引き返せないのなら 4
サマンサは、玄関ホールからではなく、裏口から屋敷を出る。
フレデリックの姿はない。
出る前に、挨拶はすませていた。
『僕のところに、きみが長逗留していると噂が立っても、いいかな?』
『いいわよ。でも、言葉は適切にね、フレデリック。あなたが、噂を“立てる”のでしょう?』
『きみが体裁を気にしない女性で良かった』
『私も、そのほうが助かるってだけよ』
そんな会話を残し、サマンサは、フレデリックの私室を後にしている。
民服姿で、わずかな荷物を持っていた。
中には、金貨と銀貨の入った袋と、着替えが数枚。
いずれも民服だ。
(民服というのは、さすがだわ。ドレスだと、1人では着替えられなかったもの)
脱ぐ時にさえ、四苦八苦している。
着るとなると、1人では、到底、無理だった。
メイドに手伝ってもらうことはできただろうが、それだとサマンサの動きが外に漏れる可能性がある。
だいたい、これからはメイドなど呼べないのだし。
対して、民服は、とても簡単に着られる。
体を通し、前ボタンを留めるだけでいい。
薬で髪と目の色を変え、民服姿のサマンサは、人目につきにくくなっていた。
馬車に乗る姿は、いかにも「屋敷退がり」をするメイドのようだ。
事情は様々だが、勤め人の中でも、女性は、婚姻だとかの理由で屋敷を去る者も少なからずいる。
「街までお願いします」
サマンサは御者に言ってから、馬車に乗った。
扉を開けてくれる者はおらず、自分で乗るのは初めてだ。
手を貸してくれるパートナーもいないので、ステップを踏み外さないように注意する必要があった。
(街に出て、そこから辻馬車に乗り換えて……途中の街で馬車は変えたほうがいいわね……着くまでに、3つほど街を越えるから、追うのは難しくなるはず……)
目的地到着まで、およそ3日。
その間に、3つの街を抜けることになる。
街ごとに馬車を乗り換えるつもりだ。
辻馬車は、貴族所有のものとは違い、紋章が入っていない。
それぞれの馬車で行き先はわかったとしても、次に、どの馬車に乗ったかまで、御者は把握しないのだ。
仮に、追う者がいても、辻馬車は多く、常にあちこち移動している。
サマンサが、どの馬車に乗ったのかがわからなければ、行き先の突き止めようはない。
それでも、馬車に乗る際には気をつけようと思った。
誰かに見張られていないかを確認してから、乗るのだ。
(でも、あまり警戒し過ぎても目立つし……魔術師を使われていたら無意味だわ)
警戒しないより、警戒はすべき。
そのくらいの感覚で、注意は怠らないことにする。
なにしろ、彼の元を離れているのだ。
なにが起こっても、助けは見込めない。
自分だけの責任で、なんとかするよりほかないとわかっている。
実のところ、すでに彼が恋しかった。
正直、心もとない。
彼と一緒にいる時には感じたことのない、不安がある。
そして、寂しかった。
そもそも、サマンサは1人で外出などしたことはないのだ。
アドラントの街に出た時も、彼と一緒だった。
王都の街には、今回、初めて出る。
地図は頭に入っているし、辻馬車の拾いかたも知っていた。
だが、心もとなさは消えない。
誰にも頼れないことに、初めて「孤独」を感じている。
フレデリックに事情を話し、ついてきてもらいたかったくらいだ。
とはいえ、フレデリックだって、彼に嘘はつかない。
彼が問えば、たちまちサマンサの居所が知れてしまう。
(とにかく、引き返せないのだから、やれることをするだけよ)
サマンサは荷物を、ぎゅっと握り締める。
ここから先、頼りになるのは、お金だけ。
なくしたり、盗られたりするわけにはいかない。
フレデリックは、かなりの額を用意してくれた。
これだけあれば、ふた月を過ごすことは可能だろう。
不安と戦っているうち、街に着いたようだ。
馬車が止まる。
サマンサは、自分で扉を開いて降りた。
ラペル家の御者に礼を言い、馬車を帰す。
(誰かついて来ているかもしれないし、店を見ている振りをしながら馬車溜まりに行ったほうがいいかしら……まったく私ったら、すっかり芝居じみたことに慣れてしまったわね)
少し自嘲気味になりつつ、店を眺めながら、歩いた。
さりげなく馬車溜まりのほうに近づいて行く。
周囲にも気を配っていたが、ついて来ている者はいなさそうだ。
もちろん魔術師がいても気づけないのだが、それはともかく。
辻馬車のひとつに当たりをつけ、御者に声をかける。
見た目で判断はできないとはいえ、人の好さそうな風貌の男性だ。
目的地の手前の街の名を告げ、先に銀貨を渡す。
