄笑が上がる。

「こんなにいいものを持ってるのに、楽しまないなんてな!」

 無遠慮に胸を掴み、腰を強く宛がう。短い悲鳴。激甚に憤怒の烈火が燃え上がる。

「今すぐアメリアから離れろォ――ッ!」

 身の底から絶叫する。鋭い殺意が全身を貫く。剣の柄に手をかけ、構えを取る。

 一瞬、怯んだように、群青の瞳が揺れる。

 緩慢に上体を起こすと、やれやれと肩を竦めながら、両手を上げて、後ろに下がった。アメリアが、糸の切れた人形のようにずり落ちる。

「――っ殿下!」

 すかさず駆け寄って抱きとめる。ふん、と鼻で嗤う声が降ってくる。

「これだから、フォルティスは嫌いだよ。無粋な物を振り回して、遊びを理解しない」

「……遊び、だと?」

 アメリアを隠すように抱えて、睨み上げる。激烈な怒りに、声が戦慄く。

 腕に伝わる、か細い震え。憤激し、怒声を上げる。

「こんなことを強いることがかッ! お前のような下衆、真昼の業火に焼かれればいい!――即刻去れッ!」

 凄まじい気勢にも、何食わぬ顔で肩を竦める。馬鹿にしたように見下ろして、宰相の館へと歩き出していった。

 その背中を、険しい顔で睨む。館の中に姿が消えるのを確認して、おもむろに身を離す。優しく、穏やかな声で尋ねる。

「……殿下、立てますか?」

 今は人通りがないとはいえ、もう日が落ち始めている。仕事を一段落させた人々が通りかかるかもしれなかった。どうにか平静を装って、居室に戻らなければならない。

「……だ、め……膝、が……笑っ、て……ち、ちから、が……」

 か細く小さな声が、切れ切れに答える。歯の根が合わぬように、かちかちと鳴る。呼吸が、異様に浅く速い。

 まずは、息を整えなければ。ゆっくりと、噛んで含めるように囁く。

「殿下。御顔を上げて――私の目を、ご覧になってください」

 アメリアが、緩慢に仰ぐ。

 涙に濡れた頬。色を失くした、大きな瞳。苦しみに喘ぐ口。痛々しい表情に胸が詰まる。顔にかかる乱れた髪を優しくのけて、ひたと瞳を見つめる。

「よろしいですか。私に合わせて、ゆっくりと呼吸してください。さあ――吸って……吐いて……吸って……吐いて……」

 震え喘ぎながらも、一生懸命ついてくる。溺れた者が必死に縋るように、華奢な手が、ぎゅうと腕を掴む。次第に、呼吸が深くなっていく。

「そう、いいですよ――そのまま……吸って……吐いて……」

 低く、穏やかに、声をかけ続ける。息遣いに耳を傾けて、状況を感じる。

 幾度か繰り返した頃、呼吸が緩やかになった。戦慄く震えが治まり、蒼白だった顔色に、赤みが戻ってくる。瞳に、色が灯る。

「……――フェリックス……」

 体温のある声。ほっと息をつく。穏やかに、ゆっくりと話す。

「ここは人が通ります。ひとまず、御部屋に戻りましょう」

 こくりと頷く。優しく促して支える。そして、ともに立ち上がろうとした時、

「……あ……」

 と、小さく声が上がる。俯いた先。

 乱れた衣服から覗く、薄絹の下着と輝く白い肌。豊かな胸から落ち込む、深い谷の陰影。

 すぐに、交差した腕に遮られる。

 視線を上げると、羞恥で真っ赤に染まった顔に行き合う。じわりと、碧色の瞳に涙が滲む。つられて視線を下げたことを、強く後悔した。

 身を引きつつ立ち上がって、背を向ける。口を開く気配に、すかさず言葉を被せる。

「御支度がお済みになりましたら、お声がけください」

 背後で、衣擦れの音がする。今見た光景が、頭にちらつく。

 目を固く瞑り、心を閉じて、ただひたすら声がかかるのを待った。時が過ぎるのが、やけに緩慢に思える。

