線引きは誤らないよう 3
アドラントの街に「普通に」出かけるのは、何年ぶりになるだろうか。
彼にとっては、懐かしさを感じる街並みだった。
王宮を中心に放射状に道が広がっている王都の街とは異なり、アドラントは、区切られた細かい正方形の集まりのような造りをしている。
かつての文化が、ほぼ手つかずで残っているため、北方諸国に近い造りなのだ。
ロズウェルド本国より、テスアの町に近い雰囲気が漂っていた。
「アドラントの特産品は、今も売られているのね」
彼の隣で、サマンサが瞳を輝かせている。
街に出るのは、初めてだと聞いていた。
今度は、お忍びで王都の街に、2人で行くのもいいかもしれないと思う。
彼女は、今まで外に出なさ過ぎたのだ。
(私なら、どこにでも、彼女を連れ歩いただろうな。そりゃあ、部屋に2人でこもるのも悪くはないが)
思いはしたが、口には出さない。
街に出る前の打ち合わせの際に、失敗したばかりだった。
つい、サマンサに誘いをかけ、ぴしゃりと扉を締められてしまったのだ。
この3日、隣に座るのも許されない空気を、彼女はまき散らしていた。
「ここより北方に近い山のほうでは、羊飼いも残っているからね。まぁ、ずいぶん減ってしまったようだが、その分、高値で取引されているのさ」
アドラントは、元は牧畜で名を知られていた国だ。
良質な羊や山羊、牛や馬が、輸出品の4割程度を占めていた。
羊の毛の加工品に、山羊や牛からできる乳製品、それに、足が強くて体力があると定評のあった馬は、荷馬車引き用に高額で取引されていたのだ。
北方に近く、農耕は、さほど盛んではなかったが、完全に手放していたわけではない。
牧畜や、アドラントでしか採れない稀少な鉱石との取引で賄える程度には、自給自足の割合は低くなかった。
少なくとも、今ほどでなかったのは確かだ。
「それにしても……食料品が、かなり安いわ。野菜や果物も、王都で売られている値段より、1%以上は安いのじゃないかしら」
「きみは、着替えも1人ではできないのに、そういうことには詳しいのだね」
言うと、サマンサが、ムッとした顔をする。
彼は称賛したつもりだったのだが、それはともかく。
「クローゼットからドレスは見つけられなくても、そのドレスがどういう生地から作られていて、どの程度の値段かの見分けはつくのよ?」
「人には、それぞれ向き不向きがあると実感するなあ」
「あら、あなたには不得手なことなんてないと思っていたわ」
「そうでもないさ。きみの期待を裏切るようだが、私にも、不得手なことはある」
「予想もつかないわね。良ければ、教えてくれる?」
彼の腕に乗せられた、サマンサの手を軽く、ぽんぽんと叩く。
それから、にっこりして言った。
「女性を口説くことさ」
サマンサが、あからさまに呆れ顔をする。
こうして2人で会話をしながら、街を歩くのは悪くない。
というより、とても気分が良かった。
離れていた距離が縮まり、親密さが増した気がする。
「横道に逸れるのはやめてちょうだい。ところで、さっきの話だけれど、この状況は、かなりまずいわよね? この値段で生活をしていては、流通が滞って、値段が高騰したら、たちまち暮らしが傾くわ」
サマンサは、売られている食料品の値札を見ながら、顔をしかめていた。
ドワイトが「宰相の側近も可能」とするのにもうなずける。
彼女は、正しく状況を理解していた。
アドラントは、カウフマンに命の源を掴まれている。
「今のアドラントの主な産業は、魔術道具や薬になってしまっている。魔術道具に関して言えば、祖父の責任もあるがね。当時のアドラントは、王族の贅沢のせいで国としては貧しかった。だから、祖父は、少しでも民の暮らしを良くしようとしてアドラントでしか製造できない魔術道具を作ったのだよ」
「それが、重宝され過ぎてしまったのね」
「魔術道具や薬は、牧畜をするより安定的な収入が見込める。なにしろ、生き物は死んだり、病気になったりするからね。しかも、わざわざ草のある山を転々とする必要がある」
人は便利なほうに、楽なほうに流れるものだ。
それが生き易さではあるかもしれないが、失うものも、当然に出てくる。
今のアドラントの民に、今さら昔の暮らしに戻れと言っても無理だろう。
放牧の仕方すら知らない者のほうが多いのだから。
「魔術道具はまだしも、薬のほうが厄介だ」
「アドラントで生産していることに意味はないみたい」
「まさしく、その通り」
「売られているものを見ればわかるわ。王都にあるものばかりだもの。優位性は、値段だけね」
魔術道具に関しては、アドラントでなければ製造できない品が多い。
だが、薬は、なにもアドラントでなくても手に入る品だ。
売買が成立しているのは、王都より安く仕入れられるという点に尽きる。
