悩むより進むこと 4
あれから、5日ほどが経っている。
彼との間は気まずくなることもなく、これまで通りだ。
彼は「婚姻」の話を蒸し返すことはせずにいる。
サマンサも、あえて、その話にはふれずにいた。
「ねえ、ラナ。なにか落ち着かない雰囲気があるけれど、どうかしたの?」
サマンサは別邸にいるが、それでも、周囲のざわつきには気づいている。
実のところ、本邸に移るように言われたのだが、強硬に拒否したのだ。
今も、アシュリーは本邸で暮らしている。
ジョバンニとの将来のため、公爵家で勤め人をしているのだそうだ。
(ローエルハイドの下位貴族……コルデア侯爵なのね、あの執事。アシュリー様は侯爵夫人になるための準備をなさっておられるのだわ。それにしても、勤め人までされるなんて……本当に、あの執事にはもったいないかただわ)
そのうち、ジョバンニと一緒にコルデア侯爵家の屋敷に移ることになるらしい。
だが、今はまだ、ローエルハイドの勤め人をしながら、本邸にいる。
サマンサには、アシュリーの部屋を奪ってまで、本邸に移る気はなかった。
だいたい、別邸のほうが暮らし易いに決まっている。
本邸の勤め人たちとは、ほとんど面識がない。
しかも、おそらく未だにサマンサを良くは思っていないだろう。
半年ほどが経とうとしている今となっては、この別邸に愛着もあった。
(本邸だと、小ホールで過ごすことのほうが多くなるけれど、ここでは私室にいるほうが自然だもの)
貴族屋敷では、家人は小ホールで過ごすのが一般的だ。
来客の対応もし易く、勤め人を控えさせておくにも気遣いがいらないからだ。
私室となれば、勤め人の誰でもいいというわけにはいかない。
とくに、女性の私室は、執事か、何人かの、お付きのメイドくらいしか、入室を許されていなかった。
その点、別邸は、そもそも用途が違う。
ティンザーの屋敷の別邸がそうであったように、特別な用向きにしか使わない。
もしくは「愛妾」にあてがわれるべくして存在している。
サマンサの使っていた別邸が長く使われてなかったのは、そのためだ。
一応、屋敷の造りとして備えてあるが、かなり前からティンザーでは「愛妾」を囲う習慣がなくなっている。
「王都でも同じでしたが、ローエルハイドの伝統と申しましょうか。年の終わりに大掃除をすることになっております」
「大掃除? 毎日、これほど掃除をしているのに?」
そんな話は聞いたことがなかった。
ラナの言う「ローエルハイドの伝統」だからだろう。
王都の貴族は、年の終わりに、屋敷の中を引っ繰り返したりはしない。
年明けの挨拶回りまで、のんびり過ごしている。
「日々の掃除とは異なり、不要なものを処分したり、物置を整理し直したり、窓の両面を徹底して磨いたりもいたします」
「それでは、年末は忙しいのじゃない?」
「1年で最も忙しいと言えるでしょう」
ラナは笑っていたが、あまり意味がある行動には思えなかった。
どうしても、物置などに不要な物が溜まっていくことはある。
だが、年末に処分しなければならないと決まってはいないのだ。
屋敷全体、隅から隅まで、いっぺんに埃をはらうとなると大変だろう。
ラナの話しからすれば、きっと屋根裏まで「掃除」をするに違いない。
「それで、みんな、落ち着かない気分になっているのね」
「新しい掃除道具も必要となりますし、買い出しの量も増えますから」
サマンサは、少し考え込む。
年明けが、もう半月ほど前に迫っていた。
彼の話では、ティンザーの別邸の建て直しはすんでいるとのことだ。
大掃除の時期だけでも、王都に移ったほうがいいだろうか。
(ティンザーには、カウフマンの商人は入れていないし……当家にも魔術師はいるから、それほど危険では……きっと無理ね。里帰りをするなんて言えば、絶対に、彼はついて来るはずよ。家族の前で醜態を晒すのは、1度でたくさんだわ)
思いつつ、ふとしたことに気づく。
自分の意識の問題なのだが、ちょっぴり不思議だった。
ティンザーの別邸にいた頃のサマンサは「ティモシーを待っている」と、いつも感じていたのだ。
別邸は彼女の屋敷であり、実際は「ティモシーが訪ねていた」のに、待っているとの意識があった。
だが、ここでは違う。
サマンサは、彼を「待っている」と感じてはいない。
この別邸は彼の所有物で、彼女は便宜上であれ「愛妾」との立場だ。
ここは、サマンサが主の「通い」を待つための場所として、あてがわれている。
なのに、どういうわけか「待っている」との意識はなかった。
確かに、彼は、サマンサの私室に足しげく「通っている」のだが、それを待っているというふうではない。
(なんだかもう……あたり前みたいに、いるのよね……急に現れるのも、不意打ちとは思わないくらい、日常になっているのだわ)
もちろん、彼が姿を現さない日もある。
だが、起きると花が入れ替わっていたりして「来ていた」とわかるのだ。
そのせいなのか、彼の姿が見えないことを、サマンサは気に留めていない。
