人でなしの心の裡は 4
彼は、怒っている。
あれから、半月もサマンサの前に姿を現していなかった。
花も入れ替わっていないことから、来ていないのは明白だ。
しかたがないと思いながらも、サマンサは、落ち込んでいる。
あんな話をしなければ良かったと、悔やんでもいた。
彼との関係を良好にし過ぎる気はなかったが、険悪になる気もなかったからだ。
だが、結果として、彼を怒らせている。
今まで、サマンサの言葉や態度に、彼が本気で怒ったことは1度もない。
雰囲気が悪くなることはあったが、翌日には、ふらりとやってきて、いつも通り軽口を叩いていた。
彼が来ないのを、別邸の勤め人たちも気にしている。
サマンサは「事前に忙しくなると聞いている」と話していたが、納得しているかは、わからない。
忙しくても、少し立ち寄るくらいの時間もないとは考えにくいのだ。
(みんな、私が捨てられて、追い出されるのを心配してくれているのよね)
予定といえば、予定通りだった。
少しずつ、彼とは距離を置いていくという筋書きに沿っている。
とはいえ、サマンサは、これが「筋書き」ではないと、わかっていた。
彼は、本気で、自分に見切りをつけたに違いないと思っている。
(駒としての役目が終わるまでは、ここにいるしかないけれど、こうなると、早く王都に帰りたいわ……こんな厄介者みたいな扱いは、つら過ぎるもの……)
ほかに割り振られた役目があるのなら、ここにいてもいいという気になれたかもしれない。
だが、今のサマンサには、これといって役目もなかった。
単に、カウフマンから命を狙われているため、ここにいるだけだ。
実際に狙われて、カウフマンを引っ張り出せればいいのに、とさえ思う。
(でも、向こう側の動きは、なにも分からない。彼が来ないから、情報が、まるで入って来ないのよね。彼の計画は順調なのかしら……)
なにも言って来ないということは、おそらく順調なのだろう。
彼の提示していた3ヶ月以内のうちの、1ヶ月が過ぎている。
残り、2ヶ月。
サマンサがアドラントで過ごす期限でもあった。
(まさか、最後まで顔を見せないってことは……有り得るわね……)
元の筋書きでは、サマンサが王都に戻り、新しく建て直したティンザーの別邸に彼が通うということになっている。
その頻度を落とし、距離を理由に別れるのだ。
だとしても、彼ならば、サマンサに会うことなく、別邸を訪れていると、周りに思わせることくらい容易い。
カウフマンとの問題だって、結果をサマンサに報告する義理はなかった。
仮に、報告するにしても、彼がする必要はない。
ジョバンニという「優秀な」執事がいる。
(このまま、2度と顔を合わせない可能性もあるのだわ……最後の会話が、あれになるなんて……すごく嫌ね……彼なら、やりそうだけれど……)
彼は、いくらでも冷酷になれる人だ。
人を使って傷つけたりはしないが、自らの手で、容赦なく相手を打ちのめす。
アドルーリットの2人が、いい例だった。
(結局、私も、藁の橋を渡ってしまったということよ……すっかり、彼の手の内で踊らされて、期待したあげくが、あれだもの……)
サマンサの、現状は、彼女自身が招いたことだ。
少なくとも、サマンサは、そう思っている。
彼は、最初から「愛は不要」だと明確にしてきた。
わずかな期待から、線引きを間違えたのは、自分なのだ。
(だって、しかたがないじゃない……彼が、劇場で、私に口づけたり、正式な婚姻だとか言ってきたりするから……いいえ、やっぱり違うわね。私が……)
半月前にも考えていたことが、頭に蘇る。
彼とは、お互いに距離をおいたつきあいをしようとしていた。
彼もいっときは、サマンサを誘わなくなっていたのだ。
変化があったとすれば、やはり、あの劇場での出来事のように思える。
(そういえば……ティモシーが、そもそも王都にいたのが不自然だったのよね……あれが偶然ではなかったとしても、彼が仕組んだのではないのは確かだったわ)
だから、サマンサは、もしかするとカウフマンの仕業かもしれないと疑った。
とはいえ、目的が不明だったのだ。
あの頃、彼女は、彼の「特別な客人」であり、ティモシーをぶつけたとしても、彼に横槍を入れられるのは明白だった。
そういう無駄な一手を、カウフマンが打つだろうか、と。
(もし……もし、あれが無駄ではなかったとしたら……? どういうこと……?)
彼から聞いたカウフマンの話も思い出す。
人を人とも思わない者だと感じた。
血筋でさえ、自らで創り上げようとするような人物だ。
無駄なことをするはずがない。
(あの劇場でのことがなければ、彼は変わらなかった? 可能性としては有り得るけれど、起きたことは変えられない。実際に、あれから、彼はまた私を誘うようになったもの……それがカウフマンの狙い……?)
