婚約破棄されたなら結婚しようと、推しが外堀を埋めてきます。
***
「婚約を解消したいんだ」
突然の申し出に、ハンナはぽかんと口を開けた。
胸元まで伸びた栗色の髪と大きな碧色の瞳。それは、王都でいちばん多い髪と瞳の色の組み合わせ。
ハンナは、見た目もだが、普通を自負する男爵令嬢だ。
ここは街のカフェテリア、開放感のあるテラス席。
ハンナの向かいに座るファビアンとは、生まれる前からの婚約者だ。
ふたりの婚約は、親同士の利害が一致した結果だった。
まるで兄妹のように育ってきたので、ハンナにとってファビアンは家族のような存在だった。恋愛感情はなくても、彼とならいい家庭を築けるだろうと考えていた。
たった、数秒前までは。
「僕の両親には了承を得ている。ハンナが受け入れてくれるなら、明日にでも君の家へ伺って謝罪するつもりだ」
ハンナは口を開けたまま、無言。
ファビアンは眉間に皺を寄せて神妙そうな面持ちで続ける。
「僕は、テレサ嬢のことを愛してしまった。……真実の愛が存在することを知ったんだ」
くるくるとカールしている金髪を指先で弄りながら、ファビアンが瞳を伏せる。
まるで、恋愛劇の主人公のように芝居がかった口調だった。
(テレサ嬢……。つまり、お相手は伯爵家のご令嬢。なるほど)
ハンナの父は男爵だが、爵位は一代限りのもの。
貿易商であるファビアンの実家にしてみれば、伯爵家と繋がりができる方がありがたいのだろう。
「分かったわ。婚約は解消しましょう」
「……ありがとう。君には申し訳ないことをしたと思っている。せめて、幸せになれるよう願っているよ」
何故だか婚約破棄を申し出てきたファビアンの瞳が潤んでいる。
ハンナの小さな溜め息は、冷めかけの紅茶の上に落ちた。
***
つつがなくハンナとファビアンの婚約は解消された。
それはもう、拍子抜けするくらいに。
しかし恋愛感情が存在していた訳ではないので、ハンナの日常は変わらない。
――変わらない、はずだった。
「ハンナ! 大変よ!」
職場へ出勤すると、同期のゼルマが駆け寄ってきた。
赤みを帯びた栗色の髪が特徴的な彼女は、感情が豊かで喜怒哀楽の表現が激しい。
学生時代から仲がよく、ファビアンとの婚約破棄も一番に報せた。本人以上に怒り狂ってくれたおかげで、かえってハンナは冷静になれた。
ゼルマの碧色の瞳が必死に何かを訴えようとしている。
ハンナは首を傾げた。
「おはよう。どうしたの、朝からそんなに慌てて」
「掲示板、見てないの? ハンナに辞令が出てるの」
「辞令?」
するとタイミングよく初老の上司がハンナの後ろから声をかけてきた。
「シュミッドさん。君には今日付で別館へ異動してもらう」
「別館!?」
ハンナは婚約解消のときでさえ出さなかった大声を上げてしまった。
そのまま勢いよく肩越しに振り返ると、上司が首を縦に振った。
(待って。別館ということは)
ハンナの勤め先は古代魔法の研究所。
現在の部署は、古文書の解読チーム。
古代と冠してはいるが、現代において魔法を行使できる人間のほとんどが王族であり、現代に汎用性の高い魔法技術を復元させることが研究所の使命だ。
別館というのは、強力な古代魔法を行使できる魔術師の研究所兼住居。
ただの職員が立ち入れるような場所ではない。
「どどど、どうしてわたしなんかが」
「魔術師殿が直々にご指名されたのだ。ということで、すぐに荷物をまとめて別館へ行ってくれ。送別会は改めて開かせてもらうよ。それにしても惜しい人材を持っていかれるんだ、ふたりは補充してもらわないとな」
「課長。ふたりじゃ足りませんよー」
ゼルマが口を尖らせる。
そしてハンナをぎゅっと抱きしめてきた。
「ハンナ。一緒に働けなくなるのは寂しいけれど、おめでとう」
「……ゼルマ……」
ハンナは心臓の鼓動がどんどん速くなるのを感じていた。