「……もう、いいわよ」

 ほどなくして、許可の声がかかる。

 振り向くと、アメリアは、静かな面持ちで佇んでいた。

 目元は赤く腫れているが、王太女の顔を間近で凝視する無礼者はそういない。人気に注意しながら進めば、訝しまれずに居室に戻れるだろう。

「では、参りましょう」

 アメリアが、目顔で頷いて歩き出す。後ろに続いて、渡り廊下をあとにした。


 出迎えた侍女達を下がらせて、アメリアはソファに腰を下ろした。力なくもたれかかり、肘掛けにしなだれる。心配に思いながらも、側仕えの控えの配置に立つ。

「……もっと、近くに来て」

 静かな声。応えて、目の前に跪く。

 アメリアが、おもむろに身を起こす。向かい合って、見つめ合う。

「……ねえ、フェリックス」

 少しの沈黙のあと、小さな声が落ちた。

「……触れて……」

 意図を計りかねて、続きを待つ。

 ややして、湖面のように静謐だった顔が、つっと歪む。碧色の瞳に、みるみる涙が盛り上がる。

「あんな男に触れられたのを最後に、一日を終えるのは嫌……っ!」

 はらはらと落ちる涙。茫然と、その顔を見つめる。

 先刻の情景が去来する。その行為。(まばゆ)い白い肌。豊かな胸。

 ざわり、と痺れるような感覚が、腰のあたりを這う。心が混乱した。

「……ご容赦ください」

 ようやく、絞り出すように答える。目を伏せ、(こうべ)を垂れる。

 己の感じた情動が、信じられなかった。強い嫌悪に苛まれながら、ただ、アメリアの言葉を待つ。

 鼻をすする音。長い溜め息が聞こえる。

「隣に座って。……頭を、撫でてくれるだけでいいから」

 顔を上げる。涙に濡れた碧色の瞳。支えなく立つ孤独を噛み締める、哀しい表情。

 苦しさが胸を刺す。動揺していた心が定まる。

「かしこまりました。――失礼いたします」

 静かに答えて、腰を下ろす。

 肩にもたれかかる、華奢な重み。ためらいながらも、そっと、金褐色の髪に触れる。美しく波打つ豊かな髪を梳くように、優しく緩やかに撫でる。

「――……う、して……」

 不意に、かすれた声がこぼれる。

 と、振り向きざま、腕にしがみついて額を押し当てた。

「どうして、こんな目に遭わなきゃいけないのっ……!」

 (せき)を切ったように、声を上げる。大粒の涙が、とめどなく落ちていく。

 高く響く、悲泣の声。聞いているだけで、心が破れて壊れそうな。

 悶え震えながら泣く華奢な姿を、たまらない気持ちで見つめる。その身体と心についた、無数の見えない傷を少しでも癒したい一心で、髪を梳き、頭を撫で続けた。


 夕闇に沈んだ部屋で、緩慢に呼吸する音だけが聞こえる。

 どれくらい、そうしていただろうか。腕にしがみついて、胸に耳を押し当てたまま、じっと動かない。泣き疲れたのか、時折うとうとと、瞳が潤んで揺れる。

 ずいぶん前に下ろした手で、長い金褐色の髪の先を(いら)いながら、その様をただ静かに見つめていた。

 ふと、柱時計の音が、太く長くこだまする。いつの間にか、かなりの時が経っていた。

 無我夢中で忘れていたが、交替前に駆け出してから、そのままだ。

 エルドウィンのことだ。あのあと、すぐに団長に指示を仰いで、部下達を動かしてくれているにちがいない。

 それでも、直接対応したのは自分だ。事の次第を報告する責任がある。アメリアには可哀想だが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。

