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過ぎていく日々に 2

 サマンサは、朝早くに目が覚めた。

 ベッドから出て、床に立つ。

 板敷の床だ。

 置いてある室内履きに足を入れる。

 

(ここに、女性は住んでいなかったというのは本当だわ)

 

 レジーから、そう聞かされていた。

 室内履きは大きくて、サマンサには、ぶかぶかだ。

 服については、女性用の寝間着と民服が数着ある。

 どこかから、レジーが調達してきてくれたのだ。

 買い出しに行ってきたついでに、手にいれてくれたのだろう。

 

 とりあえずだと、レジーは言っていた。

 必要なものがあれば用意するとのことだったが、あまり迷惑もかけられない。

 記憶はなくても、買い物に金がいるのは、わかっている。

 サマンサは、現状、1銅貨も持っていないのだ。

 

(室内履きだもの。大きくたって、履けないわけじゃないし、困りはしないわよ)

 

 寝間着から民服に着替え、リスのベッドに近づく。

 リスは、まだ眠っていた。

 起こさないよう、そうっと髪を撫でる。

 やわらかな感触に、自然と口元に笑みが浮かんだ。

 

(子供の髪って、やわらかいのね……本当に、可愛らしいわ……)

 

 リスの両親が、リスを愛していないことが信じられない。

 普通の4歳の子が、どういうふうかは知らないが、リスは「いい子」だ。

 いい子過ぎて、暴れたり、我儘を言ったりしないことに、せつなくなる。

 記憶がなく、子供を扱うのが初めてだと感じていても、子供というのは、もっと「やんちゃ」なものなのではないかと思うのだ。

 

 リスから手を放し、サマンサは部屋を出る。

 そこは、一応「居間」と呼べる空間になっていた。

 小屋には、サマンサとリスが眠っている部屋、レジーの部屋、調理室兼食堂。

 それと、ここだ。

 

 部屋から出ると、ソファに座っているレジーの頭が見える。

 ソファの向こうにテーブルがあり、その少し先に入り口の扉があった。

 サマンサが出て来た部屋の横にはチェストがあり、その上に花瓶がある。

 だが、使ってはいないらしく、花が生けられているのは見ていない。

 

 なにかが、ふわっとサマンサの心を横切った。

 サマンサは、ほんの少しの間、その花瓶を眺める。

 掴めそうだった「なにか」は消えていた。

 記憶を取り戻すきっかけがあったのかもしれないが、すでに捉え損ねている。

 

 サマンサは諦めて、花瓶から視線をソファに移した。

 思い出そうとしても思い出せないのだから、しかたがない。

 それに、なぜか「帰る場所がない」という気がする。

 日常的な生活にかかること以外は覚えていないのに、帰る場所があるのかどうかなんてわからないはずなのに。

 

「おはよう、レジー」

「おー、起きたのか。早いな」

 

 ソファの右横には暖炉があった。

 その横には、薪が積んである。

 暖炉には火が入っており、室内は暖かかった。

 レジーは早起きらしく、サマンサが起きる頃には、たいてい起きている。

 そして、室内は暖かい。

 

「あなたほどじゃないわ。いつも部屋が暖かいもの」

 

 言いながら、レジーの隣に、ぽすんと腰かけた。

 暖炉に火を入れても、すぐに部屋が温まるはずはない。

 かなり早くから火を起こしているのだろうと、想像はつく。

 

「お世話になりっ放しね」

「たいして世話なんかしてねぇよ。自分で動いてくれるだけでもありがたい」

「抱っこをせがむ歳じゃない……と思うわ。自分が何歳かもわからないけれど」

 

 サマンサは、肩をすくめてみせた。

 レジーが、小さく笑う。

 リスを起こさないよう、さっきから2人は小声で話していた。

 大雑把に見えて、レジーは細やかな気遣いをする人なのだ。

 

「ま、いいんじゃねぇか? 歳なんて、たいして意味あるかぁ?」

「そりゃ、レジーは男性だから歳を気にする必要はないでしょうね」

「あー、女は子供のことがあるからな」

 

 言葉に、どきっとする。

 なにか胸がざわついていた。

 自分は、子供をほしかったのだろうか。

 考えても、答えは出ない。

 なにかあったのだとしても、思い出せなかったからだ。

 

「なぁ、サム」

「なに?」

「思い出せねぇのは、しょうがねぇだろ? いずれ思い出すかもしれねぇし、その逆も有り得る。だから、考えんのはやめたらどうだ?」

 

 そうしたい気持ちはある。

 だが、記憶がない、というのは、落ち着かないものなのだ。

 