(こんなことって、ある? 世の中ってほんとうまくできてるわ)
ゼルマが『おめでとう』と言ったのには理由がある。
魔術師、イエルクこそ――ハンナが古代魔法に興味を持つようになったきっかけの大人物なのだ。
人付き合いが苦手であまり大衆の前に出てこないイエルク。
ハンナは彼をひそかに推しと呼び、少しでも情報を集めようとしてきた。
魔法薬草の交配に力を注いでいるといった基本情報以外にも、たとえば。
常に黒い服を着ていると知ってからはなるべく黒い服を着るようにしている。ちなみに今日は白いハイネックに黒のジャンパースカートを合わせている。
酒よりも紅茶が好きらしいと耳にしてからは、酒を断ち、紅茶を飲むようになった。おかげで紅茶には詳しくなった。
少しでも推しに近づきたいというささやかな想い。
それはハンナの日常の中心でもあり、婚約破棄されても落ち込んでいない理由でもあった。
上司の指示通り、ハンナは急いで荷物をまとめた。
弾む気持ちを押さえようとするものの足取りは軽く、気づくと口角が上がっていた。
少ない荷物を抱えて別館へ辿り着く。
無機質な本館と違ってレンガ造りの別館はまるで住居のような見た目をしている。アシンメトリーな外観で、切妻屋根にはレース編みのようなバージボード、フィニアルには王家の紋章。
張り出した出窓は応接室のものだろうか。
鷲を模したドアノッカーで扉を叩く。
反応はなかったが、ハンナは扉を開けて恐る恐る足を踏み入れた。
内側から、冷たく澄んだ空気が流れてくる。
ハンナは息を呑んだ。
(すごい……! 館内に魔法が満ちている……!)
普通の人間では感じ取ることのできないだろう気を受けて、ハンナの胸はさらに高鳴る。
まるで美術館か、博物館のような荘厳さがあるエントランスホール。
照明は極限まで絞られていたが、魔法が満ちているからなのか暗さを感じない。
「!」
ふわっ、と何かが階段から飛ぶように降りてきた。
ハンナの頭くらいの大きさのそれは、グレーがかかった長い毛足で覆われた謎の生物。
(図鑑で似たものを見たことがある。古代魔法生物の一種。すごい、本物だ!)
ハンナには、仲のいいゼルマにも元婚約者のファビアンにも打ち明けていないことがある。
見えるのだ、魔物が。
幼い頃は見える人間の方が少ないということを知らず変わり者扱いをされていた。
流石に大人になった今では、見かけたとしても反応しないようにしている。ありがたいことに街中にはいないので、研究所内で万一遭遇しても無視するだけで済んでいる。
どうすべきか一瞬迷ったが、ここは魔法学研究所の別館。
見える方がいいだろうだと結論づけて話しかけた。
「はじめまして、わたしはハンナ・シュミッド。今日からここであなたのご主人様のお世話になる予定です」
見えることで敬われるのは、魔術師くらいだ。
普通の人間では気味悪がられるだけ。
だから、ずっとハンナは魔術師イエルクに憧れていた。
――もしも自らに魔術師となれる素質があったなら、イエルクのようになれただろうか?
かつてはそんな風に考えたこともある。あくまでも、仮定の話だが。
ふわふわ。ふわふわ。
謎の生物はハンナの目線で浮かんでいる。
「宜しくお願いします」
謎の生物はこくこくと頷くようにしてから元来た道へと飛びはじめた。
「ついてきて、ってこと?」
ハンナは階段を昇り、廊下を奥へと進む。
薄暗いが足元に不安はなかった。
最奥の扉前で案内役は止まる。ここが目的地だと示すように揺れた。
「案内してくれてありがとう」
唾を飲み込み、深呼吸。
背筋を正してから、ハンナは扉をノックした。
「ハンナ・シュミッドです。辞令をいただき、今日から別館へ異動してまいりました」
「入れ」
扉の奥から、感情の読めない低い声が聞こえてきた。
大きく心臓が跳ねる。
(推しの声……! む、無理!!)
