43話 酒場の取引なのですよ
阿鼻叫喚の地獄絵図。多くの人間が死んでいく中で、お人好しの商人のはずの男は、のんびりとエールを飲んでいた。この異常な光景がまるで目に入らないかのように、普通の酒場で酒を飲んでいるかのように。
床には血溜まりが広がり、痙攣する手がパタリと床に力なく落ちる。寝ている人間たちは自身も気づかない間に、生気を吸い取られて老人のようにシワだらけとなり死んでいく。
この異常な死の世界の中で、お人好しの商人の笑顔は不気味であった。まるで周りの光景が目に入っていないかのようだ。その姿がグレックスに恐怖を及ぼす。
「どうだい? 先日はあまり話をすることもできなかったからね。一緒に酒でも飲んで友好を深めたかったんだよ。私は王都に到着したばかりだし、人脈を広げたかったし」
嫌だと答えたいグレックスであったが、首元がヒヤリとして、ゾワリと怖気が走る。いつの間にか死霊たちが集まっており、その半透明の死の腕が首元にかかっていた。
ゴクリと喉を鳴らすと、グレックスは半笑いでヨロヨロとカウンターに向かう。逃げることのできたはずの外への扉は遠ざかっていく。
「『強化鍵』とは素晴らしいものだな。ドアを強固にする。これでは扉を金属製にする必要もない。魔術とは便利なものだと、私はいつも思うよ」
なぜ扉が開かないかを、アキと言う名の商人は教えてくれた。たしか『強化鍵』は扉を金属製のように強固にして魔術の鍵で閉める。だから、扉が開かなかったのかと納得する。
「へへ、魔術ってのは、本当に凄えよな。いや、お見それしやした」
腰を屈めてヘリくだり、アキの隣に座る。この男は危険だとようやく気づいたのだ。宿屋の時は気づかなかった。お人好しの商人にしか思えなかった。だが、今は違う。裏の世界でそれなりの荒事をこなし、悪党とも付き合いのあるグレックスでも気づかなかったが、擬態であったのだ。
この男は呼吸をするように、簡単に人を殺し、陥れても、そのお人好しに見える顔は変わるまい。自分が会ったことのない大悪党であったのだと悟った。
「私も王都の流儀を教えてもらい、感謝の言葉もない。金貨3000枚、受け取って貰えたかな?」
キャッキャッと無邪気な笑い声をあげて、肉塊を叩く化け物たち。血溜まりが作られる中で、散らばっている鈍く光る黄金。先程まではその黄金の光に魅せられていた。命よりも大切に思えたものなのに、今はその光が不吉な輝きにしか見えない。
「へへ。受け取った。いや、受け取りました。だが、少し貰いすぎたかと思ってまして。その、全て返そうかと」
思いましてと、最後までは口にできなかった。アキが片手をあげて制止してきたからだ。
「いや、商取引とは信頼関係が大切だ。その金貨は受け取ってくれたまえよ」
一口エールを飲みながら、にこやかに言ってくる。まるで隣にお裾分けを持ってきた程度の気楽さで。金貨にまるで価値がないように。
なにか言いたいが、恐怖で口は強張り、何もグレックスは言えない。その様子に満足したのか、アキはうんうんと頷き、腕を組む。
「では、この取引は終了だ。良い取引ができて良かったよ」
「は、はぁ……」
「でだ。大きな取引を行おうと思ってね。この王都での初のまともな取引だ。聞いてくれるかね?」
「へ、へい。ええ、聞きますぜ。何でも言ってください。これでも俺はここらの顔でして、何でも言ってください」
断るという選択肢はない。しかし、素直に聞く気もグレックスは毛頭なかった。ここは適当に頷き、命を守る。そして、後程ヘンシデンに合流して、コイツを殺す算段をするのだ。
部下が殺されて、黙っているほど、グレックスは臆病者ではない。たしかに今はスプリガンに死霊と化け物たちが好きなように暴れている。しかし、ヘンシデンなら騎士にも神官にも伝手がある。こんな化物を使役する男を殺すことなど簡単なはずだ。
