引き返せないのなら 2
サマンサは、メイドのラナに、ローエルハイド公爵家の執事を、今すぐ呼ぶようにと言ってある。
とはいえ「今すぐ」といっても、それなりに時間がかかるのは見越していた。
ラナが本邸に行き、執事であるジョバンニをすぐに見つけられたとしても、そう「すぐ」には、こちらには来られない。
ジョバンニには、執事としての仕事がある。
それを棚上げにするにも、多少の時間はかかるのだ。
だいたい、サマンサに呼ばれるのと、彼に呼ばれるのとでは、ジョバンニの中の優先順位は大きく違う。
彼に呼ばれたのであれば、なにをさておいても、飛んで来るだろうが。
その時間を使い、サマンサは手紙を書いていた。
彼宛の手紙だ。
急にいなくなれば、彼は絶対にサマンサを探す。
たとえ険悪な状態であっても、放ったらかしにはしない。
そういう人だと知っている。
だから、彼が探さないよう、先手を打っておく必要があった。
理由や原因に思い当たる節があれば、彼は探さずにいるはずだ。
そして、彼を納得させるだけの理屈を、サマンサは用意している。
書き上げた手紙を封に入れ、封蝋をしてから印璽を押した。
これは、あとでジョバンニに渡しておくつもりだ。
これからの、サマンサの行動は、ジョバンニから彼に報告が入るに違いない。
その結果、手紙に信憑性が増す。
サマンサは、室内を見回した。
ここに戻ることは、おそらく、もうない。
寂しくて、胸が苦しくなる。
ラナや勤め人たちに、挨拶もできないのだ。
(みんなには、本当に、よくしてもらったわ。すべてが終わったら、手紙を書いて謝らなければね……)
思っていると、扉を叩く音がした。
短く返事をしたのち、ラナとジョバンニが入ってくる。
「これから、フレデリックのところに行くわ。点門を出してちょうだい」
「かしこまりました」
サマンサは、わずかに目を細めた。
なにも聞かず、ジョバンニが了承したからだ。
それは、彼女の予想通りと言える。
(彼のことだもの。私がフレデリックに会いに行くと言ったら、連れて行くように言いつけてあったのでしょうね)
彼は、この半月、サマンサの前に姿を現していなかった。
今後も、顔を合わせる気はないのだろう。
だが、約束を破る気もない。
『もちろん、きみがフレディに会いたいと思う時には、いつでも』
そう言ったからには、たとえ彼自身の手に寄るものでなくても、サマンサがフレデリックに会える手配はしている。
自らの読みが正解だったことに、胸の痛みを感じた。
彼は、やはり自分とは会いたくないのだ。
彼に対する気持ちを、サマンサは認めている。
避けられていると知って、つらくなるのは当然だった。
それでも、今の状況を幸運だったとも思う。
彼が、サマンサを愛していないのなら「弱味」ができる可能性は減る。
「今日は、ラナは、ここに残ってくれる? フレデリックに話しておきたいことがあるから、長くなりそうなの」
「かしこまりました」
「では、お迎えはいつにいたしましょう」
ジョバンニの問いに、サマンサは、スッと手を差し出す。
持っていた手紙をジョバンニに渡した。
「それを彼に渡して、彼の指示を仰いで」
「承知いたしました」
ジョバンニは訝しく思ったかもしれないが、表情は変わらない。
サマンサのことは、基本的に、彼が決めているからだろう。
ジョバンニが独断で動くことはなかった。
独断で動かれては困るので、サマンサにとっては好都合だ。
「行って来るわね。ラナ……」
「いってらっしゃいませ、サマンサ様」
頭を下げるラナの姿に、寂しさを覚える。
その気持ちを振りきって、サマンサは、点門を抜けた。
すぐに、門が閉まる。
目の前には、あの「どんより」した雰囲気のラペル侯爵家の屋敷があった。
サマンサは、1度だけ振り向き、門が確実に閉じているのを確認する。
それから、扉に向かって走った。
体型が変わったので、体が軽い。
足がもつれることもなく、貧相な飾り気のない扉の前に立つ。
「これは、サマンサ姫。本日は……」
「フレデリックはいるかしら?」
出て来た、これまた公爵家の執事とも思えない貧相な男性に訊く。
執事が慌てて、サマンサを玄関ホールに残したまま、屋敷の奥に走って行った。
客を小ホールか客室に案内してから、家人を呼びに行くのが常識なのだが、今は礼儀をとやかく言うつもりもない。
「サマンサ! これは嬉しい驚きだね。ちょうど僕もきみに用が……」
「フレデリック、2人だけで話せる?」
言葉を遮るのは本意ではなかったが、急いでいる。
手紙は、すぐにも彼に渡るはずだ。