自分を招く声に、なんとか平静を装おうと努める。
もう一度深呼吸をして、ハンナはゆっくりと扉を開けた。
「失礼します」
整然とした執務室は、ハンナのイメージ通り。
大きな窓の前にある執務机。
ひとりの男が椅子に腰かけて、机に両肘をつき、組んだ手の上に顎を載せていた。
真っ黒なローブを身に纏っていて、白い手袋を嵌めている。
すっと通った鼻梁に、整った唇。それらはまるで彫刻が人間に変化したようだと称されている。
髪の色は淡い金。前髪は眉上で綺麗に切り揃えられている。
縁のない眼鏡の奥からハンナを見上げる瞳の色は、濃い金色だ。
(なんて尊い御方……!)
拝みたくなるのをひたすらこらえて、ハンナは真顔を保つ。
見事な直立不動で扉前に立った。
「よく来たな。私がイエルク・ツー・アインホルンだ」
白皙の表情からは何の感情も読み取ることができない。
そっけない態度だったが、ハンナは気にしない。
魔術師イエルクは精霊王の血族であり、現代では数少ない魔法行使者。
人嫌いで、俗世とのかかわりは極力絶っている。
そもそも彼は古代魔法以外に興味がない。
すべて、魔法学協会内でまことしやかに囁かれている話だ。
これまで、別館に他人を常駐させるなんて聞いたこともなかった。
ハンナが呼ばれたのは異例中の異例。恐らく、新たな噂の種となるに違いない。
「ハンナ・シュミッドと申します」
ハンナは敬意を最大限に表して挨拶した。
「いたらない点も多いかもしれませんが、一日でも早く業務に慣れるよう邁進しますので、どうぞよろしくお願いします」
「堅苦しい挨拶は不要だ。隣に部屋を用意したので自由に使うといい。ここへ辿り着いたということは、デッケを認識できるのだろう? 館内のことはデッケに訊け」
ちらり、とイエルクが宙に浮かぶ謎の生物を一瞥した。
どうやらデッケというのが名前らしい。しかしその正体については詳しく聞かない方がよさそうだ。
「君の卒業論文はすばらしい着眼点だった。古代魔法において紙は重要なファクターだ。ここでの研究内容は任せる。思う存分、力を注いでくれたまえ」
「は、はい」
学院を卒業したのは二年前のことだ。
つまり、その頃からイエルクはハンナのことを知っていたという意味にも取れる。
(推しがわたしのことを認識してくれていたなんて。どうしよう!?)
今日の出来事はひとつ残らずゼルマへ報告しなきゃとハンナは決意する。
そのときだった。
「ここでは永久就職する気持ちで働いてくれ」
「永久就職」
ハンナは思わずイエルクの発言を反芻してしまった。
(待って。永久就職って、結婚って意味……落ち着いて、落ち着くのよハンナ。人嫌いの魔術師様がそんな言い回しを知っているとは思えないわ。これは言葉通りの意味でしかないんだから)
瞬きする間になんとか冷静さを取り戻し、ハンナは「がんばります」と答えて執務室を後にした。
***
別館の地下には温度と湿度が管理された図書室がある。
ハンナは一日のほとんどを、古い紙のにおいが詰まったそこで過ごした。
きちんと分類された書物を一冊一冊調べているとあっという間に時間が経つ。
ある日のこと、イエルクが図書室に現れた。
「もう終業時刻はとっくに過ぎているぞ」
「イ、イエルク様!?」
「仕事熱心なのはいいが、程々にしろ」
館の主だからどこに現れてもおかしくはないのに、ハンナは驚きすぎて声を裏返してしまった。
「申し訳ありません。残業代は要りませんので」
「馬鹿か。働いた分は、きっちりと払う」
すみません、とハンナは頭を下げる。
「この一冊だけ確認したらすぐに帰る支度をします」
「そうか」
すると、イエルクはハンナの向かいに腰かけた。
ハンナは彼のローブの下が立襟の祭服であると初めて気づく。もちろん、色は黒だ。
しっかりと目に焼きつけて記憶に留めておこうとしたとき、イエルクが口を開いた。
「ならばそれを見届けることにしよう」
咎めているようには聞こえないが楽しそうにも聞こえない。
しかも宣言通り見つめてくる。視線が、ハンナを追ってくる。
(緊張して仕事が進みません!)