「運搬にかかる費用を値上げされただけで、アドラント製の薬は、売れなくなってしまうじゃない」
彼は、サマンサに肩をすくめてみせた。
毎日が同じの繰り返し。
それを70年近くやってきた。
カウフマンがアドラントを侵食し始めてからでも、おそらく50年は経っている。
「今のアドラントは、羽を持たずに生まれた鶏みたいなものさ。気が向けば、いつでも煮たり焼いたりできる。羽をむしる手間さえいらない」
深刻な話をしているのだが、2人は、のんびりと歩いていた。
サマンサも、もう顔をしかめてはいない。
街歩きを楽しんでいるという様子で、時折、売り子に笑顔を向けている。
「みんな、あなたに愛想がいいわね。その割に、声をかけてくる人が1人もいないのは、どういう理由かしら」
「気を遣っているのだよ。私が、女性連れで街に来たのは初めてなものだから」
「そうなの?」
「きみときたら、私の言葉に、ちょくちょく“そうなの?”と訊くが、その理由のほうが知りたいよ」
サマンサが、小さく笑った。
こんなことなら、腕を組むのではなく、腰を抱いておけば良かった、と思う。
そうすれば、簡単に抱き寄せられた。
「アドラントの主として、もっと自由に振る舞っているのかと思っていたから」
「その自由というのが引っ掛かるが、あえて訊かずにおくよ」
「私の知っている貴族というのはね。自分の領地では好き勝手をしても許されると思っている人が多いのよ」
「良くない類の自由だろう? 私は、そういう“自由”は好まないな」
彼は、貴族ではあるが、貴族を嫌っている。
すべてとは言わないまでも、ほとんどが碌でもないからだ。
民に無理を強く、ということの中には、遊蕩も含まれる。
気に入った女性を強引に愛妾にする貴族も少なくなかった。
「今後のアドラントをどうすべきかも、悩ましいところだよ。例外を許せば、つけ込まれる。かと言って、例外がなければ、折り合いがつかないこともある」
「そればかりは、手間をかけるしかないわね」
サマンサが、あっさりとした口調で言う。
やはり聡明な女性だ。
彼女と一緒なら、アドラントの統治を「真面目に」やってもいい。
政などという面倒事も、サマンサとなら楽しめる気がした。
(だが、彼女は暖かで穏やかで……愛のある暮らしを望んでいる。生涯、私の駒でいさせることなどできやしないさ)
胸の奥が痛んだが、次の瞬間には、それを忘れる。
彼は、ただ街歩きをしていたのではない。
目的を忘れてもいなかった。
サマンサの腕を、わずかに引く。
彼女は気づかない振りをしながら、彼に微笑みかけた。
ちゃんとわかっている。
とっかかりの1人。
その1人を、彼は見つけていた。
商人ではない。
どこにでもいそうな民服姿の男だ。
おそらく、彼よりも年は上だろう。
「王都では、街にはカフェがあるけれど、アドラントにもあるの?」
「あるにはあるが、少し遠いな。飲み物で良ければ、すぐ買えるが、どうする?」
「とりあえず、飲み物だけでもほしいわ」
「わかった。ここで、大人しく待っていられるかい?」
彼は、サマンサの両手を取る。
さりげなく、何本かの指をなぞった。
親しげな仕草にしか見えないが、ちょっとした意味がある。
「あなたこそ、魔術を使って、ひょいと出したりしないで、買って来られるの? 支払いも、ちゃんとするのよ?」
左手は髪、右手は服の色を、それぞれの指にあてはめていた。
彼は、指をなぞることで、相手の髪の色は茶色で、服は緑だと示したのだ。
「おつかいくらい、私にもできるさ」
そして、彼女の頬に、2度口づける。
これは、民の男性を意味していた。
道の先にいる民たちの中で、あてはまる男性は1人だけだ。
(商人だったら、額にも口づけられたのになあ)
サマンサに、この提案をした時には、かなり疑わしげな目で見られている。
即言葉を使えばいいと、もっともなことを言われた。
確かに、間違ってはいないのだが、万が一ということもある。
あまり魔術師を警戒すれば、こちらの目的が察せられてしまう恐れがあった。
もちろん警戒しなさ過ぎても、不自然だ。
そのため、魔力感知や防御系の魔術での対応はしている。
とはいえ、魔術の中には寄聴という遠くから人の会話を盗み聞くものもあった。
さっきまでの会話は、聞かれてもかまわない範囲のことに留めている。
アドラントの内政についての話であり、かつ、カウフマンの名は出していない。
「私が、きみの傍を離れている間に、誘惑されたりしないでくれよ?」
「ふざけていないで、早く行って来て」
彼は、軽くサマンサの頭をぽんぽんとしてから、もう1度、頬に口づけた。
これは、人を示すための合図ではない。
「行ってくる」
サマンサは、少し不思議そうな表情を浮かべつつも、うなずく。
彼は、わずかな心配を残し、その場を離れた。