忙しくしているのだろうと思う程度だった。
(ティモシーの時は、次はいつになるのかしらって、そわそわしていたわね)
それが「待っている」という意識だ。
明日にも来るかもしれない、自分が別邸を離れている時に来るかもしれない。
そんな気持ちから、サマンサは別邸を離れられずにいた。
ティモシーが、ほとんどは規則正しく、3日ごとに来ているとわかっていたにもかかわらず、だ。
(だって、彼の場合、私が待っていようがいまいが、寝ていようが、おかまいなしだもの。来たい時に来るだけなのだから、待つ必要なんてないのよ)
サマンサは、自分の中の線引きを曖昧にしないように気をつけている。
彼との「正式な婚姻」に引き込まれたくなかったからだ。
新しい愛を諦めたりはしないと決めている。
だけれども。
日常は強い。
たいていのことを、時が解決してしまうのは、それが理由だ。
自分がなにかしなくても、明日という日はやってくる。
繰り返される日々は、やがて「日常」に集約されてしまう。
特別が特別でなくなり、当然ではなかったことが当然になっていく。
サマンサが、彼の出す紅茶を、自然に手に取ってしまうように。
まさに、彼の示した「安定した暮らし」に馴染んでしまっているのだ。
本当には気づいている。
彼を待つ意識がないのも、同じ理由だった。
待たなくても、彼はサマンサのところに来る。
それが「日常」だから。
とても危うい感覚だ。
彼といるのが心地がいいのも、サマンサにとっては都合が悪い。
なのに、気まずくなるのも嫌だった。
だから、早目に手を打って、流されないようにする必要はある。
「こちらの手は足りるかしら? 必要があれば、私も手伝うわよ?」
「まさか。サマンサ様の手を煩わせるようなことはいたしませんわ」
「でも、アシュリー様は手伝っておられるのでしょう?」
「今は、お立場が違います」
ラナの言葉に、サマンサは、一瞬、困惑した。
が、考えると、そうかと思う。
アシュリーは、現在、勤め人であり、将来的にも、ローエルハイドの下位貴族となるのだ。
対して、サマンサは、便宜上とはいえ「正式な婚約者」となっている。
便宜上というのは、ティンザーの家族以外、彼とサマンサしか知らない。
どこから情報が漏れるかわからないため、秘匿していた。
ラナが、サマンサに留まってほしいと思っていると知っていた。
だから、ラナにだけは打ち明けたいとの気持ちはある。
(ラナを疑ってはいない。でも、約束は約束として守るべきよね)
罪悪感をいだきつつ、サマンサは、ラナに微笑んでみせた。
それから、軽い口調で言う。
「そうね。言ってはみたけれど、私、掃除が得意ではないから助かったわ」
「周りは騒がしくなりますが、サマンサ様は、いつも通りお過ごしくださいませ」
「そうさせてもらうわね」
「へえ、きみは掃除が苦手なのかい?」
やはり、彼の声にも驚かない。
ラナは、まだ慣れないのか、驚いていた。
彼の定位置は、すっかりサマンサの隣になっている。
いつの間にか現れて、ちゃっかりソファに座っていた。
「着替えさえ自分でしたことがないのに、掃除が得意なはずないじゃない。クローゼットのどこに目当てのドレスがあるかもわからないわね」
「着替えにも、ドレス探しにも、私が役に立つと思わないか?」
「思わないわ。ラナとマーゴがいれば、あなたは、ただの役立たずな魔術師なの」
「それは、きみが手伝わせてくれないからさ」
サマンサは、彼の軽口を軽くいなす。
こういうやりとりは「安全」なのだ。
彼を男性として意識せずにいられる。
「あなた、あの野暮な執事みたいになりたいのかしら?」
「うーん、そう言われると、さすがにちょっと遠慮したくなった」
「それがいいわ。野暮な男性より、人でなしのほうがマシだもの」
彼が、楽しげに笑った。
サマンサは居心地のいい雰囲気に、呻きたくなる。
流されたくないとの気持ちが折れてしまいそうだ。
なんとか感情を抑制するために、昨夜の結論を口にする。
「年内にしてくれない?」
「年内? 別邸ならもう……ああ、あれのことか」
「そうよ、あれよ」
彼が、フイッと顔を背け、肩をすくめた。
いかにも、つまらないといった仕草だ。
「まさか、忘れていたわけではないでしょうね?」
「まさか。忘れるはずがないじゃあないか」
「年の終わりは、大掃除でバタバタすると聞いたのよ」
「その前に、段取りをつけろということかい?」
「ええ。私は、せっかちなの」
彼が、サマンサの耳元に、スッと顔を近づけてくる。
ラナがいても気にしていないようだった。
「これで、きみは私に、いくつ借りを作ったかな?」
耳元に囁かれ、心臓が鼓動を速める。
日常に紛れていても、慣れないことはあるのだ。
だが、サマンサはつとめて平静を装い、彼に囁き返した。
「あなたが、それを条件にするというなら、私のベッドにもぐりこませてあげてもいいわよ?」
とたん、彼が苦い顔をする。
そうなるとわかっていて、放った言葉だった。