「……殿下」

 そっと、穏やかに呼びかける。表情が、少しだけ揺れる。しかし動かない。腕にしがみつく華奢な手に、力が入る。

「そろそろ、夕食の時間です。皆が来ます」

「……ほしくない……」

 か細く、小さな声。いつになく弱々しい姿に苦しくなる。

 しかし、何があったか、周囲に悟られるわけにはいかない。優しく促すように、言葉をかける。

「少しでも構いませんから、召し上がってください。食欲がなくても、空腹は心を落ち込ませます。皆も心配しますから」

 返事はない。金褐色の頭を見つめながら、沈黙の中で、静かに待つ。

 しばらくして、おもむろに身を起こして離れていく。ぬくもっていた半身が、途端に冷え冷えとする。心の奥底で、寂しさが切なく浮かんで消えた。

「……フェリックス」

 俯いたまま、囁く声。

「ありがとう……助けてくれて……」

 その優しい音色。心からの言葉に、胸が詰まる。

 未然に防げず、つらい思いをさせてしまった。感謝されるようなことは、何ひとつしていない。苦しさに返せずにいると、聞き逃しそうなほど、微かな声がこぼれた。

「……来てくれたのが――あなたで、よかった」

 それは、どういう意味なのか。

 しかし、尋ねる間もなく、アメリアが顔を上げ、明瞭に言葉を継いだ。

「さあ、行って。ヘンリクスに、報告に行くのでしょう。――あとは、侍女にさせるから」

 態度の落差に、一瞬逡巡する。心配が募るが、行かなければならない。

「承知いたしました。呼んで参りましょう」

 立ち上がり、礼をする。そして、居室の奥、侍女の控え室に続く扉の鐘を鳴らした。

 すぐに、年長の侍女が現れ、心配そうな面持ちで見上げてくる。泣く声が聞こえていたのだろう。声を低めて、早口に告げる。

「少し、おつらいことがあったのだ。今はもう落ち着かれている。夕食の前に、洗面と御髪を整えて差し上げてくれ。私は、団長に報告に行くから、あとを頼む」

「承知いたしました」

 侍女は礼をすると、すぐに振り返って、他の者を呼び出した。

 手早く明かりが灯り、支度が整っていくのを見届けると、居室を辞した。


 重厚な装飾の扉を叩く。誰何に声を張って、明瞭に答える。

「近衛騎士団パラレ隊隊長、フェリックス・クラン・フォルティスです」

 ややあって開くと、親友の姿に出会う。

 職務明けの時間になって、着替えたのだろう。騎士服ではなく、仕官服だった。ずいぶん待たせてしまったと、申し訳ない気持ちになる。

 謝ると、緩やかに首を振った。気遣わしげな表情で話す。

「どうしても心配で。――ほら、団長がお待ちだよ」

 頷き、連れ立って、団長の元へ向かう。

 執務机に詰まれた紙の山の奥で、何やら書類を読み込んでいる。近づくと、書類を持った手で、机の前のソファを指し示される。

「やっと来たか。とりあえず座れ」

 断ってから、二人で向かい合わせに腰を下ろした。

 少しして、ヘンリクスは、手にしていた書類に署名し終えると、がたがたと音を立てて、椅子を引いた。

 中央に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろし、大きく溜め息をつく。

「――それで、殿下は?」

「今は居室で、夕食を召し上がっています。……目的は、昨年ご報告した通りでした」

 団長の顔が、ぐっと険しくなる。目顔で先を促され、被害を必要最低限の言葉で説明する。

 アメリアのためにも、共有などしたくなかったが、王家を繋ぐ大切な身体だ。どの程度手が及んだかは、王太女を預かる立場として、伏せておくわけにはいかなかった。

 口をつぐむと、肩に手が置かれる。真摯な薄青の双眸。静かな声が告げる。

「よくこらえた。……俺なら、確実に斬り殺している」

 はっとする。苦しさに、視界が滲んだ。

 嬲られる姿など、見たくなかった。もっと早く傍にいられたら、あんな恐ろしい思いをさせずに済んだ。

 そして、暴かれた身体を見られてもなお、自分に縋って泣いたアメリアの気持ちを思うと、たまらなかった。

 呼吸を深くして、溢れ出しそうになる感情を抑える。

 波が引いたところで、薄青の双眸を真っ直ぐに見る。手が離れていく。団長が、静かな調子で尋ねた。

「それで、この時間まで戻らなかったのは?」

「傍にいてほしいと、頼まれました」

 薄青の双眸に、理解の色が浮かぶ。

「なるほどな。――エルドウィンに感謝しろ。職務が明けても、今まで代理で働いたんだ。みんな、よく立ち回った。あとで礼を言っておけ」

「もちろんです。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 真っ直ぐに目を見て頷き、深く頭を下げる。そして、労を尽くしてくれた親友に向き合うと、心からの謝意をこめて言った。

