5話 始まり始まりなのです
港町『アクアマリン』。異世界『インクルージョン』の北大陸『アステリズム』の南東に位置する大都市である。北東にある巨大都市、王都『ブラックダイヤモンド』には及ばないが、遠く離れた南大陸『エンハンスメント』との貿易が活発であり、多くの人々が行き交う貿易都市だ。
北大陸は地球のオーストラリア大陸を細長くしたような大陸であり、南大陸も同様だ。2つの大陸は最新の帆船で2週間程度の距離があり、遠洋には大小様々な多くの水棲の魔物が棲んでおり、帆船を沈没させることも多いので、艦隊を組んで貿易をするのが普通だ。
南大陸への貿易船に乗り、大金を稼ぐ乗組員も多いので、一攫千金を狙う者たちの訪れる夢の街でもある。そして、そんな金を持つ乗組員を狙い、娼婦や盗賊も多く、宿屋や酒場もそこかしこに存在する。この街で商品を仕入れて、他の街へと売りに行く商人、それを守る護衛の傭兵なども多数おり、荒々しく治安の悪い街と言えよう。
風に乗り、潮の匂いが辺りを漂い、市場では人々の値引き交渉などの掛け合いも聞こえてくる活発な港町『アクアマリン』。
その夢の街の兵舎にて、槍魚の骨で作られた槍を持つ革鎧を着込んだ兵士が2人歩いていた。まだまだ若い青年と、多少歳をとったベテランの兵士だ。
潮風ですぐに金属製の武具は錆びてしまう。さりとて、魔法の鉱石は一般兵が装備できるほど安くはない。安くはないどころか、持ち逃げするレベルの高価な物となるので、軍から支給はされない。持てるのは貴族ぐらいだ。その為に脆いが、比較的安い魔物の槍と、鮫の皮を使った革鎧を使用していた。
カツカツと木靴が石床を鳴らし、カチカチと骨の槍が揺れる。
潮風に当てられて、乾いたボサボサの髪の毛に、ガサガサになった肌を気にすることもなく、青年は隣を歩く先輩兵士に声をかける。
「さっきの奴ら変わってましたね」
「あぁ、そうだな。訳ありの夫婦かなにかか……いや、夫婦には見えなかったな」
「男の方は平凡なお人好しのおっさんでしたけど、女の方は美人で、スタイルも良かったですよね。それと高慢な感じでした」
青年は取調室で話した男達を思い出す。あろうことか、外壁に突撃した馬車の持ち主である。幸い魔術も掛けられた外壁には多少の傷がついただけに終わったので、大騒ぎにはなったが、罪にはせずに解放した。
乗っている者は、中年のどこにでもいそうなお人好しそうな人畜無害そうなおっさんと、腰まで届く黄金の髪を持つ高慢そうな釣り目であるが、整った顔立ちの美女であった。背丈は170センチ程度で高い方だった。スタイルがかなりよく豊満な胸に視線を向けないように気をつける必要があったものだ。人を使うことに慣れていそうな高慢そうな表情だったので平民には見えなかった。
「魔物から逃げていた為に、馬車が暴走したと言っていたが、………胡散臭い。後から魔物なんか来ていなかったらしいしな」
ベテラン兵士はまったくおっさんの言うことを信じなかった。信じていなかった。魔物に襲われたなどと簡単すぎる言い訳だが、街のそばまで追いかけてきているならば、その姿が見えたはずなのだ。なのに、姿形も無かった。
行商人と名乗る男はなるほど行商人に見える。だが、ニアと名乗る女性はとてもではないが、おっさんの連れ合いには見えなかった。お忍びでやってきた貴族あたりか。
「まぁ、胡散臭いが気にする必要はないだろ。なにしろ予想外の収入が入ったしな」
怪しいと取調べをするべきだったかもしれない。だが、隊長を含めて、男たちは調べる気など毛頭ない。なぜならば、そんなことをすれば、藪をつついて蛇を出すようなものだからだ。もしも貴族であり、無礼だと叱責されれば、最悪牢獄送り。それでなくても兵士を首になる可能性は高い。そんな危険を冒すつもりは全くない。
「えへへ。俺、今日はこの金で『海クラゲの館』に行ってきます」
「あまり浮かれて、有り金はたくなよ」
