線引きは誤らないよう 4
サマンサは、ドレスの襞の間に作ってもらったポケットに、そっとふれる。
その中に、そっと針を忍ばせているのだ。
対象となる相手は、わかっている。
道の少し先にいる茶色の髪の男性だ。
緑色の民服を着ている。
(大人しく待っていろと言われたのに、じっとしていられないって感じで……)
周りの店に顔を向けながら、ゆっくりと歩き出した。
自分に視線が集まっているのは承知している。
が、気づいていない振りで、露店の果物を手に取ったりしてみた。
「観光する人が多ければ、試食させるという手もあるのに……」
つぶやいてから、果物を元の位置に戻す。
半分は本気で言った言葉だ。
売り子をしていた女性も、サマンサの言葉に、少し興味を引かれた様子だった。
アドラントは入るのが難しいため、観光する人が著しく少ない。
(自給自足の問題を、彼はどうやって解決する気かしら)
男性に近づくためではあるが、同時にアドラントの先行きも心配しながら歩く。
カウフマンの影響は、かなり深刻だと言えるからだ。
彼が、カウフマンを手っ取り早く「始末」できない理由にも納得できる。
正直、一朝一夕では手の付けようがない。
時間をかけ、自立した経済状態に戻すより手立てが思い浮かばなかった。
(……まぁ、私は、長居をするわけではないから、考える必要はないけれど)
サマンサは、彼とともにアドラントを支える女性には成り得ないのだ。
彼と「正式な婚姻」をする気はない。
自分を戒め、サマンサは、さらに男性に近づいて行った。
わざと、相手のほうは見ないようにしている。
わざとらしくはなるだろうが、気づかなかった振りでぶつかろうと思っていた。
その際、転んでもかまわない。
街歩きに慣れていない貴族の令嬢というのが、今回の配役なのだ。
それが筋書きだった。
サマンサは、筋書きを変えるつもりもなかったし、与えられた役目をこなす気でいたのだ、本当に。
だけれども。
「なにをするのっ?!」
ガツッ!!
ぐわっとも、ぐひっともつかない悲鳴が響く。
ついで、大きな音がした。
ガッターンッ!!
あまりの勢いに、サマンサ自身、驚いている。
周りからも、奇声が上がっていた。
あっという間に、人垣ができる。
サマンサは焦る以前に、茫然としていた。
目の前には、露店の台座を壊し、ひっくり返っている男性がいる。
いったい、なにが起きたのか。
彼女自身にも理解できていない。
「なにをやっているっ?」
人垣が割れて、彼が姿を現した。
サマンサは、ぼうっとしたまま、そちらに顔を向ける。
彼は、顔をしかめ、彼女を見ていた。
「いったい、何事かね?」
「え……あの……それが……」
どう考えても、自分が男性を「殴った」としか思えない。
とはいえ、サマンサは貴族の女性であり、これまで1度たりとも、男性を殴ったことなどなかった。
せいぜい、彼の脛を蹴ったり、足を踏んだりした程度だ。
「り、領主様……」
小さな声に、2人して、視線を向ける。
幼い女の子が立っていた。
言いにくそうにしながらも、彼を見上げて口を開く。
「その人が……このかたの……あの……お尻に……さわって……」
「なんだって!!」
一気に、彼の形相が変わった。
ざあっと空気が冷たくなる。
まずい!と、焦ったのは、サマンサのほうだ。
こんな大勢の人がいる中で、男性の全身の骨を砕かせるわけにはいかない。
「あ、あー! 手、手が痛いわっ!」
サマンサは、自分の手を押さえて、そう叫ぶ。
彼が、パッと視線を、男性から彼女に戻した。
すぐさま、サマンサの手を取ってくる。
実際には、手は無傷なのだけれども。
「か弱い女性の手で、男を殴ったりするから……」
「お、驚いてしまって……」
「ああ、わかるよ。まったく、なんてことだ」
ふわんと緑色の光が、サマンサの手をつつんだ。
暖かくて心地いい。
おそらく治癒の魔術だ。
もっとも、本当には、必要はなかったのだけれど、それはともかく。
「り、領主様……領主様の連れのかただとは……知らず……」
男性が、よろよろしながら、地面に這いつくばる。
周囲の者たちの視線は冷たく、少しの同情もされていない様子だった。
よくよく見ると、男性は赤ら顔をしている。
昼間から大酒を飲んでいたらしい。
「私の連れかどうかではないだろう。誰が相手であれ、そういう真似をすることをアドラントでは許していないはずだ」
彼の厳しい口調に、男性は震えあがっていた。
酔いも、すっかり飛んでしまっているようだ。
なにしろ、口元からは血が垂れている。
それほど強く殴った、ということだろう。
(私に、そんな力があったなんて、それこそ知らなかったわ……手加減のしようがないじゃない……)
サマンサは、すかさずポケットに手を入れ、針で指を傷つけた。
それから、ハンカチを取り出し、その男性の前に跪く。
口元を、それで拭いながら、素早く自分の血を男性の顎の下につけた。
「そのような男に、親切心など必要ない」
彼の言葉に、周りもうなずいていた。
だが、サマンサは彼を振り仰ぎ、首を横に振る。