「ありがとう、本当に。お前のおかげだ」

 緩く首を振る。

 苦悶に潤む、新緑の瞳。震えを抑えるように、腿に置いた手が、仕官服をきつく握る。声と表情は平静なまま、安堵したように話す。

「君から直接、話を聴けてよかったよ。やっぱり、向こうの言い分だけだと、不安だったから……」

 嫌なものを感じて、静かに問う。

「……ユリウスに、何か言われたのか?」

 新緑の瞳が揺れる。ためらうように、何度か微かに唇を動かして、小さな声で告げる。

「……飼い犬が、主人を呼んだか――って……」

「あの下衆め……」

 憤りに声が荒くなる。噴き上げる怒りを抑えるように、拳をきつく握り締める。

 微かに、新緑の瞳が見開く。少し泣きそうな微笑み。秀麗な顔が曇っていく。

「でも、僕が警護から外れなければ、こんなことにはならなかった。あの時、無理にでもついていれば――」

 声に悔しさが滲む。ヘンリクスが、労るように穏やかに諭す。

「エルドウィン。お前の判断は間違っていない。……こんな言い方はしたくないがな、従家が他家に逆らって、いいことなんてないぞ」

 新緑の瞳が、つっと歪む。悔しさに満ちた顔。

 哀れむようにその様を見つめて、ヘンリクスが深く溜め息をつく。

「全く、次から次へと。長弟の婿入り先だというのに。あの狂気は、一体どこからやってくるんだ」

 それから姿勢を正すと、真顔になり、静かな口調で告げた。

「フェリックス。お前はよくやった。だが、王宮の団長に、何かあったのかと尋ねられてな。他にも、怪訝に思った者はいるはずだ。ほとぼりが冷めるまで、極力出歩くな」

「承知しました」

 頭を下げて答える。顔を上げると、穏やかな薄青の双眸があった。

「疲れただろう。隊の面倒は、ブラッツが見ている。飯食って、少し寝てこい」

「ありがとうございます。そうします」

 意図を察して、有難く受ける。

 今日は夜勤がある。体力的には全く問題ないが、心情的に、再び顔を合わせるのは気が引けていた。アメリアの就寝後、職務を再開しろ、という配慮だ。

 エルドウィンとともに辞し、騎士舎へと帰る。

 なかなか気は晴れなかったが、親友や仲間達と他愛ない話をしているうちに、少しずつ平穏な心が戻っていった。


 灯りが点々と続く廊下。薄闇に沈む中、自室の扉の前で、立ち止まる。隣の部屋に足を向けた親友を呼ぶ。

「エルド、大丈夫か?」

「何が?」

 いつもの調子で微笑む顔。新緑の瞳の奥に沈む色を見て、このまま行かせてはいけないと、切に悟る。

「さっき、震えていただろう」

 はっと、目を瞪る。

 秀麗な顔が歪み、否定しようと口を開いたところを、抱き寄せる。

「無理するな。――俺は、何があっても、お前から離れないから」

 仕打ちを知って向き合ったあの日、約束した言葉。

 抱き締める腕に力をこめる。ぎゅっと、背中にしがみつく手。戦慄き震える感触。かすれた声が、鼓膜を哀しく打つ。

「……よかった……間に合って――本当に、よかった……っ!」

 言葉の意味が、心に突き刺さる。

 呼び出しに出かける姿を、幾度か目の当たりにしながら、止められなかった。当番で、一緒に部屋にいなかった夜にも、きっと。静かに、ゆっくりと壊れていく様子に、おかしいと思って気づいた時には、もう遅かった。