今は命を守るためにも、おべっかを口にして、アキの言うことを聞くしかない。
「で、どんな取引を?」
「あぁ、簡単な取引だ。私も人を扱おうと思ってね」
「なるほど、たしかにあれは儲けがでかいですからね。ヨルヌのルートも空いてますし、他の旨味のあるルートを紹介できますよ」
女衒に手を出したいのかと、この腹黒い男にニコニコと笑顔で答える。僅かに口元が引きつるのは、未だに後ろでは化け物たちの饗宴が続いているからだ。
しかし、グレックスの考えは甘かった。すぐに思い知らされることとなった。なぜならば、男の口にしたセリフは驚くべき内容だったからだ。
「君は自身にいくらの価値をつけるかね? 君を買い取った契約書は無くしてしまったが、王都では問題はないんだろ?」
「お、俺ですか?」
信じられないセリフを聞いて、グレックスは尋ね返すが、にこやかにアキは頷く。
「そのとおりだ。そうだな、たしか金貨1万枚で買い取ったと記憶している。君の命なんだ。安いものだろ?」
子供たちにやったことをやり返されているのだと悟った。契約書が無くとも、その取引はできるとの、所有権はあるのだろうというグレックスが脅しに使った方法をやり返された。
「い、1万枚なんて無理だ。精々2000枚程度しかない」
金庫には3000枚程度の金貨はあるが、命の危険があっても、グレックスはせこかった。だが、ふむとアキは顎に手を当てると少しの間考え込んで、ポンと手を打つ。
「それならあるだけで良い。この酒場も土地の権利書もあるのだろう? 譲って貰えないかね? 金貨1万枚には足りないが、私は悪魔ではない。善人なんでね。ここは君の境遇を考えて良しとしよう」
ニコニコとその笑顔は崩れない。罪悪感の欠片も見せないアキに、グレックスは抗議することもできなかった。なにせ、首元に死霊が触れている。
「わかりました……すぐに持ってきます」
「よろしい。付き添いに二人連れて行くと良い」
パチリと指を鳴らして、アキは死霊を2体つけてくる。逃がす気はまったくないらしい。
強く拳を握りしめて、この男は後で必ず殺すと誓いながら、グレックスは怒りを隠しながら立ち上がると、自身の部屋に向かい、部下にも教えていない隠し部屋を開いて、金貨を持ってくる。権利書ももちろんある。調度品や宝石などもあるが置いてきた。どうせ酒場ごと奪われるのだ。
一時的なものだ。すぐに取り返してやると憤怒で顔を歪めながらも、なんとか愛想笑いに見えるように無理矢理表情を抑えて、アキに小さな鉄の箱を渡す。中にはぎっしりと金貨が詰まっている。
「よろしい。これで契約は成立だ。権利書はこのままでは駄目だろう?」
ちらりと金貨を眺めて、すぐに興味を失い、ぞんざいに隅に動かすとアキは権利書の取り扱いについて尋ねてくる。
「へい。役所で登記を変更しないといけません」
「簡単かね?」
「はい。権利書を持っていればなんとでもなりますので」
貴族はともかく、平民の登記変更は簡単だ。権利書を持った人間が、役所で相手に譲るとサインすれば終わりだ。本人確認などしない。一等地などだと調べられるが、ここはスラム街の入口。役所も調べることなどしやしない。
「身分証明書が無い世界だものな。恐ろしい世界だよ。それじゃ明日朝一に登記変更に行くとしよう」
わかりましたと頷きながらも、どうやら命が助かったと安堵する。それとともに怒りがグレックスを支配する。ここまでコケにされたことは初めてだ。役所に着いたと同時に逃げ出してヘンシデンの元へと向かってやると、心に誓う。
だが、安堵するのは早かった。まだグレックスはこのお人好しの笑顔の男を見くびっていた。
「では、次の取引だ。君は自身の命にいくらをつける?」
「は?」
今、目の前の男が言った台詞をグレックスは頭が跳ね除けた。なんと言った、この男? 俺の命にイクラヲツケル?