本で読んだのだが、前金を渡しておくと「間違い」が減るのだという。
(知らない場所に連れて行かれたり、途中で降ろされたりしたら困るもの)
そして、あとから知人の男性が追ってくるはずだ、というようなことを、言っておいた。
女性1人だと侮られるからだ。
途中で馬車を止め、金だけ奪われ、放り出される可能性がある。
「まぁ、彼のことだから、すぐに追いつくでしょうけれど……」
うんざりするという口調で話しながら、馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す気配に、ようやく息をつく。
窓の外を街の風景が横切っていた。
これで王都から、ひとまず離れられる。
不安のほうが大きかったが、わずかながら安堵もしていた。
出だしは順調、といったところだ。
フレデリックの私室を出る間際に、サマンサは、彼から連絡があったかを訊いている。
フレデリックに連絡は入っていなかった。
彼は、サマンサの想像した通りの結論に達したに違いない。
だから、追っては来ないはずだ。
少なくとも、しばらくはサマンサを放っておくだろう。
できれば、カウフマンもフレデリックの屋敷にサマンサがいると思い込んでいてくれるといいのだけれども。
(そう易々とは引っ掛かりそうにない気がするのよね)
カウフマンは人を操るのに長けている。
彼ですら操られかけていた。
それは、彼が、劇場でのことを純然たる偶然だと思っているからだ。
サマンサほどには、ラウズワース公爵夫人の心情を測ってもいない。
サマンサとて、ティモシーの愚痴を聞いていなければ、さすがに息子を辺境地に送るのには躊躇いがあったのかもしれないと思っていただろう。
その結果、ティモシーが、あの日、劇場にいたのは偶然だと結論していた。
ラウズワース夫人の性質を彼よりも知っていたから、偶然を疑ったに過ぎない。
魔術は万能ではないのだ。
人の心までは覗けない。
彼は、貴族について、よく知っていた。
相手の心を読むことにも長けているので、夫人の性質も、ある程度は読み解いているだろう。
だとしても、どこまでも測りきれるとは限らないのだ。
そういう部分に対して、おそらく、カウフマンは長けている。
魔術などではなく、その者自身が持つ性質を利用し、操るのだ。
しかも、他人を使って。
そんな相手に、小細工が通用するかは、非常に疑わしい。
むしろ、通用しないと思って動いたほうが良さそうだ。
つまり、現時点での、自分の動きは悟られていると考えておいたほうがいい。
(だけど、理由まではわからないはずよ。だって、私は誰にも言っていない)
彼を愛しているということを。
気づいてすぐに行動を起こしている。
彼との親密さも筒抜けだったとするならば、そこが狙い目だった。
彼は、この半月、サマンサを訪ねていない。
関係に亀裂が入ったとみるのが妥当なのだ。
(彼が、私を追っていないことも伝わると考えれば……彼にとって、私は弱味にはならないって思うはず……ただ、ティンザーとローエルハイドが、懇意になるのを避けるために、私を殺しておこうとする可能性はあるかもしれないけれど)
それはかまわない、とサマンサは思っている。
カウフマンの注意を、自分に引き付けておければ、彼は動き易くなるのだ。
サマンサは、小さく微笑む。
(それに……彼は私を愛していない。仮に私が殺されたとしても、たいした傷にはならないわ……勝手なことをして、勝手に殺された。それでいいのよ)
思い立って、もう1通、フレデリックの屋敷で手紙を書いていた。
自分になにかあったら、父に渡してほしいと頼んである。
(カウフマン……あなたの思い通りにはさせない)
手紙には、自分が殺されることがあったとしても、彼とは無関係であることを、書き記していた。
彼に罪を着せようとするのを阻止するためだ。
その上で、自分が殺されたあとも、ローエルハイドとは良好な関係のままでいることを望むと、綴っている。
父は公平な人であり、サマンサを愛し、信じてくれていた。
サマンサの言葉を信じ、闇雲に彼を疑うようなことはしない。
どんな状況証拠が出て来ようとも、娘の言葉を優先する。
犯人捜しを、彼とともにしようとするかもしれないが、仲違いをすることはないだろう。
サマンサは、窓の外を見つめた。
もう街の外に出ている。
景色は、すっかり変わり、人の姿も建物も少なくなっていた。
(どうか……勝ってね……あなたのすべきことを、あなたができますように……)
夕暮れに染まりつつある空を見ながら、サマンサは、彼を想う。
彼の軽口が、ひどく恋しかった。