「彼だって、これに凝りて気をつけるわよ。今回だけは許してあげてちょうだい」
「私の婚約者にふれた者を許せと言うのか?」
周囲に、ざわめきが広がった。
殺されてもしかたがないとばかりの空気になっていく。
男性は真っ青になって、ぶるぶる震えていた。
とんでもないことをしでかしたと、今さらに気づいたのだろう。
「ね。もう2度としないわよね? 反省しているのでしょう?」
縋るような目でサマンサを見ながら、男性が、こくこくとうなずく。
サマンサは、もう1度、彼を見上げて言った。
「私も彼を殴ってしまったし……お願いよ、私に免じて許してあげて」
彼は、渋い顔をしている。
演技とは思えない、本気の不快さが滲んでいた。
目的を忘れているのか、まだ男性の骨をバラバラにしたそうな目つきをしている。
が、しばしの間のあと、溜め息をついた。
「……しかたない。きみが、そうまで言うのなら。だが、今度だけだ。次はない。もし、この男が同じ真似を誰かにしたら、必ず、私に報告してくれたまえ」
周りの者たちが、一斉にうなずく。
彼は、視線を一巡させてから、足元に落とした。
小さな女の子が、彼を見上げている。
「ありがとう。きみのおかげだ」
少しかがみこみ、彼が女の子の頭を撫でた。
それから、ぱちんと軽く指を鳴らす。
「お礼だよ」
「あ、ありがとう、ございます……領主様……」
女の子は、渡されたクマのぬいぐるみを、両腕にしっかと抱き締めていた。
彼に、にっこりされて、頬を赤くしている。
なんだか、とても奇妙な気分になった。
彼が子供に優しくする姿なんて想像もしていなかったからだ。
(子供が嫌いというわけではないのね……意外だわ……)
そのサマンサの戸惑いを察したかのように、ふっと、彼がサマンサを見る。
慌てて、にっこりしてみせた。
「気分直しに、カフェでも行こうか」
「ええ、そうね」
「おっと、その前に」
彼が、再び、指を、ぱちんと鳴らす。
壊れた露店が元通りになっていた。
周囲から感嘆の声があふれる。
「迷惑をかけたね」
「と、とんでも、ありません! こ、こちらこそ、街の者が……」
「いや、私の監督不行き届きさ。きみたちが安心して商売ができるようにするのも私の務めだ。これからは、少し街の様子も気にかけておくよ」
そう言い残し、彼は手を振り、歩き出した。
さっきまでとは違い、サマンサの腰を抱いている。
サマンサは距離を取ろうと思っていたことを忘れていた。
そのせいで、腰を抱かれているのを不思議にも思わず、彼に寄り添って歩く。
しばらく歩いた先の道の脇に、木の扉があった。
彼に連れられ、中に入る。
王都の街にあるような屋外のカフェはないのだろう。
通って来た道はどこも狭く、広い場所はなかった。
露店も並んでおり、カフェテーブルを置ける余地はない。
中は思ったより広く、いくつものテーブル席が設けられている。
いつもそうなのか、時間的にそうなのかはともかく、空いていた。
何人かの客が、彼に気づいたらしく、ちらちらと2人に視線を投げてくる。
が、彼が陽気に挨拶をし、手を振ると、頭を下げて出て行ってしまった。
すっかり客を追いはらってしまい、サマンサは居心地が悪くなる。
彼はまったく気にしていない様子で、テーブル席に座った。
向かい側に座り、サマンサも気を取り直す。
人がいないほうが、気を遣わなくてすむ、と思ったのだ。
びくびくしながら注文を取りに来た女性に、紅茶とスコーンを頼む。
サマンサは、こういう場所での勝手がわからないので黙っていた。
貴族教育で学ぶため、王都の造りを、たいていの貴族令嬢は知っている。
だが、サマンサは、街に出るのも初めてだったし、カフェも初めてだ。
「右手を出してごらん」
「右手……?」
首をかしげつつ、彼のほうに手を出す。
彼がサマンサの手を軽く握った。
親しげな仕草ではあるが、目的が治癒だと気づく。
あの男性に血をつけるため、針で突いた傷が癒えていた。
そこに、注文したものが運ばれてきたので、サマンサは、サッと手を引く。
2人の邪魔をしたとでも思ったのか、皿やティーカップを並べると、女性はそそくさと席を離れていった。
なにやら、わけもなく気恥ずかしくなる。
サマンサは、自分の感情を取り繕いたくて、彼に肩をすくめてみせた。
「あれほど驚いたことってないわ」
「それは、私が言いたいね。きみに息の根を止められるのじゃないかと思ったよ」
「自分の力が強いと知っていたら、手加減したのだけれど」
「きみのせいではないさ」
瞬き数回。
サマンサは、ようやく気づいた。
彼が「なにか」していたのだ。
きっと、本来、持っている力以上に、強くなっていたに違いない。
「……街の人たちに、どう思われたか……私だけが、ものすごく恥ずかしいことになったじゃないの」
不満たらたらで言ったのだが、彼は悪びれた様子ひとつ見せずにいる。
眉をひょこんと上げ、平然と紅茶を片手にして言った。
「私にとっては好都合だ。これで、街に出ても、きみに不用意にさわろうなんて、誰も思わなくなった」