しばらくはなんとか気にしないように努めていたが、沈黙に耐え切れずハンナは口を開いた。
「わたし、イエルク様に憧れて魔法学研究所に就職したんです」
特に反応はなくても、かまわずに続ける。
「覚えていらっしゃらないと思いますが、イエルク様に助けていただいたことがあるんです。子どもの頃、父に連れられて黒い森へ行ったときに好奇心からはぐれてしまって、迷子になってしまったんですよ」
黒い森。国境にある魔力に満ちた空間のことだ。
足を踏み入れることのできる人間は限られている。それでも、我儘を言ってハンナは父親に連れて行ってもらった。
「途方に暮れていたわたしを助けてくれたのがイエルク様でした。もちろん当時はお名前を存じ上げてはいませんでしたが、父に調べてもらいました。古代魔法学を研究している学生だと知り、わたしもその道へ進もうと決意したんです。だから、こうやって同じ空間で働かせていただけることが光栄です」
イエルクに助けてもらわなければ、黒い森で命を落としていたかもしれない。
そして、助けてもらったことで将来の進路が決まった。
伝える機会は訪れないと思っていた、感謝の気持ちだ。
「手を動かせ」
「す、すみません。退屈なお話しでしたよね、忘れてください」
「覚えている」
へ、とハンナは間抜けな声を出した。
イエルクはやはり黄金の瞳でハンナのことじっと見つめていた。
本物の黄金よりも濃く、深い色を湛えた瞳だ。
「あのとき私は魔法野草採取のために森を訪れていて、君を見つけた。魔物たちと楽しそうに遊んでいただろう? そもそも見える人間なぞ珍しい上に、多くは異形を恐れるものだ。だというのに、君は笑っていた」
(それは……)
ハンナは息を呑んだ。
黒い森へ行ったのはそれが最初で最後だ。
しかし魔物たちはどれも優しかった。その印象のおかげで、後々苦労するはめになったのだが。
「もしも危害を加えられそうならば魔物を倒そうと思っていたが、あれらはそのまま去って行ってしまった。そして、独りになった君は……泣いていたな」
「イエルク、様……?」
「目が離せなかった。だから助けた。それだけのことだ」
大人になってからは省いてきた説明。
それを見事に記憶されていたことに、恥ずかしさ以上に喜びが勝ってくる。
「君の父には随分と感謝された。だから、もし娘が魔法学に興味を持つことがあれば全面的に支援させてほしいと申し出ていた」
こほん、と咳払いをひとつ。
「だから、君がここへ異動してくれて、私はとても嬉しいのだ」
***
次の休日、ハンナはゼルマを誘って中央広場にいた。
噴水の見えるベンチに腰かけて、屋台で買った蕎麦粉のクレープを頬張る。中には甘辛い肉と野菜がたっぷりと詰まっていて、ほかほかと湯気を立てている。
空は青く澄み渡り、そよ風は頬を撫でていく。
噴水の水しぶきはきらきらと煌めいていた。
人々の笑い声が、心地いい音楽を奏でているようだ。
「一日中地下にこもって疲れない?」
「全然。むしろ、すっごく楽しい」
「たしかに瞳が輝いてるわ」
ゼルマは苦笑いするもののどことなく嬉しそうだ。
ちなみに、ハンナの後任はやはり二人の補充がされたらしい。
「推しと一緒の職場っていうのもいいんでしょうね」
ハンナはすぐさま首を横に振る。
「イエルク様は執務室にこもっているか王城に移動しているかだから、あまり顔を合わせはしないわ」
「あ、そっか。忙しそうだもんね。流石は魔術師様」
「というかそれぐらいでちょうどいいというか……。だって、信じられないんだけど、子どもの頃の話を覚えていてくださったの」
(ちっともうれしそうじゃなかったけれど、『嬉しい』って言ってくれた)
流石にそれを打ち明けるのは恥ずかしい。
しかし思い出すと恥ずかしさが募って、頬が熱くなる。
「すごい! それって、運命じゃない!?」
「……なのかな……」
「そのまま結婚しちゃえばいいのに。だって、永久就職するようにって言われたんでしょ」
