第72話 魔女は新天地で活動を始める
泳ぐ子牛亭は、初めて見た日の客入りが異常事態であったと納得するほど連日繁盛している。開店から閉店まで、空いたまま10分を越える席はない。
広がる青空は今日も忙しくなることをテネリに伝えている。
「おっはよーございまーす」
「おはよう! こんなにガッツリ働いてもらうつもりじゃなかったんだけど、悪いね」
始業の挨拶のためテネリが厨房を覗くと、料理長が細長パンとスープ、そして小さなクリームパイを差し出した。この店のクリームパイは絶品で、テネリの大好物だ。
「朝ごはんだー、ありがとう! まぁ怪我はしょうがないよね。私のせいでもあるしさ……」
4日前、聖都を出たテネリは数時間のうちにドゥラクナへ到着した。もう夜であったため暗がりに降りたのだが、暗闇から突然出て来たテネリに驚いて転んだ人物がいる。それが、この泳ぐ子牛亭の従業員だったのだ。
「テネリ様、誠に申し訳ありません。今日の午後には復帰できるとのことですので、戻りましたら当初予定通りワタクシの補佐として事務作業をお願いできればと」
支配人が何度も頭を下げながら厨房へやって来た。彼はテネリがレナートの婚約者のままであるせいか、言葉遣いが乱れない。この数日間も彼が謝罪した回数は数え切れないほどだ。
「もう大丈夫なの?」
「はい。テネリ様からお薬もいただきましたし、幸い軽い怪我で済んだそうですから」
「なら良かった」
忙しそうに出て行った支配人の背中を眺めつつ、もらったパンにかぶりつく。支配人は最後までテネリを働かせることに反対していたが、王太子命令とあって仕方なく承諾した人物だ。
ただでさえ忙しいのに魔女のお守りまで任されたのだから、同情を禁じ得ない。テネリにできることは、客に魔女とバレないようにすることと懸命に働くことだけだ。
「あの薬、助かったよ」
「薬?」
「解毒剤っていうのか? 一時期、自分の舌が信じられなくなって廃業を考えたんだ」
他の料理人たちに指示を出しながら、料理長が鍋をぐるりとかき混ぜる。その目はどことなく嬉しそうに見えた。
「ここのクリームパイ好きだから、なくならなくてよかった」
「繁盛するのもお嬢のおかげだ。ここいらの住民みんなお嬢の薬の世話になってる」
言うだけ言うと料理長はテネリに背を向けて、納品された食材の確認をし始めた。テネリの目の前に温かいお茶が差し出され、用意した調理場見習いの少年が微笑む。
「ありがと」
「栄養剤、って言うんですか。滋養のお薬もたくさんご用意いただいたと聞きました! ボクは子供だからって飲ませてもらえなかったんですが、料理長はバタバタしてるときもそれ飲んで頑張ってて……」
「こら! 口じゃなくて手ぇ動かせ!」
飛んで来た料理長の怒号に少年が慌てて走り出す。テネリもまた背筋が伸びた思いでパイを口に詰め込み、お茶で流し込んでからホールへ向かった。
泳ぐ子牛亭は朝から大忙しだ。常連客に観光客に各地を巡る商人も、みんな1日をこの店で始めたいと考えている。あっという間に席が埋まり、入れ替わり、開店から2時間ほどでほんの少し落ち着き始める。
「今日はみんな同じ話してるね」
「貴族派筆頭のベリーニ伯爵のスキャンダルでございますから。捕縛されただけでなく、多くの女性と関係を持っていたとは――あ、いや失礼しました」
客の見送りを終えて戻って来た支配人に話しかけると、彼は困ったような顔で首を小さく振った。結婚を控えた若い女にする話ではない、と思ったのだろう。慌てて今日何度目かわからない謝罪を口にする。
「貴族の男に守る貞操なんてありゃしないさ。支配人、チェックだ」
近くの席に座る男には、テネリたちの会話が聞こえていたらしい。腕を上げて支配人を呼び、会計を済ませる。
客の座っていた席に残された新聞には、ベリーニ伯爵邸で夜な夜な淫猥なパーティーが繰り広げられていたという内容のゴシップ記事。どこで誰が情報を得たものか知らないが、事実には違いない。
インヴィの薬のことまで書いてあるのかと読み進めていると、突然その新聞を何者かが奪い取ってしまった。
「えっ」
「若い女性が読んでいい話じゃない」
広げた新聞が顔を隠しているが、それでもテネリが相手を間違えるはずはなかった。太くはないが低くてよく通る声。この声に今まで何度安らぎを覚えたことだろう。
思考とは裏腹に胸が高鳴って、けれども騒がしくなった鼓動を隠すように憎まれ口を叩く。
「なんでここにいるの?」
「愛する婚約者を迎えに来ただけだが?」
新聞を降ろしたレナートの表情には、最愛の婚約者に数日ぶりに再会した喜びより苛立ちのほうが強く感じられた。テネリの指先がスッと冷えて、両手を小さくこすり合わせる。
「怒ってる」
「そうじゃない、心配したんだ。みんな心配してる。家出するような年じゃないだろう」
心配しているならそれらしい言葉をかければいいのに、どこまでも優等生ぶったやつだ。とテネリの語調も段々と強くなっていく。
「どう見ても19歳だけど」
「見た目の話をしてるんじゃないし、19歳なら家出は控える」
どう見ても高位の貴族と、最近働き始めた新人の給仕の会話は少しずつ不穏になっていく。あっという間に店中の視線と話題が集中してしまった。