「すまない。君を買い取った契約書を失くしてしまってね。でも王都では大丈夫なんだろ?」
先程とまったく同じ台詞であった。
「は、話がちげえ! 今払ったはずだ! 汚えぞ、この野郎!」
激昂して立ち上がると、アキへとグレックスは猛然と抗議する。だが、強面のグレックスが憤怒を露わにしても、そよ風のように受け流して、手をひらひらとアキは振る。
「何を言っているんだ。君が教えてくれたんだろう? ヨルヌから買い取って一回。そして王都では君に支払って2回。ほら、王都では契約書無しでも2回取引ができる。なかなか面白い流儀だよな。気に入ったよ」
アキの台詞を聞いて、グレックスは言葉を失い青ざめる。この男は最初からグレックスを殺すつもりだったのだ。全てを奪いとり、そして殺すつもりだったのだ。
最初の提案の時に、そのことになぜ気づかなかったのかと、グレックスは自己嫌悪に陥る。まだこの男のニコニコと笑うお人好しそうな顔に騙されていたのだと悟る。無意識にこいつは甘いと、取引が通用すると考えてしまった。
「金貨1万枚。どうだろう、君の値段だ。支払って貰えるかな?」
先程とまったく同じことを繰り返すアキ。だが、もはやグレックスには支払える物は何もない。いくつか隠れ家があり、そこには少しだけ金を隠してあるが、取りに行かせるとは到底思えない。
お人好しの男。その瞳はどこまでも善良そうにしか見えない。危険な光を宿していない。悪人のような狡猾な冷酷な瞳をしていない。それが何よりも怖ろしく、ガタガタとグレックスは子供のように震え上がる。たとえ今武器を持っていても無駄なあがきだったろう。
「お、俺は、顔が少しはう、売れている。登記で役人は俺の顔をお、覚えている奴もいる」
酒問屋から権利書を盗んで、役人を買収してこっそりと登記を変えたりしていた。ヘンシデンの汚い仕事にはそのようなものもあった。だからグレックスを知っている役人もいる。この男はそのお人好しそうな顔を武器にしているはずだ。疑われるようなことはしたくないはずだ。
だが、そのか細い糸は簡単にアキの言葉で断ち切られた。
「おいおい、死霊の能力を知らないのか? こいつらの有名な能力を」
からかうように言うアキの言葉に、グレックスは思い出す。死霊の能力を。有名なる能力を。
憑依。人を狂わせて、死へと招く能力だ。
「助けてくれ……。いや、助けてください。お願いします……」
グレックスは涙を溜めてアキへと懇願するが、その答えは絶望だった。
「君は何人の人間からその言葉を聞いたかね? 強盗殺人に誘拐、殺人。これだけの罪を重ねているとは、感心してしまうよ」
淡々と告げるその言葉は確信を持っているかのようだった。自分の罪を全て見抜いているようだった。
「さぁ、罪には罰が下る。わざわざ私に会いに来たことが地獄の罰だったのかもな。ちなみにその死霊は君に殺された者たちだよ。格安で雇われてくれて助かった」
パチリと指をアキは鳴らす。周りの死霊たちが、我先にとグレックスへと集まり、その冷たい死の腕を伸ばしてきて……。
酒場から恐ろしい絶叫が響き、明かりが消えて闇へと消えるのであった。
次の日。南大陸の商人に大金で酒場を売り払ったグレックスが部下と共に王都から旅立った。大金を手にしたグレックスがどこに向かったのかは誰も知らない。隣国で貴族の地位を買ったとか、南大陸で一旗揚げに行ったのだとか噂されたが、定かではない。
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