理屈が通らないと思った。
カウフマンは、ローエルハイドとティンザーが姻戚関係になるのを嫌っている。
彼とサマンサの破局を望むのなら、理解できた。
サマンサの命が狙われる理由も同じだからだ。
カウフマンは、彼とサマンサの仲を裂きたがる。
2人が親密になり、婚姻することを阻止するために、サマンサを殺そうとする。
そのように彼も語っていた。
(でも、真逆だわ……まるで私と彼とを親密にさせようとしているみたいだもの)
それに、どういう意味があるのか。
カウフマンの利にはならない。
むしろ、不利益に繋がる。
カウフマンの狙いは、アドラントをバラバラにすることだ。
そのためには、どうしても領地返還させる必要がある。
ティンザーの票が入らなければ、おそらく、その法は通らない。
ローエルハイドとティンザーに懇意になられては困るはずだ。
(やっぱり偶然なのかしら……カウフマンが、私たちをくっつけようとするなんて有り得ないものね……)
ふう…と、サマンサは大きく溜め息をつく。
考えても意味がない気がしてきた。
(だって、彼は、ものすごく怒っているのよ? 私が、あれこれ言ったって……)
そこで、サマンサの中に新たな疑問がわく。
とてもシンプルな疑問だ。
なぜ、彼は怒ったのか。
サマンサが強情だったのは否めない。
だとしても、それはいつものことだ。
フレデリックを引き合いに出したのは、まずかったかもしれない。
だが、そもそも、フレデリックと会わせると言い出したのは、彼だ。
状況や感情は違う。
なのに、劇場でのことに似ていると感じた。
(彼は……感情が抑制できなかったのだわ! 私に……私に心を見せていた……)
動揺していたからかもしれない。
怒っていたからかもしれない。
だが、あれほどに、自らの心を「隠蔽」し、守ってきた彼が、その2つの場面において、サマンサに心を見せていたのだ。
彼が、感情に任せて動いたのは、間違いない。
(ああ……なんてこと……まずい……まずいわ……)
ようやく、カウフマンの狙いがわかった。
やはり劇場でのことは、カウフマンが仕組んだのだ。
カウフマンは、彼に弱味を作らせようとしている。
その弱味とは、すなわち「サマンサ」だった。
彼に、サマンサを愛させようとしている。
その心の壁を打ち破らせようとしている。
そして、サマンサを奪うつもりだ。
心を守る壁を失い、愛までも失ったら。
(……彼はもう……自分を守れない……)
無防備なところを狙われ、打ち負かされるに違いない。
サマンサは、その確信と成り得る記憶に呻く。
初めて、ここを訪れた際、ローエルハイドには愛に関して独特の捉えかたがあると感じていた。
それを間違いだとしたが、間違ってはいなかったのだ。
ローエルハイドは、常に正妻のみを愛する。
サマンサは貴族として、歴史を学んでいた。
ローエルハイドの情報は少ないが、それでも系譜は知っている。
妻をなくしたあとの当主は、さほど長生きをしていない。
彼の父親に至っては、行方知れずとされていた。
それだけ思い入れが深かったということではなかろうか。
「そんな……私自身が……1番、彼を危険に晒しているのじゃない……彼に愛されてはいけないのに……それを望むようなことを言ったりして……私が、彼を窮地に追い込んでいる……それに……それに……」
サマンサは、両手で顔を覆った。
涙があふれてくる。
ここに至って、初めて認めたのだ。
「私はもう……彼を愛してしまっている……」
居心地がいいだけだと、気兼ねがなくていいだけだと、ずっと気づかない振りをしてきた。
彼が「愛は不要」とする人だったからだ。
傷つくとわかっていて、認めるのが怖かった。
ティモシーのことで、散々、傷ついたあとのことでもある。
愛されないとわかっている相手を愛してしまうのを恐れた。
同じことを繰り返したくはなかったのだ。
けれど、もうどんな言い訳も無駄になっている。
気づいて認めたことを、覆すことはできなかった。
サマンサは、顔を覆っていた手で涙をぬぐう。
今なら、間に合う、と思った。
「私はともかく……彼は、私を愛してはいない。だから、まだ間に合うわ」
だが、とても危うい。
彼は、サマンサに、1度ならず2度までも「心」を見せている。
自信過剰なわけではなく、彼を「変えて」しまう恐れがあると感じていた。
「彼に弱味なんて作らせはしないわよ、カウフマン」
なにか理由をつけて、ここから離れる。
一刻も早く、だ。
彼から離れ、事態がおさまるのを待つしかない。
彼との愛し愛される関係を築ける可能性は永遠に失われるだろう。
それでも、彼を守るために自分ができることは、それだけなのだ。
サマンサは、立ち上がり、ラナを呼ぶ。
そして、決意を固めて、言った。
「あの執事を、今すぐ呼んで来てちょうだい」
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