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覚束ない足でも 1

 彼は、急いでいる。

 だが、慌ててはいなかった。

 慌てたところで事態は変わらない。

 打てる最良の手を打つしかないと思っている。

 

 サマンサは、魔力を持っていない。

 彼が、どれほど範囲を広げても、魔力感知にはかからないのだ。

 即言葉(そくことば)で呼びかけてみたが、反応がなかった。

 魔力疎外を受けているようではないが、なにか強制的に繋がりを断ち切られたといった感覚がある。

 

(彼女が意識を失っているか、それとも……)

 

 考えたくないことが頭をよぎった。

 即言葉は、あくまでも伝達系の魔術だ。

 会話を目的としているため、相手の意思によっては繋がらないこともある。

 劇場で、サマンサが彼を無視したのが、それだった。

 

 だが、相手が無視すると、その感覚が伝わってくる。

 即言葉が通じていることは、わかるのだ。

 今は、その感覚がない。

 つまり、意図的なものではない、ということ。

 

 魔術は、万能ではない。

 なにかしらの制約がある。

 伝達、転移系に共通する制約は「印象」だった。

 伝達系であれば人、転移系であれば場所を思い浮かべることが必要とされる。

 

 通常、即言葉で連絡が入ると、人は無意識に、その相手を思い浮かべるのだ。

 そのため、自分が相手を「特定」しているとは意識していない。

 しかし、実際には、瞬時に特定しているからこそ応じられもする。

 逆に、相手に意識がなければ、応じることはできない。

 

 それは、対象者が死んでいても同じ。

 

 最悪な事態を頭から振りはらい、彼は点門(てんもん)を開いた。

 フレデリックを連れ、指定された場所に向かう。

 点門で行けるのは、点のあるところだけだ。

 指定の場所からは、まだ離れている。

 

「僕のせいで、転移なさらないのですか?」

「いいや、そうではないよ、フレディ」

 

 フレデリックは魔力を持っていないため、転移はできない。

 だが、フレデリックであれば彼の転移に便乗しても、意識を失いはしない程度の距離だった。

 転移を使わないのには、ほかに理由がある。

 

「これから会う人物への敬意さ」

「敬意、ですか」

 

 フレデリックは、きょとんとしていた。

 腹に穴を空けられた割には、平然としている。

 恐怖を感じてもいなさそうだ。

 それより、これからどこに向かうのかに関心を寄せている。

 

「彼は、魔術師が嫌いでね。転移など使おうものなら、叩き出されてしまう」

「公爵様を叩き出すだなんて、できっこありません」

「それがねえ、彼にはできるのだよ。困ったことにね」

 

 フレデリックが、びっくりした顔で、大袈裟に肩をすくめた。

 信じられないだろうけれど、事実だ。

 彼は、嘘をつかない。

 

 2人が歩いているのは、王都の街はずれ。

 人気(ひとけ)はなく、建物も古びており、空き家が目立つ。

 細い路地に入ってから、簡素な木の扉を叩いた。

 しばらく待たされる。

 

 フレデリックは、不愉快げに顔をしかめていた。

 フレデリック自身が待たされていることに、ではないのだろうけれども。

 

 ギッと音がして、中から男が顔を出す。

 痩せて顔色の悪い男だ。

 無言で、扉を大きく開き、中に入るよう、2人に促す。

 フレデリックは、なにか言いたそうだったが、黙っていた。

 彼が何も言わなかったので、それに準じたのだ。

 犬の子よりも、彼に懐いている。

 

 みしみしと軋る廊下を歩き、石の階段を降りた。

 開かれた扉の向こうにある部屋に、彼は足を踏み入れる。

 フレデリックがついて入ったとたん、後ろで扉が閉められた。

 

 目の前には、大きな机と書類の山。

 埋もれるようにして、その向こうに、1人の男がいる。

 赤毛に、銀色を暗くしたような瞳をしていた。

 その目の上に、黒縁の眼鏡をかけている。

 

「私に昔話をする気はありませんよ、ジェレミア・ローエルハイド」

 

 フレデリックが、隣でいきり立っていた。

 彼に対する物言いに腹を立てているのだ。

 さしずめ、飼い犬が飼い主に危害を加えられ、唸って噛みつこうとしている、といったところ。

 そのフレデリックを片手で制する。

 

「私も、昔話をしに来たわけではないよ。きみに頼みがあって来た」

 

 男が顔をしかめ、眼鏡を指で押し上げた。

 不機嫌さを隠す気はないようだ。

 彼も愉快ではないが、リーフリッドの苦労を水の泡にする気もない。

 相手が偏屈だと知っていて来たのだし。

 

 トリスタン・リドレイ。

 

 彼とも無縁ではない男だった。

 トリスタンの曾祖父は、彼の曾祖父、大公の執事をしていたのだ。

 トリスタンの祖父の代でリドレイに戻り、爵位を継いでいる。

 とはいえ、トリスタン自身はリドレイの当主ではない。

 四男との立場であったため、ここで好きに生きている。

 