どう判断されるかはわからない。
サマンサは、彼が自分を追わないと判断しているが、確実とは言えなかった。
そのため、急ぐ必要がある。
「わかった。それじゃ、僕の私室に行こうか」
フレデリックは、気を悪くした様子もなく、私室に向かって歩き出した。
サマンサも、何度か訪れているので、慣れている。
階段を降りて、1番手前がフレデリックの私室だ。
外からは想像もできないくらい、中は上品な造りに仕上げられている。
フレデリックの趣味だと聞いていた。
「いったい、どうしたっていうのさ?」
カウチの形に近いソファに、サマンサは座る。
フレデリックは、お茶を用意していた。
この部屋に、人を入れるのを好まないため、自らの手で淹れるのだ。
その背中を見ながら、詫びを入れる。
「ごめんなさい。あなたも、私に話があったのよね? でも、先に話してもかまわないかしら?」
「いいよ。僕の話は急ぎじゃないからね」
フレデリックがティーカップをテーブルに並べ、向かい側に座った。
軽い口調に、少し気持ちが落ち着く。
サマンサは、紅茶を手に、ひと口。
それから、口を開く。
「少しの間、アドラントを……彼の傍を離れることにしたの。それで……本当に、こんなことを言うのは恥ずかしいのだけれど、馬車と、お金を貸してもらえない? もちろん、お金はティンザーに取りに行ってもらってかまわないわ。私が借りたと言えば、払ってもらえるから。馬車代もね」
「馬車や金のことは気にしなくていいよ。いくらだって貸す。返済だってしなくていいって言いたいところだけれど、きみは気にするだろ? だけど、王都に帰ってからで、かまわない。なにも急ぎやしないさ」
サマンサは、苦笑いを浮かべる。
なんとも心苦しい限りだった。
フレデリックが事情を、なにも聞かないからだ。
サマンサが嘘をつけないことに、気を遣っているのだろう。
「事情を話せなくて、申し訳ないと思っているわ……」
「公爵様のためだってことは、わかっているよ」
サマンサは、ハッとした表情を浮かべる。
瞬間、フレデリックが、ははっと軽く笑った。
「本当に、きみは、つくづくと嘘がつけないなぁ」
「詳しく話せないのは、そのせいよ」
「だね」
話せば、フレデリックに迷惑がかかる。
フレデリックだって、彼には嘘はつかないし、そもそも彼に嘘は通じない。
サマンサも、自分の心を見透かされると思ったので、屋敷を出たのだ。
意識の下に閉じ込めていた時ならまだしも、今は自覚がある。
ふとした言葉から、彼を愛していると悟られる恐れがあった。
それも避けたかった。
もちろん、正直に打ち明けて、追い出されるという筋書きも考えてはいる。
とはいえ、万が一にも、それで彼の心を揺らせてしまっては、まずい。
サマンサ個人としては、嬉しいことだが、喜べる状況ではなかった。
今は、なにより彼は「強く」あらねばならない時なのだ。
(カウフマンは手強いわ……しかも、やりかたが卑劣よ……)
彼が自らの手を汚すのとは違い、カウフマンは人を使う。
そして、カウフマン自身は影に潜み、ほくそ笑んでいるのだ。
「ところで、サマンサ。きみが、アドラントを離れるのなら、僕にとっても都合が良くてね。ちょっと協力してくれるとありがたい」
「もちろん、私にできることなら協力するわ。でも、時間がないのよ」
「きみは、服を着替えて、ほんの少し薬を飲んでくれればいい」
「姿を変えるということ? 私にとっても、都合はいいけれど」
フレデリックが、パッと立ち上がる。
私室の奥にある部屋に行って、手に服を持ち、戻って来た。
手渡された服に、首をかしげる。
「これは、民服ね」
シンプルな花柄のワンピースだ。
しかも、少し古ぼけている。
どこで手にいれたものかは知らないが、フレデリックが、次にサマンサと会った際に「協力」を依頼するため、準備をしていたのだろう。
「薬で髪と目は茶色に変わる。3日ほどしか保たないが、ここを出る時さえ誤魔化せれば、それで十分だ。僕のほうはね」
「私も、それで十分よ。元々、お忍び姿は計画になかったから、助かるわ」
サマンサは、行き先を考えてあった。
順調に行けば、馬車で3日もあれば着けるはずだ。
フレデリックに対し、それがどういう「協力」になるのかはわからない。
けれど、詳しく聞いている時間はなかった。
「すぐに用意するわね」
「僕は、馬車の用意をしてくる」
サマンサがうなずくと、フレデリックは、指先を口に当てて、軽く音を立てる。
離れた相手に口づけを送る仕草だが、あまりにスノッブっぽくて、サマンサは、思わず笑った。