若い兵士は相好を崩して、デヘヘと手のひらに輝く大銀貨を見せて言ってくる。『海クラゲの館』は娼館だ。手頃な金額で遊べるので、男たちに人気の娼館である。大銀貨ならば、女たちに大人気となるだろうと、苦笑を浮かべてしまう。
男はこの金は妻に渡すつもりだ。ご機嫌でご馳走を作ってくれるだろう。妻帯者にとっては、自分一人で使うわけにはいかないのだ。
行商人の男が隊長には金貨、兵士たちには大銀貨を太っ腹にも渡してくれたのだ。いつもは貰っても銀貨1枚。ほくほく顔で隊長は丁寧な所作で男たちを咎めるどころか、見送りまでして解放したのである。
そういえば、男の方の名前はなんだったかと、思い出そうとするが
「なぁ、あのおっさんの名前はなんだったか覚えているか?」
「あ〜、聞いたはずですけど忘れました。おっさんの名前なんかどうでもいいじゃないですか」
「それもそうだな。大銀貨の方がよほど大事だ」
あっけらかんと答える青年に、それもそうかと頷いて、ベテラン兵士は巡回をするべく出掛けるのであった。
頭に靄がかかったような気がしたが、その違和感はすぐに洗い流されて、兵士たちは先程の男たちのことを忘れるのであった。どうせたいした騒ぎではなかったのだからと。今日も兵士たちは平和であった。
港町『アクアマリン』は活気があり、騒々しい。荒くれ者の船乗りたちが酒を飲み騒ぎ立てて、力自慢の漁師が採れたての魚を木箱に入れて、ノシノシと風を切って歩く。屋台や店が軒を並べて、様々な物を売っている。
活気ある市場を男女の2人組が歩いていた。一人はどこにでもいるようなお人好しそうな顔立ちのおっさん。もう一人は目つきの鋭い獅子のような威圧感を持つ金髪美女だ。
おっさんの肩の上には、チョロチョロとハツカネズミが乗っている。鼻をピクピクと動かして可愛らしい。
「危なかったな。騒ぎになるところだった」
ため息混じりに吐くように言うおっさんは闇澤アキ。身体の節々が痛くて歩くのが少し辛い。
「歳なんだから、気をつけるのでチュウよ。チュウチュウ〜」
肩の上にいるハツカネズミがのほほんとした口調で言うので、ニコリと人の良さそうな笑みを返して、ハツカネズミをバッと掴み取る。
「ふざけないでほしいな。死ぬかと思ったぞ。死ぬかと思いました。大事なことなので、2回言っておこう。死ぬかと思ったからな。もう地獄と違い不死ではないんだぞ? 君はその点を理解しているかね?」
このネズミめと、握り潰す勢いである。こいつ舐めてんのと、おっさんは内心で激怒していたりする。馬車の横転って、普通は大怪我だからなと。
「ギブギブなのです。級がまだまだ低いから、キグルミはそこまで頑丈ではないのですよ」
ジタバタとあばれるハツカネズミ。よくよく見ると背中には小さな銀色のチャックが見える。大小関係なくメイのキグルミは大きさを変えられる変幻自在な魔法のアイテムらしい。
「まぁ、誤魔化せて良かったのではないか?」
「そうなのです。解決策をすぐに行えたアキは天才なのです。よっ、天才劇作家」
隣を歩く美女が宥めてくるので、チッと舌打ちしてハツカネズミモドキを手放す。そんなに私は凄いかなと、フフンと得意げだ。ハツカネズミよりもちょろそうなおっさんである。
「だが、たしかに緊急避難的な解決策にしては見事であった。褒めて進ぜよう」
「君はだいぶ話し方が変わったようだがな」
馬車が横転した時に、おっさんは魔本に素早くストーリーを書き込んだ。
ストーリーの内容はというと
『貴族のお忍び道中。高慢な貴族の美女と、目立たない侍従なおっさん』
である。人を操ることはできなくても、目立たない侍従のおっさんになるために、自身に必要なスキルは付与できた。軽い認識阻害を起こすスキル『おっさん』である。スキル名に悪意を感じたが慌てていたので、諦めて演じることにしたのだ。ちなみに付与は1000GPだった。
本来の予定では美女はメイが変身するだろうと思われたのだが、なぜか魔本であるニアが変身した。
「キグルミの弱点は人間には変身できないことなのです。人間の場合は幼女しかできないのです」