 心を振り絞るように泣く親友を、ひたすらに抱き締めて、同じ過ちは決して繰り返しはしないと、固く心に誓った。


 *


 晩秋の浅い光が、部屋を淡く照らす。まだあどけなさの残る少年が、光の当たらない隅に置いた机で、図鑑を熱心に読んでいる。

 扉を叩く音に返事をすると、痩躯の少年が姿を現した。青藍の瞳が、嬉しさに煌めく。

「兄上! めずらしいですね。どうされたんですか?」

「ちょっと入り用でね。お前の知識を借りたくて」

 弟の顔が、一気に華やぐ。

 政事にも祭儀にも、宰相の務めに関するあらゆることに通じている上、社交的で誰からも好かれている兄が大好きだった。

 そんな兄が、知識を必要としてくれるなんて。嬉しさに、胸がはちきれそうになる。

 宰相の次男でありながら、シエンティア家の学者のように、日がな一日思索に励んでいることを、父はよく思っていなかったから、なおさらだ。

「何を、お調べに?」

「毒についてね。ほら、茸もあるだろう――食べると、腹を壊すものが。人に効いて、御夜の御元へ還せるくらいのがほしいんだ」

 弟の顔が曇る。不安に、青藍の瞳が揺れる。励ますように、優しく兄が微笑む。

「家に関わる大切なことなんだよ、ダヴィド。還ってくれた方が、幸せな時もあるんだ」

 戸惑って、逡巡するように、弟が俯く。

 顔を上げて、じっと兄の群青の瞳を見つめてから、押し出すように、そっと言った。

「……キノコですと、確実性にとぼしいです。それなりの量を食べないといけませんから、その……いろいろと、難しいですし――」

 ためらって、言葉が途切れると、兄は優しく頷いて促す。

 少しの間のあと、弟が話を続ける。

「爬虫類や昆虫の持つ毒が、有用だと思います。猛毒が多く――針などにぬりこめば、力がなくても、あつかいやすいかと」

「それはいいね。どんな動物が使える?」

 青藍の瞳がほんの少し、不満げな色を宿す。訂正すべきか悩むように、口を微かに開け閉めしてから、遠慮がちに答える。

「……ぼくは、専門外ですので……」

「誰か、知ってそうな人はいないかな?」

 途端、あどけない顔が、ぐっと引き締まる。

 普段は温厚な少年の表情が、一人の男の面立ちになる。尊敬する兄を慕う気持ちの狭間で揺れて、青藍の瞳が、うっすらと滲む。

「……います。医務官のご長女が、生物毒にくわしいです」

「ああ、法務官の長弟の。文通をしているんだったね」

 兄の群青の瞳をじっと見つめて、弟が頷く。不安を隠すように、机の下で拳を握り締めて告げる。

「今、ちょうど手紙が届いたところですから、聞いてみます。時間がかかりますが……大丈夫ですか?」

「もちろんだよ。せっかくの楽しみなのに、邪魔して悪いね」

 ありがとう、と優しい口調で言う兄にほっとして、弟も笑みの表情をつくる。

 兄を見送ると、少年の細い身体が震え始める。泣くまいと、口を引き結んでこらえるも、青藍の瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

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