「ごほっ」
ハンナは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになりつつ、堪える。
「イエルク様はきっと、永久就職っていう言葉がプロポーズの婉曲表現だって知らないのよ」
「浮世離れしてるし、それもそうね。――ハンナ」
突然ゼルマの声のテンションが下がったので、ふしぎに思ってハンナは顔を上げた。
「振り向いちゃだめ。ファビアンと伯爵家のご令嬢が歩いてくる」
「あれ? ハンナ! 久しぶり!」
ゼルマの気遣いも虚しく、声をかけてきたのはファビアンだった。
肩越しにハンナが振り返ると、元婚約者は満面の笑みで右手を上げてきた。なお、左腕はいかにも可憐そうな伯爵令嬢と組んでいる。しかも、べったりと寄り添っている。
「……久しぶり。元気そうね」
顔を引きつらせつつ、なんとかハンナは言葉を返した。
ファビアンの横ではおどおどとした様子でかわいらしい女性がこちらを伺ってきている。
「そちらがテレサ様?」
「あぁ。テレサ嬢、彼女がハンナだ。僕たちの真実の愛を誰よりも祝福してくれている」
「初めまして、ハンナさん。この度はわたくしのために身を引いてくださって、感謝してもしきれません。ハンナさんのためにも、わたくしたちは幸せになろうと思います」
「はぁ」
テレサが瞳を潤ませている。
もはやファビアンたちのことはどうでもよかったので、ハンナは生返事しかできない。
「偶然だけど挨拶もできたし、行こうか」
「はい、ファビアンさん。では、ごきげんよう」
「……ごきげん、よう」
仲睦まじく去って行くふたりの背中を見つめて、ハンナは盛大に溜め息を吐き出した。
「大丈夫?」
「平気平気。なんか、会話が通じないってこういうことなんだって勉強になったから。……!」
ハンナはファビアンの肩に黒いもやがかかっているのに気づき、目を見開いた。
(なんで街中に魔物が!?)
魔法学研究所内ならともかく、黒い森以外に魔物が出現することはない。
ゼルマの心配とは別の意味でハンナは冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
動悸も速くなっていくが、深呼吸してなんとか落ち着こうとする。
(イエルク様に相談しよう。このままだと、ファビアンが危険に晒される……!)
***
出勤して開口一番、ハンナはイエルクに魔物の件を話した。
「それで?」
興味なさそうに切り捨てるイエルク。
塩対応なのは承知していたものの、ハンナはぐっと食い下がる。
「魔物を退治したいんです。今は一体だけかもしれませんが、他の魔物を呼び寄せるかもしれません。そうしたら王都は危険に晒されます」
「君を貶めた張本人を助けたいなんて、お人よしが過ぎる。まだあいつに未練があるのか?」
イエルクは立ち上がって、ハンナの前まで歩いた。
向かい合うとハンナより頭二つ分背が高い。
(イエルク様、怒っている……?)
「俺の方が、……君のことを好きなのに」
「えっ?」
唐突な発言にハンナは瞬きをして口をぽかんと開けた。
「今、なんて」
「黒い森で初めて会ったときから惹かれていた。君がここへ初めて来たとき、プロポーズだってしただろう」
「……それは、言葉通りの意味かと」
「言葉通りの意味だ。それに、仕事に対する姿勢も申し分ない。そんな君を、ますます好きになっている」
(ま、待って!?)
「君と一生を添い遂げたい。本人が了承すればかまわないと、男爵の許可は得ている」
今までの寡黙さが嘘のようにまくしたてるイエルク。
へなへな、とハンナはその場に崩れた。
「ハンナ!?」
(あぁ、だからお父様はファビアンの婚約破棄に対して何も言わなかったんだ。じゃなくて)
腰の抜けてしまったハンナに、さっきまで強気だったイエルクがうろたえている。
(ずっと『君』呼びだったのに。今、名前を呼ばれてしまった……?)
