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覚束ない足でも 3

 

「これは……トリスタン・リドレイとは、どういう人物なのですか?」

 

 ジョバンニが分厚い紙の束に目を走らせたあと、そう訊いてきた。

 目を見れば、驚いているのがわかる。

 まだ「未熟」だ。

 表情で、なにを考えているのかが、丸わかりだった。

 

「彼の曾祖父が、私の曾祖父の執事をしていたのは知っているね?」

「はい。グレイストン・リドレイですね。彼は、リドレイ伯爵家からは勘当されており、亡くなるまでローエルハイドに勤めたと記されておりました」

「その息子は庭師をしていたのだがね。妻としたい女性のために、リドレイ伯爵家に戻ったわけだ。相手は、伯爵家の令嬢だった。それが、トリスタンの祖父だね。その長男が家督を継ぎ、トリスタンは、その四男だよ」

「しかし、リドレイ伯爵家の分家の当主にも、そのような名はございません」

「トリスタンの父には、4人の兄弟がいる。次男も当主にはなっていない。彼は、その跡を継いだというところかな」

 

 トリスタンからすると、叔父にあたる人物だ。

 その人物が、懇意にしていた者がいる。

 

「キーシャン・ウィリュアートン」

「1世代前のロズウェルド宰相ですね」

「そうだ。そのキースと、トリスタンの叔父は懇意だったのさ。私もキースとは、親しくしていたからね。その繋がりで、ある機関の存在を知ったのだよ」

「ある機関、と言いますと?」

 

 それは、実際には、キーシャン・ウィリュアートンが作ったのではない。

 そのキーシャンの父が創設したものだ。

 

 元王族、ユージーン・ガルベリー。

 

 ユージーンは、婚姻を機にウィリュアートンに養子に入っている。

 王族として、初めて貴族に立場変えをした人物だった。

 ユージーンが考えていたのは、魔術に頼らない国の守りかただ。

 もし、王宮に反旗を翻す魔術師が現れたり、魔力がある日、突然になくなったりした際、ロズウェルドには国を守る手立てがない。

 それを憂慮してのことだと聞いている。

 

「国防特務機関、と呼ばれている。が、この機関の存在を知っている者は、ほんの数人だ。その機関に属する者を除いて、だがね」

「どういった機関なのでしょう? これほどの情報を、(またた)く間に集められるとは、普通ではありません」

「近衛騎士などとは人数が違うのだよ。貴族も平民もない。ただひたすらに、国に対する忠誠心、まぁ、愛国心とでもいうものによってのみ選抜された者だけで構成されている機関なのさ」

 

 ユージーンの代に創設され、キーシャンに受け継がれ、キーシャンからリドレイに受け継がれていた。

 現在、その機関の頂点にいるのが、トリスタンなのだ。

 

「動かせる人数は十万人以上になる」

「それほど……ですか」

 

 ジョバンニが、改めて、紙束を見つめていた。

 トリスタンの配下は、どこにでもいる。

 まるで商人のように。

 

「私はね、ジョバンニ」

 

 彼は私室のイスに腰かけ、頬杖をついていた。

 顔を上げたジョバンニを見つめて言う。

 

「カウフマンの首を()げ替える」

「トリスタン・リドレイに、でしょうか?」

「商人を皆殺しにはできない。だが、野放しにもできない。ならば、頭だけを挿げ替えてしまったほうが、簡単じゃないか。商人たちは、今まで通り、カウフマンに使われているつもりで、実際にはトリスタンの手下になるわけさ」

 

 そのために、彼は、トリスタンに呼びつけられれば、いつでも駆けつけなければならなくなったわけだが、それはともかく。

 

「トリスタンにとっても悪い話ではない。なにしろ動かせる人員は多いほうがいいのだからね。しかも、彼らは、カウフマンに忠実だ。国に対する忠誠心でなくとも同じことなのだよ。結果だけを見ればね」

 

 トリスタンは、今の倍以上の「使える」人員を手に入れられる。

 彼の「押しつけた面倒」も正しく使いこなすはずだ。

 トリスタンの狂気に、早晩、彼らは染まる。

 カウフマンにも似たところがあるので、疑いもしないだろう。

 

「今まで黄色の花を咲かせていたのが青色に変わろうと、種が気づくはずもない。種は、全体主義的な意思に従うだけだ。その意思の元がカウフマンでもトリスタンでも、与えられた役割をこなす」

「ですが、そのためにはカウフマンを捕らえねばなりません」

「そうとも。それが1番の大仕事だ。その上、こちらはジェシーを取り逃がしてはならないという問題も抱えているのでね」

 

 カウフマンの居所は、まだ掴めていない。

 初体面のあと、カウフマンは姿を隠している。

 どこに潜んでいるかは、トリスタンの猟犬を使っても未だ判明していないのだ。

 フレデリックを襲ったジェシーの行方も、当然に、わからなくなっている。

 

「用心深い奴だ。だが、フレディを探しているということは、向こうも彼女をまだ見つけてはいない……」

 

 サマンサがどこにいるのか。

 それも、トリスタンの猟犬が探していた。

 サハシーに向かったことまではわかっている。

 

「辻馬車の御者が1人、行方知れずになっている。おそらく、その馬車に、彼女は乗っていた……」

 