「なんでも思い通りの大魔術師様が、私のような“持たざる者”ごときに、何を頼むことがあると仰るのでしょう?」

「こいつ……っ……」

「フレディ。言っただろう、彼は魔術師が嫌いなのだよ」

「ですが、公爵様に、あまりにも無礼ではないですか!」

「まったく。頼み事をするなら、満足に躾もできていない飼い犬を連れて来ないでいただきたい」

 

 まだ突っかかろうとするフレデリックを、目で(たしな)めた。

 頼みがあるのは、こちらなのだ。

 トリスタンとの交渉に間違いがあってはならない。

 それを理解したのか、フレデリックが、しゅんとなる。

 

「ところで、きみの成果を試してみたいと思わないかね?」

「ほう。よろしいのですか?」

「痛い目を見る覚悟で来ている。そのくらいの報酬はあるべきだと思っているよ」

 

 トリスタンが、イスから立ち上がった。

 黒縁眼鏡の奥の瞳には、明らかな好奇心が漂っている。

 

「試し打ちもできないのでは、値打ちがないだろう?」

「私が手加減をすると思ってはいませんね?」

「もちろんだとも。手加減などされては傷つくね。大魔術師の沽券にかかわる」

 

 トリスタンが、右手にはめていた手袋を外した。

 彼は、手でフレデリックに下がるように指示する。

 トリスタンの右手に、赤い紋様が浮かび上がった。

 瞬間、大きな力が、彼の体に押し寄せてくる。

 

 バァーンッ!!

 

 弾き飛ばされ、彼は、しこたま壁に全身を打ち付けた。

 背骨が折れて、内臓も破裂、口からは大量の血があふれる。

 

「こ、公爵様ッ!!」

 

 駆け寄ってくるフレデリックに、手を上げてみせた。

 壁に手をつき、体を支える。

 

「さすがに、これは治癒させてもらうとしよう」

 

 瞬時に、体を回復させた。

 首を回して、肩も上下させる。

 

「王宮魔術師なら死んでいたでしょうに。やはり、貴方は殺せないようです」

「物騒なことを言うねえ。死ぬ相手なら、これほど本気でできやしないさ」

「なかなか痛快でした。人ならざる者を、ふっ飛ばすというのは」

「きみも、たいがい趣味が悪い」

 

 彼は、貴族服の襟元を正し、トリスタンの前に立った。

 トリスタンは、すでに手袋をはめている。

 そう何度も「痛快」な真似をする気はないようだ。

 

「ところで、左手は使わないがいいよ、スタン」

 

 トリスタンが、眼鏡の奥の目を細める。

 ふんっと鼻を鳴らし、机のほうに戻っていった。

 イスに腰を落として、彼に視線を向けている。

 

「貴方に、愛称で呼ばれる筋はありませんが、まぁいいでしょう。少し気分が良くなりましたからね」

 

 トリスタンは、魔術師に対抗するすべを開発、研究しているのだ。

 自らの体さえも、実験に使うことに躊躇(ためら)いがない。

 その結果が、さっきの「あれ」だった。

 

 トリスタンは両手に、刻印の術を刻んでいる。

 

 刻印の術とは、まだ魔術が使われていなかった古い時代の術式だ。

 特殊な塗料を使い、魔術に似たようなことを行うことができる。

 ただし、建物の壁や床などに使うものであり、人に刻むものではない。

 それを、トリスタンは人に転用することを思いついた。

 

 しかも、その「実験」を行ったのは、トリスタンが15歳の時だ。

 天才肌なのはともかく、トリスタンには狂人の気がある。

 誰の言うことにも耳を貸さない偏屈でもあった。

 だが、それほどまでに入れ込み、我が身さえないがしろにするトリスタンだからこそ、付き従う者もいる。

 

「私に頼みとは?」

「きみの猟犬たちを貸してほしい。それから、きみに面倒を押しつけたい」

「嫌な頼み事をしないでほしいものです。私は、なんでも屋ではありません」

「きみが、頼みを聞いてくれれば、私としても、きみに協力しないでもない」

 

 きらっと眼鏡の縁が光った。

 彼とて、本当は、こんな交換条件は出したくないのだ。

 とはいえ、背に腹は代えられない。

 とくに、今はサマンサの命がかかっている。

 

「あとで嫌だとは言わせませんよ?」

「わかっているさ。私が約束をするのだよ、スタン?」

 

 トリスタンが、初めて口元に笑みを浮かべた。

 彼は、彼の頼みを聞く代わりに、トリスタンの実験につきあう、と言ったのだ。

 かなりうんざりすることになるのは間違いない。

 少なくとも、何度も、壁に体を叩きつけられるはめにはなるだろう。

 

「しかたがありません。話を聞きましょう。それと、そこの躾のできていない飼い犬は、ここに置いて行くがよろしい」

 

 フレデリックが、ぎょっとした顔をする。

 これは「嘘」ではない。

 フレデリックは、彼の前では嘘はつかないのだ。

 トリスタンが、彼を見て、口の端を引き上げて、言った。

 

「カウフマンの手先どもが、その犬コロを追っている」


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