「立てるか? すまない。朝一番に元婚約者の話をするから、つい……」
差し出された手のひら。
ハンナが恐る恐る手を載せると、そのまま引っ張られて、勢いよく胸元に引き寄せられる。
かすかな薬草の香りが鼻をくすぐった。
突然抱きしめられて、ハンナの頬は一気に紅く染まる。
(今何が起きているの!? 無理! 無理すぎる!)
混乱するハンナをよそに、イエルクはハンナの背中へ回していた両腕を離すと、両肩の上に置いた。
「返事は急がなくていい。どうにも、自分は言葉が足りず……申し訳ない」
「……驚きました」
心の整理はついていない。
しかし、どうしても訂正しておかねばならないことは、ある。
「ただ、誤解しないでほしいのは。わたしは、子どもの頃からファビアンに恋愛感情を抱いたことがないということです」
魔物が見えることで傷ついてきた幼少時代。
そこへ光が射したのは、イエルクと出会ってからだった。
おかげで職を得て、今や、その恩人のもとで働いている。
「わたしにとって世界の中心は、イエルク様。あなたです」
だから、ハンナの選択肢はひとつ。
「魔物を見たのがファビアンの肩の上だろうと、見ず知らずの人だろうと、わたしは同じようにイエルク様に相談していました。どうか、力を貸してもらえませんか?」
深く、ハンナは頭を下げた。
顔を上げたとき、イエルクは、普段通りの冷静なイエルクに戻っていた。
「ならば私に提案がある」
***
「……目眩がする……」
「あの、無理なさらないでください。わたしひとりでもやれます。たぶん、きっと」
「そんな訳にはいかない」
発言は強気だが、黒いフードを目深に被ったイエルクの顔は若干青い。
別館と王城の往復だけしかしていない魔術師にとって、街に出るのは一仕事らしい。
それでも瞳が合うと、イエルクの表情がふっと和らいだ。
「ハンナがいてくれるなら大丈夫だ」
「……!」
(今、微笑んだ!? 破壊力がすさまじくて、魔物の前にわたしがやられそうなんだけど!?)
「は、はぐれないように手でも繋ぎますか?」
(って、わたしったら何を!)
「そうさせてもらおう」
そっ、とイエルクが手袋越しにハンナの手に触れて、そのまま指が絡む。
触れた瞬間とは対照的に、力強く握られた。
(イエルク様! それは恋人繋ぎというやつです!)
「元気が出た。さぁ、向かうとするか」
「……はい」
(死ぬ。推しの過剰供給で死ぬ)
真の意味での死を感じてはいないが、確実に寿命は縮まっているような気のするハンナである。
(だめだ。さっきから思考回路がおかしい。今は職務中なんだから、しっかりしないと)
そんなふたりが向かうのはファビアンの職場、つまり役所。
「「「魔術師イエルク様!?」」」
黒ずくめの魔術師の登場に役所は騒然となった。
本来、こんな場所に現れるような人間ではないからである。
明らかに上役の男性が目の前に飛び出してくる。
「イエルク様。本日は一体どのようなご用件で」
「ファビアン・シュナイダーという男に会いに来た」
「今すぐ呼んでまいりますっ」
そして別の女性によってふたりは特別応接室へと案内された。
革張りのソファーにも出された紅茶にも高級感が漂っていて、ハンナは緊張してしまう。
逆にイエルクは人が少ないことに緊張が解けたようだった。ようやくフードを外して素顔を晒し、紅茶を堪能している。
「お待たせいたしましたっ」
ほどなくして、上役らしき男性とファビアンが入室した。
「失礼します。ファビアン・シュナイダーと申します」
ファビアンはイエルクの隣にいるハンナに気がつく。
「ハンナ!?」
「ファビアン。突然押しかけてごめんなさい」
ハンナは立ち上がって会釈する。
前回はもやにしか見えなかったが、ファビアンの肩には老人のような顔をした小人が乗っていた。
目玉がぎょろりと大きい。明らかに魔物だ。にやにやと黄色い歯を見せて笑っている。
「最近夢見が悪いとか、昼間に調子が出ないとか、そういうことはない?」
「えっ! どうして分かるんだ?」
ハンナへ近寄ろうとするファビアンの前に、イエルクが立ちはだかるようにして割って入った。
「君の肩に魔物がいる。本来なら黒い森から出てくることはない小物だが、人間に悪さをすることがある。心当たりはあるか?」
「黒い森……? 思い当たることといえば、先日実家で、黒い森を経由して届いた隣国の荷物を整理したことくらいです」
「なるほど」
「あの、それで僕はどうすれば」
「じっとしていろ」
困惑するファビアン。
イエルクがすっと腕を伸ばして、ファビアンの肩に乗る小人の首を掴んだ。
小人の顔が苦しそうに歪む。
(まさかの物理ー! いや、物理じゃないのかもしれないけれど!)