 ジョバンニは、黙っていた。

 渡してある書類に、その馬車がどうなったのかも記されている。

 だが、彼の心情を慮って、口にはせずにいるのだ。

 

(御者は行方知れず。馬車は壊れ、打ち捨てられていた……野盗に襲われたということも、わかっている……)

 

 彼は、猟犬たちが、その野盗を捕らえるのを待っていた。

 辺境地を移動しながら、昼夜、誰彼かまわず襲っている一団があるらしい。

 サマンサの乗っていたであろう馬車を襲ったあと、野盗たちは移動している。

 そのため、捕らえるのに時間がかかっていた。

 

 『なによ、魔術師のくせに』

 『役立たずな魔術師さ』

 『本当ね』

 

 自分で叩いた軽口にもかかわらず、彼は、現実に無力さを実感している。

 魔力を持たないという理由だけで、サマンサを探すことができずにいるからだ。

 世界を破滅させられるほどの力を持っていても、無意味だと感じる。

 こうして報告を待ち、彼女の無事を願うことしかできないのだから。

 

(こうなるとわかっていれば……)

 

 半月もサマンサを放置していた、自分の責任だ。

 せめてフレデリックの元に行く前に、魔術をかけておくべきだった。

 アドラントの街に出た時には、それをしている。

 彼女を1人にするのが不安で、彼は魔術をかけておいたのだ。

 

 サマンサという「個」に対する絶対防御。

 

 物理的にも、魔術でもサマンサを傷つけられないように手を打っていた。

 絶対防御がかかっていると、およそ3倍は素力が高められる。

 だから、サマンサに殴られた男は、露店の台座を壊すほどぶっ飛ばされたのだ。

 それとともに、命の危機を感じると、彼に繋がることができる。

 

 たとえ、どこにいたとしても。

 

 だが、彼は半月もサマンサと顔を合わせていなかった。

 彼女を無防備にしたのだ。

 そして、そのまま送り出してしまっている。

 ほんの少し顔を出せば良かったのに、そのほんの少しを躊躇(ためら)った。

 

 その結果が、このざまだ。

 

 サマンサを見失い、どこにいるのかもわからずにいる。

 即言葉(そくことば)も通じず、彼女の無事を確認することすらできない。

 

(なんて役立たずな魔術師だろうね……サミー……きみの言う通りだ……)

 

 サマンサの手を放したのが、間違いだったのだ。

 自分から離れれば、カウフマンの関心は薄れる。

 そう思ったのは、大きな判断ミスだった。

 なぜ、そんな間違いをしたのか。

 

 サマンサに感情を乱されるのを、肯としなかったせいだ。

 彼女が離れるというのなら、そのほうがいいと、彼は簡単に結論している。

 自分の心の平静を取り戻すために深く考えるのをやめたのだと、わかっていた。

 

「トリスタンの使いとのやりとりは、きみに任せる」

「かしこまりました。なにかあれば、すぐにご連絡いたします」

 

 言って、ジョバンニが姿を消す。

 ほかにも訊きたいことはあったかもしれない。

 だが、彼が1人になりたがっていると察していたのだろう。

 1人になったとたん、彼の周りの空気が変わる。

 

 ざわっと、室内に闇が広がっていた。

 アドラントの空が、真っ黒に染まる。

 大きな音を立て、雨が降り出した。

 分厚く黒い雲の中に、雷の閃光が走っている。

 

「もし……きみに、なにかあったら……私は……」

 

 自分自身も、サマンサに「なにか」した者も許すことはできない。

 御しきれない怒りが、彼をつつんでいる。

 感情が、いっさい制御できなかった。

 目を伏せても思い出すのは、サマンサのことばかりだ。

 

 怒って彼に反論する姿や、脛を蹴飛ばす仕草。

 軽々とダンスを踊る場面に、声を上げて笑うところ。

 心もとなさげな表情と、肩を震わせ涙をこぼす、か弱く脆い本質。

 

 サマンサを守りたい。

 

 そう思っていたのに、劇場の時と同じことを繰り返している。

 少しも彼女を守れてはいなかったのだ。

 危険を見過ごしにして、自分自身の心のほうを守った。

 

 サマンサは、彼のために、彼の元を去ったのだ。

 

 フレデリックの言葉が、頭に残っている。

 それが、どういう意味を持つのか、明確にはできていない。

 ただ、カウフマンの危険性を、彼女は気づいていた。

 彼の元から去っても、サマンサにかかる危険は変わらない。

 気づいていて、それでも、彼女は、彼から離れると決めたのだ。

 

 それが、彼のためになると信じて。

 

 ざわざわと闇が濃くなる。

 雨が、いっそう激しさを増した。

 怒りの持って行き場がなく、渦巻いている。

 

「彼女に手出しをしたら……お前を許しはしない、カウフマン。たとえ、この国を滅ぼしても、私は……お前も、お前の血も根絶やしにしてやる」

 

 ジョバンニに話した策は、サマンサがいる世界でのことだ。

 彼にとって、もはや世界はサマンサになっていた。

 彼女がいない世界には、なんの意味もない。

 

(サム、サミー……私は、きみを愛している……今さらと、きみは言うかい?)


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