「自分のことがわからないなんて……すごく不安になるのよ……」

「前の自分のことは、思い出してから考えればいいのさ。それまでは、サムは今のサムでいろ。新しい自分として生きてりゃいいんだ」

「新しい、自分……」

「前の自分はどうしてたか、なんてことは考えずに、今やりたいことをやる」

 

 今やりたいことをやる。

 

 その言葉に、少し気持ちが楽になった。

 レジーの言うように、どうせ思い出せないのだ。

 思い出すまでは、目の前のことだけを考えたほうがいいのかもしれない。

 

「あなたって、楽観的なのね」

「おー、俺は深く物を考えるのが苦手だ」

 

 笑うサマンサに、レジーも笑っている。

 整えられていない金色の髪が、窓から射しこむ光に輝いていた。

 灰色の瞳は、改めて見ると、穏やかで優しげな雰囲気がある。

 レジーは、きっと自分より大人なのだ、と思った。

 

「今のサムは、どう思う?」

「なにが?」

「子供がほしいか?」

「そうねえ。リスを見ていると、ほしくなるわね」

「手を焼かされるぞ?」

「それでも、可愛いわ」

 

 サマンサは、かいがいしく世話を焼いてくるリスに、胸を打たれている。

 リスは、無償の愛というものを知らない。

 だから、必要とされたくて必死になるのだ。

 役に立たなければ見捨てられる、と思っている。

 

「そういえば、手に負えなくなると、あなたにあずけられると言っていたけれど、それはどういう意味?」

 

 レジーが頭をソファの背もたれに乗せ、天井を見上げた。

 その横顔を、サマンサは見つめている。

 レジーは、真面目な表情を浮かべていた。

 

「あいつにも実家はある。けど、しばらくいると、だんだん食事をしなくなって、最後には水も飲まなくなっちまうんだよ」

「そんな……あの子は、まだ4歳なのに……」

 

 なにがあったら、そんなことになるのか。

 想像もつかなかった。

 

「あいつの母親は、あいつを父親に渡して、それっきり。父親は、別の女と婚姻。あいつには見向きもしない。勤め人たちも、仕事として接してるだけだからな」

「リスは、ひとりぼっちにされているのね……あんまりだわ……」

「あいつの実家じゃ、リスが生きてさえいればいいって思ってる奴ばかりだ。そのことを、あいつも察してる。だから、飲み食いしなくなるんじゃねぇか?」

「…………それが……かまってもらえる、方法だから……?」

 

 レジーが、小さくうなずく。

 その「実家」とやらに腹も立つし、リスの気持ちを思うと泣けてきた。

 そうまでしてかまってもらおうとしているリスが、悲しかったのだ。

 

「見るに見かねて、最初に手を出したのが俺だった。そん時からだな。そうなると俺のところにあずけてくんだよ」

 

 なんという無責任な親だろう。

 そこまで「いらない」のなら、誰か可愛がってくれる人に養子に出せばいい。

 たとえば、レジーとか。

 

(レジーが引き取ることは、できないのかしら? でも、できるのなら、とっくにしてそうよね、レジーなら……)

 

 少なくとも、リスはレジーには懐いている。

 言いたいことも言えているようだし、安心しているのが伝わってくるのだ。

 理由があって引き取れないのかもしれないが、なんとかならないのか、と聞いてみようとした。

 

「サム~ッ! サムがいない……っ……」

 

 びくっとして、立ち上がる。

 部屋のほうから、リスの泣き声が聞こえていた。

 慌てて、部屋に駆け込む。

 

「……サム……サム……」

 

 リスが、サマンサのベッドにしがみついている。

 肩が大きく上下しているのは泣いているからだ。

 

「リス!」

 

 声をかけた瞬間、リスが振り返る。

 涙をぽろぽろとこぼしながら、サマンサに駆け寄ってきた。

 サマンサもリスの体を抱き締める。

 (なだ)めるために、頭と背中を繰り返し撫でた。

 

「大丈夫よ、ここにいるでしょう? いなくなったりはしていないわ」

「サム……サムも……いなくなったって……」

「いなくならないわよ。リスを置いていくわけないじゃない」

 

 少し体を離し、リスの涙を手で拭う。

 その頬に口づけをした。

 リスが目を大きく見開き、驚いた顔をする。

 

「リス、私は、あなたが大好きよ」

 

 言って、額にも目元にも口づけた。

 きっと、リスは、こうした愛情表現も受けたことがない。

 少し戸惑った様子を見せながらも、サマンサに抱き着いてくる。

 

「……サム……大好き……」

「よし! それなら、俺も”チュー”して……」

「……レジーのは、嫌……なんか嫌だ……」

「お前なあ」

 

 呆れたように言ったあと、レジーが笑った。

 リスを抱きしめ、サマンサも笑う。

 これからは、リスの寝起きには(そば)にいようとも、思った。


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