「――――」
イエルクが聞き取れない言語を発した。
すると小人は爆発するように光って霧散する。一瞬の出来事であり、ハンナとイエルクにしか見えない出来事でもあった。
「どうだ?」
「……。肩が、軽くなりました! ありがとうございます!!」
腕をくるくると回して、ファビアンが表情を輝かせた。
「礼には及ばない」
「だけど、どうして気づいたんですか? イエルク様とは今日が初対面だと思うんですが」
「じょ、情報が入ったの。とある筋から、街にいる筈のない魔物がいるって。たまたまそれがファビアンで、わたしの知り合いだったから、ここまでイエルク様を案内したの!」
ハンナはイエルクが答える前に大声を上げた。
自分が見える側の人間であることは打ち明けていない。今さら打ち明ける必要もない。
「そうだったのか。ありがとう、ハンナ。ほんとにお前はいい奴だよ」
「ははは。どういたしまして」
突然、イエルクがハンナを引き寄せた。
「安心するといい。ハンナのことは、私が幸せにする」
「「「イエルク様!?」」」
驚きの声を上げたのは、ハンナだけではない。
ファビアンは衝撃に固まったもののすぐに意味を理解したようだった。
「イエルク様なら安心ですね! ハンナ、おめでとう! 昔から憧れだって話してたもんな!!」
「ちょ、ちょっと」
むしろ、このまま役場中にイエルクとハンナの話を広めてしまいそうだ。
イエルクの素晴らしさと共に。
(おそろしい。提案って、そういうこと……!?)
街中ではげっそりとしていたイエルクだったが、ファビアンに宣言したことで何かを得たようだった。
見上げるハンナに気づくとにっこりと微笑んでくる。
まさしくそれは、してやったり、という表情。
「……!」
(推しの至近距離の笑顔。眩しい。眩しすぎて死ぬ)
イエルクによって何回目かの死を覚悟するハンナ。
一方で、別の覚悟も決めていた。
***
街に魔物がいたことはハンナの想像以上に大事だったようだ。
詳しくは知らされなかったが隣国による侵攻計画の一端で、イエルク曰く『早期発見のおかげで小火で済んだ』とのことらしい。
そしてハンナは、実家を出て魔法学研究所の別館で暮らすこととなった。
「あらためて、今日からお世話になります」
エントランスホールで両腕を組み待っていたイエルクに、ハンナは頭を下げた。
イエルクの脇にふわふわと浮かぶデッケは、普段より軽やかに見える。
(いや、今の言い方はちょっと違うかもしれない)
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。……?」
いつもならまっすぐ見つめてくるはずのイエルクだったが、顔を背けて手で覆っていた。
よく見ると、耳がほんのりと紅い。
(照れてらっしゃる? かわいい……)
無表情のイエルクは、ハンナの前だと笑ったり照れたり、怒ったりする。
人酔いしたと、弱音も吐く。
ハンナしか知らない推しの一面。
そう思うと、不意に、愛おしさが込み上げてきた。
「イエルク様」
「ん?」
イエルクに己を見てもらえるように、ハンナは力強く名前を呼ぶ。
思惑通り顔を向けてきたイエルクを、思い切り抱きしめた。
「ハンナ!?」
「大好きです」
少しの、沈黙の後。
イエルクの両腕がハンナの後ろへ回される。
それからもう少し沈黙が続き、イエルクはハンナの耳元で愛おしそうに、大切そうに名前を呼んだ。
「美味しい紅茶がある。飲みながら、これからの話をしよう」
――やがてふたりは公私ともに歴史に残るパートナーとなるのだが、それはまだまだ先の話。
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