メイはさっさとキグルミをハツカネズミに変化させて着込むと逃げ出したのだ。逃げるのが得意な幼女である。
「幼女がトップ女優を取ることはできないからな? やはり頼りにならない……。まぁ、女優はニアに任せるとするか」
ろくでもない弱点を持つキグルミ幼女に、頭痛を覚えつつ、ニアが使えることがわかって良かったとも思う。これなら女優は安泰だ。
「目立つから、そろそろカットするのだ、アキ」
「あぁ、わかった。目をつけられても敵わないからな。そこの人どおりのない細道に入るぞ」
偉そうにニアが腕を組んで言ってくる。豊満な胸が腕の中で歪んで、目の毒だ。
さり気なく細道に入り込み、人気がないことを確認する。
『完』
マナのこもった言葉を呟くと、リアリティエチュードが終了する。自身からスキルの力が抜けていくのを感じて、美女はポフンと煙に包まれてその姿を消し
「はわわわ。魔本に変身するのにクールタイムが発生したよぅ」
ちっこい体躯の小柄な金髪幼女が涙目で現れた。サイドテールで髪の毛を纏めて、潤んだ瞳は庇護欲を見た者に覚えさせる可愛らしい幼女だ。はわわわと呟きながら、幼女は魔法陣を空中に描く。
魔法陣は光り輝き
コトンと木製のみかん箱を召喚した。ハワワワと涙目でニアと思われる幼女はみかん箱を被り、サッと隠れてしまう。
え、なにこれ? また幼女?
「ニアの本体なのです。彼女はコミュ障なのですよ。ネット越しだと、人が変わったように堂々とする性格なのです」
「へー、ソウナンダ」
またもや幼女かよと、頭を抱えて蹲りたいが、鉄の意思でアキは耐えた。使えることは使えるのだ。我慢しよう。もはや本体は見なかったことにするしかない。
「どうやら魔本から戻ると、クールタイムが発生するみたいだよぅ。クールタイムは1時間だよぅ」
弱弱しい声がみかん箱から聞こえてくる。なるほど、ニアを女優に使う際には注意が必要と。覚えておこうと考えながらみかん箱に座る。正直疲れた。
「取調で1時間近くは経過しているから、すぐに魔本になれるか?」
「うん、あと5分ぐらいだよぅ」
「了解だ。あ、メイはそのままハツカネズミで良いからな。幼女を連れていると目立つから」
「むむ。仕方ないのです」
意外と素直に了解するメイに怪しさを覚えつつも、先程の劇の結果を見る。お忍び道中の劇ではない。あれは収入ゼロ、人件費としてニアに1000GP支払っただけの赤字であるのだから。
問題は『幼女のはじめての馬車の旅』だ。
『売り上げ決算:プラス3万GP』
『人件費:メイ:合計金額マイナス1000GP』
『馬車レンタル代:マイナス2000GP』
『馬車買い取り代:マイナス20万GP』
『幼女への投げ銭:プラス5万GP』
『純利益:マイナス11万6000GP※100GP以下は手数料として、ニアが徴収させてもらいます』
「旅立って、スタートすぐに残り3000GPになってしまったぞ! どうするんだよ、これ!」
物のレンタルは安い。だが破損した場合、修復代を取られるが、大破した場合、買い取る必要が発生する場合がある。今回はそのパターンに当て嵌った。見事に馬は死亡し、馬車は壊れて大破したので。
「むむむ、まだ3000GPあるのです。あたちを3回雇うことができるのですよ」
「幼女専門劇作家にはなりたくないのだが? っと、イツツ」
投げ銭ばかり期待する劇作家にはさすがになりたくない。幼女の動画を毎日投稿する父親みたいなもんである。もはや趣味の世界になるだろう。
顔を顰めて、嫌だと思うが、身体の節々が痛いので苦痛に呻く。馬車の横転での怪我は結構痛かった。打撲程度にはなっているに違いない。
「あそこに薬屋さんあるよぅ」
ニアがみかん箱から手を出して指差す先には、石造りの家が並ぶ中で、古ぼけた看板を店先に吊るしている店があった。看板が薬屋を表しているので、ポーションを売っているかもしれない。
「まずは傷を治すか」
仕方ないなと、痛みに顔を顰めて、アキはその店へと入るのであった。